第一章 ハンナ・アーモンド_5/6
「どうやら一旦は振り切ったようだね」
人気のない路地裏でそう呟いて、ノエルが抱えていたハンナを地面に下ろす。だがカタカタと震える膝に、ハンナはペタンと尻もちをついた。打ち付けた尻にやや顔をしかめつつ、痛みを堪えて口を開く。
「あの……これってどういうことなの? どうして軍人がノエルを――」
「ゴメンね。説明は後でするから」
こちらの疑問を遮断して、ノエルがコートの右袖をめくり上げる。露出した彼の細い右手首にはごつい腕時計のようなものが巻かれていた。手首に巻かれたその腕時計を何やら操作するノエル。するとしばらくして――
『はいはーい。こちらドーラですよぉ』
ノエルの腕時計から幼い女の子の間延びした声が聞こえてきた。
目を見開いて驚く。どうやらノエルの腕時計のような機器は通話装置のようだ。だがこのような小型の通話装置など見たことない。唖然とするハンナを他所にして、ノエルが装置から聞こえてきた女の子に応える。
「ちょっと予定外のことが発生してね、これから船に帰還しようと思う。マーキングしておいた転送装置の入口を開いてくれ」
『アーモンド家の一番近くにあるポイントに展開すればいいですぅ?』
「いや、今は屋敷からは離れているんだ。こちらの位置座標を送信するから、そこから一番近いポイントに入口を開いてくれ」
『……確認しましたぁ。それじゃあ入口の座標をそちらに送りますねぇ。念のために例の無人飛行装置も飛ばしておきましょうかぁ?』
「気が利くな。よろしく頼むよ」
『へへへ。ドーラは優秀なのですぅ』
そう自画自賛して、女の子が「あれ?」と声だけで疑問符を浮かべる。
『何やらエヴァンさんから通信が入りましたが、お二人は一緒じゃないんですぅ?』
「アイツとは別行動しているんだ。ボクの座標をエヴァンにも渡してやってくれ」
『了解しましたぁ。他に何かご用はありますかぁ?』
「とりあえずは大丈夫だ。もしまた問題が発生したら連絡をするよ」
『では回線を切断しますねぇ。ご清聴ありがとうございましたぁ』
頓珍漢なことを言って装置から聞こえていた女の子の声が途絶える。時間を確認するように腕に巻かれた装置を見つめることしばらく、ノエルがめくった右袖を戻した。
「さてと……居場所を教えたからエヴァンの奴もすぐ合流すると思うけど、少しだけならハンナの質問に答えてあげられるよ」
そう微笑むノエルに、ハンナは尻もちを付いたまま目をパタパタと瞬かせる。
「あっと……その……それは?」
聞くべきことは他にあるはずだが、ハンナは思わずノエルの右腕に巻かれた腕時計を指差した。ノエルが「ああコレ?」と手首の装置を一瞥する。
「位置情報の確認や通話など、複数の機能が組み込まれた高度な魔工機器だよ。因みにさっき通信した相手は、ボクたちの船で待機しているドーラっていう仲間なんだ」
「魔工機器……? えっと、だけどそんな装置があるなんて聞いたことないけど」
「それはそうだろうね。この魔工機器は構造が複雑でレプリカを造ることができない。だから市場には出回ってないんだ。ボクのこれは貴重なオリジナルってわけさ」
オリジナルの魔工機器を保有するには、厳しい国の審査をクリアして、かつ莫大な使用料を支払う必要があったはずだ。仮にノエルが資産家の人間だとして、おいそれと手にできるものではないはずだが。
ハンナは困惑しながらも、とりあえず立ち上がり次の質問を口にした。
「どうしてノエルは軍人に追われているの? あとこれからどうするつもり?」
「軍に追われているのは、仕事の関係でちょっとゴタゴタしてね……その辺りの詳細はボクの船に着いてから説明するよ」
「船に着いて……え? それってつまり、あたしもノエルの船に行くってこと?」
「うん。連れて行くつもりだよ」
何の躊躇いもなくこくりと頷いて、ノエルが宝石のような碧い瞳を柔らかく細める。
「ボクたちキャラバンの船――『灰色の海豚』号にハンナを招待するよ」
ノエルの浮かべた可愛らしいスマイル。その輝きに脳が焼かれる。だがさすがのハンナもこの状況で萌え悶える余裕などなく、ノエルの発言に頭を混乱させていた。
するとここで頭上より黒い影が降ってきて、地面に軽い音を立てて着地した。
「ひどいぞ……ノエル」
黒い影――もといエヴァンが、悲しそうな表情を浮かべてそう呟く。だが彼の抗議などどこ吹く風と、ノエルがカラカラと気楽な調子で笑った。
「そう愚痴るな。お前の実力を信用したからこその作戦じゃないか。それで、軍の連中はちゃんと叩きのめしてきたんだろうな?」
「……いや、逃げてきた」
言い難そうに答えるエヴァンに、ノエルが「ええ?」と表情を渋くする。
「何だよそれ。軍がまだ動いているなら、安全に逃げられないじゃないか」
「だから俺は街を歩くのは危ないと言ったんだ。なのにノエルが無視するから……」
「まあ……そうなんだけどな」
痛いところを突かれたのか、やや口ごもったノエルがさらりと話題を切り替える。
「ドーラに転送装置を開いてもらった。これからその入口に向かうぞ。ハンナも不安があると思うけど、ボクたちに付いてきて欲しい。悪いようにはしないからさ」
「で、でも……その……船に乗るならパパにも相談しないと……」
遠回しに断ろうとする。だがこのハンナの発言に――
「アーノルドさんのことなら大丈夫だよ」
ノエルがなぜかそう断言した。