87 スラップとスランプ
「うん、そうそう、弦に指を引っ掛けて弾く……」
何やらドアの向こうの廊下で兄貴の話し声がする。親以外の誰かと話しているようだ。珍しく専門学校の友人でも連れて来たのだろうか。
目を瞑ったまま、ベッドに備え付けの小さな棚に手を伸ばし、手探りでスマホを見つけた。
スマホ画面の時刻は午前11時を表示していた。
もうこんな時間かとベッドから身を起こしたが、まだ、頭がぼーっとしている。
昨晩は早速4曲目の制作に取り掛かっていた。
始めたのはいいが、なかなかいいアイディアが浮かばない。
アコギでコードを適当に弾きながら、サビのメロディを決めようとするのだが、いまいちしっくりこない。
いろいろ試しても今まで作った曲と似たような感じになってしまうのだ。
詞先でサビのフレーズが浮かばないかと試みてもみたが、いまいちでインパクトがない。
そんな感じでもやもやのまま寝落ちしてしまったようだ。
着替えて自室のドアを開けると目の前に兄貴が立ちはだかっていて、その奥にベースを持った藍菜がいた。
「おう、まだ寝てたようだから起こさなかったぞ」
と兄貴。
「おじゃましてるべ。お兄さんすげーな。何でも知ってるべ」
藍菜は興奮気味にアンプにつなげてないベースをベンッベンッと弾いた。
藍菜と兄貴はつい先日顔を見合わせたばかりだった。
文化祭のライブ練習がいつも部室だとだんだんマンネリ化してくるということで、気分を変えるためにその日、藍菜と石森をうちに呼んだのだった。
その際に兄貴も部屋にいたので、せっかくだからと2人を紹介したのだった。
兄貴もその時は機嫌がよかったのか、せっかくなのでと2人を兄貴の部屋に入れてくれた。
「うわっ! すげー! プロのミュージシャンのレコーディングルームみたいだべ」
藍菜がここを見るのは2回目のはずだが、その辺はわきまえているようだ。石森が見るのは初めてだが、彼もやっぱり驚いていた。
「ねーえ、お兄さぁん。ベースの弾き方で分からないことがあったら今度ゆっくり聞きに来てもいーい?」
藍菜が手を合わせながら上目遣いで兄貴に懇願する。僕はいつもの藍菜を知っているからついキモチわるっと思ってしまった。
「あ……ああ、いいよ、いいよ。いつでもおいで」
「わーい、うれしい」
僕はとても見てはいられず、2人から顔を背けた。
その藍菜の"今度ゆっくり聞きに来てもいーい?"が今のようだ。文化祭まであと1週間。藍菜も大勢の観客の前で上達したベースの腕前を披露したいのだろう。
とりあえず狭い廊下でとうせんぼしている兄貴の巨体の隙間をなんとかすり抜けながら、階段を降りた。
洗面台の前で歯を磨いている間、藍菜も明後日までに漫才のネタを考えてくるとか言っていたけどこんなことしていて大丈夫なのだろうかとふと思った。
でも直ぐにまあ彼女のことだから冗談なんだろうけどと自己解決した。
その後、また兄貴を乗り越えて自室に戻り、アコギを手に取って曲作りを再開した。
だが、いまだに廊下で兄貴と藍菜の話し声が聞こえてきて集中できない。こちらもアコギでコードを弾くのだが、その合間で藍菜が"こういう感じだべか"という声や兄貴の"そう、上手い上手い"という声が聞こえて気になってしょうがない。
結局曲は1フレーズもできず仕舞いで正午になった。
母親がせっかくだからと藍菜の分まで食事を作ったので、母親も含めて4人で昼食を摂ることになった。
昼御飯は、チャーハンと蟹玉、それから卵スープという定番の中華料理だった。
「お母さん、とてもおいしいです」
「あら、そう、ふふっ、おかわりもあるわよ」
オーソドックスな家庭の味なのでお世辞だとは思うが藍菜でもそんな気を遣うことが言える人間なんだと意外な一面を垣間見た。
僕は家族に学校で何をしたとかあまりしゃべりたくないたちなのでこれまで黙っていたのだが、今回藍菜が加わったことで彼女と軽音学部を通して仲良くなったことや来週の文化祭でライブをする予定であることを母親や兄貴に伝えた。
「へえ~楽しみね。お父さんと日曜日に応援に行くわ」
母親がそう言うので、いや余計緊張するから来なくてもいいよと僕が悪態をつくと、藍菜はそんなこというもんじゃないと僕を制し、息子の晴れ舞台なのでぜひ来てくださいと母親に言った。
いつもはかなりきつい方言なのにこういう時はちゃんと標準語で話せるんだねと僕は藍菜に言い返すと母親も兄貴もふふっと笑い出した。
「お兄さんもぜひ」
藍菜がそう言うと、
「ああ、こんな体でも座れる席があるなら」
兄貴が自身の巨漢の体型を両手を広げて自虐的にアピールすると皆でまた笑い合った。
昼食が終わり、再び自室で楽曲制作を始めた。
一向に進展しない上、兄貴の部屋に藍菜も入っているらしく、2人の声が聞こえなくなったことが一層気になり出した。
2人は部屋でベースの練習をしているんだよな。
そして、昨日の松島部長と美郷さんの一件が頭をよぎった。
まさか兄貴と藍菜……このまま仲良くなって付き合うことになることなんてないよな。
あの2人が一緒に歩いている姿を想像し、なんとも気まずい気持ちになった。
あまりにカオス過ぎる。僕はこの変な想像を一旦消し去ろうとするのだけれど何度も再び現れてしまう。
そんな状況で30分くらい曲作りがまともに手に着かずやきもきしていると自室のドアをノックする音が聞こえた。
「おーい、塔、今大丈夫か」
藍菜の声がするので、直ぐにドアを開けた。
「ちょっと見てくれよ」
向かいの兄貴の部屋のドアも開いていて、兄貴がいつものように大きな椅子の上にどかっと座っていた。
2人に何事もなかったことが分かって、僕は少し安心した。
藍菜とともに兄貴の部屋に入ると、藍菜は先ほど持っていたベースをストラップで肩から下げた。今度はアンプにつないでいる。
「見てろいっ!」
そういうと藍菜は左手の指で弦を素早く滑らせ、右手の親指と人差し指で弦を弾くようにして音を鳴らしている。
前に動画でたまたま観たことがあった。スラップと呼ばれるベース奏法だ。指の動き、音すべてが速い……
粗削りな部分はあるが、雰囲気はプロのミュージシャンだ。つい数ケ月まで簡単な童謡を弾いていたレベルだったのに、ここまでベースを弾けるようになるなんて。
藍菜とこの短い時間でスラップを伝授した兄貴に脱帽した。
「来週が楽しみだで。それじゃあ、これで」
そう言って藍菜は帰って行った。
藍菜もメキメキと上達している。
ズンズザッズズッ、ズンズザッズズッ……
藍菜のさっきのスラップが耳に張り付いて離れない。
自室に戻った僕は仲間の著しい急成長と次曲がなかなかできないことに焦りを感じた。