第一章 ハンナ・アーモンド_2/6
高価な調度品が飾られたリビング。そこに案内されて十分が経過した。屋敷の使用人が入れてくれた紅茶を一口飲み、ノエル・マクローリンは笑みを浮かべる。
「さすが世界的にも名高い商人。アーモンド家だ。良い茶葉を使っているな」
ノエルはそう独りごちると、また紅茶のカップに唇を付けた。そして碧い瞳を閉じて、鼻から抜ける香りを楽しむ。これほど上等な紅茶を口にするのは久しぶりだ。そう満足して碧い瞳を開くと――
「なあノエル。やっぱり止めにしないか?」
躊躇いがちな声が聞こえてきた。
紅茶のカップをテーブルに戻し、ノエルは声に振り返る。自身が腰掛けている上等なソファ。その端に座っている男性が、眉尻を落としてこちらを見つめていた。
二十歳前後の青年だ。首筋まで伸びた黒髪にやや浅黒い肌。目尻の吊り上がった黒い瞳に、への字に結ばれた唇。黒のロングコートに黒のズボンという黒ずくめの格好で、影法師のような印象を受ける。
仏頂面でこちらを見ているその青年に、ノエルは自身の金色の髪をポリポリと掻いた。
「止めるって……それはアーモンド家の御令嬢とのお見合いのことか、エヴァン?」
ノエルの言葉に、「あ、ああ」と躊躇いながら首肯する黒髪の青年――エヴァン・スタイルズ。ソファの隅で居心地悪そうにする彼に、ノエルは呆れて顔をしかめる。
「今更なんだ? この縁談はこちらから希望したことなんだ。止められるわけないだろ」
「だが……イーモンさんもすごく悲しんでいたわけだしな……」
歯切れ悪くそう呟くエヴァンに、ノエルは嘆息しながら手を払う。
「ジイのことはほっとけよ。ボクのことをいつまでも子ども扱いするんだ。それは三つの時から世話になっていて感謝もしているが、将来のことはボク自身が決める」
「子ども扱いではなく……イーモンさんはノエルが――」
「ああもう、うるさいな。そもそもエヴァン。お前まで来る必要なんてないんだぞ」
むすっと唇を尖らせるノエルに、エヴァンが眉尻を僅かに上げる。
「俺はノエルの護衛なんだぞ。どんな時でも離れるわけにはいかない」
誇らしそうに胸を張るエヴァン。「護衛ねぇ」と呟いて、ノエルはふいに彼の鼻先で両手をぱちんと鳴らした。すると直後、エヴァンの姿が視界から掻き消える。
視線を巡らせて消えたエヴァンを探す。ふと視線を上げると、天井のシャンデリアにしがみつく彼の姿を見つけた。頬を引きつらせているエヴァンに、ノエルが苦笑する。
「随分と立派な護衛だな、エヴァン」
「いい、今のはその……急なことで少し油断していただけだ」
言い訳を口にしながら、エヴァンが床に着地する。一瞬にして天井へと飛び上がり、難なく着地するその身体能力は大したものだが、生来的にひどく臆病な男なのだ。
脅かされたことで不満を覚えたのか、眉をひそめて睨んでくるエヴァン。そんな彼の視線を軽く受け流して、ノエルは両手を僅かに開いた。
「そんなことより、ボクの格好は問題ないかな? 堅苦しいのは嫌いだから、お互いに普段着でとは言っているけど、あまりひどい恰好でも失礼だろうからね」
そう話しながら、ノエルは自身の格好を見下ろした。カーキ色のロングコートに白のワイシャツ。多数のポケットが付いたカーゴパンツに無骨なブーツ。服装それ自体は清潔にしているが、見合いの席には不釣り合いの格好といえるだろう。
「構わないんじゃないか。アーノルドさんもこちらの仕事は分かっているからな」
「それもそうだな。まあ洒落た服なんてボクの柄でもないし」
「だけどノエル。いつもそんな同じような服じゃなくて、たまには――」
エヴァンが何か言い掛けたところで、部屋の扉がカチャリと開かれた。エヴァンから視線を外して扉を見やる。そこにはブラウンの髪をうなじでまとめた男――
この屋敷の主であるアーノルド・アーモンドが立っていた。
「申し訳ない。あと少しで娘の支度も終わるゆえ、もうしばらくお待ち頂きたい」
丁寧に頭を下げるアーノルドに、ノエルもさっとソファから立ち上がり頭を下げる。
「とんでもございません。今回はこのような場を設けて頂きまして感謝しております。時間など気にせずにご支度なさってください」
「そう言って頂けると助かる。ああどうぞ。かしこまらず楽にしていてくれ」
アーノルドのこの言葉に、ノエルはまたソファに座り直す。アーノルドが後頭部を掻きながら、「いやはや」と苦笑を浮かべる。
「実はこの見合いの件について、娘には今朝がた知らせため支度に手間取っていてな」
