20 渚(NAGISA)
喜多上握手ブースの入口に居るスタッフに3枚の喜多上カードを渡し、今まで被っていた帽子を脱ぎ、入口のドアノブを握った。
気持ちを落ち着かせるために1度大きな深呼吸をし、ドアノブを回してドアを開けた。
中には喜多上 渚と制限時間が来たら退出を促すはがし役の男性スタッフが居た。
「こんにちは!」
喜多上は、両手をばたつかせて突き抜けるような眼差しで僕に握手を求めてきた。
先程は、喜多上のルックスはそれほどでもないと言ったかもしれないけど、実際に会うと決してそんなことはなかった。これほど愛くるしい笑顔を向けられたら、直ぐに彼女の虜になる人は多いだろう。
喜多上の正面まで近づき、そのまま両手を差し出すと想像以上の結構な力で僕の両手をがっしりと掴んだ。こんなふうに強い力で握手する方が熱意が伝わり、印象にも残りやすく、握手に来てくれるリピーターが増えると聞いたことがある。それにしても強い力だ。とても痛い。
早速、僕は雨音との握手の予行練習を始めた。
「ファンです。これからも応援し続けます。お身体に気をつけて頑張ってください」
「うれしい!どうもありがとう!」
そして握手していた手を離したが、まだ1分経っていない。僕は他のコメントを考えていなかったので、数秒黙っていると、喜多上が話しかけてきた。
「お名前を教えて!」
「ト、トーマです」
本名は名乗りたくなかった。相馬 塔は珍しい名前だし、この人は雨音の親友だ。こんな面白い名前の人が来たよと僕が喜多上の握手ブースに来たのが雨音に伝わってしまわないか心配だった。"そうまとう"の名字と名前をひっくり返して"そう"を取って"トーマ"。将来的にSNSで楽曲を発表する時に使おうと前から思っていたハンドルネームだった。
「ふうん、トーマ君って言うんだ。お年は?」
「15才の高1」
「へぇ~タメじゃん」
同い年と分かると急に敬語からタメ口に変わった。共通点を見つけて相手との心の距離を縮めようとする。きっと先輩の華巻あおいや矢巾はるかから教わった(盗んだ?)握手会テクニックだろう。
喜多上は、すごく間近で視線もずらさずに僕を見ている。正直、これまでそんなにタイプでは無かったけれど、今までこんな経験は無かったので、ドキドキする。
「好きな食べ物は?」
「う~ん。クリームチーズ系のパスタやハンバーグ」
「あたしも!週末なんかによく食べるよ」
どんどん彼女のペースにはまってゆく。さすがにそろそろ時間だろう。
「最後に何かリクエストある?」
「さっきの自己紹介の挨拶をお願い!」
せっかくなので、記念にあのお決まりのフレーズをお願いした。
「うん!じゃあ一緒に!来た来たー!」
喜多上はいつものように両腕を上下に動かした。
「喜び多くて気分上々!!」
僕もテンションが上がり、喜多上と同じ動作をして一緒に叫んでしまった。
たった1分間でこれだけ楽しい気持ちにさせてくれるなら、ファンが増えているのも納得した。
じゃあねと手を振る喜多上にお礼をし、はがし役の人に促されて出口のドアを開けた。
去り際に振り返ると、喜多上がものすごいスピードで自分の手帳に何かを書いている。
きっと僕の名前とか年齢、特徴をメモしているんだ。訪れる人1人1人をこうして記憶に留めているのか。
天真爛漫なアイドルで通っているけど、裏ではものすごい努力をしている。
そんな1人のアイドルの光と影を垣間見た人生初の握手会だった。