獣星の姫とクリスタルの魔術師(旧題:牽牛の涙)
年に一度だけゲートが開く。
かつて祖先が愛しい人に会うために通った道。
今度は私が、大好きな人から逃げるために通る。
って言っても、追いかけてもきてくれないけど。
こぼれそうな涙をいつもみたいに瞼の奥に押し込めた。
泣くのは、我慢だ。
*
今日は私ベルガと、夫アルタイの結婚記念日だった。
でも仕事だった。
それは仕方ない。自分で選んだ仕事だ。人に選んでもらった仕事でもある。
お金と生活の基盤だし、誇りだってあるし、人のためにもなると信じてる。
でもその仕事のために、アルタイとお互いに違うパートナーとパーティに出なきゃいけなくて、夫には甘えた顔と声の小娘がべったりとか……!
腹が立ったけど、まだそれは我慢した。
でもその小娘に、私が夫にふさわしくない怠け者だとか嘲られる謂れはないし、ましてアルタイがそれに同意して笑うのを、なぜ私は見てないといけなかったわけ?
子供相手に大げさだって言うけど、もう16の女が何を考えて自分の腕にぶら下がってるかなんて、わかるでしょうに。
パーティ後にそうやって鬱憤をぶつけた私に、アルタイはひと言「じゃあ、あの星とは交易を止めようか」って。
そんなわけいかないじゃない。うちって、弱小星よ。気分を害されたからって交易停止してたら、干上がっちゃう。
そう言ったら「そう言うと思った」って。アルタイは笑ったんだ。
笑う、ところ?
それは何の笑いなの?
笑い事じゃないよ。
私にとっては、ってだけかもしれないけど…。
この星を守りたいのは本当。だからこそ、学生時代から星をよくする活動に取り組んだ。いろんな人の助けと縁で、今期この星の代表に選ばれることになったからには、全力を尽くそうって、六年の任期の半ばまで頑張ってきた。
でも、最近思う。
そのために私の心が犠牲になるって、いいのかなって。
綺麗事で言ってるつもりはないの。
弱小とはいえ一星の大事を決めるのに、誰かを切り捨てることもある。そしたら当然、切り捨てられることだってある。わかってる。
だから、少しくらい嫌な思いをしても、大抵は笑ってかわして、美味しいもの食べて、忘れるようにしてる。
だけど、私の心は、一時でも血を流すわけで。
致命傷じゃなくても傷痕が増えていくのを、夫にまで黙殺されていいのかな。
そんな星でいいのかな。
星が良くなるために、自分が中傷されても侮られても、昔は気にならなかったのに。
どうしても今は、何のためにそんな血を流すのか、目的すら、もうわからないんだ。
それを、アルタイにも打ち明けようと思っていたけど。
もうよくない?
もういいよ。
もういい。
どうやって鬱憤を晴らせばいいのか分からず、頭の中はぐちゃぐちゃのまま、私はひとり、ゲートに入った。
日付が変われば、ゲートが閉じてしまうのを、分かってて。
もう誰も使うことのない、古い古い、隣星へ繋がるゲートだ。
私の祖先は、隣星の住人だった。愛する人と一緒にいるのが好きすぎて、お仕事をサボって星をダメにした有名な祖先だ。ゲートの向こうの星は、今は厳しい環境となっていて、人も動物も、誰もいない。
ゲートが閉じたら、私も明日からお仕事をサボることになるな、なんて考えて。
たくさんの人に迷惑を掛けるけど、それでももう構わないって思ってしまって。
一応帰る気ではいたのに、私はゲートの中間地点に足に根が生えたみたいに立ち尽くし、トンネルみたいなゲートの上半分、クリアなジェルドームの向こうを見ていた。
ゲートが繋ぐ星と星の間を流れる濃密な宇宙霧は、遠くから見たら七色の河なのに、近くで見たら、色とりどりの大きなクリスタルがふわふわと浮かんでいるような空間だ。
いろんな色。あてもなく。ふわふわと。
そのクリスタルに乗り込んで、霧の中に浮かべたら。ふわふわ、何も考えなくて良くなるんじゃないだろうか。
*
おかしい。
どこにもいない。
住居コンシェルジュに尋ねても回答が出ない。
怪しんだ俺は、なぜか沸き起こる焦りのまま、コンシェルジュの本体電源を落としてから、今は滅多に使わない術を使って記憶媒体をサーチした。
なんてことだ!
