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読書感想文「ストーリー  ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則」

作者: Reckhen

読書感想文

「ストーリー  ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則」

story substance,structure,style,and the principles of screen writing

(訳・ストーリー 本質、構造、スタイル、および脚本の原則)

を読んで


まず初めに弁明を。

私が本を読んで要約したものなので、私にとって真実だったとしても、客観的・長文読解的には正解ではないかもしれません。

本を買って読んでもらった方がいいことは言うまでもなく、これから先に書かれていることが正しい解釈かどうかは保証できません。


さて、読み終わり、重要そうな部分を書き写し、並べ直して要約に纏めている内に、私は以下のような気づきを得ました。

簡単に言えば、自分の書いてきたものが、いかに甘かったかと思い知らされたのです。


・気づきポイントと、予想されるネガティブな感想

①読者が期待するものを提供できてない→「時間の無駄だった」

②期待、予想させるものが最初にないと、何が書いてあるのか分からない→「これって何の話? 俺に関係ある?」

③調査(想像)が甘い→「誰でも思いつきそうだな」「ありきたりだな」

④価値要素が変化しないシーンがある→「このシーンなぜ入れた?」

⑤主人公の欲求(内的・外的)が分からない→「こいつ何がしたいんだよ」

⑥主人公が決断、行動していない→「主人公はだれ? 一人称なのに主人公いらなくない?」

⑦敵対する力が突き詰められてない→「別に問題なくない? 放っておけば?」

⑧主人公が極限まで重圧を受けていない→「だから何? わざわざ書く必要あった?」


他の人が書かれたフィクションを漫然と読んでいて「なんか面白くないな」と思うことはたまにありますが、その原因は何種類かあるのではないか、と。

つまらなくしている原因を突き止めれば、それに対処することも可能でしょう。逆のことをすればいい。

では逆に、各項目で、どんな褒め言葉をもらえたら嬉しいだろう。


・修正ポイントと、もらえたら嬉しいポジティブな感想

①読者が期待していたものが提供できた→「これこそが読書の醍醐味! 読書体験!」

②序盤で期待、予想させるものを提示→「最後はどうなるのか気になって一気に読んでしまった!」

③アイデアの調査(想像)、発展を極限まで→「どうしたらこんなアイデア思いつくの?」

④シーンごとに価値要素を上下させ変化をつけ飽きさせない→「シーンが切り替わるごとに引き込まれていく!」

⑤主人公の欲求(内的・外的)に共感→「この主人公は俺だ! どうか願いがかなってほしい!」

⑥主人公が決断、行動がストーリーの原動力→「この決断は正しかったのか? うまくいくのか? ハラハラする!」

⑦敵対する力は考えうる限り極限のもの→「絶体絶命だ! どうなってしまうんだ?」

⑧主人公が極限まで重圧を受けた末に現れる人間性の本質→「ここまでやるか? こんなの今まで読んだことない!」


項目ごとに具体的なチヤホヤされたいポイントを理解していないと、これから先の方法論は、方法論のままで終ってしまう。

本書に書かれている方法論を、項目ごとに抜き出しました。引用部分は『』でくくってます。


①総じて、読者が期待していたものが提供できた→「これこそが読書の醍醐味! 読書体験!」


『ウィリアム・ゴールドマンは「どんなストーリーでも、結末を成功させる鍵は、観客が望むものを予想しない形で与えることにある」と述べている。』


いきなり名言の引用から。

「期待に応え、予想は裏切る」はエンタメの基本だそうです。

「観客が望むものを予想しない形で与える」と言われると、腑に落ちるというか、いろいろ考えさせられます。

では「期待」とは?


『観客が求めているのは感情が満たされること、つまり、期待に応えるクライマックスである。どんな感情がエンディングで観客を満足させるのか。それを決めるのは脚本家だ。

ストーリーを語り始めたときから、脚本家は観客の耳にささやいている。

「ハッピーエンドを期待してくれ」「悲しい結末を期待してくれ」「皮肉な結末を期待してくれ」

誓った以上、それを届けない訳にはいかない。脚本家は観客に約束通りの体験を、予想と違う形で届けるのだ。そこが本物の脚本家とアマチュアとの違いだ。

一流の脚本家は、観客に約束した感情体験をさせる。と同時に、意表を突く形で深い洞察を与える。それは脚本家がクライマックス内の転換点まで隠し持っていたものだ。

主人公が最後の試みをするとき、目標を達成できるかどうかに関わらず、そこで生じたギャップが観客の心を力強く揺り動かし、期待通りの感情を予期しなかった形で届けるのである。』


「期待に応える」以前に、期待させる気もなかったと反省しています。


『「エンターテイメント」とは一体何だろうか。

エンターテイメントとは、暗闇に座って多大な集中力とエネルギーを注いで向き合ってくれる人たちに対して、満足できる意義深い感情的体験を期待通りに提供する儀式である。

人の心を掴み最後まで夢中にさせて、来た甲斐があったと思わせる映画はすべてエンターテイメントだ。』


読者に「感情的体験」をさせると、期待に応えたことになり、満足してもらえるそうです。


『ストーリーテリングとは、ある約束を受け手と交わすことだ。

しっかり耳を傾けてくれるなら、驚きを与え、想像もつかないレベルと方向で人生の痛みや喜びをお見せする、という約束である。

何より大事なのは、それをさりげなく、ごく自然にやってのけることで、観客が自ら発見したかのように仕向けなければならない。』


『ストーリーテリングとは真実を独創的に実証することである。

ストーリーとはアイデアの正しさを伝える生きた証拠であり、アイデアを行動へと具体化したものだ。

ストーリーの中で出来事を構成することによって、まずアイデアを表現し、それから証明するが、説明をしてはいけない。』


ストーリーの「真実」とは、後で出てきますが、簡単に言えば「フィクションだけど嘘くさくない」「こんな人いるいる」みたいな感じかと理解しています。


『マーケティングで観客を映画館に呼べても、一旦上映が始まったら、最後まで興味を持って見続けるだけの動機を与えなくてはならない。

ずっと観客を引きつけて離さず、クライマックスでそれに報いるわけだ。

人間の本質の両側面(知性と感情)に訴える作品でなければ、これはほぼ不可能である。

「好奇心」とは、疑問に対する答えを知り、未解決のものを解決したいという知的欲求だ。

ストーリーは疑問を提起して状況を展開させることで、この普遍的な欲求に働きかける。転換点ごとに観客は好奇心をそそられる。

そして主人公が大きな危険に晒されると、こう考える。「次に何が起こるのだろう。その後は?」と。

何よりも知りたいのは「最後はどうなるのか」ということだ。

答えは最終幕のクライマックスまで明かされないので、観客は好奇心から席に座り続ける。

結末を知りたいというだけの理由で、つまらない映画を最後まで観た経験は誰にもあるだろう。』


先ほどの「感情的体験」と「知的欲求」を同時に満たすと、より満足してもらえるそうです。


『観客はこう祈りながら映画館へ足を運ぶ。

「どうぞいい映画でありますように。新たな体験ができて、これまで知らなかった物の見方が身につきますように。

 面白いと思ったことのないもので笑わせてください。

 これまで心を動かされた事のないものに感動させてください。

 世界を新しい目で見せてください」

つまるところ、観客は予想が裏切られる驚きを求めている。

脚本家は観客を驚かせなくてはならない。

驚きには二種類ある。安っぽい驚きと真の驚きだ。

真の驚きは、予想と結果のギャップが突然明かされることで生まれる。

これが「真」だと言えるのは、作中世界の奥に隠されていた真実が明るみに出て、深みのある体験がもたらされるからだ。

安っぽい驚きは、観客の弱い立場につけこんだものである。

暗い映画館で観客は脚本家の手に感情を委ねている。予想もつかないものをいきなり見せたり、ずっと続くと思えたものを中断したりして、観客を驚かすのは簡単だ。

観客の熱意には、誠実で洞察に満ちた答えで報いなくてはならない。浅ましいトリック、安っぽい驚き、偽物のミステリーは禁物だ。

安物のミステリーとは、事実を不自然に隠すことで生まれる見せかけの好奇心である。

しておくべきだった明瞭化を後回しにして、劇的な含みのないシーンで長々と興味を引きつけておこうというやり方だ。』


「予想を裏切る」でも、トリックなどではなく、観客の予想を超えるようなもののほうがいいでしょうね。できれば。


『観客が感情移入できるかどうかを決める原理は二つある。

第一は共感で、我々は主人公に同化することでストーリーに引き込まれ、自分の人生の欲求を重ね合わせて応援する。

第二は信憑性だ。つまるところ、我々は信じなくてはならない。あるいは自ら不信感を一次停止しなくてはならない。

作家は観客を引き込んだら、終わりまで逃がさない義務がある。そのためにはストーリーの世界に信憑性があると思わせなくてはならない。

観客はストーリーテリングが人生の隠喩をめぐる儀式だと思っている。その儀式を満喫するために、あたかも現実であるかのように受け止める。

皮肉な態度を引っ込めて信憑性があるかぎり架空の物語を受け入れるが、信憑性が失われた瞬間、共感が消えて何も感じなくなる。

信憑性とは内的に一貫している世界のことで、その範囲も深さも細部に至るまで自らに忠実であるということだ。』


「皮肉な態度を引っ込める」が難しそう。読者へ真摯に向き合う、とかでしょうか。


『だれが書いたどんな物語も、観客に「人生とはこういうものだと私は信じている」と語りかけている。どの瞬間にも作者の熱い信念が詰まっているべきで、そうでなければ嘘くさくなる。』


『すべての脚本家は、ストーリーと人生の関係を理解しなくてはならない。ストーリーは人生の隠喩である。

ストーリーテラーは人生の詩人、つまり、日々の暮らしを、人生の内側と外側を、夢と現実を詩に変える芸術家だ。

その作品は、言葉ではなく出来事を組み立てて生み出され、「人生とはこんなものだ」と二時間で語る隠喩である。

ストーリーは人生に似たものであるべきだが、現実をそのままなぞるだけでは、何の深みも意味も無く、だれにとってもありきたりのことでしかない。

ストーリーは現実の人生ではない。出来事を並べても真実に近づくことはできない。出来事はただの事実であって、真実ではない。

真実とは、その出来事をどう解釈するかにほかならない。』


「真実」について。嘘くさくない解釈をして読者に提示しないと、共感されず、面白いと思ってもらえない。


『革新的な脚本家は、現代だけでなく、将来を見通す力を持つ。

約束事を打破する作品を生み出し、そのジャンルを次の世代へと繋げていく。

最高の脚本家は、将来を見通し、時代を超えた傑作を生み出すことができる。

どのジャンルでも、愛と憎しみ、戦争と平和、正義と不正、成功と失敗、善と悪など、人間にとっての重大な価値要素が扱われている。

その一つ一つが永遠のテーマであり、この世にストーリーが誕生してから数々の古典の傑作が書かれてきた。

こうした価値要素は折に触れて変更を加え、現代の観客のために新鮮で意味のあるものにする必要がある。だが、優れた古典傑作は常に新鮮で色あせることはない。

それらは年月を経ても新たに解釈することができ、見直して飽きることがない。真実と人間性が詰まっていて、どんな世代でもストーリーにわが身を重ね合わせられるからだ。』


歴史に残る傑作を書くくらいの意気込み。「真実」を突き詰めれば、人種や歴史を超える面白いものを作れるらしい。


『・美的感情

思考を常に働かせることで、感情的な経験に対する準備が整う。その経験は新しい感覚への刺激となり、さらに新しい出会いによって化学反応が起こる。

実際の人生においては、両者が融合する瞬間はどほとんど無く、あるとしたら神秘的体験とさえ感じられるだろう。

ストーリーは、こうした神秘の瞬間を意のままに作り出すことができる。この現象は「美的感情」と呼ばれる。

あらゆる芸術は、人類が言語を持つ前の原始的な心の要求に端を発している。

それは、美と調和によって緊張や不和を解決したい、創造力によって単調な日々に輝きを与えたい、真実に対する本能的な感覚で現実とつながりたい、という願いだ。

優れたストーリーは人生からは得られないものを与えてくれる。それは意味のある感情的経験である。

単に感情的なだけの作品も、単に知性的なだけの作品も、共感、感情移入、予感、洞察といった我々の繊細な能力、持って生まれた真実を感じ取る心、に訴えることはできない。』


「観客の期待」とは「面白いの見たい・読みたい」は表層的なもので、無意識ではこんなことを考えてる、という。無意識的な期待にまで応えられたら、更に面白いということか。


『我々がストーリーを求めるのは、単に知的充足を欲しているからではなく、さまざまな生き方のパターンを極めて個人的、感情的な体験として習得したいと強く感じているからだ。