「今朝と言うと……つい先程ですか? では随分と驚かれたでしょう」
「ああ。だが話を聞いてすぐ、娘もこの見合いに乗り気になったようでな、少しでもノエル君に気に入られようと支度に余念が――」
「いやぁあああああ! 誰がお見合いなんてするかぁあああ! 離しなさい! 離しなさいっての――ちょ! 何よそれ!? 何するつもり!? 止めなさ――むぐぐぐ!」
アーノルドの話の途中で、廊下から奇妙な絶叫が聞こえてきた。ぽかんと目を丸くするノエル。アーノルドが扉をちらりと一瞥し、こともなげに言う。
「ふむ……どうやら近くで野犬が吠えているようだ。騒がしくて申し訳ない」
「……野犬ですか?」
「野鳥かも知れん。或いは野蛙や野鮭の可能性もある。何にせよ野がつく類のものだろう。うちには何の関係もないゆえお気になさらずに。おっと、そうこうしているうちに支度が整ったようだ。では早速娘を呼ぼう」
アーノルドが扉の脇に退いて手を鳴らす。一拍の間を空けて、廊下から三人の使用人が姿を現した。若い女性に見えるが、耳の先が尖っているため魔工人形なのだろう。
部屋にズカズカと入る使用人たち。感情がないようで三人とも無表情だ。ここでふと、彼女たちが何かを抱え上げていることに気付く。彼女たちが抱えているそれは――
荒縄でぐるぐる巻きにされた、赤髪の少女であった。
「むぅうううう! むぅううううう!」
使用人に抱え上げられた少女が、赤髪のポニーテールを必死に振りながら体をバタつかせている。だが全身を縄で拘束され猿ぐつわまでされた少女の抵抗など、使用人たちはまるで意に介していないようだった。
使用人が赤髪の少女をペイっと乱暴に放る。ベチャリと顔面から床に落下する少女。かなり強かに顔面を打ったように見えたが、使用人は心配する素振りもなく、一礼だけして部屋を退出していった。
顔面を強打した痛みなのか、赤髪の少女が突っ伏したままプルプルと震えている。そんな彼女を呆然と見ていると、アーノルドが何事もないように口を開いた。
「この子が私の最愛の娘であるハンナ・アーモンドだ。人見知りの恥ずかしがり屋さんなところがあるゆえ、ろくな挨拶もせずに申し訳ない」
「多分ですが……彼女が挨拶できないのは別の理由ではないでしょうか?」
とりあえずそう呟いておく。何やら訳知り顔に頷くだけで、痛みに震えている最愛の娘を助けようともしないアーノルド。そしてこの異常ともいえる状況に、顔を青くして怯えるだけの臆病なエヴァン。二人のその様子を一瞥して、ノエルは頬を掻いた。
(つまりボクが助けに行けってことかな)
赤髪の少女へと歩いて近づく。質の良いワンピースを着ている彼女だが、縄で乱暴に縛られたうえ床に叩きつけられたため、その姿は悲惨の一言であった。
床に転がった少女のそばまで近づいて、ノエルはさっと屈み込む。彼女の後頭部で結ばれていた猿ぐつわの紐をほどいて、彼女の肩に優しく触れた。
「えっと……ハンナさん? 大丈夫ですか。怪我とかしていない――」
「いやぁああああああああ! お見合いなんて絶対に御免なんだから! 誰が見ず知らずの馬の骨なんかと付き合うもの――」
唐突に顔を上げた赤髪の少女がそう声を荒らげた。鼻頭が少し赤くなってはいるが、驚いたことに大した怪我などないらしい。
それはそれとして、勢いよく唾を飛ばしていた少女がこちらの顔を見た途端に、ピタリとその荒げていた声を止めた。ぽかんと鮮やかな赤い瞳を丸くして、こちらをじっと見つめている少女。ノエルはやや困惑しながらも、少女の視線に微笑みを返した。
「ノエル・マクローリンです。今日は急なお誘いをしてしまい申し訳ありませんでした。お会いできて光栄です。もしよろしければ、お話しだけでもさせて頂けませんか?」
アーノルドがどう取り繕うと、少女がこの見合いに不満を抱いていることは間違いないだろう。ゆえにノエルは少女を宥めるようそう声を掛けた。だがどういうわけか、少女はこちらの顔を見つめるばかりで、なかなか答えを返そうとしてくれない。
するとここで、少女の顔が少しずつ赤らんでいき、それと同時にこちらを見つめる少女の赤い瞳が熱を帯びていった。少女の変化に首を傾げる。こちらを見つめていた少女がさっと顔を伏せて、先程まで上げていたがなり声とは質の異なる、しおらしい声で言う。
「あ……ハンナ・アーモンドです。今日はよろしくお願いします」
そう話してすぐに――
少女の鼻から一筋の血が垂れた。