今夜だけ開く星間ゲートの入り口まで、ベルガが転移した記録が残っている。しかもそれを、丁寧に隠蔽までして。
おかしい、おかしい、おかしい。
今夜は結婚記念日の夜だぞ。
仕事のパーティなんてさっさと終わらせて、二人で一緒に仕切り直しの食事をしようと思っていた。
それが、船が故障して修理のためだけに立ち寄ったはずの客のエスコートを引き受けることになった。
客は、宇宙の一大勢力、機械星の元首の孫娘だ。元首直々に通信で依頼されれば、優先せざるを得ない。この星の特産品の最大の取引相手でもある。
孫娘を接待をして、ジジ馬鹿と化した機械星の元首の機嫌を取ればいいだけの仕事だ。問題ないと、俺もベルガも判断した。したはずだ。
問題といえば、いつの間にかベルガを俺から引き離したあの半人半機はなんなんだ。自星の元首の孫の面倒もみず、うろちょろとあいつにまとわりついて。
そうだ、ようやくお役御免と思えばベルガが、俺が小娘相手にデレデレしてたと言い出したんだ。するわけがない、あんな子供に。
むしろ、あの作り込まれた美形の人形に背中を触られてた方が問題だろう。そう言い返しそうになったが、ぐっと堪えた。
その時は妙にイライラしていたがいつもは理性的なベルガを、俺は尊敬してるんだ。俺が火種を作ってどうする。
少し穏やかに話してみれば、あいつはやっぱり落ち着いてて、理性的だった。最高な女なんだよ。
パーティでついた子供らしくない香水の鼻につく匂いを落として、それから少し酒でも一緒に飲みたい。
そう思って風呂に入って、秒で出てきたら。
ベルガはもう、いなかった。
思い返すのと並行して遡っていたコンシェルジュの記録に、ベルガの医療記録があって。
俺は頭を掻きむしった。
なんてこった、全く気がつかなかった。俺は何を見ていたんだろう。あれほど、イラついているベルガは珍しかったのに、疑問にも思わず。
ああ、隠さないで教えてくれれば。いや、結婚記念日に話してくれようと思っていたのだろうか。——だとしたら、パーティなんて金輪際滅びろ!
その時、ふと冷たい風が首元にかかった気がした。
……本当に、このせいだけか?
あいつは今夜のパーティが始まってから、急におかしくならなかったか?
子供相手のちょっとしたヤキモチはあった。だが本当にそれだけだったのだろうか。
すぐにでもゲートに迎えに行きたかったが、何かに突き動かされるように、俺は無理を言って既に片付けを始めていたパーティ会場に戻った。
時間も場所も細かく指定する時間が惜しい。俺は強引に巨大な魔術を展開し、その場の記憶を読んだ。この星のだれもが見向きもしない古くさい術だが、この星だからこそ可能な術だ。
パーティ会場全体で、全ての事象が音と光で再生される。
再生させた過去にベルガを見つけてつぶさに観察して、俺はクソッタレな事実を知った。
あのクソガキは、俺の通訳用のイヤカフに何か細工をしていたらしい。いやそれとも、好きな方向に好きな音を出せる特殊能力でも持っていたのだろうか。
機械星の元首に孫娘だと紹介され、種族の特徴が判然としない子供をそのまま受け入れたが、これはなんだ。きな臭い。
クソガキは、俺には、
「お似合いの奥さんですね。星の代表に選ばれる方なんて、素敵な方なんでしょう? きっと夫としては心配でたまらないでしょうね」
と言っていながら、ベルガに向かっては、
「祖先返りの直系って貴女ね。さすが、怠けて大した仕事もせずにいる、ぐうたらな方なのね。貴女、彼にふさわしくないわ」
などと言い放っていた。
意味が、分からない。
俺がそれに、肯定を返すと思うか?