劇作家のジャン・アヌイの言葉を借りれば「フィクションは人生に形を与える」のである。

エンターテイメントとは、知性と感情が満たされる結末まで、ストーリーという儀式にどっぷりと浸らせることだ。

映画の観客にとってのエンターテイメントとは、暗闇に座ってスクリーンに集中し、ストーリーが意味するものを体験する儀式である。

良質の映画、小説、演劇は、感情的な意味を際立たせた人生の新たなモデルを示し、喜劇や悲劇のさまざまな色合いを通して我々を楽しませてくれる。

どんな観客も映画館の入り口で悩みを捨て、現実から逃避するものだという考えに甘んじるのは、芸術家としての責任を放棄した臆病な受け止め方だ。

ストーリーは現実逃避ではなく、人が現実を探し求め、無秩序な人生に意味を見出すための手段である。』


現実逃避、気晴らし、暇つぶしになればエンタメでしょ、では志が低い、と。


・ジャンルについて


『上質な脚本なら、最初の閃きから最終稿を仕上げるまで、六ヶ月、九ヶ月、一年、あるいはもっとかかる。

一本の映画の世界観、登場人物、ストーリーを作り出すために必要な労力は、四百ページの小説にも劣らない。大きな違いは、語るのに必要な言葉の数だけだ。

脚本では言葉を最小限にまで切り詰めるために、大変な労力と時間がかかるので、自由にページを埋められる小説の方がむしろ簡単で、早く仕上がることすらある。

書くことはすべて試練を伴うものだが、脚本ほど厳しいものはない。だから自分自身に問いかけてもらいたい。何ヶ月にも渡って情熱を燃やせるのは、何のためだろうか、と。

一般に、偉大な作家は多くのものに手を出さず、一つの主題にしっかりと全力を傾ける。

それは己の情熱に火をつけるただ一つのテーマであり、生涯をかけて様々に形を変えて追い求めるテーマだ。

作品が完成に至る遙か前に、自己愛が消え去り、アイデアへの愛着も朽ち果てることがある。自分自身や自分の考えについて書くのに疲れ果て、ゴールにたどり着けなくなってしまう。

だからこそ、自分の好きなジャンルはなんだろうかと改めて自問しよう。そして、好きなジャンルで書くのだ。』


許されるならいろんなジャンルを書いてみたいけど、今は一つに集中すべきでしょう。


『ジャンルは常に発想を取り戻すための出発点でなくてはならない。

ジャンルに精通することによって、これまでの型を豊かで独創的に発展させたものを提示し、観客が望むものを、そして高い技術があれば、観客が想像すらしなかったものを見せることができる。

ジャンルの約束事は創作上の制約であるが、これがあることによって作家の想像力は壁を乗り越えることができる。

ジャンルの約束事こそ、豊かなアイデアを実らせる土台である。

脚本家は自分の書くジャンルとその約束事を尊重し、それに精通する必要がある。

そのジャンルの映画を多く見たからといって、知っていることにはならない。

まず形式を学ばなくてはならない。

観客はこうした約束事を承知し、約束通りの展開を予想している。

それゆえ、ジャンルを選ぶことによって、ストーリーの中でできることの限界がはっきり見える。

観客の知識と期待を見越した上でストーリーを設計しなくてはならないからだ。

研究者たちが定義やシステムについて議論を戦わせる一方で、観客はすでにジャンルについて熟知している。

これまで見てきた映画から学んだ予測を複雑に組み合わせ、準備を整えて映画館に入るのが普通だ。

映画ファンがジャンルに精通していることは、脚本家にとって大きな試練となる。

観客の期待に応えられなければ混乱や失望をもたらし、予想外の斬新な結末まで導かなければ退屈させてしまう。』


読者は「そのジャンルに精通している」という厳しいお言葉。その予想の上を行けるのか?


『観客が予想していることを予想するためには、自分のジャンルとその約束事に精通しなくてはならない。

映画の宣伝がしっかりなされていれば、観客は期待を胸に劇場へやってくる。

マーケティング業界で言う「ポジショニング」が行われた訳だ。

観客が何の思い入れも期待も持たず、ぼんやりと作品を見に来るのでは困る。鑑賞にあたっての予備知識の説明に最初の二十分を費やすことになる。

観客には、こちらの狙い通りの期待感を持って着席してもらいたい。

シェイクスピアは「ハムレット」ではなく「デンマークの王子 ハムレットの悲劇」とした。喜劇には「空騒ぎ」や「終わりよければすべてよし」と題名をつけた。

午後のグローブ座へ向かうエリザベス朝の観客たちは、泣くか笑うかの心づもりができていたのだ。

巧みなマーケティングはジャンルへの期待を生み出す。

好きなタイプの映画を期待してやってきた観客には、期待通りのものを見せなくてはいけない。

約束事を省略したり誤用したりでジャンルを軽んじると、観客はすぐに察知して作品を酷評する。』


マーケティングも大事だし、マーケティングによって観客・読者もジャンルごとに期待するものが前もって準備できる。その上で予想の上を行けたら。


『長年にわたる演技や演出を通して、わたしは夜ごと、観客とその反応力に畏敬の念を抱いてきた。

映画を観ていると、スクリーンに映っている物事をじれったく感じることはないだろうか。

あるいは、登場人物が実際に動くよりも先に何をするか予想がついたり、かなり前に結末がわかったりしないだろうか。

観客はただ頭が良いどころか、ほとんどの映画よりも賢明だが、スクリーンの向こうの作り手側へ移動しても、その事実は変わらない。

脚本家にできるのは、自分が習得した技巧を余すことなく使い、集中した観客の鋭い知覚の一歩先を行くことだけだ。

観客の反応や期待を理解していなければ、どんな映画も成功させることができない。ストーリーは書き手の思いを表現しつつ、観客の望みを満たすことも考えて書かなくてはならない。

ストーリー設計において、観客はほかのどの要素にも劣らない重みを持つ。観客がいなければ、創作そのものが意味を持たない。』


『ストーリーは観客がそれ以上のものを思いつけない決定的な結末を作り上げなくてはならない。

映画が終わって館外へ出た観客がストーリーを書き換えたくなるようではまずい。

エンディングの前か後ろにこんなシーンがあるべきだったと思いながら出口へ向かうことは映画ファンにとって幸福なことではない。

脚本家は観客より優れた書き手であるべきで、観客は極限ギリギリまで連れて行ってもらうことを願っている。全ての疑問が解消され、全ての感情が満たされて、おしまいとなることを。』


読者のことを考えないといけないし、リスペクトしないといけませんね。


『昨今の映画ファンは、あなたの作品を見るまでに、すでに何万時間も費やしてテレビや映画、小説や演劇に親しんでいる。

誰も見たことが無いものをどう作り出せばいいのか。真に独創性のあるストーリーはどこにあるのか。クリシェとの闘いにどう勝つのか。

観客が不満を持つとき、根底にあるのはクリシェである。

はじめから分かりきっていた結末にうんざりしつつ、本を閉じたり劇場から出たりするのは珍しくない。

幾度となく目にしてきた陳腐な場面や登場人物には辟易する。

全てのクリシェの源をたどれば、ただ一つのことに行き当たる。作り手が自分のストーリーの世界を理解していないのだ。

その手の脚本家は、設定を決めたあと、実際には知りもしない自分の架空世界を知っているものと思い込んで執筆に取りかかる。

題材を求めて考えを巡らせても、何も見つからない。そこで頼るものは何か。同じような設定を持つ映画やテレビ、小説や演劇だ。

他の作家の作品から、見たことがあるシーンを盗み、聞いたことがある台詞を言い換え、登場したことがある人物の外見を変えて、自分の作品として売り出す。

そんなことをするのは、才能のあるなしに関わらず、自分のストーリーの設定と、そこに登場する全てに対する理解が足りないからだ。

自分のストーリーの世界を知って、深く考えを巡らすことこそ、独創性に富んだ優れたストーリーを書くための基礎である。』


クリシェとは、ありきたりなもの、みたいな意味らしいです。予想したとおりの結末だと面白くないという。


『ストーリーテリングが巧みな脚本は、たいがい想起させるイメージが鮮やかで、台詞の切れ味もいい。

一方、話が展開しない、動機が嘘くさい、登場人物が多すぎる、サブテクストが空っぽ、矛盾が見られるなど、ストーリーに欠陥があれば、味気なくつまらない脚本になる。

つまり、文才だけでは不十分だ。ストーリーを語ることができなければ、何ヶ月もかけて美しいイメージや巧妙な台詞を完成させても、すべて紙の無駄となる。』


面白いストーリーが書けるのも文才って言いそうですが、読みやすくてシンプルな文体には憧れます。


『我々が世界のために作り出すもの、世界が我々に求めるものはストーリーだ。それは今もこれからも変わらない。

何の面白みもないストーリーを、凝った台詞やていねいに作り込んだト書きでゴテゴテと飾りたて、なぜ自分の脚本が日の目を見ないのかと首をかしげる脚本家が跡を絶たない一方で、

目立った文才があるわけでもないのに、強烈なストーリーテリングの力を持ち、自分の夢がスクリーンの中で息づくのを見て深い喜びを味わう脚本家もいる。

脚本に注がれる創造的努力のうち、七十五パーセント以上はストーリー設計に費やされる。

登場人物はどんな人間で、何を求めているか。それはなぜなのか。どうやってそれを手に入れようとしているのか。それを阻むものは何か。その結果、どうなるのか。

こうした大きな疑問に対する答えを見つけ、ストーリーに仕立て上げるのは気の遠くなるような創造的作業だが、脚本家にはまさにそれが求められる。

ストーリー設計において、脚本家は成熟度、洞察力、さらには社会や自然や人間心理についての知識を試される。

ストーリーを作るには、生き生きとした想像力と力強い分析的思考が必要だ。』


「登場人物はどんな人間で、何を求めているか。それはなぜなのか。どうやってそれを手に入れようとしているのか。それを阻むものは何か。その結果、どうなるのか」のところ、

さりげないところほど、普段から考えている重要なことをサラッと要約する現象ってありますよね。


『我々が映画を観るのは、

・新しい魅力的な世界に入り込み、最初は自分とかけ離れて見えても、根底では似通った、別の人間の生き方を重ね合わせるため

・架空の世界の体験によって日常の現実を浮き彫りにするため

我々は人生から逃避したいのではなく、人生を発見し、斬新で実験的な方法で頭を使い、感情をうまく解放し、楽しみ、学び、日々に深みを与えたいと思っている。

私が本書「ストーリー」を書いたのは、元型的な力と美を具えた映画を数多く生み出して、二つの喜びでこの世界を満たすためである。』


読み終わった後で、その後の日々に深みを与えられたら、期待に応えるってレベルを超えたものになるでしょう。


『何が売れて何が売れないのか、何が大当たりして何が大失敗になるのかは、誰も教えることができない。そんなことは誰にも分からないからだ。

売れるかどうかで頭を悩ますのではなく、そのエネルギーを優れた作品の創作につぎこむべきだ。

才気あふれる独創的な脚本を見せることができれば、エージェントはこぞって契約しようとするだろう。』


つまり、この本の内容を極めても、売れるかどうかは分からない、と。


『才能ある脚本家の作品が不出来であるとき、原因はふたつのうちどちらかであることが多い。

自分の力を証明しなければと思いつめているか、表現したい気持ちが強すぎるかだ。

一方、才能ある脚本家の作品の出来が良いのは、観客の心を動かしたい思いが原動力となっている場合が多い。

良質のストーリーさえ書ければ、脚本家にとっては、過去も未来も、つねに売り手市場だ。

全米で書かれる脚本の数はおそらく年に何十万本にものぼるだろうが、良質なものはごくわずかだ。

理由はいろいろあるが、一番大きいのは、昨今の脚本家志望者が、技巧を学びもせずに、いきなり書き始めることだ。

すぐれた脚本を書くのは交響曲の作曲と同じくらい難しいが、それを分かっていない書き手があまりにも多い。ある意味ではシナリオの方が難しいとも言える。

作曲家が純粋に数学的な音符を使って楽譜を書くのに対し、脚本家は人間性というとらえどころのないものと向き合わなくてはならないからだ。

未熟な脚本家は経験だけを頼りに先を急ぐ。

鍵となるのは自己認識、人生経験そのものに加えて、人生に対するさまざまな反応を深く考察する力、である。

未熟な脚本家が技巧と思い込んでいるものは、それまでに出会った小説や映画や演劇から知らず識らず吸収したストーリーの諸要素にすぎない。

訓練を受けていない書き手はそれを「直感」と呼ぶが、実は単なる癖でしかなく、むしろ大きな妨げになっている。』


技巧も学んで、人間性にも向き合って、大変ですね、脚本家さんは。


『上質のストーリーとは、世界中が耳を傾けたいと思うような、語るに足るものを言う。それを見つけるのは孤独な仕事だ。

まず才能がなくてはならない。誰も思いつかない形で物事をまとめ上げる創造力を、生まれながらに具えている必要がある。

目指すべきなのは、上質のストーリーを「巧みに語る」ことだ。

技巧というものは、観客を深く引き込んで離さず、つまるところ、感動や意義深い経験を提供するためのさまざまな手法の総和である。

技巧を持たない脚本家にできるのは、せいぜい最初に浮かんだアイデアを頭から引っ張り出すくらいで、あとは自分の作品を前に、なすすべもなく坐して、恐ろしい問いかけを自らにぶつける。

