校舎の覚えるもの
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶらやくんは、この学校ができてどれくらい経つか知ってるかい?
どうやら今年で、30年目を迎えるらしいんだよ。それでも、ここいらの学校の中では新しいもののようでね。お父さんが小さかったころは、まだこの学校はなくて別の学校へ通っていたとか。
新しめの校舎に対して、古めの校舎は、君にとってどんな印象かな?
ぼろい、汚い、過ごしにくい……ついつい、マイナスなイメージを思い浮かべがちじゃないかな?
実際、それらは避けがたい問題だ。この学校も、あと数十年が経てば古い学校として、未来の子供たちに白い目で見られるかもしれない。でもね、時間が経ったからこそ、生まれ混じってくる不思議も存在するらしいんだ。
僕のお父さんの話になるけど、聞いてみないかい?
お父さんが小学校に入学した当初、敷地の一方には、すでに工事中の新校舎の姿があったらしい。僕たちも知っている、現在の校舎だね。
お父さんたちが通っていた、当時の校舎は木造。風を通すと、季節を問わずにスギの匂いが鼻についたのを覚えているって話してたよ。
で、お約束というべきか、在学中に何度か怪談ブームがやってきた。
ほとんどが他の学校でも語られるポピュラーな内容だけど、お父さんがその中でも興味を惹かれたのは、廊下にまつわるひとつのうわさ。
「廊下を走ってはいけない。特に、足音が遅れてついてくるときには、なおさら走ってはいけない。だって『覚えられてしまう』から」
覚えられるって誰にだ? とお父さんは思った。
そりゃ廊下を走ったら、先生に怒られる。常習犯になったなら、そりゃ先生に追いかけられて、ぎゃんぎゃん雷を落とされるだろう。顏だって覚えられちゃうに決まってる。
そうお父さんが話すと、周りのクラスメートが一気にしらけるのを感じた。「はっきり言わない時点で、察しろよ」といわんばかりの、冷たい視線が飛んでくる。
お父さんは昔から、実際に体験したものじゃないと、たいして怖がらない性質だったとか。話の中のお化けよりも、
鎖でつながれていない犬に追い回されたこととか、あと一歩あると思っていた階段が実は無くて、足をくじきかけたこと。狭い道でトラックが、自分の服をかすめるほどのギリギリを通っていったことのほうが、よっぽど怖かったとか。
そんなお父さんは、怪談などどこ吹く風で、先生方の見ていない場所では廊下を走りまくっていたらしい。他の生徒とぶつかりそうになったこともあったし、床板の間に挟まっていたのか、ほこりを大いにまき散らしたこともしばしばだったとか。
そうして過ごしていたお父さんにも、洗礼のときが訪れる。
学校に忘れ物。それも夜になってから気づくパターン。明日提出のプリントを、自分の机の中へ入れっぱなしとはいかない。
お父さんは軽々とフェンスを乗り越え、校庭を突っ切って校舎内へ乗り込んだ。
まだ宿直の先生がいた時代だ。外来用の玄関口が運よく開いていて、ドアのすき間から身体を潜り込ませた。
目指すは2階の1-2。階段を上がって、すぐ右手にある教室だから、全力ならものの数分で用が済むはず。
お父さんはさっと、真正面にある階段を一段飛ばしで駆け上がり、廊下を突っ切って教室へ飛び込む。
ところが、窓際の一番前にある自分の席で、足を止めた瞬間だ。
――ぎしし。
明らかに、自分が止まってから遅れて、床板がきしんだんだ。
振り返る。外からの弱い光に照らされるのは、白っぽいほこりの粒が、蛍のように柔らかく漂う、教室内。先ほどお父さんが、自分の足で巻き上げたものと思われた。
その向こう。部屋から廊下まで目を凝らしても、人の姿は見えない。ただ音だけは続いている。
ぎち……ぎしし……ぎし……。
――もしかして、こっそり歩いているつもりか? 誰だか知らないが、へたくそな奴。
音の主が、お父さんに気がついているかは定かじゃない。もし宿直の先生だったとしたら、見つかると面倒なお小言が始まるかも。
お父さんはひとまず、教卓の影に身を隠したんだ。
暗闇に慣れてきた身で、じっと廊下をにらむ。先生が見回るのだったら、明かりのひとつも持っているはず。それがやってくる気配がしたら、うまくスキをついて逃げ出す自信が、お父さんにはあったらしい。
でも、いつまで経っても音の主は現れず。それでいて、音そのものはお父さんにほど近い場所から聞こえ続ける。
――どこにいるんだ?
教卓の影から顔をのぞかせるお父さんは、やがて気がつく。
いまもなお漂っているほこりの粒たち。いつの間にか霧のように密度を濃くして、視界を漂っていた彼らの一部が、ふっと消えた。
見えなくなったわけじゃない。天井から動いた影が、ほんの一瞬でほこりの一部をえぐっていったんだ。すぐさま引っ込んだそいつは、見上げても姿が分からない。
そうこうしているうちに、つぎつぎほこりの霧はのぞかれていく。上から下から、不注意な虫を絡め取るカメレオンの舌のごとく、どんどん飛び出してはほこりを飲み込み、元の暗闇を取り戻していく、細い触手が出入りしていたんだ。
あまりの勢いに、お父さんはまごつく。
もし、こいつらが頭に当たったり、足元から尻に直撃してきたりしたら……。
想像しただけで身震いし、お父さんはすっと立ち上がった。すぐにでも、ここを離れなきゃいけないと直感したんだ。
忘れ物はたたんでポケットの中。教室のドアまであと数メートル。中空のほこりたちの数は、見える限りでもうわずかしかない。
あれに気を取られているうちにと、お父さんは一気に走り出したんだ。
わずか一秒にも満たない時間だったはず。なのにお父さんの足は、教室を出きらないうちに、何かに絡まれた。厳密には、上履きの部分を押さえつけられている。
お父さんの判断は早い。掴まれるまま、両足の上履きを脱ぎ捨てて、廊下と階段をひた走った。もうあの触手らしきものは追いかけてこなかったけど、無遠慮なお父さんの足音が、校舎内へ響き渡る。
廊下の反対側から、見回りの先生らしき足音も迫ってきて、生きた心地がしなかったとか。
翌朝。予備の上履きを持参し、朝イチで登校したお父さんは、自分の教室に昨日の上履きが転がっているのを見る。
傷などが増えている様子はなかったけど、底の部分は別。洗っても取り除けなかった、しつこい汚れがすっかり落とされていたんだ。
その日は体育の先生が、学校を休んだ。時間が経っても復帰できず、代わりの先生が急きょ赴任してきたらしいよ。
あの触手っぽい影。もしかするとほこりと、お父さんの上履きの底の汚れが混ざったものを、好んでいたのかもしれない。「覚えられる」っていうのは、その汚れ混じりのほこりを作る奴として、認識されるってことなのかもね。