だが、俺は確かにそれに頷いた。笑いさえした。だってそうだろう。まさに目の前で、あいつは俺ではない男に手を取られて微笑んでたんだから。
くそ、くそ、くそ!
俺は、まさかの反応をした夫を目の当たりにしたあいつがパーティの後に怒ってたのに、イラついてるななんて思って、まともに話を聞かなかった。あげく、星を優先する冷静さが美点だなんて褒めたりして。
あいつにとっては、よそのガキ女と一緒になってあいつを貶めた夫に、星のために文句を呑み込めと言われたようなもんじゃないか!?
くそ!
ありったけの魔術を展開して、各所に通達をする。
宇宙霧のほとりの辺境ともいえる小さな星だが、この星を舐めるな。
昔織物をよくしたという祖先は、星間交流による技術革新を経て、宇宙霧を揺蕩うクリスタル素材を糸のように紡ぐ技術をものにした。その糸を、通電しやすいように縒ったり織ったりと加工したものが、この星の特産、クリスタル線やクリスタル盤だ。
使い勝手よく劣化しにくいクリスタルは、機械星のあらゆる製品に組み込まれ、宇宙中に溢れているが。
このクリスタルは、そもそも、魔術の媒体にすこぶる優れた性質を持つのだ。
この辺境の星で、隣星と自由に行き来をして長閑に繁栄できていたのは、このクリスタルと魔術を生活に使っていたから。
それも時の彼方の話となった。
魔術なんて時代錯誤な技を使う星の話など聞いたことはないから、広い宇宙でも、まだ誰もクリスタルの使い道に気が付いてないのだろう。
魔術によって、この星全土に機械に潜んで張り巡らせられたクリスタル線からクリスタル粒子を空気中に拡散させることも可能だ。クリスタル線は魔術の依り代となるばかりではなく、さらに目に見えない微粒クリスタルを介し電磁出入力および物理的な反応まで起こすことのできる、万能の魔糸となる。
修理中の船のクリスタル線を介して、船の制御権全てを掌握し、船から星に上陸したあらゆる物体を探索、支配、無力化する。
ねじひとつチップひとつも見逃さない。人の体に埋められたものすら見つけ出し、暴き出し、生殺与奪の権利を握っていく。
小さな星といえど、俺一人では全てのクリスタル線を操作することなど出来ない。
その必要もない。
もう三年、ベルガを慕い支えてきた頼もしい閣僚たちが、その下に実力派の官僚たちがいる。余裕もなく明け透けに協力を求めれば、誰もがベルガを貶めようとした相手を追い落としにかかった。
ベルガはこの星を愛しているが、この星の人間もまた、ベルガを愛している。
おそらくは後で俺も詰められるだろうが、そんなことは些細なことだ。
睨んだ通り、修理のための突発的な寄港のくせに、隠されて陸揚げされたブツの多さよ。
発信機、盗聴器、小型の時限性電磁爆弾まで。あてもなくばらけて設置されているということは、特に狙いを限定してないのかもしれないが。
それでも星が独立して自由でいられる権利を迫害する、星間協定を犯したと見做されることもある行為だ。
気がつかれないと思ったか。気がついても文句は言えないと思ったか。
舐められたものだ。
まもなく奴らは悟るだろう。弱小星だと侮って乗り込んできたその土地全てが、奴らを敵だと認識していることに。
そして既に俺たちが、奴らの喉元に切先をつきつけていることにも。
