第五章 メリッサ・オードリー_4/6
吹き抜けの二階廊下から一階に跳び下りて、ノエルは着地すると同時に青い髪の魔工人形を睨みつけた。ルース城に住みついた王女の悪霊。フローラ・ルースだ。
彼女の右腕がない。視線を巡らせると、剣を握り込んだ彼女の腕がすぐ近くに落ちていた。一体なにが起こったのか。状況はまるで分からない。だがどうでもいいことだ。
(ハンナを守るんだ)
薄闇に満たされたエントランス。その部屋の隅にアーノルドの姿がある。だが彼からはすでに生気を感じない。寝室の天井が崩落するその最中、娘を守るためにフローラの剣をその身に受けたのだろう。つまりハンナを守れる人間はもう自分一人だけだ。
「……ノエル」
床に倒れているハンナが呟く。彼女の顔には無数の擦り傷があり、こめかみには大きな痣ができていた。痛々しいその彼女の姿に、ノエルは奥歯を噛みしめる。
「来るのが遅れてゴメン。二人のことは探していたんだけど……」
「……パパが」
ハンナの掠れた声。ノエルは「分かっている」とギリギリと碧い瞳を細めていった。
「アーノルドさんの意思はボクが継ぐ。ハンナ……君はボクが守ってみせる」
ノエルはそう決意すると――
躊躇なく引き金を引いた。
フローラが駆け出す。迫りくるフローラの額に銃弾が着弾、フローラの首が後方に反り返る。だが彼女はすぐに首の位置を戻すと、こちらに左手を伸ばした。
フローラに右手首を掴まれ、とんでもない力で腕を捻じられる。関節が破壊されそうなその激痛に右手の拳銃を落としてしまう。
「私は普通の魔工人形ではありません。特定の武器以外は受け付けない、特別な魔工人形です。このような玩具では、私に傷ひとつ付けることはできませんよ?」
勝ち誇るでもなく淡々とそう語るフローラに、ノエルは無理に笑みを浮かべる。
「だったら……その右腕はどう説明する? 転んだ拍子にもげちゃったか?」
「――っ! どうやらご自分の状況をまるで理解していないようですね」
フローラがこちらの右腕をさらに捻じる。関節を破壊するつもりだ。だがノエルは右腕が捻じられると同時に、その捻じられた方向に体を投げだした。宙返りするように体を回転させ、右腕に加えられた捻りを解消、さらに逆立ちの姿勢で右足を振り上げる。
フローラの顎を靴底が直撃する。フローラの体が後方によろめき、こちらの右手首から手を離した。即座に体勢を立て直して、ノエルは懐からナイフを引き抜く。
たたらを踏んだフローラに接近、彼女のこめかみめがけてナイフの刃を叩きつける。だが刃はフローラに突き刺さるどころか、半ばで折れてしまった。青い瞳をぎょろりと動かすフローラ。彼女の冷たい視線に背筋を粟立たせつつ、直感で後方に跳ねる。
鼻先を掠めてフローラの左拳が通過する。愚直な攻撃と言えるが、その鋭さは手持ちのナイフなどよりよほど脅威だ。舌を鳴らしながら折れたナイフを捨て、腰のベルトに右手を回す。背中のポーチから武器を取り出し、それをフローラめがけて投擲した。
三本の小型ナイフ。フローラが眼球を守るように両腕を前にかざす。投擲したナイフがフローラの腕に突き刺さる。だがやはり刃先が僅かに刺さった程度で、フローラにダメージはなさそうだ。フローラが腕に刺さった三本のナイフを引き抜こうとして――
「――糸?」
ナイフの柄から伸びている糸に首を傾げた。
三本のナイフと同時にポーチから取り出した小型装置のスイッチを右手で押す。装置からパンッと破裂音が鳴り、その装置から伸びていた三本の糸が発火した。発火した糸が導火線の役割を果たし、フローラの腕に刺さった三本のナイフへと火花が走る。そして火花がナイフの柄に到達した直後――
ナイフが爆発を起こした。
肌を焦がす爆風を堪えつつ、フローラを鋭く見据える。ナイフの柄に高性能の爆薬を仕込み、それをスイッチで発火させたのだ。至近距離からこれだけの爆発を受ければ、魔工人形だろうと無傷では済まないはずだ。
