90 覚悟
いつものように前髪とマスクで顔の表情を隠し、うちの高校の制服を着ている無言の茜。
その横で藍菜は意味深な笑みを浮かべてる。
数秒の静寂がこれから起こり得るであろうとても不安なものを予感させた。
「見ての通りだ。茜を生徒に紛れ込ませてうちの文化祭を体験させてやるべ」
やっぱりそういうことか。夏の軽音部の合宿の時は、比較的寛容な古川先生や松島部長のおかげで茜も問題なく参加できたけど流石に今回は校長先生に掛け合ったとしてもそんな特例許されないんじゃないだろうかと僕は思った。
藍菜から話を聞くと茜には明日はどうしても避けられない用事ができてしまい、今日しかうちの高校の文化祭を見に来れないのだそうだ。
それにしたって普段見慣れない生徒が校内を歩いていたらすぐに教師にばれるだろう。
そうなったらどうするんだと藍菜に尋ねると、
「事情を知らない教師や生徒には今日初登校の転校生です、とでも言うべ。それでもやばくなったらフォロー頼むべ」
僕も一緒に彼女達につきあわされるのか、思わず天を仰いで両目を右手で覆った。
そしてしばらく経って、仕方ないと話題を変えてみた。
"事情を知らない教師や生徒"と藍菜は言っていた、ということは事情を知っている一部の教師もいるようだ。その辺りを藍菜に聞いてみた。
茜の文化祭参加の了承を得るべく最初に軽音部顧問の古川先生に電話で尋ねたようだ。
「う~ん。僕の一存では決められないな。まず担任の先生に相談してみたら?」
まだ担任には話していなかったので、藍菜の担任に電話したとのこと。すると、
「学年主任に聞いてみないと」
次は学年主任。
「生活指導の先生に聞いて」
と前例が無い事案はたらい回し状態だったようだ。
そして、生活指導の先生に電話をかけたらしい。
あれだけしょっちゅう言い合いしている人間によく電話をかけられるなと僕は藍菜の行動力に感心した。
「例外を一度認めてしまうと次から次に類似の要望に応えないといけなくなる。許可できないな。校長や教頭にかけあっても無駄だ。やめておけ」
案の定、人間味を感じさせない堅物の生活指導者らしい答えが返って来た。
それでも藍菜は食い下がって諦めなかったらしい。もうこの話は終わりだと電話をしきりに切ろうとする先生に今回の機会を失ったら一生後悔することになる等、立て続けにしゃべり続けて結局10分くらい粘ったそうだ。
「もういい加減にしろ。そこまで言うなら何かそれなりの覚悟があるのか」
「分かっただ。もし、何かトラブルでも起こしたら、その時は……退学届を出すべ」
僕はそれまでは文化祭の方の様子を眺めながら話半分にうんうんと藍菜の説明に相槌を打っていたが、突然出てきた退学届というワードにあっけにとられて彼女を見た。
藍菜は口を真一文字に結んでいる。本気のようだ。
いくら茜が親友だからといっても正直何でそこまでかけられるんだと疑問に思ったが、うちの兄貴のところまで訪れてベースの特訓をしていたくらいだ。
ライブで茜にも自身の練習の成果を見届けて欲しいのだろう。
そして同時に今日のどこかで茜によるトラブルが起きてしまったらMetoHanaは今後いったいどうなるんだということにも考えが及んでしまい、めまいを起こしそうになった。
生活指導の先生はどういう反応だったかというと、
ほう、そうかと意外にも穏やかな口調に変わり、そこまで言うのなら自己責任で……という風に落ち着いたようだ。
生徒が退学届を出すとか言い出したら、普通ちょっと待てとか言って説得したりするもんじゃないのか、藍菜に折れた生活指導の先生も先生だ。
よっぽど普段藍菜に手を焼いているのだろうか。
あるいはもしかして普段は不真面目な生徒の責任感を持った行動とか成長みたいなものをこの機会に見届けたいという思いも教育者としての立場からあるのだろうか、あの堅物の腹の内は知る由もないが。
何はともあれ生活指導の先生がこちらの内情を知っているというのはかなり心強い。もし、教師や上級生とかに問い詰められても、
「生活指導の先生もこの事を知ってます。何なら確認してください」
そう言われてあの気難しそうなポーカーフェイスにわざわざ確認に行く人はいないだろう。そんな印籠のような役目を果たしてくれると予想できた。
せっかくの1年に1度の文化祭。メッセージアプリも使い茜も加わって3人でやりとりした結果、あまりネガティブに考えずにお互いに今この時を楽しもうということになった。
校内に入り、生徒達が並び始めた出店を1件1件3人で巡った。
夏祭りの屋台で定番のわたあめやかき氷、ヨーヨー釣りや金魚すくい、射的もある。
オレンジやリンゴ、グレープからその場で搾った生ジュースもおいしそうだ。
よく生徒達が中心になり、協力し合ってここまで本格的なものを数日間で作ったものだ。
これから待ちに待った文化祭が始まる― 僕の気分もだんだんと乗って来た。
そして、ちょっとした人だかりになっているお店で3人の足が止まった。
一番人気である仙宮高の名物クレープだ。
巻かれた薄皮にたっぷりの生クリームがのってその上にお好みのフルーツをトッピングしてもらい、最後にチョコレートムースやらフレークやらカラフルな何やらでコーティングされたその代物はスイーツ好きなら誰もが食欲をそそるだろう。
これが均一でたったの200円なのだから明日の一般客の来場の際には長蛇の列になることだろう。
今もちょっとした列をなしているが、幸いまだ早い時間なので10分くらいで3人分ゲットすることができた。
「すっげえうんめえな、これっ!」
藍菜は口に生クリームをつけたまま歓喜の声を上げた。
その幸せそうな顔を見て僕は食べるのを止め、思わず吹き出してしまった。
あまりこれまで何かを食べている姿を見たことの無かった茜もよっぽど気に入ったのか僕等に背を向けた状態でおいしそうにクレープをほおばっている。
食べている所を他人に見られるのが恥ずかしいのか、その後ろ姿は背中を丸めて隠していたクルミをこっそり食べているリスみたいだ。
「茜の学校でも一応文化祭はあるんだべ。でも生徒の数も少ないし、ここまでのスケールのものではないんだ。だから……えがったー!」
藍菜の目が少しうるんでいるように見えた。
先生に掛け合ってまで今回頑張ってくれた藍菜。
そして忙しいと思われる中、何とかスケジュールを縫って今日僕等の高校に来てくれた茜。
思わず仲間っていいな、と思った。
そんな気持ちにさせてくれた2人に向かってありがとうと心の中だけで呟いた。