あとは任せて、俺は星間ゲートへと急いだ。
星間ゲートが開いているのは7の日の間だけ。日付が変わるまであと1時間しかない。
星間ゲートが閉じてあいつが戻ってこなければ。いや、来なくても、迎えに行くだけだ。
だが、今すぐに会いたい。
今日は、結婚記念日だぞ。
たどり着いたゲートは、時間前なのに半分閉まりかけていた。
古い機械だ、時間が狂ってる可能性もある。中をサーチしようとしたが、古すぎて機体にクリスタル線が入っていなかった。
時間がない。俺は非常用の消火栓から斧を取り出して、振り上げた。
*
名前を呼ばれた気がして振り返ったけれど、ゲート内は情緒ありげにチラチラ揺らめくオレンジの光を点々と付けたまま、とても静かだ。
ジェルドームの外、宇宙霧は動いていないように見えるけれど、クリスタルがひとつ、青い明滅を繰り返しながら近くを通るのは、滑るように速い。
そのクリスタルが、目の前でジュッと溶け消えた。
少しの間呆けた。ゲートの前後を見ても、何も気配がない。
誰かが、何かをしたわけではない。
内でなければ、外。
立ち込めるクリスタルの蒸気を透かして目を凝らすと。
宇宙霧をかき分けて、小型の船が船首をこちらに向けて漂っていた。その船の鼻先にこちらに向けられているのは、ごく原始的な熱線波砲。
砲口を見てとった瞬間に頭を抱えてうずくまったけれど、そんなもの、なんの抵抗にもならないと知っている。当たれば、一瞬だ。
その一瞬に、怒濤のようにいろいろなことがベルガの脳裏を駆け巡った。
機械星の元首の孫娘。その見下した目。目の前の小型船は、古い古い機械だけでできた化石のような船で、機械星のオリジナル船特有の形をしている。
機械星から見れば、ベルガたちの小さな星は取り込んで自分のものにしてしまったほうがスッキリするだろうということも。
悔しい。
こんな暴力に、屈服されそうなこと。
こんな欲望に、気づかず隙を見せたこと。
どうでもよくなったはずの、アルタイを思い浮かべること。
悔しい。会いたい。
悔しい。今は絶対に、死ぬわけにはいかない。
「ベルガ!!」
私を包み込んだのは、夫だ。
ぬくもりでわかる。
声でわかる。
全てでわかる。
「アルタイ」
名を呼ぶしかできない私を抱き込んで、アルタイは船に向けて何か攻撃をしたようだけれど、宇宙霧内のクリスタルの影響を遮っているジェル越しでは、届かないようだった。
ちっと舌打ちが、伝わってきた。
宇宙霧はものすごい質量で流れている。きっとあの船だって、限界に近いところで動いてるはずなのだ。それでもこの距離では、あの熱線波砲はわたしたちを焼くくらいは、出来てしまう。
「クソガキが。お前らの船の全ては制圧したぞ。これ以上悪さをしたら、宇宙裁判所事案だ。星間戦争にする」
アルタイは、小型船に乗っている誰かに通信を繋げたようだ。アルタイが駆けてきた道に、うっすらと光を放つ糸が見える。クリスタル線を伸ばして入って来たのだ。
夫の冷静さが、頼もしかった。その線を介せば、抵抗の手段も何かあるのかもしれない。ベルガはそうした手腕について、アルタイを信頼しきっている。
今も、語りかけるその間に、その手は忙しなく何かをしていた。
何を。
私の周りに、何かを。
何重にも何重にも絡ませて、私だけを、守ろうとしているーー?
