第一章 ハンナ・アーモンド_4/6
商業都市リーベタス。それは数多くの商人が拠点を設けている商業の盛んな大都市のひとつだ。街中は常に活気に満ち溢れており、大通りには簡易な庇で建てられた露店が無数に軒を連ねている。絶えず空気を揺らしている商人の熱ある声に、旅行者などは気圧されることも良くあるのだという。
だがこの街で長いこと過ごしてきたハンナにとっては、その喧騒も生活の一部でしかない。聞き慣れた雑音を受け流しながら大通りを歩くハンナ。その彼女の隣には――
超絶美形のノエルがいる。
ノエルが大通りを歩いていると、通行人の多くが目を丸くして彼に振り返る。中には進めていた足を止めて、ほんのりと頬を赤らめる者まで――しかも男女問わずに――いたほどだ。どうやらノエルの美貌は人類共通のものであるらしい。
その好奇の視線を気にもせず――慣れているのか?――、ノエルがふと提案してくる。
「お互いに敬語は止めにしませんか? 実は堅苦しいのは苦手なんです」
穏やかな口調ながら、周囲の喧騒に埋もれることなくハンナの耳に届く。この街には不慣れだということだが、このような喧騒の中で話すのには慣れているのかも知れない。
「でもノエルさんは年上ですし」
「ひとつしか変わりませんし、気にしないでください。あと敬称も止めにしましょう。ボクのことはノエルでお願いします。ハンナさんも呼び捨てで構いませんか?」
断る理由もなく頷く。ノエルが「良かった」とニコリと笑い、猫のようにぐっと体を伸ばした。ぽかんと目を丸くしていると、ノエルが首を左右に傾けながら口を開く。
「慣れない言葉遣いをしていたら、体が凝っちゃったよ。アーノルドさんの手前あまり失礼なこともできないからさ。でもようやく肩の力を抜いてハンナと話ができるね」
さりげないその言葉に、ハンナはボッと顔を沸騰させた。こちらの反応に、不思議そうに首を傾げるノエル。だがすぐに何かを察したのか、彼が悪戯っぽく笑う。
「ボクのことも名前で呼んで欲しいな?」
「え……あ……名前ですか?」
「敬語は禁止だよ。ほら。呼んでみて」
「ノ……ノエル?」
顔を赤くしながら喉を絞るようにして呟く。ノエルがクスクスと肩を揺らして――
「何だい? ハンナ」
破壊力抜群の微笑みを浮かべた。
(まるで恋人同士じゃないのよぉおおおおおおおおおおおお!)
顔どころか心まで沸騰させて、ハンナは胸中で絶叫した。知らないうちに少女漫画にでも転生していたのか。そんな馬鹿げたことさえも考えてしまう。
(もも、もしかして……あたしノエルさんに好意を持たれている?)
社交辞令や付き合い程度で、こんなやり取りを仕掛けてくるだろうか。ノエルが相当の人たらしならば別として、これは好意があるゆえのものではないのか。
(そ、そういえば……このお見合いも先方の希望だってパパは言ってたわよね?)