「これは良い作品なのか? それともクズなのか? クズだとしたら、どうすればいい?」

この恐ろしい自問に取りつかれると、意識が潜在意識を封じこめる。

けれども、技巧の実践という客観的な作業へ意識を向けておけば、自発性が自ずと浮かび上がる。技巧を習得することで、潜在意識が解き放たれるわけだ。

芸術家は決して衝動に任せて創作したりしない。意図的に技巧を用いて、直感とアイデアの調和を生み出すのである。

直感型の天才なら、一度くらいは良質な作品を書けるかもしれない。だが、訓練を受けていない直感だけの書き手は、完成された作品を続々と生み出すことはできない。』


「まず才能がなくてはならない」だけ切り取ると身も蓋もないですが、後でフォローはありますよね。


『文才とストーリーの才能は全く別物であるばかりか、互いの関連も無い。

文才が用いる素材は言葉だが、ストーリーテリングの才能が用いる素材は人生そのものだ。

ストーリーテリングの達人は些細な題材から人生をすくい取るが、下手な語り手は深遠な題材を陳腐なものにする。

つまり最も重要なのはストーリーの才能で、文才は不可欠ではあるが二番目だ。

これは映画やテレビの絶対原則であり、劇作家や小説家は認めたがらないだろうが、演劇や小説もしかりである。

ストーリーの才能は希有のものだが、あなたにもその片鱗はあるはずだ。そうでなければ、書きたいなどと思うはずが無い。

ならば、そこからありったけの創造力を絞り出して書くことだ。

ストーリーテリングの技巧についての知識を総動員しなければ、ストーリーを作ることはできない。』


あなたにも片鱗はあるはず、というフォローです。


・テーマについて。

『真のテーマは一つの単語ではなく、文で表される。明快で整然として、ストーリーの意図を余すところなく伝える文である。

私はこれを「統制概念」と呼んでいる。テーマと同様に、ストーリーの原点や中核概念を伝え、その役割を示すものだ。

一つの明快な考えに基づいてうまく作品を構築すると、観客はその作品から多くの意味を見いだし、その考えを自分の人生に採り入れてあらゆる側面に結びつける。

逆に、一つのストーリーに多くの概念を詰め込みすぎると、内部爆発が起こって、でたらめな考えが散らばり、何も伝わらなくなる。

統制概念は一つの文で表現できるものであり、冒頭の状況から最後の状況へ、人生がどんな理由でどのように変化するかを表す。

ストーリーを結末から冒頭へと逆にたどっていくと、登場人物の奥深いところに、その価値要素が存在するに至った原因を見つけることができる。

内容に富んだストーリーでは主人公がなぜその価値要素を持つに至ったか、その原因も描かれているはずだ。』


「あらすじ」と言わずに「統制概念」って言うとかっこいいかも。


『ストーリーの結末を見て考えてみよう。クライマックスの行動によって主人公にもたらされる価値要素はプラスorマイナスだろうか。

次に、このクライマックスからストーリーを逆にたどって深く掘り下げよう。この価値要素を主人公にもたらしたのはどんな原因だっただろうか。

この二つの問いの答えとなる一文が統制概念だ。

言い換えれば、ストーリーがあなたに意味を教えるわけだ。あなたがストーリーの意味を決めるのではない。

考えから行動を引き出すのではなく。行動から考えを引き出すのである。』


一通り、プロットが組み上がって、クライマックスを逆からたどって、初めてあらすじが書けるし、テーマも見つかる、という。


『ビートシートとは、ストーリーをステップに分けて書いたものである。

各シーンで何が起こり、どう進展していくのかを一行から二行で簡潔に記す。

カードの裏には、そのシーンがストーリーの中で(少なくとも現時点で)、どんな役割を果たすためのものかを書く。

契機事件の引き金となるシーンはどれか。契機事件となるものは。第一幕のクライマックスは。第二幕、第三幕は。その先は。

美的感覚とこれまでの経験から、たとえ才能があっても、自分か書くものの九十パーセントはよく言っても平凡だとわかっている。

質の高い作品をひたすら追求する中で、使い切れないほどの題材を作り出しては壊していく。一つの場面を十通り以上は考えた上で、あらすじからその場面そのものを外すこともある。

一つのシークエンスや、一幕全てを没にすることもある。

自分の才能を信じている脚本家は、創造性が尽きることはないと知っているので、きらめき宝石のようなストーリーを書けるまで、自分のベストと思えるもの以外は全てゴミ箱行きにする。

あらゆる調査と想像力の産物で整理棚が埋まり、ストーリーがビートシートにまとめられていく。

そして、何週間か何ヶ月か経ったころ、ストーリー・クライマックスを思いつく。そらをもとに、エンディングから逆に辿って修正していく。こうしてストーリーが形を成す。』


単語カードなんかにシーンのアイデアを書いて、並べ替えたりして構成する手法は聞いたことあります。


『そこで、この大切な段階で自分のストーリーを語って聞かせ、テンポよくストーリーが展開するかどうか、他の人間の思考や感情にどう働きかけるかを見る。

相手の目に浮かぶ表情から、ストーリーの効力を読み取るのだ。こうして、ストーリーを聞かせながら反応を見ていく。

自分か作り出した契機事件に引き付けられたか。ストーリーに耳を傾けて、その世界に引き込まれているか。目は落ち着いているか。

ストーリーの展開についてきているか。そして、クライマックスで思い通りの強い反応を引き出せたか。

ビートシートをもとに語ったストーリーは、知的で感受性が豊かな人間の関心を引き、十分間のあいだ心を捉えて、有意義で感動的な体験をもたらすようでなくてはならない。

ジャンルに関わらず、十分で人の心を掴むことができないストーリーが百分で上手くいくだろうか。長くなれば上手くいくというものではない。

十分間で上手くいかないものは、映画になったら十倍悪くなる。

ストーリーを聞かせた相手の大半から熱狂的な反応が返らなければ、先へ進む意味はない。

「熱狂的な反応」といっても踊り上がるわけではない。むしろ、小さく感嘆の声をあげて、黙り込むはずだ。

優れた芸術作品(音楽、舞踏、絵画、ストーリー)は波立つ心を静め、異次元へと我々を誘う。

ビートシートから語ったストーリーが強い力を持ち、聞いた者が黙するようなら(意見も批判もなく、喜びの表情だけなら)それほど素晴らしいことはない。

そこまでの力がないストーリーなら、それ以上は時間の無駄だ。』


あらすじを知人に語って聞かせて、知人が黙り込んだら成功。アウトラインを文章化しましょう。ってハードル高いな。


・タイトルについて

『映画のタイトルはマーケティングの主眼となるもので、行く手に待ち受ける体験に備えて、観客を「位置付ける」ものだ。

だから脚本家は、商業的成功など気にかけない高尚な題名をつけるわけにはいかない。

タイトルをつけるのは、まさしく命名することだ。

効果的なタイトルは、ストーリーの中に実際にある強固なもの(登場人物、設定、テーマ、ジャンル)を示している。

傑出したタイトルは、これらの要素のうち、二つ以上を同時に言い表していることが多い。

「ジョーズ」:自然界が舞台、人間対自然がテーマ、ジャンルがアクション/冒険

「ベスト・フレンズ・ウェディング」:登場人物と設定、恋愛コメディ 』


タイトルからも観客の期待を引き出さないといけないですね。


①の項目が長くなってしまいましたが、それだけ重要なんでしょう。

ここで、観客の期待についてレベルごとにまとめてみました。もっと細かくてもいいかもしれない。


期待させるものがない(予想する材料不足、共感不足)

期待に応えてない (自己アピールに必死)

期待に応えているが予想通りの結末(アイデアを詰めてない、ご都合主義)

予想外かつ他は考えられない結末(満足)

かつ感情的にも満たされる(感動)

かつ人生への洞察を得られる(人生変わったわ)



② 序盤で期待、予想させるものを提示→「最後はどうなるのか気になって一気に読んでしまった!」


『何よりも知りたいのは「最後はどうなるのか」ということだ。』

って先ほどロバートマッキー仰ってました。

逆に言えば、最後がどうなるのかに興味がないものは、途中で読むのをやめてしまいます。感想は「なんかつまんないから他のことしよう」でしょう。


・「契機事件」について

『ストーリー設計には五つの要素がある。

契機事件インサイティング・インシデント

段階的な混乱

重大局面

クライマックス

解決 』


ハリウッド的な脚本術では色々な言い方があるでしょう。カタカナ英語で言うとかっこいいかも。


『作中での最初の重要な出来事は「契機事件インサイティング・インシデント」と呼ばれる。

その後に起こるあらゆる出来事の発端となり、他の四要素を始動させるものだ。』


冒頭からずっと世界設定とかの説明が続くと「何も起きてない! これって何の話?」となって、本を閉じて他のことをします。


『幕の構成には無限のバリエーションがあるので、まずは三幕構成から解説し、その後でいくつか紹介しよう。

第一幕には最初の大きな動きがあり、ストーリーの約二十五パーセントが割り当てられる。

最終幕は他よりも短いのが望ましい。クライマックスへ至る加速感や一気の高揚感を観客が体験できるのが理想だ。ここを引き延ばそうとすると間違いなく途中で加速のペースが落ちる。

最終幕は短く、二十分以下(十七パーセント以下)が一般的だ。

百二十分で、メインプロットの契機事件を開始一分、第一幕のクライマックスを三十分後に置き、第三幕に十八分、解決に二分を割り当てるとする。結果、第二幕は七十分となる。』


まず「契機事件」で読者を掴まないと、その後の長い「第二幕」以降を読んでもらえないことになります。


『契機事件が発生するとき、それは力強くて十分に作り込まれた出来事でなくてはならず、変化のない曖昧なものでは駄目だ。

契機事件は主人公の人生の均衡を大きく崩す。

主人公はストーリーの開始時には概ね均衡の取れた人生を送っている。成功も失敗もあり、好調も不調もある。人生はまずまず上手くいっている。

そして恐らく唐突に、だが必ず今後を左右する出来事が起こって、人生の均衡が激しく崩れ、主人公にとっての現実の価値要素がプラスかマイナスのどちらかに傾くことになる。

人生の均衡に突然プラスがマイナスの変化が生じると、主人公は自分の性格や作中世界に見合った形でそれに応じる。

誰でも自分の人生の主導権を握りたいはずであり、何かの出来事によって安定と自制の感覚を激しく揺さぶられたら、何を求めるかは決まっている。

人生の均衡を取り戻すことだ。

契機事件はまず主人公の人生を揺るがし、均衡を取り戻そうという欲求を起こさせる。

その思いから、(迅速に、またはゆっくりと)主人公は欲求の対象を思いつく。

欲求の対象とは、人生という船を水平に保つために必要または不足していると思われるもので、物質の場合・状況の場合・考え方の場合、などがあり得る。』


ここ大事! 主人公の人生の均衡が大きく崩されるのを「契機事件」という。以降、主人公は均衡を取り戻そうと能動的に行動を起こすことになります。

そうでないなら「何も事件が起きてないわ」と、読むのをやめてしまいます。


『契機事件は主人公を駆り立てて、この欲求の対象や目標へ突き進ませる。大抵のストーリーやジャンルはそれで十分だ。

我々が最も強く惹かれるのは、契機事件によって、意識的な欲求だけでなく無意識的な欲求も起こす主人公だ。

二つの欲求が真っ向からぶつかり合うため、主人公は内面で繰り広げられる激しい闘いに苦悩することになる。

意識して何を求めていようと、心の奥底では正反対のものを求めていることを観客は察知する。』


観客の無意識の期待に応えるため、人間性の真実まで突き詰めようとすると、内面的な葛藤を描かないといけません。しかも、さりげなく。


『全てのストーリーは探求の形を取る。

出来事により人生の均衡が(良いor悪い)傾くと、元へ戻したいという意識的欲求や無意識的欲求が生じ、敵対する力(内的・個人的・非個人的)に抗って欲求の対象を追う探求を始める。