砲が一瞬唸ったが、宇宙霧に揉まれて狙いを逸らしたか、ジェルドームを薄く削ぎ切って飛んでいった。そう遠くない地点でその熱線波も掻き消え、同時にジェルドームもたぷりと揺れて自己修復した。
その間、2、3秒。
けれど、ゾッとした。
もしジェルが剥がされたら。
私たちは宇宙霧に放り出される。
それに気をとられている間に、アルタイは虚空に向かって叫んだ。
「危険行動を確認。母船から緊急指令。強制停止だ!」
きっと、あの小型船の母船を乗っ取り、強制的に小型船を止める指令を出したのだろう。船団を組むからには、どれだけ古い船であろうと、遠隔操作による停止命令は受けられるように設計されている。
遠隔操作で運行を停止されて。
小型船は、その一瞬で、あっけないほど簡単に霧の中へと消えてしまった。
「よ、よかった。よかった」
焼かれてしまうかと思った。
古の魔術に長けたアルタイは、私のことは守ってくれるかもしれないけど。
――私だけが残されるなんて、悪夢だ。
よかった。
「よかった、よかった、ベルガ」
「アルタイ、アルタイ、来てくれてありがとう」
夫が抱きしめてくれるけど、ダメ、泣いちゃダメよ、ベルガ。
必死に我慢してるのに、アルタイの体が激しく震えているのを感じると、涙腺が壊れそう。
こんな時に泣かせにくるなんて、やっぱりこの人は私のことなんか、何もわかってないんじゃないだろうか。
すっかり油断していた私たちに、大きな影が差したのは、その時だ。
のっぺりした銀色の何かが、ジェルドームの上から私たちを見下ろしていた。
生き物、いや、船だろうか。宇宙霧の圧力の中、通常の物質でできた存在が、平然としていられるなんて。
今まで見たことがない巨大な船体には、縦横に走る溝に沿って不思議なリズムで光が走る。
何故か、その光が怒りを示しているような気がして。
全身に怖気が走った。
よくない予感がする。
よくない感情が向けられている。
圧倒的な力の差で、消し飛ばされそうな。
アルタイの体を抱きしめた。
かけがえのない、私の夫。
逆に抱き込まれて、痛いほどの力で締めつけられて。
ついに私は。
う、うわああーー。
決壊した。
大泣きに、泣いて、泣きに、泣いた。
私は、牽牛の血を引いている。
もう今は人の住めない獣の星を統べていた、牛飼いの王の直系だ。
私が泣くと、牛たちが来る。
ぶお、と宇宙霧の奥から雄々しい鳴き声がした。
濃密な澱みの激流。誰も自由には泳げない重たい真空。七色に輝く天の河の上流から、唯一この河を泳ぎ切る不可思議の生命体が押し寄せた。
真白きふくよかな体。丸い口。小さく煌めく星を閉じ込めたような目。
どこか遠い星でジュゴンと呼ばれて愛される生き物に似た、その牛たちは、巨体をするすると滑らかに動かして泳いでくる。
その数は、どれほどだろう。
見える限りの天の河の流域全てが、愛らしくふるふる動くジュゴンの鼻に見える。
押し寄せる。
ベルガたちのいる宇宙霧の空域に向かって、雪崩れ込む勢いだ。
「やめて、やめて! この人はダメ! 連れてかないで。もう泣かないから!」
私が泣くと、天から牛が来る。
大好きな牛飼いを守るために天から牛がやってきて、私を泣かせる人を連れ去ってしまう。
そして私は、祖先のように、獣の星にひとり取り残されるだろう。
隣の星の愛しい人たちと、離れ離れになるだろう。
会えるのは年に一度になるだろう。
だから泣くのは我慢しなさい。
それは獣星の王の直系に語り継がれる、戒めだ。
「お願い、彼に泣かされたんじゃないの。ううん、泣かされても、彼ならいいの!」
牛たちは、サワサワと互いに体すり合わせ、ピィと可愛らしく鳴いて返事をしたようだった。
一瞬の錯覚のような。
そのあとは、衝撃が来て、ものすごい音だか圧力だかが来て、揉みくちゃになって。
気がついたら、白い部屋だった。
同じベッドの隣にはアルタイが寝ていて、その手がしっかりと私の手を握っていた。
温かい手だ。怪我もなさそう。
確認して安心する。
そして私は、そっとその手を振り解いた。
無事とわかれば夫どころではない。それより大事なことがあるのだ。
ベッドから降りて部屋を出ようとしたのに。
いつの間に起きたのか、アルタイが私を捕まえた。
「ベルガ、どこへ行く」
「邪魔をしないで」
キリキリと胸が締め付けられる。焦燥感、防衛本能、なんと呼ぶのが適切なのだろう。
激しい感情が渦巻いて、私はアルタイを、私を助けに来てくれた夫を、キツく睨みつけた。
邪魔をするなら、夫なんて、いらないんだから!