ノエルのような美形くんが自分などを見初める理由など見当もつかないが――
(もしそうなら、それこそこの二人きりのチャンスをものにしないと)
鼻息も荒くそう決意を新たにする。するとここで背後から騒がしい声が聞こえてきた。
「――いってぇ! テメエなにをぼさっと歩いてやがんだ!」
「あああああ! すすす、すまん! いや申し訳ない! ごめんなさい!」
足を止めて背後を振り返る。そこには熊のような体格の男性と、その男性にペコペコと頭を下げる黒ずくめの男性の姿があった。腰を引かせながら「ごめんなさい。すみません」と謝罪する黒ずくめの男性。その情けない姿にノエルが嘆息する。
「何やってるんだ……エヴァンの奴は」
呆れて半眼になるノエルに、ハンナもまた半眼になり溜息を吐く。
(そういえば二人きりじゃなくて……あの人もいたんだっけ)
ノエルの護衛者。エヴァン・スタイルズ。彼のことをすっかり忘れていた。ノエルが気を利かせてくれたのか、エヴァンには少し離れて付いてくるよう命じていたが、望んでいた二人きりのデートとはいかなかったのだ。
(まあ仕事だから仕方ないんだろうけど)
二人きりではないが、デート――街を案内する名目ではあるが――には違いない。今はこのデートを成功させることに全神経を注ぐべきだろう。
「ところでハンナ。とりあえず大通りには出たけど、どこを案内してくれるのかな?」
ノエルのその疑問に、ハンナはぎくりと肩を揺らした。
目下の問題はそれだ。勢いに任せて街を案内するなどと豪語したが、特に綿密なプランがあったわけではない。もちろん住み慣れたこの街のことは詳しいのだが、これまで恋人などいたためしがないため、デートに適した場所がすぐには思いつかなかった。
「えっと……そうだね。ノエルさん――じゃなくてノエルが行きたいところってある?」
問題を丸投げするハンナに、ノエルが「そうだな」と思案するように首を捻る。
「ハンナがよく行く場所を知りたいかな。ハンナのことをもっと知りたいからね」
さらりと殺傷力抜群の言葉を口にするノエル。ニコリと微笑むその彼にキュン死しそうになるも、ハンナはどうにか命の手綱を握りしめて絶命を回避した。
「いや……えっと……どうだろう。あたしは別に大したところに行ってないから。学校の友達とよく行く喫茶店とかはあるけど、そこを案内しても、ねえ?」
「アーノルドさん――お父さんとはどこかに出掛けたりしないの?」
ノエルが何の気なしにそう尋ねてくる。ハンナは眉間にしわをよせ腕を組んだ。
「あまりないかも。パパったら仕事人間だからさ。平日も休日も関係なしに仕事ばかりしているの。おかげで恋人もできないのか、あの歳までずっと一人身なのよ」
強面の顔をむすっと渋らせる父を脳裏に浮かべつつ、ハンナはクスクスと笑う。この言葉に、不思議そうに目を丸くするノエル。彼の反応に首を傾げると、ノエルがやや躊躇いがちにこう尋ねてきた。
「アーノルドさんが一人身って……ハンナのお母さんとは結婚してないってこと?」
「あれ? ノエルはその辺のことパパから聞いてないんだ」
すでに事情を把握しているとばかり思っていた。疑問符を浮かべるノエルに、ハンナは簡単に説明をする。
「あたしのパパは義理のお父さんで、あたしとは血がつながってないの。何でもあたしが十歳の頃に、パパの友達でもあったお母さんから、あたしを預かったんだって」
「……そうだったの?」
ノエルが目を丸くする。この手の反応には慣れているため、ハンナは気楽に頷く。
「そうらしいね。ただあたしは覚えてないから、パパから聞いた話なんだけど」
「覚えてないって言うのは?」
「あたしね、十歳より以前の記憶がないの」
これもさらりと告げる。ノエルが見開いていた碧い瞳をさらに大きくした。
「それって……記憶喪失ってこと?」
「うん。パパが言うには、その当時に頭を強く打ったとか何とか……だからお母さんのことも覚えていないし、子供の頃の思い出とかも何もないんだ」
軽く肩をすくめる。目を見開いていたノエルが、徐々にその表情を沈めていく。
「無神経なこと聞いちゃったかな? ごめんね、ハンナ」
彼の謝罪に苦笑する。表情を暗くしたノエルに、ハンナは極力明るい口調で応えた。
「ぜんぜん。さっきも言ったけど、当時の記憶がないから悲しいとかそういうのもないの。それにパパとの生活がすごく幸せだから、昔のことなんて気にしてないんだ」
「それなら良いんだけど……だけどハンナはお父さんのことが大好きなんだね」
「そう改まって言われると照れちゃうけど……そうね。顔が恐いとかあるけど――」
軽い愚痴をこぼしながらも、ハンナは表情を華やがせる。
「パパはあたしを愛してくれている。だからあたしもパパのことは大好きよ」
ハンナの素直なこの言葉に、ノエルが暗くしていた表情を明るくした。
この言葉に嘘はない。父はいつも自分に優しくしてくれる。たまに冗談がきついこともあるが、それを差し引いたところで、誰に対しても自慢できる最高の父親だ。
ズキンッ!