達成できるかどうかは分からない。

これがストーリーの中核となる。

自分が書くストーリーの探求の形を理解するためには、主人公の欲求の対象を見極めるといい。』


「達成できるのか、最後はどうなるのか知りたい!」と思わせれば、最後まで読んでもらえるでしょう。


『メインプロットの契機事件については観客が実際に目にすることがストーリー設計で不可欠だ。

その理由は二つある。

第一に、契機事件を体験すると「これからどんな展開になる?」という大きな疑問が観客の心に湧き起こる。

ハリウッドの俗語では、メインプロットの契機事件は「つかみ」と呼ばれる。これがスクリーン上で起こらなくてはいけないのは、これこそが観客の好奇心を捕らえて刺激するからだ。

大きな疑問の答えを知りたいと思わせて、観客の関心を引きつけ、最終幕のクライマックスまで引っ張るわけだ。』


契機事件からクライマックスまで、一括りで設計する必要があります。


『第二に、契機事件を目撃することによって、観客の頭に「重大局面」のイメージが浮かび上がる。

重大局面とは、ストーリーが終わる前に観客が必ず見なくてはいけないと自覚しているシーンを指す。

探求を続けた主人公は、そのシーンに及んで、最強の敵対する力(契機事件をきっかけに生まれ、勢いや規模を大きくした力)と対峙することになる。

その瞬間を待ちわびるように仕向けた脚本家は、期待に応えてそれを見せなくてはならない。

緊迫した状況で主人公が選択とアクションに及ぶ決定的な出来事・重大局面と最終幕のクライマックスによって描かれる必要がある。

観客は重大局面が待ち受けていることを自覚しているが、それを淡々と確認しようとまではしない。

重大局面の扱いをしくじっても「お粗末な映画だ。重大局面がなかったじゃないか」と思いながら席を立つわけではない。

観客は何かが足りないと直観的に悟るのだ。

ストーリーの約束事を見聞きした経験則から、契機事件によって敵対する力が引き起こされ、人間の経験の限界まで至ること、最大化した力と主人公が対峙して物語が終わることを知っている。

契機事件と重大局面を結びつけることは、伏線を張ること、つまり後の展開に備えていくつかの出来事を配することの一環である。

作家の選択は(ジャンル、設定、登場人物、ムード)全て伏線だと言える。台詞、アクションによって観客にいくつかの予想を促していく。

その出来事が起こると、観客はある意味で作家の計算通りに満足する。

だが、伏線の最も大事な役割は、契機事件によって重大局面のイメージを観客に描かせることだ。


「重大局面」とは、ストーリーの五つの要素の中で、クライマックスの前に位置する物で、後で「究極の選択」として出てきます。

契機事件は「重大局面」から「クライマックス」へのつかみとして機能しないといけない。


『・契機事件の配置

だいたいの目安で言うと、メインプロットの最初の大きな出来事は、話が始まってから四分の一までに起こる。

四百ページの小説があったとき、最初の百ページまでなら、メインプロットが何だか分からないまま読者に読んでもらえるだろうか。』


反語表現でしょうか。何の話か分からないままで、本を四分の一まで読んでもらえるでしょうか。


『メインプロットの契機事件が十五分よりかなり後に来ると、退屈になる危険が大きい。そのため、観客の関心を引くサブプロットが必要となる。

なぜ先にサブプロットを見せて、メインプロットが始まるまで観客を三十分待たせるのだろうか。

(「ロッキー」の例、「ヘビー級チャンピオンが無名ボクサーに対戦する機会を与える」(伏線)、「ロッキーが誘いに乗る」(落ち)

 もし最初に目にする出来事が契機事件だとしたら、観客は肩をすくめ「それがどうした」としか感じない。

 最初の三十分を使ってロッキーの人柄や取り巻く世界を効率よく描写し、ロッキーが試合に応じたときに「え? あの負け犬が?」という強烈な反応が起こるようにしたのだ。

 観客は驚き、叩きのめされる敗北が待ち受けているのではないかと恐れるようになる。』


ロッキーの例(見たことないけど)では、先にサブプロットを導入して、主人公がどんなキャラか見せた後で、メインの契機事件をぶっ込むという。よさげじゃん。


『メインプロットの契機事件は、なるべく早く導入するのがいい。ただし、機が熟してからだ。

契機事件は観客の心を掴んで、十分に強い反応を得なくてはならない。その反応は合理的なものであるべきだ。

また、感情に訴えるだけでなく、先々の展開への大きな疑問を呼び起こし、重大局面のイメージを引き起こさなくてはならない。

メインプロットの契機事件をどこに置くべきかは、「観客が十分に反応するためには、主人公と世界についてどの程度まで知る必要があるか」と自問すると答えが出る。』


逆に言うと、キャラや世界設定の紹介が不十分な状況でいきなり契機事件をぶっ込まれても、観客は「だから何?」となります。


『契機事件が人類普遍の元型的なものなら、伏線を張る必要は無く、すぐに描くべきだ。

誰の人生に起こっても強い衝撃を与えることがすぐに分かるから、説明は不要だ。

「ジョーズ」では、サメが海水浴客を食らい、署長が死体を発見する。映画が始まるとすぐに二つのシーンが現れ、観客は瞬時に恐ろしさを理解する。

編集者「署長や家族や市長や市議会や観光客について観客が知るべきことは、サメの襲撃のリアクションですべて明らかになる。とにかく「ジョーズ」はサメから始まるんだ」

なるべく早く、ただし機が熟してから。』


出ました! ケースバイケース!


『どのストーリーも世界や登場人物が異なるので、契機事件の内容も配すべき位置も色々ある。

早すぎれば観客は混乱するし、遅すぎれば退屈するだろう。

観客が登場人物とその世界を十分に理解して、しっかり反応できるようになったその瞬間に契機事件を組み入れたい。

それより一シーン早くても遅くてもいけない。

正確なタイミングは、分析よりも感覚によって探し当てられる。

契機事件の配置についてよく犯す誤りは、メインプロットを遅らせ、冒頭のシークエンスに解説を詰め込んで明瞭化したがることだ。

作り手はしばしば観客の知識と人生経験を低く見積もるもので、登場人物と世界について、常識でまかえるような些細なことまで、ついくどくど説明してしまう。』


観客の洞察力をリスペクトして、説明的な描写は避け、なるべく早く具体的なアクションを起こしたいものです。


『契機事件(すべての出来事も)の性質は、その世界、登場人物、ジャンルと密接な関係がなくてはならない。

契機事件を思いついたら、脚本家はその働きをしっかりと考える必要がある。

・その契機事件によって主人公の人生の均衡が根本から崩れるだろうか。

・主人公は均衡を取り戻したいと思うだろうか。

・取り戻したいものが無形であれ有形であれ、それに対して主人公は意識的欲求を持つようになるだろうか。

・複雑な性格の主人公の場合、それと矛盾した無意識的欲求も芽生えるのだろうか。

・これを機に主人公は探求を始めるだろうか。

・観客の頭に大きな疑問は浮かぶだろうか。

・脳裏に重大局面が描かれるだろうか。

これらの問いの答えが全て得られるようなら、ごく些細な出来事も契機事件になり得る。』


契機事件のチェックリスト。クリアするのは難しそうです。


『アリストテレスによると、結末は「必然的かつ予想外」でなくてはならない。

必然的とは、契機事件が起こったときにはどんな展開も可能に思えるが、クライマックスで観客が物語を振り返るとき、この展開以外にあありえなかったと感じるという意味だ。

観客が登場人物とその世界を理解していれば、そのクライマックスは必然的で満足のいくものであるはずだ。

だが同時に、それは観客が予想もしなかった形で訪れなくてはならない。』


クライマックスから逆算しての契機事件ということでしょうか。


『クライマックスを創作することは難しい。クライマックスは物語の魂であり、うまく行かなければストーリー全体が失敗する。

その次に難しいのは、メインプロットの契機事件だ。

脚本家は他のどれよりも多くこのシーンを書き直す。

その手助けとするために、こんな問いかけをしたらどうだろうか。

主人公にとって、最悪の事態はどんなことか。また、それがどう変わると最高の結果で終わるのか。

あるいは反対に、主人公にとって最高の事態とはどんなことか。また、それがどうなると最悪の結果で終わるのか。

最高なのは何か、どうなると最悪になるのか。それがさらにどうなると主人公の救いとなるのか。

または、最悪なのは何か、どうなると最高になるのか。それだどのように主人公の破滅へ繋がるのか。

「最高」と「最悪」ばかりを目指すのは、ストーリーという芸術が中途半端な人生体験について語るものではないからだ。

契機事件の衝撃は、人生の極限へと達する機会を生み出す。それは一種の爆発だ。

直接的であれ控えめであれ、契機事件は主人公の現状をかき乱して、それまでの生き方を大きく変え、その人物の世界を混沌に陥らせるものであるべきだ。

そして脚本家は、クライマックスに及んで、よかれ悪しかれ、主人公の世界に新たな秩序をもたらす解決を見つけ出さなくてはならない。』


契機事件によって主人公は均衡を失い、最悪の状態になる。何を手に入れれば均衡が取り戻され、最高な状態になるか、主人公は自覚して行動を起こす、と。


『ストーリーは、例え無秩序を描くときでも、統一性を欠いてはならない。

どんなプロットにも「あの契機事件があったため、このクライマックスに至った」という論理の整合が不可欠だ。

例、ジョーズ、サメが遊泳者を襲ったため、警察署長がサメを退治することになった

契機事件とクライマックスの間には因果関係が感じられなくてはならない。

契機事件はストーリーの最も大きな動因であり、だからこそ、その最終結果であるストーリー・クライマックスは、必然と感じられるものであるべきだ。

この二つを結びつけるのはストーリーの脊柱、すなわち人生の均衡を取り戻したいという主人公の強い願いである。』


ここまで来ると「結末は決まってないけど思いつくままにダラダラ書いた」では、文字通り「お話にならない」っていうの分かります。

契機事件が「掴み」となって引き込む手法。

ざっと思い当たるだけで「名探偵コ○ン」「ベルセ○ク」「鋼の錬○術師」などなど。

「最後はどうなるのか? ハッピーエンドであってほしい! ただし予想を超えた展開で!」

○ナンなんて、黒の組織をやっつけて元の体に戻ってほしい、っていう期待はあるものの、予想以下の展開では納得いかないでしょう。

契機事件で人生の均衡が失われる、同時にクライマックスまで予想させる、ゆえに最後がどうなるのか確かめたい、徹夜してでも。


③ アイデアの調査(想像)、発展を極限まで→「どうしたらこんなアイデア思いつくの?」


『クリシェとの闘いに勝つための鍵は調査することである。

言い換えれば、知識を得るために時間と労力をかけることだ。

詳しく言うと、記憶の調査、創造力の調査、事実の調査がある。ほとんどの場合、ストーリーにはこの三つ全てが必要だ。』


「調査」と「取材」では印象が違います。「取材」だと外部からの情報というニュアンスが強いですね。


『・記憶(の調査)

「これまで自分が個人的に経験したことで、登場人物の人生と関わりがあるものはないだろうか」

書き記すまでは、分かっているかどうかすら分からないものだ。

調査とは白昼夢を見ることではない。自分の過去を探り、追体験して、書き記すことだ。

頭の中ではただの記憶だが、文章にすれば実用的な知識になる。

・創造力(の調査)

「登場人物の人生を自分が生きてみたら、どんな毎日になるだろうか」

想像がもたらすのは、一見無関係に見える人生の断片や、夢のかけらや、経験の切れ端だ。

活用できる想像も調査だと言える。

・事実(の調査)

(スランプに陥った場合)治療法が一つある。行き先は図書館だ。

書けなくなるのは、書くことが何もないからだ。才能が消え去った訳ではない。書くことがあれば、書き続けられるはずだ。

才能を殺すことはできないが、知識不足ゆえに昏睡させることはあり得る。

どんなに才能があっても、何も知らなければ書けない。才能は事実とアイディアで刺激してやる必要がある。』


「行き先は図書館だ」って言い切られるとシビれます。資料を当たっているうちにアイデアが降ってくるということはあるでしょう。


『調査をしよう。才能に題材を与えよう。調査を行えば、クリシェとの闘いに勝てるだけでなく、鬱状態を乗り越えることもできる。

事実を手堅く調査するうちに、その(知識の)範囲が世界規模へと広がっていく。急に見通しが開けるとともに、他の方法では得ることができなかった深い理解へと至るだろう。

記憶や想像や事実の調査を続けていくと、ある現象がよく起こる。いわく、登場人物が突然命を吹き込まれたように、自分の意思で道を選び、行動が転換点をもたらす。

そこからは変化し、進展し、また変化し、タイプを打つのももどかしいほど、堰を切ったようにストーリーが溢れ出すという。

作家達が陥りがちな愛すべき妄想だが、唐突にストーリーが形を成したように感じられるのは、主題に対する書き手の知識が飽和点に達したからだ。

作家は小さな宇宙の創造主となり、自然発生のようにストーリーが湧き出すことに驚くが、それは努力のたまものにほかならない。』


知識が飽和点に達して湧き出してくるのを待つか、白いワープロ画面をじっと見つめているか。どちらがストレスが強いでしょうか。


『注意すべきことがある。調査によって題材は得られるが、それは創造力の代わりにはならない。

出来事を作り出せなければ何の意味もない。ストーリーとは、単に集めた情報をつなぎ集めたものではなく、数々の出来事をうまく設計して意味のあるクライマックスへと観客を導くものだ。

