第二章 砂漠の世界_4/5
ドラゴンの到着予定日は三日後らしい。つまり往復も考慮するとこの船――『灰色の海豚』号に一週間近く寝泊まりすることとなる。
会議室を出たハンナとアーノルドは、ドーラにより客室へと案内された。この船に滞在している間、この部屋を自由に使って良いとのことだ。
「ドーラがきちんと掃除しておきましたから、ピカピカのスベスベですよぉ。床でアイススケートができるほどですぅ。ゆっくりと休んでくださいねぇ」
それほど滑る床で休めるとは思えないが。何にせよ廊下を駆けていくドーラの背中を見送り、ハンナは客室の扉を押し開けた。
その客室は二つのシングルベッドと簡易な家具が備えられた、それなりに広い部屋であった。アイススケートは大袈裟にしても、床も壁も丁寧に磨かれており汚れひとつない。この部屋ならば確かにゆっくりと体を休めることができるだろう。
だがハンナの表情は優れない。というかきっぱりと不機嫌だ。ハンナは表情をぶすっとさせたままズカズカと大股で部屋に入る。部屋のど真ん中で仁王立ちしていると、背後からパタンと扉の閉まる音が鳴った。
「……いい加減に機嫌を直したらどうだ?」
父の呼びかけを無視する。振り返らずにいると、背後から父の溜息が聞こえてきた。
「黙っていたのは悪かった。だが事情が事情だけに不用意に話すわけにもいかなかったのだ。街の中ではどこで聞き耳を立てられているかも分からんからな」
「……もうそのことは良いよ。パパが隠しごとをするのはいつものことだし」
いつまでも不貞腐れているわけにもいかず、ハンナは嘆息混じりにそう呟いた。くるりと体を反転させて、扉の前に立っている父をじろりと睨む。
「だけどどうしてパパとあたしも、そのドラゴンのところに行かなきゃいけないの? 違法行為はこの際仕方ないとして、ノエルたちに頼むだけじゃダメだったの?」
「話しただろ? それは特別な魔工機器なんだ。私が直接見なければ判断できない」
「それじゃあ、あたしは?」
「扱う物がものだ。状況によってはこのまま街を離れることになるかも知れん。お前を街に一人残しておくわけにはいかなかったんだ」
こちらの質問に父が淀みなく答える。だがどこか機械的だ。予め用意していた答えをただ口にしているだけにも思える。ハンナは嘆息して眉間にしわを寄せた。
「パパ……嘘ついているでしょ?」
「……どうしてそう思う?」
「分かるよ」
視線を落としてポツリと言う。
「あたしはパパの娘なんだから」
父が沈黙する。ハンナもまた口を閉ざして沈黙した。二人の間に静寂が流れる。部屋に置かれた置時計のコツコツとした秒針の音。静寂を僅かに揺らすその音がなければ、時間が静止しているとさえ感じられるほどだ。
三十秒ほどの時間が経過して、ハンナは「……あーあ」と大袈裟に嘆いてみせた。
「本当にパパったら秘密主義だよね。お母さんのこと聞いてもいつもはぐらかすしさ」
「……すまないな」
「別に……今更のことだしね。それに――パパのこと信用してるから」
父の目が見開かれる。つい口走ってしまった本音に、ハンナはカアッと顔が赤くなるのを自覚した。自身の発言を誤魔化すため、ハンナは話題をさらりと変える。
「そそ、そんなことより、その魔工機器を依頼した人って誰なの? こんな危ない真似をしてまでお願いごとを聞くんだもん。ただのお客さんってわけじゃないんでしょ?」
「む……う、うむ。顧客情報ゆえ詳細は話せないが、大切な顧客様だ」
「もしかして……女の人だったりする?」
父がきょとんと目を丸くする。父の反応をじっと見つめるハンナ。彼女の探るような視線を受けて、父がふっと微笑を浮かべた。
「確かにその依頼者は女性だ。だがお前が思うような関係ではないぞ。その彼女はとても美しい女性ではあるが、私とは歳が一回りも離れており、私を恋愛対象とは見ていない」
「なんかその口振りだと、パパはその人を恋愛対象として見ているみたいね?」
「父親をからかうな」
父がそう苦笑する。強面の顔に浮かんだ優しい微笑み。父のブラウンの瞳に見つめられるだけで、ハンナはいつも大きな安心感を覚える。自分を包み込んでくれる父の温かな想い。それを強く感じられるからだ。
(そうだよ……パパがあたしの嫌がることをするわけがない)
全てを語ろうとしないのも何か理由があってのことなのだろう。ならば無理に聞き出す必要などない。ただ父を信じていればいい。この優しい父ならばきっと――
瞬間、ズキンと頭が痛んだ。
そして脳裏にまたあの夢の映像が浮かぶ。
自分ではない誰かに銃口を突きつける――
優しいはずの父の姿。
「――どうした、ハンナ?」
