1.夢のあと
皆が寝静まった夜半、面影は廊下の端で空を見上げていた。月がさえざえと澄んだ光を放っている。
日中の本丸は活気にあふれていた。主や行方不明だった仲間が数名戻ってきて、誰もが張り切っていた。屋根に上がって屋敷の修繕をする者たちも、食事を用意する者たちも、畑の手入れをする者たちも、みな楽しそうに働いていた。
その中であれこれと手伝いに回っているうちは良かったが、こうして夜に一人でいると、ふとした拍子に孤独な夢の中に引き戻されるのではないかと不安になる。
もし、ここが夢ならば、と面影は思う。ここの思い出をどうにかしてあの孤独な場所でも味わえないだろうか。夢の中で見る夢はおぼろで、目を覚ませば決まって砂煙のように消えてしまう。どんな楽しい夢を見ても、細やかな出来事までは引き留めておけない。
鶴丸がシャベルを担いだままどこかに出奔しようとして、大倶利伽羅に首根っこをひっつかまれていただとか。
鯰尾が巴形の真似をしてデッキブラシを振り回していたら、一期一振に見つかって大目玉を食らっていただとか。
日向が何年も前に漬けた梅干しの瓶を蔵で発掘したら、大きくてきれいな薄紅の塩の結晶が梅紫蘇に絡みついていたので皆で珍しがったとか。
そんな他愛もない出来事を、自分の中にしっかりとつなぎとめておきたかった。
「きれいな月夜だな」
と声をかけられて面影ははっとした。
いつのまにか三日月がそばに来ていた。
「どうした、眠れないか」
面影は素直にうなずいた。
「私は自分で選んであの夢に残った。だが、一度仲間を得た上での一人は、想像以上につらかった」
三日月になら正直に弱音を吐ける。
「こちらが夢ならば、それでもいい。ただ、まだ覚めたくない」
「ふむ……」
三日月が顎に手をあてて思案しているところに長谷部がやってきた。
「こんな夜更けに誰の話し声かと思えば。なにかあったのか?」
「うむ、めずらしく小腹が空いてな。面影の方はここで皆と過ごしているのが夢かもしれないと思うと眠れないそうだ」
「夢、だと?」
長谷部は腕組みをして考え込んだ。
「こちらは夢ではないと証明する手立てがあればいいが……どうしたものかな」
「長谷部は手早く作れて消化の良い料理が得意だろう。このじじいと面影のために何か温かい物を頼めないか。面影もきっと落ち着くだろう」
三日月がそう言うと長谷部はうなずいた。
「そういうことなら仕方がないな。厨に来い。燭台切と一緒に作っておいた握り飯がある」
「おお、用意がいいな」
三日月が感心して言うと、長谷部は困ったように頭を振った。
「夜中に腹を空かせて徘徊する奴が増えたからな。勝手に食材を漁られるよりはましだから、余分に飯を炊いて用意している。もっとも、それなりに用意しても朝の仕込みどきには綺麗に消えているが……」
厨の灯をつけると、調理台には竹の皮にくるまれたおにぎりが二つだけ残っていた。
「二つしか残っていないか……まぁ、卵と葱くらいなら拝借しても構わんだろう……」
長谷部はそう言いながら戸棚から簡易ガスコンロを出し、テキパキと指示を出した。
「三日月、これでその小さい鍋に椀2杯分の湯を沸かしてくれ。面影は卵を3つ割りほぐしてくれ。俺は葱を刻む」
湯はすぐに沸いた。そこに長谷部は崩したおにぎりと刻み葱を入れ、鍋の中身がふつふつ音を立てたところに溶き卵を回し入れた。蒸気を含んだ卵液が羽衣のようにふわっと膨らむ。長谷部は鍋の中身を三つの椀によそい、醤油を垂らした。
厨には椅子がないので上がりかまちに並んで腰かけた。
温かい椀を両手で持っていると込み上げるものがあり、しげしげと眺めてしまう。手の中でできたての雑炊が湯気を立てている。ふわふわの金色の卵と緑の刻み葱。醤油の匂い。
「おい、呆けていないで早く食べろ。他の奴らに嗅ぎつけられると面倒だ」
長谷部に声をかけられて面影は我に返った。口の中をやけどしそうになりながら急いで食べた。胸から込み上げるもののせいで飲み下すのに苦労したが、それでも自然に「おいしい」と声が出た。