調査をいつまでも引きずるのもよくない。自信が持てず、書斎に何年もこもって結局何も書けずに終わる人も多い。

調査とはあくまで創造力や発想という荒々しい獣の餌であり、それ自体が目的ではない。

創作と調査は交互に進めればいい。

新しいアイデアが種を蒔き、ストーリーと登場人物が育っていく。ストーリーが育つにつれ、新たな疑問が生じ、さらに調査が求められる。

創造と調査を必要に応じて行き来しながら、あれこれと回り道をした末に、ついにストーリーが完全な形となって生き生きとその姿を現す。』


情報だけ集めても駄目で、目的を持って調査・取材を行いたいものです。


『独創性とは、一つの問いに五つ、いや十か二十の答えを用意することだ。

独創性とは、独創的な取捨選択をすることである。

たいていの場合、ひらめきとは頭の中で一番上にあったものを摘み取っただけのもので、そこにあるのは、これまでに見てきた映画、読んだ小説から残っているクリシェにほかならない。

月曜日に惚れ込んだアイデアを、一晩寝て火曜日に読み返すと、他の作品で散々お目にかかったクリシェだと気づいてガッカリするのはそのせいだ。

真のひらめきとは、もっと奥深いところから出てくるものだ。想像力を解き放って実験してみよう。』


メモは取るべきで、かつ、いっぱい取るべきでしょう。その中から、奥深いところから出てきたものを探しましょう。


『リストにあるシーンを見直してみると、それぞれに捨てがたいが、心の奥底ではやはり最初の思いつきが一番だと思うこともある。

直感に従って、新たなリストに取りかかることだ。(アイデアを)十や二十は考えよう。

完成した脚本に、書き上げた全てのシーンが残っている場合、一つのアイデアも捨てなかった場合、台詞を少しいじった程度で書き直しを済ませた場合、そればほぼ間違いなく失敗作だ。

才能の有無に関わらず、自分が成すことの九十パーセントはベストに及ばないことを、我々は心の奥底で知っている。

優れた選択によって、その十パーセントを選んで残りを捨て去れば、全てのシーンが魅力あふれるものとなり、世界はあなたの前にひれ伏すだろう。

天才とは、力強いシーンやビートを作り出す力ではなく、陳腐なもの、こじつけたもの、調子外れのもの、偽りのものを排除できる審美眼と判断力と強い意志を持つ人間だ。』


いわゆる天才もありきたりなアイデアをたくさん思いついているが、その中から優れた物を取捨選択して、ベストのものだけを披露しているのではないか。

私のような凡人は、やっと思いついたアイデアを大事にしすぎて、次のアイデアが出てくる道を塞いでいるのではないか。


④シーンごとに価値要素を上下させ変化をつけ飽きさせない→「シーンが切り替わるごとに引き込まれていく!」


『脚本家は、登場人物の目に涙を光らせたり、俳優が歓喜にあふれるような華美な台詞を書いたり、怒りに満ちた音楽を流したり、といった手立てで観客の感情を動かすのではない。

感情を引き起こすのに欠かせない体験を正確に捉えて、それを観客に示すのが脚本家の仕事だ。

ストーリーの転換点は、観客に深い理解を促すだけでなく、感情を揺さぶる力も生み出す。

物語の中の価値要素が推移していくと、観客はある感情を抱く。

第一に、主人公に共感すること。

第二に、主人公が何を望んでいるかを理解して、それを手に入れてもらいたいと思うこと。

第三に、主人公の人生で危機にさらされている価値要素を理解すること。

これらの条件の下に、価値要素の変化が観客の感情を動かす。』


シーンごと、どんなことが書いてあったら読者は引き込まれるでしょうか。主人公への共感はマストとして、達成したいことや価値観を揺るがすような出来事がないと駄目らしい。

そして「感情が動く」のは「価値要素の変化」によるものという。


『「出来事」とは、すなわち変化である。

「ストーリーを左右する出来事」は些細なものではなく、深い意味を持つものでなければならない。

変化に意味を持たせるには、まずそれが登場人物の身に起こる必要がある。

「ストーリーを左右する出来事」は、登場人物の人生に意味のある変化をもたらす。その変化は「価値要素」として表現され、体験される。

変化に意味を持たせるには、それが価値要素という観点から表現され、観客が反応する必要がある。

価値要素の考え方はストーリーテリングの真髄であり、つまるところストーリーテリングとは、価値の捉え方を世界に伝える技術である。

「ストーリーを動かす価値要素」とは、人間の行動に見られる数々の普遍的な性質のことであり、プラスからマイナスへ、あるいはマイナスからプラスへと目まぐるしく変化する。

(「プラス/マイナス」「生/死」「愛/憎」「真実/嘘」「勇気/臆病」など)

ストーリーテリングに偶然の要素を加えることは可能だが、どれだけ価値を帯びていようと、偶然の出来事だけでストーリーを組み立てることはできない。

「ストーリーを左右する出来事」は、登場人物の人生に意味のある変化をもたらす。その変化は「価値要素」として表現され、体験され、対立や葛藤を通じてもたらされる。』


恋愛物だったら「愛情」という価値要素が、対立や葛藤を通じて、上がったり下がったり変化させるのが「出来事」で、読者は「この二人どうなるの?」と引き込まれる、という。

ずっとラブラブ状態が続いたら「だから何?」となってしまいます。


『典型的な映画では、脚本家は「ストーリーを左右する出来事」を四十から六十ほど選ぶ。一般にこれはシーンと呼ばれる。

小説家なら六十以上必要だろうし、劇作家なら四十も必要になることは希だ。

「シーン」とは、ある程度連続した時間と空間において、対立や葛藤から生じるアクションのことを言い、

それによって、登場人物の人生で何らかの価値を持つものが、少なくとも一つは変化する。

理想としては、すべてのシーンが「ストーリーを左右する出来事」であるべきだ。』


アクションがないと価値要素は変化しない、価値要素が変化しないシーンは不要、よって、全てのシーンでアクションが必要となります。


『シーンの始まりで、その価値はどうなっているのか。プラスか、マイナスか、それとも両方か。

次にシーンの終わりに目を向け、そこで価値がどうなっているか考えよう。プラスか、マイナスか、それとも両方か。

登場人物の人生における価値要素の状態が、シーンの最初から最後まで変化していないなら、意味のあることは何も起こっていない。

これを話す、あれをするといった動きがあっても、価値は全く変化していない。これでは何も起こらなかったに等しい。

もしそのシーンが存在する唯一の理由が明瞭化(人物や世界の情報を与える)だとしたら、熟練した脚本家ならそれを削り、その情報を他の場所に織り込むだろう。

変化の無いシーンは要らない。それが我々の理想だ。

登場人物の人生で大きな意味を持つ価値要素を、プラスからマイナス、あるいはマイナスからプラスへと変化させて、全てのシーンを終えること。』


アクション(これを話す、あれをする)だけあっても、価値要素が変化しないなら、そのシーンは不要という。厳しいですねえ。


『プロットとは野暮な紆余曲折でも、強引なサスペンスでも、虚を突くサプライズでもない。重要なのは、出来事を厳選し、時間に沿って巧みに配列することだ。』


プロットの段階で、シーンごとの価値要素の変化を確認し、設計・配列してから、アウトライン→文章化、という手順でしょうか。正直ツラい作業。


『重大な価値要素のあり方がプラスとマイナスの間をダイナミックに行き来することによって、ストーリーが進展する。

ストーリーの始まりから終わりまで、前提から統制概念に至る一連の出来事を考えなくてはならない。

シークエンスごと、多くはシーンごとに、プラスの基本概念とマイナスの対立概念が行きつ戻りつしながら、優勢を競って戦う。

クライマックスでどちらかが勝ち、それが統制概念となる。

この基本概念と対立概念のリズムは脚本術の基本であり不可欠なものである。』


統制概念とは「あらすじ」とかストーリーの本筋みたいなことだと思った。本筋に沿った価値要素の変化を意識して進めよ、と。感覚的にできる人は才能あるんでしょうね。

こちらは好き勝手に書くとどんどん関係ない方向に進んじゃいます。


・ギャップについて

『ストーリーで重要な瞬間は、登場人物が周囲からプラスの反応が返ってくること予想して行動を起こしたのに、結果として敵対する力を呼び起こしてしまうときだ。

登場人物の世界では、予想とは異なる反応や予想以上に強い反応、あるいはその両方が起こる。』


価値要素の変化は「葛藤」によりもたらされるらしく、「葛藤」とは「ギャップ」によって生じるらしいです。いちいち重要ですが、ここは本当にためになりそう。


『ストーリーの本質は言葉ではない。

イメージや感情を表現するためには明晰な文章でないといけないが、言葉は目的ではなく、手段であり媒体だ。

ストーリーの本質は、ある人がアクションを起こして、その次に起こると思っていることと、実際に起こることの間に生じるギャップ、つまり予想と結果、可能性と必然性の隔たりだ。』

『最も豊かで満足感が得られるのは、出来事が引き起こすリアクションと、そこから得られる洞察に焦点を当てたストーリーだ。』


予想(主観)と結果(客観)のギャップを乗り越えることがストーリーだという。

次の具体例が分かりやすかったです。


『登場人物がドアをノックすると、そのリアクションとしてドアが開いて招き入れられるというビートを脚本家が書いたとして、スクリーンにお目見えすることはないだろう。

編集者「これは8秒間の無駄だ。ノックしたらドアが開く? カットしてソファーのところに飛べる。これは最初の重要なビートだ。ペースが台無しになるし、意味が無いよ」

洞察と創造に欠けたリアクションのために予想と結果が同じになっては、ペースが台無しで無意味なのも当然だ。』


ノックする前に「ドアを開けてもらえるだろう」と予想して、ノックした結果、予想通りにドアを開けてもらえたら、そのアクションには意味が無い、ということらしいです。

逆に、意味があるシーンとは「ノックしたけど返事が無い」とか「入れてもらえない」とかで、主人公が「え?」とか「あれ?」となるような。


『ストーリーは主観的領域と客観的領域が接する場所で生まれる。

主人公は手が届かない欲求の対象を追いかける。

主人公はアクションを起こすことを選択するが、それは自分の欲求に向かって一歩前進させてくれるリアクションが世界から返ってくるという目測に突き動かされてのことだ。

主観的な視点から見ればアクションは最低限の無難なものに思えるが、望みの反応を得るにはそれで充分である。

だが、そのアクションを起こすと、本人の内面や個人・非個人的関係、あるいはそれらすべての客観的領域が、予想より強いか異なる形でリアクションを返す。

世界から返ってくるリアクションが主人公の行く手を阻み、裏をかき、屈折させて、アクションを起こす前より遠くへと退ける。』


まず主人公の欲求があって、そのアクションの結果にギャップがあるということは、主人公の欲求は簡単には叶わない、ということでしょう。


『すべての選択とアクションは、自らの体験の総和に端を発している。人生の集積物が世界から返ってきそうなリアクションを教えてくれるので、それに基づいてアクションを選択する。

そこで必然を知る。必然は絶対の真実である。必然はアクションを起こすそのときに発生する。

この必然は、広大で奥深い世界へ向かって勇ましくアクションを起こし、リアクションに勇ましく立ち向かうときに初めて分かる。

そのリアクションこそがその瞬間の真実で、それ以前に何を信じていたかは関係ない。

必然とは、起こらなくてはならず、また実際に起こることであり、見込みとは、起こってもらいたいと願ったり期待したりすることだ。

客観的な必然と、登場人物の見込みが齟齬を来すと、創作上の現実に突然ギャップが生じる。

このギャップは主観と客観が衝突する場所にある。』


「こうなったらいいな~」と思ってるだけだと何も起きないので、行動を起こして、現実と衝突させ、ギャップを乗り越えないといけないですね。(あらやだ人生訓)