ツンツン、ツンツン、棘だらけになった私を、アルタイは有無を言わさずに抱きしめた。
「大丈夫だ、無事だ。お腹の子供も。俺が守るから、守らせて、ベルガ。知らなくてごめん。お前が泣くのを我慢してるなんて知らなかった。もう我慢なんてしなくていい。牛たちだってわかってる。今回だって俺は無事だった。あいつらに、お前を託されたと思ってる。だから、辛い時は泣いて、俺に甘えて。頼むよ。知らないでいて、失いたくはない」
獣の星の母親は、母になった時から心が激しく浮き沈みする。これはあやふやに父から聞いたことだけど。
でももしかしてそれは、どこの母も同じかもしれない。
ツンツン、ツンツン、子を守るための棘は、自分をもチクチクと苛んでいた。
このところずっとずっと、荒ぶる母の心に振り回されていた私は、やっと、本来いるべきところに降り立った気がした。
ポロリ、ポロリと溢れる涙を優しく拭われるたびに、心の澱が溶けていく。
「アルタイ。私、子供ができたの。だけど、だけど任期の終わりまでは、頑張りたいの」
でも、でも、それはわがままだろうか。子供にも、仕事にも。
「我が儘なはずないさ。子を産むのも、仕事をするのも、どちらもベルガの権利だ。この星の人間誰もが持つ、当然の権利だ。
それに、俺と二人の子だ。
お前には体を第一に考えてもらわなきゃいけないから、俺が他を全て支えるよ。大丈夫だ」
ずっと悩んでたことが、暖められた空気のようにふわりと軽くなった。
「ありがとう、アルタイ」
「ありがとう、って俺の言うことだよベルガ。ああ、嬉しいな、子供、子供か!」
私は、星が大事だ。
異星をルーツに持つ私にも優しいこの星と、そこに生きる夫とたくさんの人たち。そしていずれ生まれてくるこの子。全部やっぱり大事に思う。
そして同じだけ、大事にされてる。二人が起きていることに気づいた仲間たちが、絶叫する勢いで喜んで囲んでくれたから。
おめでとうの拍手のもと、この腕の中で温めてもらったら、明日もきっと頑張れる。
まずは機械星の元首との会談からだろうか。
ときどきツンツンしたら、また温めてもらえるから。
大丈夫、やり遂げられる。
負ける気はしない。
*
昔々、獣の星の王、牽牛は織物の名手であった隣星の姫と恋に落ちたが、姫が織物を織らなくなって困った姫の星の人々は獣の星の王を追放した。
牽牛は寂しかった。
獣の星にはもう、誰もいなかったから。
ひとりぼっちの星で泣く牽牛を、牛たちは慰めて、天の河は増水し、周囲の星を飲み込みかけた。
魔術を駆使し機械星の協力を得て、ようよう星間ゲートを開いた時、ポツリと一人、星の真ん中に縮こまって泣いていた牽牛の姿に、織姫とその星の人たちは激しく後悔した。
そして、迎えに来た織姫に、ただただ嬉しそうに笑った牽牛を、たくさん大事にしようと決めたのだ。
もちろんそれはもう昔の御伽噺で。
牽牛の子孫の多くはその血の特性も薄まり、星のあちこちで普通に暮らしている世の中だ。
ベルガは、本人のひたむきなその頑張りで、星の皆に愛され選挙で選ばれて代表の座にいる。
彼女の存在は、曲者揃い、職人気質の頑固者だらけのこの星がまとまるための「かすがい」なのだ。あちらこちらに気配りをして舵を取る彼女を怠け者などと評するのは、目の曇ったクソガキくらいだろう。
俺はただの市井の魔術オタクで、彼女に惚れてから人が変わったと自分でも思う。死に物狂いで外堀を埋め、研鑽して他の男を薙ぎ倒し、猛アタックで彼女を射止めた。
さて、今回の騒動、誰が仕組んだのか。仕組んだのではなくとも、機械星のジジイには責任を問おう。その点、ベルガとも見解は一致している。取引においても、この頃の奴らの増長は少し鼻についていたところだ。
でもそれも、しばし先送りだ。
ベルガは泣いて疲れたところに皆に祝われて驚いて、今は医師の勧めで再び眠ったところだ。
