第四章 王女の悪霊_5/5
そこは見覚えのない場所であった。
柔らかなベッドで目を覚ました少女は、天井を見つめたまま目を瞬かせていた。見覚えのない場所。心にふと浮かんだ感想。それを少女は否定する。見覚えがない以前に――
少女は見覚えのある場所を知らなかった。
「目を覚ましたか」
すぐ近くから声が聞こえた。これもまた聞き覚えのない声であり、そして同じように聞き覚えのある声を知らなかった。
ベッドで上体を起こす。さわりと肩に赤い髪が流れた。この赤い髪が自分の髪だということだけは何となく分かった。赤い髪を指先で摘まみつつ声に振り返る。
そこには見覚えのない男性がいた。
「……私のことが分かるか?」
見覚えのない男性がそう尋ねてくる。うなじで束ねたブラウンの髪に、切れ長のブラウンの瞳。恐い顔つきをしているが、こちらを見るその眼差しはとても優しかった。
プルプルと頭を振る。少女の返答に、男性が間を空けずに再度尋ねてくる。
「自分の名前を憶えているか?」
自分の名前。当然覚えてい――
ズキン!
頭が痛んだ。浮かんだはずの名前が痛みに霧散した。少女は痛みを堪えながら再び名前を思い出そうとする。だが判然としなかった。名前があるのは分かっている。その形も色も匂いも感触も分かっている。実感がある。だがいくら手を伸ばそうと、その名前は霧のように掴むことができなかった。
「――名前……は……」
意識を空振りする名前。それを懸命に思い出そうとする。
「――名前……メリ――」
「君の名前はハンナだ」
ようやく名前を掴みかけた時、それを妨害するように男性の声が差し込まれた。掴みかけていた名前が完全に姿を消す。初めからそこに何もなかったかのようだ。少女はいつの間にか閉じていた瞼を開くと、男性をぽかんと見つめた。
「この名前を覚えているか?」
「……覚えてない」
男性が「そうか」と苦笑する。
「本当に何も覚えていないのだな。だがそれでいい。それが君の望みなのだからな」
男性の言葉が理解できず、少女はちょこんと首を傾げた。男性がブラウンの瞳をゆっくりと閉じて、また同じ時間を掛けてゆっくりと開く。
「私の名前はアーノルド・アーモンド。ここは商業都市リーベタスにある私の屋敷で、今日からは君の――ハンナ・アーモンドの家となる場所だ」
「あたしの……家?」
「私は君の母親から君のことを預かった。今日から君は私の娘になる」
「母親――いっ!?」
またズキンと頭が痛んだ。脳裏に一瞬だけ人影が過る。自分と同じ赤い髪の女性。これが母親なのか。違う。そうじゃない。この人は母親じゃない。この人は――
(この人は――あた――)
ここで男性の大きな手のひらが、少女の赤い頭にポンと触れた。
「思い出す必要はない」
頭の痛みが引いていく。それと同時に浮かんでいた赤髪の人影も消えた。目を丸くする少女。男性が大きな手のひらで少女の頭を優しく撫でる。
「忘れたままでいいんだ。君は全てを忘れたまま生きてくれ。その間に私が君の呪縛を解いてみせる。私が君の魔法を崩してみせる。私が君を――苦しみから救ってみせる」
男性が何を話しているのか分からない。だが不思議とその言葉は少女の胸に浸透して熱を帯びた。男性を見つめる少女。男性がこちらの頭から手を離して――
「それまでハンナ……君のことは私が守る」
そう優しく微笑んだ。
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「目を覚ましたか……ハンナ」
ハンナが目を覚ますと、すぐ目の前に優しく微笑んだ父の姿があった。
一瞬、夢の中にいた父と目の前にいる父とが重なって見える。だが意識が明瞭になるにつれて、夢の記憶はあっさりと霧散した。ハンナは一度瞬きをしてぼんやりと呟く。
「……パパ?」
「もう大丈夫だ……怖い思いをさせてしまい……すまなかった」
父の大きな手がハンナの赤い頭に触れた。
そこは薄暗い場所であった。目の前にいる父以外に周りの様子はよく見えない。何とか理解できたのは、父は壁に寄り掛かるようにして座っており、自分はその座っている父の膝に頭を乗せて眠っていたということだ。
こちらの頭を柔らかく撫でる父に、ハンナはクスリと笑った。
「パパ……あたしもう子供じゃないよ?」