『主人公、全ての登場人物は、どんな欲求を追っているときも、ストーリー内のどの瞬間にも、常に自分の視点から見て最低限の無難な行動をとる。

人間の根本は保守的で、実は自然界のあらゆる生き物がそうだ。余計なエネルギーを費やしたり、要らぬ危険を冒したり、必要ないのに行動を起こす生き物は存在しない。

当事者の経験から主観的に見れば、度を超したように思える行為は、必要最低限の無難なものだ。「無難」をどうとらえるかは視点次第である。』


行動を起こせ、といっても、最初の内は「最低限の無難な」ものでしょう。楽したいのはみんな一緒で。


『第二のアクションは、登場人物が最初には起こそうとしなかったものだ。さらなる意思の力が要求され、能力をいっそう深く掘り起こす必要があるからだ。

何より重要なのは、この二番目のアクションが大きなリスクを伴うことだ。何かを得るためには何かを失うしかない。』


ドアをノックした(最初のアクション)けど執事が出てきて入れてくれない。第二のアクションは「しつこくお願いする」だと、通報されたりするリスクを負うことになります。


『主人公の最初のアクションによって、欲求を阻む敵対する力が引き起こされ、期待と結果の間にギャップが出現する。

現実に対する考えを否定されて、世界に対する葛藤が更に激しくなり、リスクもまた増える。

回復力に富む人間の心は素早く現実をとらえ、こうした反発や予期せぬ反応を組み入れて、行動パターンを作りかえる。

そこで主人公は、それまでより困難でリスクも大きい第二のアクションを起こす。

それは新たにとらえ直した現実と矛盾しないアクションであり、世界への新たな期待に基づくアクションである。』


執事に冷たくされてションボリしたままでは主人公ではありませんね。回復して、すぐに次の手段を考え、実行しないといけません。土地ごと買収するとか。


『このパターンはストーリーの結末まで様々なレベルで繰り返され、最後のアクションへ至るが、それは観客が他の結末を思いつけないものでなくてはならない。

一方に我々のが信じる世界があり、他方に真の世界がある。このギャップこそがストーリーの核心であり、物語を煮詰める大釜である。

脚本家はそこで人生を変転させる最も力強い瞬間を見つけ出す。』


リアクションも予想外なら、ギャップの乗り越え方も読者の予想の上を行く必要があります。上を行かれたのを認めて黙り込み、そういうやり方があるのかと人生に還元できたらいいですね。


・段階的な混乱について

『設計の五要素の二番目は「段階的な混乱」だ。

契機事件から最終幕の「重大局面/クライマックス」に至るまでのストーリー全体の主要部分を表す。

「混乱」とは、登場人物の人生に困難をもたらすことで、

「段階的な混乱」とは、徐々に強まっていく敵対する力に登場人物を直面させて、次々と葛藤を生み出し、一連の出来事の中に「引き返せない地点」を何度か作ることである。』


読者をぐいぐい引き込むには、ところどころでポイントを作ろうと。


『・引き返せない地点

契機事件をきっかけに主人公は人生の均衡を取り戻そうとして、意識的または無意識的に欲求の対象を追いかけていく。

その探求を始めるために、主人公はまず最小限の無難なアクションを起こして、現実世界からプラスの反応を引き起こそうとする。

だがその結果、内的葛藤、個人的葛藤、社会的・物理的葛藤から、敵対する力が生じて欲求を阻み、予想と結果の間のギャップが大きく口を開ける。

ギャップが生まれると、そこが「引き返せない地点」だと観客は認識する。

小さな努力では上手くいかない、控えめなアクションでは人生の均衡を取り戻せない、と。

そうなると、これ以降は、主人公が最初に起こしたようなアクション、つまり質も規模も物足りないアクションはストーリーから排除せざるを得ない。

危機にさらされた主人公は、さらなる意思の力と能力を使ってギャップを乗り越え、難しさの増した二度目のアクションを起こす。

だが、その結果がまたしても敵対する力を生じさせ、予想と結果の間に第二のギャップが生まれる。

観客は、これも「引き返せない地点」だと感じ取る。二度目のような中程度のアクションでは成功しないだろう、と。同じ規模や質のアクションはこの先もう使えない。

主人公はすでにかなりのアクションを起こしているが、それでも目標のものを得られないので、やはり同じような行動はもうさせられない。

主人公は次々と高い能力や強い意志の力を求められ、危機にさらされる。

アクションの規模と質を高めて、後戻りさせずに展開させていくことでストーリーは組み立てられていく。

ストーリーにおいては、規模や質の劣化したアクションへ後退することは許されない。

他の結末を観客が思いつけないような最後のアクションへ向かって、段階的に突き進んでいかなくてはならない。

映画を観る側からすると、第一幕でこの手が成功しなかったのだから、第二幕で上手くいくはずがないと直感が告げる。』


通せんぼする執事をいよいよぶん殴る、となると、入れてもらえるどころか警察呼ばれたりして「これはもう引き返せないぞ」となり、引き込まれる、といいですね。

逆に「いつでも引き返せる」状態が続くと、ストーリーが進んでないし、読んでてダレてしまいます。段階的にエスカレートしないと。


『映画の流れを保って更に強く動かすには、調査(記憶、想像力、事実)に精を出すしかない。

四十から六十のシーンを、似たような要素のない形で仕上げるには、数百ものシーンを考え出す必要がある。

それらについて膨大な量の概略を書いたあと、そこからごくわずかな珠玉のシーンを選び出し、それを組み合わせて、印象的で心を動かすシークエンスや幕を築き上げるわけだ。

百二十ページの脚本を埋めるのに、四十から六十のシーンしか考え出せなければ、その映画は似たようなシーンだらけのたるんだ作品になると見て間違いない。』


「説得する」や「ぶん殴る」以外にもアイデアをたくさん出して、読者の予想の上を行けたら。


『ストーリーは緊迫感の低い状態から始まり、シーンごとのシークエンスの緊張が高まって、第一幕のクライマックスへと至る。

第二幕に入ったら、前幕とは対比をなすムードのコメディやロマンスに切り替えていったん緊張を和らげる。それにより、観客は一息ついてエネルギーを蓄えることができる。

脚本家は観客を長距離ランナーにしなくてはならない。一定のペースで走らせるのではなく、スピードを上げ下げするサイクルにしてやれば、観客は映画に全エネルギーをつぎ込める。

ペースを落としたら次の幕では上げ、そうして迎えるクライマックスは、激しさという点でも意味においても、前のクライマックスを超えるものにする。

幕ごとに緊張を高めたり緩めたりし、最後のクライマックスでは観客を空っぽにさせる。感情を使い果たしてはいるが、満足した状態だ。

そして短い解決のシーンを楽しみ、観客は元気を取り戻して映画館を後にする。』


読者が疲れないようにペースや緩急まで考えるのはもっと先の話でしょうね。まずは基本となるギャップによる価値要素の変化、それをもたらす契機事件、クライマックスにどうつなげるか。



⑤主人公の欲求(内的・外的)に共感→「この主人公は俺だ! どうか願いがかなってほしい!」


『・能動的な主人公か受動的な主人公か

アークプロット(王道なストーリー)の単独の主人公は、能動的で活力に満ち、激化する葛藤や変化をくぐり抜けて、ひたすら目標を追い求める。

ミニプロット(私小説的な感じ?)の主人公の場合、無気力とまでは言えないにせよ、どちらかというと受け身で消極的である。

この受動性は、主人公に強い内的葛藤を与えるか、主人公のまわりに劇的な事件を配置することによって補正されることが多い。

「能動的な主人公」は周りの人々や世界と対立し、行動を起こしながら、目標を追い求める。

「受動的な主人公」は、表向きはおとなしく見えるが、自身の内面と葛藤しながら、心の中で目標を追い求める。』


受動的な主人公でも、出来事に対してリアクションしているだけじゃ駄目なんでしょうね。心の中に欲求があるから葛藤が生まれるのでは。


『・実像と性格描写

性格描写とは、ある人間に関して、目に見えるすべての性質をまとめたものであり、どれも綿密に調査すれば分かる。

様々な特徴が独自に組み合わさったものが性格描写だ。しかし、それは実像とは違う。

人間の実像とは、緊迫した状況で行う数々の選択によって明らかになる。重圧がかかるほど、深い部分が明らかになり、行う選択はその人物の本質に迫るものとなる。

表面的な特徴や外見の下に隠された、その人物の真の姿がどんなものだろうか。その心の奥底に我々は何を見いだすのだろう。

真実を知る方法はただ一つ。自分の思いを満たすために、追い詰められた状況下でどのような選択をするかを見ることだ。その選択から、その人物がどんな人間なのかが分かる。

その際、重圧があることが大切だ。何もリスクにさらされていない状況で行う選択には意味がない。

嘘をついても得るものがない状況で本当のことを言ったとしても、その選択は取るに足らないもので、その行動は何も表さない。

だが、同じ人間が、嘘をつけば窮地を脱することができるにも関わらず、真実を語ることに執着したとしたら、その人物の根底にある誠実さを感じることができる。

そのシーンをどのように描こうとも、緊迫した状況での選択によって性格描写の仮面が剥がれ、内なる本質が垣間見えて、鮮烈な実像が顔を出す。』


追い込まれないとその人の人間性は分かりませんね。圧迫面接とか、人間性テストとか。


『性格描写と比較あるいは対立させて実像を明らかにすることは、優れたストーリーを書く基本である。

どんな発言をし、どう振る舞おうとも、その登場人物の真の姿を知るには、緊迫した状況での選択を見るしかない。

性格描写と実像が一致していたら、その役柄は反復可能、予測可能な行動を寄せ集めたものでしかない。薄っぺらで深みのない人間は実在するが、退屈だ。

主要人物を描くときには、性格描写と比較もしくは対立させて、奥深い実像を描くのが基本である。

脇役の場合は絶対とまでは言わないが、主役は深く掘り下げて描かなくてはならない。見かけと心の中が同じではいけないのだ。』


見た目と実像のギャップね。主人公とヒロインくらいはあったほうがいいでしょうね。


優れた作品では、登場人物の実像が明らかにされるだけでなく、物語が進むにつれて、良い方向であれ悪い方向であれ、内面の性質が変化していく。

フィクションの長い歴史を通じて、登場人物と構成は以下のような関係になっている。

第一に、ストーリーは主人公の性格描写を行う。

第二に、観客は登場人物の心の中へすぐさま引き込まれる。主人公が行動を重ねるたびに、その本性が明らかになる。

第三に、こうして現れた本性は、登場人物の表向きの姿とは一致しないもので、矛盾とは言わないまでも対照的だ。

第四に、登場人物の本性が明らかになるにつれて、ストーリーがかける圧力も次第に大きくなり、さらに困難な選択を強いる。

第五に、ストーリー・クライマックスに至っては、そこまでの選択によって登場人物のあり方はすっかり変わっている。


ストレスをかけまくられた末に真の人間性が暴露されて、それにより成長することもあるでしょう。少なくとも変化するはず。


構成の役割は、次第に高まっていく重圧を登場人物に与えて、困難でリスクを伴う選択を強いられる窮地へと追いやり、自分自身でも気づかないほどの本性を現すよう徐々に仕向けることである。

登場人物の役割は、説得力のある行動を起こすのに必要な良質の性格描写をストーリーにもたらすことである。

端的に言うと、登場人物には真実味がなくてはいけない。

どの人物も、そういった行動を取るのが自然だと観客に感じさせるような資質の組み合わせをストーリーにもたらさなくてはならない。

構成と登場人物は密接に結びついている。

ストーリー内の出来事の構成は、重圧の中で登場人物がどんな選択をし、どんな行動を取るかによって決まる。

登場人物の方は、重圧の中でどう行動するかを選ぶことによって本性が明かされ、変化していく。

一方を変えれば他方も変わる。出来事の設計を変えるなら、登場人物も変えなくてはならない。

心の奥底を変えるなら、構成も作りかえて登場人物の変化した内面を表出する形にしなくてはならない。

ストーリーが同じなら、登場人物も同じままだ。登場人物を作りかえるなら、ストーリーも作りかえる必要がある。

最初に手を加えるのが登場人物であれ構成であれ、結果として同じところに行き着く。

出来事を考えるのと登場人物を考えるのは、合わせ鏡のようなものだ。登場人物を深く表現するには、ストーリーをしっかりと設計しなくてはならない。


主人公のアクションがストーリーを進めて、ストーリーの展開により主人公の価値要素が変化するので、整合性を取るのが大変そうだし、下手をするとご都合主義的な展開になりそう。