「長谷部、面影はまだ夜を独りで過ごさない方が良い。今夜は面影と一緒に寝てやってくれないか」
そう三日月が言うと
「俺がか?!」
長谷部は若干引いた様子で目を丸くした。
三日月は微笑んで言う。
「なに、隊長が部下の面倒を見るのに不思議はあるまい。主も常日頃より長谷部の面倒見の良さを褒めているではないか」
「まぁ、俺はかまわんが……」
三日月の言葉であっさり長谷部の目元と頬がゆるむのを見て面影はひそかに感心した。手のひらで転がすとはまさにこのことか。
「ただし面影、明朝は四時起きして俺の水浴びにつきあえ。そのあと俺は早番で馬の世話がある。手伝え。忙しくしていれば余計な考え事などせずに済むし、疲れてしまえば頭を枕につけたとたんに眠れるだろう」
面影は「分かった」と答えた。目が覚めたときにその明朝が来るといいが、あまり自信がない。
隣で三日月がうなずく。
「うむ、良い提案だ。いかにも長谷部らしい解決法だな」
「三日月、お前もつきあうんだぞ」
長谷部にそう言われて三日月はいかにも残念そうに首を横に振った。
「いやぁ、どれも老体にはこたえる。今回はつつしんで遠慮させていただ…」
「お前も俺の作った雑炊を食べただろう!」
長谷部は有無を言わさぬ口調だ。
「やや、これは高くついたなぁ」
三日月がほとほと弱りはてたようすでうなだれるので、面影はつい声を立てて笑ってしまった。
「やっと笑ったな」
と三日月も笑った。
「すまない。三日月があんな顔をするのを初めて見た」
面影は謝りながら、まだもう少しこの夢で過ごしていたいとあらためて思った。
雑炊を食べ終えると長谷部は後片付けを三日月と面影に任せ、布団を運びに行った。
「面影の気持ちは、俺も分からんではない」
洗い物を片付けながら三日月は言う。
「俺も、主を失ったあとは何度も夢を見た。夢の中では主が居て、折れた者は誰もなく、この本丸は何十振りもの仲間で活気づいていた。あれは悪い夢を見たのだと安心して過ごしていると、ふと目が覚める。目が覚めれば、襲撃を受けたときに崩れた塀や砕けた瓦が目に入る。そんなことが何度もあった」
「そうか……」
面影は三日月になんと声をかけていいか分からないまま調理器具を洗った。三日月たちも悪夢を通ってきたのだ。
三日月は食器を布巾で拭き上げながら続けた。
「夢ならば覚めないでくれとあちらで何度願ったことか。それでも容赦なく目が覚めたものだ。あのラジオから主の歌が届かなければ、いずれは狂っていただろう」
「おまえが狂うなど……!」
信じられない、という思いで面影は言った。
「狂うのだ、俺も。お前はよく耐えた」
そう言って三日月は面影の背をそっと叩いた。手が温かかった。
「さぁ、洗い物が済んだ。歯を磨いてから戻らんと長谷部がうるさいぞ」
部屋に戻ると長谷部がすでに布団を並べて待っていた。
「歯磨きは済ませたか?」
「ああ、三日月に言われてすぐに」
「とっとと寝るぞ。明日は暗いうちから叩き起こすからな」
「……分かった」
布団に入って灯を消すと、目が闇に慣れないうちに長谷部は言った。
「もしこちらが夢でも、必ず迎えに行く。向こうで待っていろ」
「……………分かった」
やっとのことで絞り出したか細い声が長谷部に届いたかどうか分からない。
長谷部はもう深い寝息を立てていた。
早朝の湖は、片足を入れただけで喉の奥から変な声が漏れるほど冷たかった。
三日月は足先を水面につけただけで
「うむ、俺は急に用事を思い出したぞ」
と言い出した。
面影が三日月の言い訳の雑さに目を丸くしていると、すかさず長谷部がやってきて、湖に背を向け逃げようとしていた三日月の肩と腕を捕まえ、湖の奥へと引きずり込んでいった。
三日月はあまりの水の冷たさに情けない声を上げ、顔をあの日向秘蔵の梅干しのようにしかめている。きっと三日月のあんな姿を見るのは後にも先にもこれきりだろう。
「面影、笑ってないでお前も早く来い」
湖面に立ち込める朝もやの向こうで、長谷部が呼んでいる。