父の呼びかけにハッとする。霧散していく脳裏に浮かんだ映像。拳銃を構えた父の姿。ハンナは僅かに速まった鼓動を深呼吸して鎮めると――
「あの……変なこと聞くけど、パパはメリッサ・オードリーって人を知らない?」
そう躊躇いがちに尋ねた。
父の呼吸が止まる。父のブラウンの瞳が大きく見開かれていき、何かに怯えるようにカタカタと震え始めた。父の反応に唖然とする。まるで過呼吸に陥ったように口を何度も開閉させて、父が絞り出すように言葉を紡ぐ。
「その名前を……一体どこで?」
「それは……変な夢を見ちゃって」
父の鬼気迫る表情に正直に答える。父が「夢……夢か……」とブツブツと呟いて、見開いていた瞼をゆっくりと下した。沈黙した父を困惑しながら見つめる。しばらくして父が閉じていた瞼をゆっくりと開き――
「……メリッサ・オードリーは……ハンナ……お前の母親の名前だ」
掠れた声でそう答えた。
======================
古代人種の遺跡。ドラゴン。その道のりは順調であった。というより、退屈だと表現したほうが良いだろう。最初こそ珍しい砂漠の景色に感激したものの、小一時間ほど眺めていれば代わり映えしないその景色にも飽きてしまった。
ノエルは何やら忙しいのか、船の中であまり見掛けることがなかった。たまに軽い雑談を交わすこともあるが、十分ほどですぐどこかへ姿を消してしまう。最初はこちらを避けているのかとも思うも、他の人たちにも似たような様子のため本当に忙しいのだろう。
以上の理由から、ハンナは用意された客室で時間を潰すことが多かった。この船に乗ることを事前に把握していた父が、着替えの他に本を何冊か持ち込んでいたため、ベッドに腰掛けながらそれに目を通す。因みに本の内容は強面の父に不釣り合いの恋愛小説だ。
そして瞬く間に三日が経過した。
======================
午前七時。起床したハンナは眠気眼を擦りながら隣のベッドに視線を向けた。父はすでに起床しているようで、ベッドはもぬけの殻となっていた。
父がどこに出掛けたのか。それはおおよそ予想できる。恐らくデッキだろう。この船で移動中、父はデッキから砂漠の景色をぼんやりと眺めていることが多かった。
「会社を作るより前は、よくこうして船で移動していたんだ。だから懐かしくてな」
砂漠の景色など退屈ではないのか。その疑問に対する父の回答がこれだった。会社を経営する前の父が何をしていたのか。それをハンナは知らない。父お得意の秘密主義だ。
何にせよ、ハンナはベッドから下りると手早く寝間着を着替えた。動きやすいシャツとパンツ姿――見合いでもなければスカートの類はあまり穿かない――で食堂へと向かう。
「あらハンナちゃん。おはよう」
この三日で顔見知りとなった食堂の主がそう声を掛けてくる。因みに女性口調だが食堂の主は筋肉ムキムキの男性で、名前をトビー・マッカンという。ハンナは「おはようございます」とトビーに頭を下げ、彼が用意してくれた朝食を受け取った。
食堂を見回すと、一人で食事をしている金髪の人影を見つけた。ノエル・マクローリンだ。トロンと碧い瞳を眠そうに垂れさせているその彼――いや彼女に、ハンナはやや躊躇いつつ近づいていく。
「おはよう、ノエル。隣の席いい?」
「ん? ああもちろん。おはよう、ハンナ」
こちらに気付いてノエルが微笑む。彼女の格好はシャツに膝丈のズボンと簡易なもので、朝はいつものサラシを外しているのか、その胸が大きく突き出ていた。
(うう……やっぱりあたしより全然ある)
胸中でそう嘆きつつ、ハンナはノエルの隣の席に腰掛ける。整った顔立ちを優しく微笑ませているノエル。以前はイケメンに見えていたはずのその顔が、女性的な体つきが顕わにされている今は、絶世の美少女にしか見えなかった。
「ゴメンね、ハンナ。あまり構ってあげられなくて。退屈してない?」
微笑みを苦笑に変えて、ノエルがそう尋ねてくる。正直退屈はしているが、ハンナは「そんなことないよ」と頭を振り、気になっていた疑問を口にする。
「いつも忙しそうにしているけど、あたしに手伝えることがあるなら手伝うよ?」
「え? ああ……違うんだよ。仕事がない時はいつもジイに――イーモンに勉強を見てもらっていてね。王家の人間として恥ずかしくないようにと、彼にしごかれるんだ」
予想外の答えに目を丸くする。驚くハンナに、ノエルが金色の髪をポリポリと掻く。
「ボクはハンナのように学校には通えてないからね。ジイは船の魔工技師だけど、ボクの教育係も兼任しているんだ。正確には彼がそう自称しているだけだけど」