頭に小さな痛みが走る。ハンナは奇妙な頭痛に咄嗟に瞼を閉じた。トクトクと脈打つ頭痛。その鼓動に合わせて、脳裏にある映像が浮かんでくる。それは――
自分ではない誰かに向けて――
銃口を突きつける父の姿。
「――ンナ! ハンナ! 大丈夫!?」
頭痛に割り込んできた声に、ハンナは閉じていた瞼をはっと開けた。目の前にノエルの顔がある。「え?」と困惑するハンナに、ノエルが心配そうに眉尻を落とす。
「驚いたよ。急にひどく辛そうな顔をするんだから。一体どうしたの?」
「あ……な、何でもないの。ただちょっと頭が痛くなって」
「頭が? もしかして体調悪かった?」
「ううん、そんなことない。もう痛みもなくなったし、心配してくれてありがとう」
強がりではなく、本当にもう奇妙な頭痛はなくなっていた。そして脳裏に浮かんだ映像もまた霧のように消えている。ハンナは眉をひそめて息を吐く。
(またあの変な夢が……何なのよ)
夢は夢でしかない。あの優しい父が誰かを拳銃で撃つなどあり得ないのだから。
まだ心配そうな顔をするノエルに、ハンナは気を取り直して笑い掛けた。
「ちょっと話が逸れてたね。これからどこに行こうかって話だったのに」
「本当に大丈夫? 街の案内はまた後日にして、今日はもう屋敷に戻ろうか?」
後日までデートがお預けなど御免だ。ハンナは両腕を広げて自身の健在ぶりを示す。
「本当に大丈夫だから。それで少し考えたんだけどね。この近くに歴史博物館が――」
するとここで通りの奥が騒めいた。言葉を中断して、騒がしい通りの奥に視線を向ける。通りにいる通行人が左右へと割れていき――
軍服を着用した数人の男が姿を現した。
「へ……軍人?」
服装から単純にそう推測する。この街――商業都市リーベタスにも、当然ながら軍事施設は存在している。ゆえに軍人がこの街にいること自体は不思議でないが、軍服姿で街を歩いていることは稀だと言えた。
軍人の歩行の妨げにならないよう、ハンナもまた道路脇に避けようとする。だがここで軍人が歩みを止めてその場に立ち止まった。まるで道を塞ぐように目の前に並んだ軍人に困惑するハンナ。彼らの鋭い視線は彼女から僅かに逸れて――
隣に立っているノエルを睨みつけていた。
「『灰色の海豚』の一味――ノエル・マクローリンだな?」
軍人の一人が高圧的にそう尋ねてくる。軍人の言葉に困惑しながらも、ハンナは隣にいるノエルを見やる。軍人の睨みなど気にする様子もなく、ノエルがニコリと微笑んだ。
「人違いですよ、軍人さん」
ノエルの返答を聞いてすぐ、道を塞いでいた軍人が一斉に拳銃を構える。凶悪な無数の銃口に睨まれて、ハンナは「ひっ」と小さな悲鳴を漏らした。
「誤魔化したところで無駄だ」
「だったら初めから聞かないで欲しいな」
ノエルがそう溜息を吐いて――
懐から拳銃を引き抜く。
ノエルが道路脇に向けて拳銃を発砲する。道路脇に積み上げられていた荷物の、その固定金具が弾け飛び、積荷が勢いよく道路に崩れ落ちた。状況の展開についていけず呆然とするハンナ。突如通りに響いた銃声に通行人が悲鳴を上げたその時――
彼女はノエルにお姫様抱っこされていた。
「ふぇえええええええ!?」
「少しの間だけ我慢していてね」
ノエルが崩れた積荷へと駆け出した。ノエルの背後から、「奴を拘束しろ!」と軍人の声が聞こえてくる。だが混乱から右往左往する通行人に邪魔されて、軍人はこちらに近づくことができないでいた。ノエルが崩れた積荷を駆け上がり大きく跳躍――
ハンナを抱えたまま建物の屋根に飛び乗る。
「――な!? おい、ノエル!」
通りに残されたエヴァンが目を丸くする。建物の屋根の上から眼下の通りを見下ろして、ノエルが何とも爽やかな笑顔を浮かべた。
「あとは頼んだぞエヴァン。ボクはハンナと一緒に安全な場所まで逃げるからさ」
「そ、そんな……」
情けない声をもらすエヴァンに、ノエルが気楽な調子でウィンクして踵を返す。
「くそ! ウッドマンの班はそこの黒ずくめを拘束しろ! 残りの者たちはノエル・マクローリンを追え! 絶対に取り逃がすな!」
通りから響いてくる軍人の怒声。それをノエルの腕の中で聞きながら――
ハンナは大量の疑問符を浮かべていた。