眠ってしまった最愛の妻をその身の内の命ごと抱きしめて、俺は滅多にない午睡の幸せに、身を任せることにした。
起きたら、閣僚官僚関係各所への謝罪行脚が待っている。
それから、それから。
ベルガと一緒にどこまで行こうか。
蛇足な「悪役の理由」
「嬢、一体何がしたかった。嬢に甘い元首も、今回ばかりはお怒りだ。私もだ。危うくあの牛の群れの中に、嬢を見失うところだった」
擬態を解き、銀一色となった整いすぎの顔で表情薄く問われても、言ってやるもんですか。
お祖父様も一目置く、最高品質のクリスタル線を産み出す星に不時着したと気づいて、見学のつもりしかなかったのに。
星の代表は甘ったるい女で、しかも本人は何の加工もできないって言うから。あのデレデレした男を悩殺した後は遊び回ってるんだと思ったの。
デレデレ愛されてるからって、図に乗ってたらすぐに捨てられるんだから。
星の元首の孫娘なんてさ。チヤホヤされても、絶対今だけ。
勘違いして、少しわがままを言うと軽蔑されるし、頑張って当然だし、孫娘じゃなくて、凛花っていうひとりの人間として見てもらえることはほとんどない。
同じような立場にいる女同士のはずだけど、脳天気に笑ってのに腹が立って、目を覚ませてやろうと思ったの。だからちょっと強引に、代表の夫にこれ見よがしにくっついたし、音声操作して悪口も言ってやったわ。
ちょっとしたイタズラよ。
馬鹿みたい。ほんとに撃ったりするわけないのに。
なのに、あの男、あんなに怒って、女のために他星の船を無理やり支配下に置くとか。無茶苦茶よ、おっさん。ほんとに戦争するつもりだったのかしら。
あの仕事しない奥さんのために。
「もう少し周りに興味を持て、嬢。皆、それぞれに考えも感情もある。あの代表が本当に存在価値のない怠け者だったら、あれほど愛されてると思うか?」
「あの人、希少な牽牛の血を引いているんでしょ? それで、じゃない?」
「では嬢は、機械星の元首の孫娘であることしか、価値がないのだな」
「!! そんなこと、価値ある身として最初から作られたあなたになんか、言われたくない! どうせ私は役立たずよ!——あの女だって同じ役に立たない人間のくせに、あんなに大事にしてもらえて、なんだっていうの、ずるいじゃない!」
自分でも悍ましく感じる本音をさらけ出しても、銀色の美しい顔は、表情を変えなかった。人の姿に似せても、本体は銀の巨大な機械だ。神の乗り物であり神、と呼ばれるものを、機械星が総力を上げて作り出したモノ、だから。
「嫉妬をしたとして、私にまで加担させて小細工を弄し、あの方たちを掻き回して、嬢に一体何の得がある? 嬢の望みは一体何だ」
モノであるはずなのに、人の心もよくわかるらしい。
嫉妬、とあっさり言い抜かれて、嵐のようだった心は、急に勢いを失ってしまった。
そうだ、これは、ただの嫉妬。
あの女代表に、それとも、この神として作られた機械に?
「……謝罪するし、お祖父様に自首するわ。だからあなたには話さなくて良いでしょ。この世に知らぬことなどない、最大容量の知識の泉を組み込んだあなたは、わたしは分かりやすすぎて、興味対象でもないのだから」
少女が立ち去った空間で、男性の形をした銀の半神半機は、しばらく手を見て。ぎゅっと軋むほどに握りしめた。
あらゆる知識を持っている。
あらゆる思考をなぞることができる。
だが。
あなたのことは全くわからない。
あなたも私のことはわからない。
あの時、あなたが流された時に、私が…。私が…。
「いつか必ずその口で、嬢の本当の願いを言ってもらおう」
半神半機たる彼は、そうしなければ、少女の手を取ることを、願うことすら許されないのだから。
こちらの物語は、まだこれからーー。
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ここまで読んでくださってありがとうございます。
評価いただければ嬉しいです。よろしくお願いします。