プロローグ_1/1
そこは薄暗い部屋であった。
背後から差し込んでいる月明かり。その青みがかった光に照らされる調度品の数々。猫足の上等なテーブルに、繊細な意匠が施された金縁の椅子。複雑な文様が刺繍された厚い絨毯。一見して高価と知れるそれら調度品が、薄闇の中で静かに沈黙している。
彼女はゆっくりと瞬きして、意識を全身に這わせていった。お尻と背中を支えている柔らかいクッション。どうやら自分は今、椅子に腰掛けているらしい。
どうやらというのは、椅子に腰掛けた記憶が彼女になかったためだ。否。椅子に腰掛けた記憶だけでなく、それより以前の記憶の全てが欠落していた。まるでこの瞬間に――
彼女の意識が生まれたように。
(この部屋を――あたしは知っている)
彼女はぼんやりと思う。馴染みのある部屋。だがどういうわけか余所余所しくも思える。長いこと住み慣れた自身の家のような、訪れたばかりの他人の家のような、そんな矛盾した感覚が彼女の心をざわつかせる。
(あたしは――誰?)
自分の名前が思い出せない。まるで霧に書かれた文字のように、記憶を探ろうとも伸ばした手が空を切るだけだ。嘆息しようとした彼女は、そこでふと気付く。
(……体が動かない)
それは正確な表現ではない。意識が目覚めてよりこの短い間にも、彼女は幾度か瞬きをして、呼吸して肩を揺らしている。だがそれら挙動は彼女の意志によるものではなかった。彼女とは異なる何者かの意志が、彼女の体を動かしているのだ。
(アナタは誰なの?)
同じ体の中にいるその何者かに胸中で呼びかける。だが返事はない。するとここで彼女の意志とは無関係に視線が動く。ちらりと横に向けられた視界に――
一人の男性が映された。
この部屋と同様に、上等なスーツに身を包んだ男性だ。身長は高い。それほど高齢には思えないが、若いかも分からない。なぜならその男性の顔は月明かりの陰になり、隠されていたからだ。男性を見つめることしばらく、暗闇の奥から男性が呟く。
「……正直に話そう」
心安らぐ男性の声。彼女はその男性がとても大切な存在であることを悟る。だがそれが誰なのか思い出せない。男性の言葉に首肯する彼女の体。男性が一呼吸の間を空けて、暗闇の中で小さく頭を振る。
「俺は君のことを愛していた。君が俺をただの友人としか見ていないことは理解している。だがそれで構わなかった。君は自由だ。誰のものにもなってはならない」
彼女の体が苦笑する。男性が僅かに呼吸を止めて、絞り出すように息を吐く。
「それだけに……本当は胸が痛むんだ」
男性が右手をゆっくりと持ち上げる。彼のその右手には月明かりに照らされた――
拳銃が握られていた。
「お前が気に病むことじゃない」
彼女の体がそう話した。自分とは異なる口調だと、彼女はぼんやりと思う。男性の握る拳銃を恐がる様子もなく、彼女の体が穏やかに言葉を続ける。
「これは私の望んだ経過だ。ほんの僅かな時間だけでも夢を見たいのさ」
暗闇に隠された男性の表情が、苦しそうに歪んだのが分かった。男性の右手に握られた拳銃。その闇の湛えられた銃口が、彼女の体へと向けられる。自身に向けられた銃口を見つめて、彼女の体が優しく笑った。
「――を頼んだよ」
彼女の体が呟いた言葉。だがそれはよく聞こえなかった。まるで誰かに耳を塞がれたように。だが男性にはその言葉が聞こえていたのだろう。暗闇の中で頷いて、拳銃を構えたまま一歩こちらに近づいてきた。
月明かりの中に男性が足を踏み入れる。暗闇に隠されていた男性の顔が、月明かりの中に顕わとなった。彼女は意識だけで息を呑む。うなじでまとめられたブラウンの長髪に、刃を思わせるブラウンの鋭い瞳。見慣れた顔。その男性は――
(パパ?)
男性の右手に構えられた拳銃。その銃口が彼女の額にピタリと固定される。彼女は咄嗟に逃げようとする。だがやはり体が動かない。彼女の体を支配している何者かの意志が、この状況を受け入れていた。
男性の指が拳銃の引き金に掛かる。キリキリと絞られていく引き金。怯えることもなく男性を見つめる彼女の体。引き金を絞る男性の指が僅かに震えて――
「また会おう。メリッサ・オードリー」
引き金を絞り切る。
銃口が弾けると同時に、彼女の体が背後へと仰け反った。頭蓋に侵入した熱を湛えた銃弾。その冷たい感触。それを悪寒とともに感じながら――
彼女の意識は帰還した。