「私にとって……お前はいつまでも子供だ……七年前から……私の大切な娘だ」
父の声の調子がおかしい。いつもの力強さがなくどこか弱々しい気がした。怪訝に思いながら体を起こそうとする。するとこめかみにズキンと鋭い痛みが走った。
「――いっ……」
頭がぐらりとするも何とか体を起き上がらせる。そして色々と思い出した。フローラに剣で脅されていた時、なぜかアトラクションの車両が天井を突き破ってきたのだ。そしてその天井の破片にこめかみを打たれ、自分は今まで気を失っていた。
痛んだこめかみをさすりながら、ハンナは周囲の薄闇に視線を巡らせた。
「……ここはどこ?」
「ルース城のエントランスだ……どうにかお前を抱えてここまで逃げて来たのだがな……あと少しというところで……体力が尽きた」
掠れた父の返答。その答えを聞いて改めて薄闇をよく眺める。確かにぼんやりとだが、二階に通じる大きな階段と、城の外に通じている大きな両開きの扉が薄闇の中に見えた。父が床に座り込んだまま、外に通じている両開きの扉を指差す。
「ハンナ……お前は……あの扉から城の外に出るんだ……そして船まで走って逃げろ」
「お前はって……パパはどうするの?」
扉を指差していた腕をがっくりと下ろして、父があまりに深い溜息を吐く。
「私のことは気にするな……これからお前はノエル君たちの……世話になりなさい……彼女ならきっと……お前を見捨てるようなことはしない……だから……彼女を選んだ」
「世話にって……なに言ってるの? 分かんないよ……ねえ……逃げるならパパも一緒に行こうよ! あのお姫様に殺されちゃうよ!? 早く立って――」
声を荒げながら父の肩を掴み――
そしてその手がビチャリと濡れた。
ゾクリと背中が粟立つ。見開いた瞳を揺らしながら、父の肩から手を剥がす。手にベッタリと付着した液体。薄闇に溶け込んだどす黒い何か。それは――
真っ赤な血であった。
「……こ……な……どうし……て……」
父に震えた視線を戻す。肩を落として座り込んでいる父。壁に寄り掛かるその父の姿に戦慄する。薄闇の中で気付くことができなかった。父の背中が触れているその壁は――
大量の血液で赤く濡れていたのだ。
「あの魔工人形に……背中を斬られた……」
大量の脂汗を額に浮かべながら、父が自虐的に笑う。
「やはり若い時のようには……行かないな……体が思うように動かん……」
「背中を……あたしが……あたしを助けようとして……だからそんな……」
気を失う直前。霞んでいく意識の中で聞こえた父の声。剣を振り上げていたフローラから娘を助け出そうとして、父は彼女の剣で背中を斬られたのだろう。
「お前が……気に病むことではない……」
自虐の笑みを苦笑に変えて、父が力なく頭を振る。
「お前を守ると……私は約束したはずだ……それを果たしたに過ぎない……だが私は……お前を守ることはできても……救うことができなかった……それが情けない」
「……あたしを……救う?」
「時間がないのは……分かっている……それでも……お前に伝えておくことがある……」
父が蒼白の顔をこちらに向ける。その顔にはもはや生気が感じられず、悠長に話をしている場合でないことは明白であった。だが強い意思を湛えた父の瞳が、ハンナの声を詰まらせる。父が荒い呼吸を繰り返しながら、その合間に言葉を紡いでいく。
「私は嘘を吐いていた……メリッサ・オードリー……彼女は……お前の母親ではない」
「……え?」
メリッサ・オードリー。数日前に見た夢の中で父に頭を撃ち抜かれた女性。父は以前にその女性をハンナの母親だと話していた。だがそれは嘘なのだという。
ならば夢の中で父に銃殺されたメリッサ・オードリーとは何者なのか。自分と無関係とはどうしても思えない。頭を困惑させるハンナに、父が苦しそうに言葉を続ける。
「彼女から生まれたという意味では……或いは彼女を母親と呼べるのかも知れない……だがそれは正確ではない……彼女とお前は……親子などよりもっと近しい存在だ……」
「……パパ。言っている意味が……」
「彼女は……魔法保有者だった……彼女の保有していた魔法は……『転生』」
そして父が――
驚愕の言葉を口にした。
「ハンナ……お前は私の友人……メリッサ・オードリーの……転生した姿だ」