フローラの上半身を覆っていた灰色の煙が徐々に晴れていく。固唾を呑んでフローラのダメージを見定めようとする。薄れてきた煙がふわりと揺れて――
そこからフローラが飛び出してきた。
ダメージはない。多少焦げ付いているも無傷といえる。驚くべき耐久性だ。動揺しながらもフローラから距離を取ろうとする。だがその判断が遅かった。フローラの無造作に突き出した拳が――
こちらの鳩尾に深く捻じ込まれる。
「――がぁ!」
大量の息とともに血を吐き出す。臓器を損傷したようだ。崩れ落ちてその場に片膝を付く。痛みに喘ぐこちらを見下ろして、フローラが冷たい眼光を輝かせた。
「なかなか面白い玩具ではありますが、繰り返しますね。無駄なことです」
フローラに頬を蹴られて、床をバウンドしながら転がる。口の中がズタズタに切れて、また大量の血が口から吐き出された。激痛に意識が明滅する。それでもうつ伏せに倒れた体をどうにか引き起こし、ノエルはフローラを睨みつけた。
「まだ諦めませんか? 大人しくしていれば一思いに殺してあげますよ?」
「……丁重にお断りするよ……ボクにはやらなきゃならないことがあるからね……」
「……仕方ありませんね」
フローラが溜息を吐いて左腕をおもむろに振る。一体何のつもりなのかと、フローラを警戒して見つめる。だが五秒、十秒と時間が経過しても何も起こる気配がない。三十秒ほど経ったところで、ノエルは堪りかねて口を開こうとした。
その時、エントランスにある左右の扉からゾロゾロと人影――魔工人形が現れる。
「な……んだ?」
エントランスに入ってきた魔工人形は、そのメイクからルース城で悪霊の役をしていた者たちであることが知れた。人数は少なくとも二十人以上。その全ての魔工人形が、まるで本当の悪霊にでもなったように、体を揺らしながら歩を進めていた。
城の出口となる扉の前まで進み、魔工人形たちが立ち止まる。出口を塞ぐかたちで停止した魔工人形に困惑するノエル。フローラが背後の魔工人形を一瞥してまた嘆息した。
「イベントの説明でありませんでしたか? 姫は城にいた兵士や使用人の悪霊を従えていると。つまり城にいる全ての魔工人形は私の意思で動かすことができるのですよ」
「全ての魔工人形を……だって?」
「これでもなお、無駄な抵抗を続けるおつもりですか?」
フローラがゆっくりと頭を振り、その青い瞳を憂いげに細める。
「本当は不本意なのです。彼らは城に囚われている私にとって家族のようなもので、傷つけるような真似はしたくなかった。ですがこれで希望がないことはお分かりになったでしょう? 彼らは私のような特別な魔工人形ではありませんが、その力は人を遥かに凌いでいます。これだけの数を相手に勝つことも逃げることも不可能ですよ」
何も言い返せず沈黙する。フローラの言葉が事実であると理解していたからだ。ここで死ぬわけにはいかない。その決意は変わらない。だが決意だけで変えられるほど現実は甘くない。結局のところ決意を果たすには――
純粋な力が必要なのだ。
沈黙するこちらに諦めの気配を感じたのか、フローラが小さな微笑みを浮かべる。
「それで良いのです。しかし安心してください。決してなぶり殺すような真似は――」
その時――
「……ノエル?」
頭上から聞き慣れた声が聞こえた。
はっと声に振り返る。先程自分が降りてきた吹き抜けの二階廊下。そこにひとつの黒い影が立っていた。首筋まで伸びた黒い髪に黒いロングコート。バーラエナ王国の騎士団長の一人息子にして、王族であるノエル・マクローリン=バーラエナの護衛者。
その人影はエヴァン・スタイルズであった。
吹き抜けの二階廊下で呆然と立ち尽くすエヴァン。彼の視線はノエルにだけ固定されていた。ノエルの背筋がゾクリと冷える。こちらを呆然と見つめていたエヴァンが――
その表情を凶悪に歪めていく。
「テメエら……ノエルに何をした?」
そしてエヴァンの暴走が始まった。