・主人公について


『全ての主人公はいくつかの顕著な特徴を持っている。

第一は「強い意志」だ。

・主人公は意志の強い人物である。

葛藤を乗り越えて欲求を持ち続け、最後に意味のある決定的変化を引き起こせるだけの強さは具えていなくてはならない。

本当に受動的な人物を主人公にするのは間違っている。残念ながらそういう例がよく見られる。

主人公が何も欲せず、決断できず、その行動がどんなレベルにおいても変化をもたらさなければ、ストーリーを語ることはできない。』


残念ながら「本当に受動的な主人公」をよくやりがちです。


『・主人公は欲求を意識している。

主人公には目標や必要な物事、すなわち「欲求の対象」があり、自分でもそれを知っている。

主人公は自分の望みを理解していて、また多くの場合、単純明快な欲求をひとつ自覚していれば事足りる。

最も印象的で魅力に満ちた登場人物は、意識的な欲求だけでなく、無意識的な欲求も持っていることが多い。

手に入れたいと思っているものが、知らず識らず本当に求めているものと異なるのは当然のことだ。

登場人物の無意識の欲求が、本人が探していたものとぴったり一致した、などという話の何が面白いというのか。』


「欲求の対象」はシンプルで分かりやすい方がいいでしょう。それと「無意識的な欲求」は対立させる、と。


『・主人公が欲求の対象を追い求めることに無理があってはならない。

主人公の欲求は、その意思や能力と見合った現実的なものでなくてはならない。

それが満たされていれば、観客が主人公が行動する姿を見て、成功のチャンスがあると信じることができる。

観客は、欲求を実現する可能性がゼロの主人公を早々に見限る。

文字通り何の希望も持たず、欲求をかなえる能力が欠片も無い主人公には、誰も興味を示さない。』


普通に考えて不可能そうな欲求でも駄目だし、簡単すぎても駄目ですよね。


『・主人公はストーリーの最後まで、設定とジャンルによって定められた限界まで、意識的、無意識的な目標を追い求める意思と能力を持っている。

ストーリーという芸術は、中道を歩む人生を語るのではなく、ギリギリまで振り切った振り子のような、人生で最も強烈な瞬間を語ることだ。

観客は極限を察知して、そこへ到達することを願う。

観客が作り手に期待するのは、深みのある遠大な世界へとストーリーを運ぶことができる、想像力豊かな芸術家であれということだ。』

『主人公は人間が体験できる深さや広さの限界まで欲求を追い続け、後戻りできないほどの決定的な変化を遂げる。』


極限まで行ってないのは何となく伝わるし、「何か物足りないな」という感想になるでしょう。


『・主人公は共感できる人物でなくてはならない。好感が持てるかどうかは問題ではない。

好感が持てるというのは、単に好きということだ。

共感には「自分も同じようだ」という含みがある。

主人公の心の奥底に観客は共通の人間性を見いだす。

それに気づいた瞬間から、観客は唐突に、また本能的に、なんであれ、主人公が欲するものを手に入れてもらいたいと思い始める。

観客は無意識のうちにこう考える。「この人は自分と似ている。だから、望むものは何でも手に入れてもらいたい。私がこの人なら同じことをするだろうから」』


「奥底の人間性」は人類みな同じなのでしょうから、そこまで掘り下げないといけませんね。


『観客の感情移入は共感という接着剤によって支えられている。

作り手が観客と主人公の絆を結べなければ、観客は何も感じない傍観者となる。

感情移入はごく個人的な理由によって引き起こされる。

観客は主人公とその人生の欲求に感情移入をして、自分自身の人生の欲求を追いかけている。

創作上の人物に代償的な結びつきを見いだす共感を通じて、観客は人間らしさを堪能する。

ストーリーの醍醐味は、自分自身という範囲を超えて人生を生きる機会を与えられ、数限りない場所と時代で夢を追ったり苦悩したりして、あらゆるレベルの体験を味わえることだ。

好感と共感の違いが分からない脚本家は、主人公がいい人でないと観客が心情的に繋がりを持てないと考えて、何の工夫もなく好人物のヒーローを作り出す。

観客はその人物の奥底にある実像に共鳴し、緊迫した状況での選択で露わになる本来の性質に感情移入する。』


人生の疑似体験として意味があるものにするために、欲求を達成するため行動する話でないといけないということは、本物の人生でもそういうことが大事なんでしょう。


『どんなストーリーにもあてはまる簡単なテストがある。

「ここでのリスクは何か」

「望んだものを得られなければ、主人公は何を失うのか」

「欲求を満たせない場合、主人公に起こる最悪の事態はどんなものか」

説得力のある答えを返せなければ、そのストーリーには本質的な欠陥がある。

例えば「主人公が失敗したら、通常の人生に戻る」という答えなら、そのストーリーは語るに値しない。

主人公が望むものに真の価値がないことになるが、ろくな価値がないものを追い求める者のストーリーは退屈と相場が決まっている。

我々は究極のリスクを負わなくてはならないもの(自由、生命、魂)に究極の価値を見いだす。』


「生命」がリスクなら「失敗したら死んじゃう」というので分かりやすい。そりゃ主人公も必死になるだろうと。


『・内側から書く

シーンを創作するときに、各登場人物の中核に入り込んで、それぞれの視点からそのシーンを体験しなくてはいけないのはなぜか。すると何が得られ、しないと何を失うのか。

人間らしい反応を描くには、登場人物はもちろん、自分自身の内面にも入り込む必要がある。

物語が進展して転換する場面を、洞察と感情が豊かに満ちたシーンにするには、どうすればいいのだろう。

(どのように自問すべきか)

「このアクションを起こすには何をすべきか」:クリシェや教訓めいたものしか引き出せない

「何をするのがいいか」:巧妙だが不誠実な、わざとらしいシーンができあがる

「この登場人物がこんな状況に置かれたらどうするだろう」:登場人物と距離を置くことになる。感情を推測するが、間違いなく陳腐なものだ

「こんな時、自分だったらどうするだろう」:自分にとっては正直でも、登場人物は正反対の反応をしてもおかしくない

問いかけるべき言葉は「自分がこの登場人物で、こんな状況に置かれたら、どうするだろう」である。』


「自分がこの登場人物で、こんな状況に置かれたら、どうするだろう」。まあ疲れる作業なのよこれが。できてるかどうかも分からないし。


『偉大な劇作家や脚本家が俳優でもあるのは偶然ではない。

作家はワープロを前にしながら、あるいは部屋を歩き回りながら、男、女、子供、怪物と、あらゆる登場人物を即興で演じる。

想像の中で役を演じていると、登場人物にふさわしい正直な感情に血が通ってくる。

シーンが作り手にとって感情的に意味を持つなら、観客にとっても意味を持つだろう。

自分自身が感動できる作品を生み出せれば、観客を感動させることができる。』

『登場人物の意識の中核に入り込み「自分がこの登場人物だったら、こんな時どうするだろう」と問いかける。

自分自身の心の中で、人間らしい何らかのリアクションを感じ取り、その人物の次のアクションを思い描く。』


ムラカミハ○キ大先生は「井戸を掘る」とか仰ったか。憑依というか、キャラクターになりきるというか。ここでも才能の差が出る気がします。


『次のビートを組み立てるために、作家は登場人物の主観的な視点から抜け出して、書いたばかりのアクションを客観的に観察しなくてはならない。

アクションは登場人物が世界からリアクションが返ってくることを予想して起こされたものだ。けれども、予想通りのリアクションを返してはいけない。ギャップを生じさせるべきだ。

そのためには昔から作家たちが自らに問い続けていた質問をするとよい。「それとは反対のこととは何か」

作家は元来、対立や矛盾を採り入れて思考するものだ。

コクトー「創作の精神は矛盾の精神であり、表層を突き破って未知の現実を目指すことだ」

見た目を疑い、当然の逆を追い求めなくてはならない。上澄みをすくって額面通りに物事を受け止めるようではいけない。

人生の上っ面を剥ぎ取って、隠されたもの、すなわち真実を探るべきだ。そのギャップの中に自分にとっての真実が見つかるだろう。

ある視点からアクションを創作したら、自分が作り出した世界を動き回り、別の視点を見つけ出すといい。

そこで意外なリアクションを起こして、予想と結果の間にギャップを生じさせるのだ。』


登場人物になりきって行動を起こして、そのリアクションが予想してたのと違うって、けっこう難しいのでは。ギャップがあるのが前提だと行動が嘘くさくなりそう。


『観客は主人公に感情移入して、その人物の身になって欲求を追いかける。主人公の予想と大差の無いリアクションを世界が返すと予想する。

主人公の眼前にギャップが広がれば、観客の前にもギャップが口を開ける。

それこそが、考え抜かれたストーリーで何度も体験する衝撃の瞬間(「まさか!」「だめだ!」「いいぞ!」)である。

主人公の世界にギャップが生じるたびに、観客にもギャップが生じる。

主人公は次のアクションを起こすために、毎回、それまでよりも多くのエネルギーを費やして努力しなくてはならない。

主人公に共感している観客は、映画を観ている間じゅう、ビートごとに同じエネルギーの高まりを体験する。

人生は自身と現実の間のギャップを飛び越えることで煌めきを放つ。この一瞬のエネルギーを素に、脚本家はストーリーの力に火をつけて、観客の心を動かす。』


ギャップを作れたら「よし」って感じで、ギャップを乗り越えることでストーリーは動くし、読者の心も動く、となればいいなあ。


『最後まで望みを捨てない意志と能力を具えた登場人物に我々は共感する。』


諦めたらそこで主人公降板、というか映画そのものが無かったことにされてしまう。そんな人生では困ります。


『・葛藤の法則

主人公が契機事件から足を踏み出すと、そこは葛藤の法則が支配する世界だ。

「ストーリーにおいては、葛藤なしには何も進まない」

ストーリーテリングにとっての葛藤は、楽曲にとっての音と同じだ。

一番難しいのは、鑑賞者の心を掴み、途切れずに集中させて、最後まで時間の経過を感じさせないことだ。

思考と感情が葛藤に引きつけられている限り、観客は時間を気にせずにストーリーを旅することができる。

映画から葛藤が姿を消せば、観客の関心も消える。葛藤の出番がないままだと、観客の目はスクリーンから離れる。そして目が離れれば、思考も感情も離れる。

退屈は、欲求を失ったとき、欠落が欠落しているときに起こる内的葛藤だ。

何より、葛藤がない人物の穏やかで落ち着いた日々の暮らしをスクリーンに映し出せば、観客が退屈するのは目に見えている。

語り継がれる傑作を生み出したいなら、人生は、日々のストレスに適応するでも、凶悪犯の過剰な葛藤でもないことに気づくものだ。

人生とは、愛や自尊心を見つけられるか、内面の混沌に平穏をもたらせるか、不平等や時間についての究極の問いを投げかけることだ。

人生は葛藤に満ちている。それが本来の姿だ。脚本家はその苦闘をどこでどのように配置するかを決めなくてはならない。』


なんでも思い通りに事が進んだら葛藤もないし、何も行動しなくてもギャップが発生しないし、読者は退屈を感じるし、ってことでしょう。


⑥主人公が決断、行動がストーリーの原動力→「この決断は正しかったのか? 行動はうまくいくのか? ハラハラする!」


・重大局面について

『ストーリーは五つの部分で構成されるが、「重大局面」はその三つ目だ。

それはすなわち、決断である。

登場人物は口を開く度に「ああ」ではなく「こう」だという決断を無意識のうちに下す。どのシーンでも、どのアクションを選ぶかを決断している。

だが、ここで言う決断は「究極の決断」のことであり、この局面で間違った決断を下すと、求めるものが決して手に入らない。

主人公は段階的混乱を経て、欲しいものを手に入れるためにありとあらゆる行動をとってきた。ただ一つを除いて。そして、あと一歩のところまで来た。

次に起こすアクションが最後だ。明日はない。次の機会はない。危機を迎えたこの瞬間、ストーリーの緊張は頂点に達する。

主人公も観客も、「結末はどうなるか」という問いに対する答えが次のアクションで決まることを知っているからだ。』


究極までエスカレートして、最後にどうするか、クライマックスへの決断となります。


『重大局面はストーリーの必須シーンである。

契機事件が起こってからずっと、観客は主人公が人生最大最強の「敵対する力」と真っ向から対決するシーンを今か今かと待っている。

この難敵は、いわば欲求の対象の前に立ちはだかる怪物だ。

観客は期待と不安が入り混じった気持ちで重大局面を見守る。』


「敵対する力」(後述)と、「真っ向から対決」するぞー、という決断をすることになりますね。対決しないということは諦めることになります。


『・選択の本質

転換点では、登場人物がプレッシャーのかかった状況において、欲求をかなえるためにどんなアクションを選択するかに焦点が当てられる。

人間の本質は「よい」や「正しい」と思ったとき、必ず「よい」ものや「正しい」ものを選ぶことを要求する。逆はあり得ない。

明らかな善と明らかな悪、あるいは正と誤が存在する場合、登場人物がどちらかを選ぶ状況でも、その人物の立場を理解している観客は、どんな選択をするか前もって知っている。