「教育係……イーモンさんがノエルのことをすごく大事にするのもそれが理由?」
「そうかも。ジイはボクが三歳の頃からの育ての親みたいなものだから、ボクのことを孫とでも思っているのかも知れない。まあそれは良いんだけど、少し過保護が過ぎるね」
ノエルが駆け落ちすると勘違いして、ノエルを探すために犯罪者である彼女の顔写真を街中にばら撒く。何とも浅はかな行動だが、それだけイーモンがノエルのことを大切に考えているということだろう。
「イーモンさんはノエルが男になることを反対してないの? 何だかノエルをお姫様としてすごく可愛がっているように見えるけど」
「もう大反対さ。昨日は叱られたばかりだからか大人しくしていたけど、いつもこの話題になると子供のように駄々をこねるんだ」
還暦を迎えたであろう老人が子供のように駄々をこねるとは中々にきつい。「困ったものだよ」と溜息を吐くノエルに、ハンナは重要な問いを尋ねる。
「どうしてその……ノエルは男の子になりたいの? 女の子がイヤなの?」
「イヤというか……仕方ないんだ。ボクたちの国では男性しか王位を継ぐことができない。ボクは最期の王族だからね。その血筋を絶やさないためには男になるしかないんだ」
意外な答えに驚く。ぽかんと目を瞬くハンナに、ノエルが苦笑を浮かべる。
「滅んだ国の王位なんかに拘るなんて、滑稽なことだと思った?」
「え? ああいや、そうじゃないけど……」
「いいよ。自分でもそう思うからね。だけどボクにとっては、王族であるということだけが王国との唯一のつながりなんだ。だからどうしても拘ってしまう」
そう気楽な調子で話をして――
ノエルが碧い瞳に眼光を尖らせる。
「それにボクはまだ――国を諦めてないから」
一瞬だけ覗いた鋭利な気配。それをノエルが瞼を閉じるとともに封じ込める。一呼吸の間。ノエルが再び瞼を開いた時、彼女のその碧い瞳にはいつもの温かな輝きがあった。
「少し話が長くなっちゃったね。食事が冷めないうちに食べちゃおっか」
「……そうだね。あ、でもゴメン。あとひとつだけ聞いてもいい?」
首を傾げるノエル。ハンナはもにょもにょと口を動かした後、躊躇いながら尋ねる。
「どうしてあたしとお見合いを? あたしなんてそんな可愛いわけでもないのに」
「とんでもない。ハンナはすごく可愛いよ。そのポニーテールにした赤い髪も、ルビーのような赤い瞳もとってもキュートだ」
ノエルの称賛に顔を赤らめて、ハンナは「そ、そんなことないよ」と照れ笑いした。ノエルが「本当だよ」と言葉を続ける。
「ボクも十八歳になり、そろそろ相手を探さないといけないと考えていたんだ。そしてハンナの写真をアーノルドさんに見せてもらい、一目でこの人だって直感したんだよ」
「や、止めてよ。ええ? でもそう? そんなに可愛く写真に写ってたの?」
赤らめた頬に手を添えてイヤンと頭を振る。ノエルがニコリと微笑んで――
「ソファで涎を垂らしながら寝ているハンナが写された写真だったよ」
そうさらりと言った。
ガタンッと椅子から転げ落ちそうになる。パパの無神経。娘の恥ずかしい写真なんか持ち歩かないでよ。ハンナは脳裏でカラカラと笑う父にそう愚痴をこぼした。先程までとは別の意味で顔を赤くするハンナに、ノエルがクスリと肩を揺らす。
「恥ずかしがることはないよ。ボクはとても可愛いと思ったんだから。それに別にボクは容姿だけでハンナを選んだわけじゃない。ボクが魅かれたのはその雰囲気なんだ」
「雰囲気?」
「言葉では説明しにくいけど……すごい人だって直感したんだよ。それが身体的なものか精神的なものかは分からないけど、ボクにはない強さを持った人なんだなって」
「……褒めてくれるのは嬉しいけど、あたし普通の人だよ? 強いなんてないけど」
「そんなことない。ハンナは特別だよ。ボクの人を見る目は確かなんだから」
断言されても思い当たる節などない。質問の回答を終えて朝食を再開させるノエル。スープを上品に口に運ぶ彼女をしばし見やり、ハンナは小さく溜息を吐いた。考えたところで仕方ない。そう気持ちを切り替えて、ハンナは朝食のパンに手を伸ばした。
するとここで『ピンポンパンポーン』と食堂のスピーカーから女の子の声が鳴った。
『業務連絡ですぅ。リザード・ドラゴン=リバースの魔力を先程感知しましたぁ。後十分ほどで接触すると思いますので、見学されたい方はデッキにお集まりくださいぃ』
間延びした声でそう告げて、『ポンパンポンピーン』と声が鳴りやむ。緊張感のない放送にぽかんとする。ノエルがカタリと椅子を引いて立ち上がり――
「さて――狩りの時間だ」
意味深なことを呟いた。