善か悪か、正か誤かの選択は、選択ではない。

自分のすることが正または善だと信じるか納得するかしない限り、人間は行動を起こすことができない。

人間のこの本質について理解していなければ、何も理解していないのとあまり変わらない。

善か悪か、正か誤かの選択はあまりにも明らかで、選択とは呼べないほどだ。

真の選択とは、自己矛盾のジレンマに他ならない。』


スーパーヒーローの目の前で困っている人がいたら助けるに決まっていますよね。助けるかどうかで迷うはずない。


『ジレンマは二つの状況で発生する。

第一は、「両立しない善」をめぐる選択だ。

主人公にとってはどちらも魅力的で両方手に入れたいが、諸事情から一方だけを選ばざるをえない。

第二は、「ましなほうの悪」をめぐる選択だ。

主人公にとってはどちらも好ましくなく、どちらも拒みたいが、諸事情から一方を選ばざるをえない。

真のジレンマに陥ったときにどんな選択をするのかを描けば、その人物の人間性と住む世界を力強く表現できる。』


ストレスがかかって、かつ選択肢がどちらも同じくらいの価値の場合、「どうすんの?」と興味が湧きます。


『二者間の対立や葛藤はジレンマではなく、プラスとマイナスの間を揺れ動いているだけだ。

真の選択を的確に描き出すには、三面性のある状況を作る必要がある。

AがBとCに挟まれる三角関係なら、どちらか一方を選ぶことで、はっきりした結末を迎えることができる。

主人公は両方を手に入れることはできない。

代償は必ず支払わされ、一方を得るだめには、一方を危険に晒すか失うしかない。

AがBを得るためにCを捨て去ったら、観客は真の選択が成されたと感じるだろう。

Cは犠牲となり、この決定的な変化によって、ストーリーが終結する。

選択はただの疑念ではなく、ジレンマを生まなくてはならない。

善悪や正誤のどちらかを選ぶのではなく、同等の重みと価値を持つプラス/マイナスの欲求の一方を選ぶ形にする必要がある。』


ヒロインAとヒロインBのどちらを選ぶのか、選んでしまえばもう引き返せない。最後はどうなるのか気になります。


『重大局面は真のジレンマでなくてはならない。

「両立しない善」の一方を選ぶ、「ましな方の悪」を選ぶ、あるいはその両方を同時に迫られる状況に置かれ、人生最大の重圧に晒される。

人生最大最強の「敵対する力」と向き合って、欲求の対象を手に入れるために最後のアクションを起こそうと決断した主人公は、ジレンマに直面する。

主人公がここで行う選択によって、観客はその人物の本質、つまり究極の人柄を深く知ることになる。』


人生最大のストレスをかけられながらの決断、反動でマリッジブルーとかになりそうです。


『重大局面のシーンは、ストーリーの一番重要な価値要素を示すものだ。

中核の価値要素がなんであるかがここまで明確になっていなくても、主人公が重大局面を迎えて下す決断によって、それが浮き彫りになる。

重大局面を迎えたとき、主人公は意思の力を容赦なく試される。』


究極の選択の時に中核の価値要素が露わになる、ように持って行く、と。


『究極の決断をする場面では動きが止まる。

究極の決断は必須シーンだ。しっかりスクリーンに映し、簡単に終わらせてはいけない。

観客は主人公と一緒にジレンマを抱えて苦悩したいと思っている。

脚本家はこのシーンを固定して、最後の場面のリズムが生きるようにしなくてはならない。

ここまでで観客の感情は盛り上がっていて、それが溢れ出すのを重大局面のシーンが堰き止めている。

主人公が決断へ向かうのを、観客は身を乗り出して見守っている。「どうするんだろう。どんな決断を?」

緊張がどんどん高まり、主人公が決断を下すと、たまっていたエネルギーが噴き出してクライマックスへ至る。』


読者側の感情の高まりまで計算してプロットを設計する、って、できるといいですね。これも天才は感覚的に分かるんでしょうか。


⑦敵対する力は考えうる限り極限のもの→「絶体絶命だ! どうなってしまうんだ?」


『敵対する力の原則

私の経験から言うと、ストーリーを設計する上で最も重要でありながら、最も理解されていないのが、敵対する力だ。

脚本とそれに基づいて制作された映画が失敗する最大の理由は、この基本原則を省みないことにある。

敵対する力の原則、主人公とそのストーリーは敵対する力があってこそ、知的好奇心をそそり、感情を揺さぶるものとなる。

人間は基本的に用心深い。必要以上のことをせず、必要以上のエネルギーも使わず、必要のないリスクは負わず、必要がなければ変わろうとしない。

では、主人公を存在感があって重層的な、深い共感を呼ぶ人物にするものはなんだろうか。退屈なシナリオに命を吹き込むものはなんだろうか。

この二つの問いに対する答えは、ストーリーのマイナス面にある。

敵対する力が強大で複雑になるほど、主人公とそのストーリーには更なるリアリティが求められる。』

『脚本家がストーリーのマイナス面にエネルギーを注ぐのは、主人公をはじめとする登場人物にリアリティを与えるだけでなく、ストーリーを極限まで展開させ、

満足のいく素晴らしいクライマックスを作る上でも必要なことである。』


人生最大の重圧をかけてくるのは誰か、非常に重要ですが、敵のための敵として適当にキャラ造形してはリアリティが出ません。


『・ストーリーを極限まで展開させて登場人物を追い詰める

最初に、ストーリーで一番大切な価値要素を決める。(例・正義)

善か悪かの二分に留まることは滅多にない。マイナスには様々な度合いがある。

まず、プラスの正反対にある「対極」の価値要素だ。(例・不法)

しかし、プラスの価値要素と対極の価値要素の間には「相反」がある。マイナスではあるが、対極とまでは言えない価値要素だ。(例・不公正、差別など)

とはいえ、「対極」は、登場人物が体験しうることの極限ではない。極限で待ち受けているのは「マイナス中のマイナス」、すなわち、二重のマイナスの重みを持つ「敵対する力」である。

葛藤の大きさや深さにおいて、登場人物の経験しうる極限までストーリーを展開するためには「相反」「対極」「マイナス中のマイナス」というパターンをたどらなくてはならない。

マイナス中のマイナスとは、マイナスが重なった状態のことで、人生が量的にも質的にも悪化している。

マイナス中のマイナスでは、人間の本質の暗い部分が極限に達している。(例、「正義」の場合なら「暴虐、権力は正義)』


ここはページを多く割いて事例をたくさん載せてくれてます。

「ホップ、ステップ、ジャンプ」的に発想を広げて、敵対する力の極限を想像しましょうということらしいです。

価値要素を「正義」とするなら、レベル1(相反)は不公正・迷惑行為などで「別に無理して戦わなくても」となります。

レベル2(対極)は不法・違法行為などで、まあ正義の味方なら戦うでしょうね。

レベル3(マイナス中のマイナス)はもっと進めて、権力者が暴虐・正義の組織のトップが腐敗、とかでしょうか。勝てる相手じゃないのに、それでも戦うのか? くらいまで行け、という。


『優れた脚本家は、正反対の価値程度ではまだ人間の体験の極限に達しないことを理解している。

相反や対極の状況でストーリーが終わるようでは、毎年何百本と作られる凡庸な映画の仲間入りだ。

愛と憎しみ、真実と嘘、自由と隷属、勇気と臆病をただ描いただけの映画は、ほぼ間違いなく駄作である。

たとえ観客がそれなりに満足したとしても、マイナス中のマイナスが描かれない映画が傑作と呼ばれることはない。』


「何と戦わせればいいのだろう」という悩みに対して、有益なアドバイスではないでしょうか。少なくとも私にとっては。


『才能、技巧、知識といった要素が全て同程度の場合、脚本家がマイナスの側面をどのように取り扱うかが作品の優劣を決める。

自分の脚本に納得がいかず、何かが足りないと感じるときは、さまざまな手段で問題点を明らかにする必要がある。

ストーリーが迫力に欠けるのは、敵対する力が弱いからだ。

好感の持てる魅力的な主人公と物語の世界を生み出すことにただ創造力を注ぎこむのではなく、マイナスの側面をしっかり組み立てることに集中すれば、プラスの側面も自ずと整っていく。

まず、どんな価値が危機に瀕しているのか、それをどう展開するかを今一度考えてみよう。

ストーリーのプラスの価値要素は何か。それの中でどれが一番重要で、ストーリー・クライマックスを動かすのか。

敵対する力はどのようなマイナスの形をとるのか。どこかの時点でマイナス中のマイナスの力を持つに至るのか。

通常、ストーリーは第一幕でプラスからマイナスに転じ、その後の幕で対極に、そして最終幕でマイナス中のマイナスに至って悲劇的な結末を迎える、

あるいは状況が一変して再びプラスに転じて終わる。

ストーリーをどのように展開するのも自由だが、極限を描くことを忘れてはならない。』


心がけ次第で「凡庸な作品」を「傑作」に変えられるチャンスがあるなら、逃す手はないですよね。


⑧主人公が極限まで重圧を受けた末に現れる人間性の本質→「ここまでやるか? こんなの今まで読んだことない!」


『ストーリーが真に進展するとき、登場人物は能力や意志の力を試され、人生における大きな変化を経験して危機に直面している。』


この危機をどう乗り越えるか、を描くのがクライマックスでしょうか。もう究極の決断をした後なので引き返せない。


『簡単に言えば、ストーリーはひとつの大きな出来事である。

ストーリーの冒頭における主人公の人生の価値と、結末における価値とを比べたとき、最初の状況から最後の状況へと大きな弧(映画の弧)が描かれている必要がある。

この最後の状況、最後の変化は、絶対的で不可逆のものでなくてはならない。

シーンからシークエンス、幕へと、脚本家は小さな変化、中程度の変化、大きな変化を生み出していくが、どれも逆転は可能だ。しかし、最終幕のクライマックスだけはそうはいかない。

ストーリーとは幕の集まりであり、それらが積み重なって最終幕のクライマックス、つまり「ストーリー・クライマックス」を迎え、絶対的で不可逆の変化をもたらす。』


クライマックスまで来ているのにまだ引き返せる余地があるなら「何を見せられてるの?」ってなります。


『・クライマックスと登場人物

ハリウッドには「映画は最後の二十分間で決まる」という名言がある。

世界で通用する映画にするためには、最終幕とそのクライマックスを誰にとっても一番満足できるものにしなくてはならない。

最初の九十分がどんなに素晴らしくても、最終幕の出来が悪ければ、映画は封切り直後に打ち切りとなる。』


クライマックスの出来で全体の印象が決まってしまうし、逆に言えば、クライマックスが良いということは、そこまでの持って行き方が良かったということでしょう。


『ストーリーは人生の暗喩であり、人生は時の流れの中で生きるものだ。したがって、映画は時間芸術であり、造形芸術ではない。

お楽しみは最後に取っておくこと。それが全ての時間芸術の第一の戒律だ。

バレエの最終楽章、交響曲のコーダ、映画の最終幕とクライマックス、こうした最高潮の瞬間は、最も満足できる意義深いものにしなくてはならない。』


サビよりBメロの方が盛り上がるなら、サビ部分はカットした方がいいでしょうね。その場合はAメロからすぐサビということになりますか。


『完成した脚本は、言うまでもなく百パーセントが書き手の独創的な努力のたまものである。

その労力の大半、おそらく七十五パーセント以上は、登場人物の実像と関連する出来事を考えて配置することに費やされ、残りが台詞と情景描写に使われる。

ストーリー設計に費やされる多大な労力のうち、七十五パーセントは最終幕のクライマックスを書くことに向けられる。

ストーリーの山場は脚本家の仕事の山場でもある。』


クライマックスさえできてしまえば、後は逆算していけば何とかなりそうですよね。


『全ての意図と感情が最高潮に達し、張られた伏線が全て回収されるシーンであり、観客を満足させられるかどうかはここで決まる。

このシーンが失敗すると、作品全体が失敗に終わる。

このシーンがなければ、ストーリーなど存在しない。

想像力を結実させた最高のクライマックスを生み出せなければ、そこに至るまでのシーン、登場人物、ダイアローグ、情景描写を書いたことが全て、複雑なタイピングの練習でしかなくなる。』


クライマックスをどうするか決まってないのに書き始めることもありましたが、そのまま無駄になりそうだし、実際に無駄になりました。個人の見解です。


『名作と呼ばれるストーリーは、様々な出来事を繋げるだけでアイデアを立証していく。

人間の純粋で自然な選択と行動を積み重ねて人生観を描くことができなければ作品として失敗であり、気の利いた言葉をどれだけ並べても挽回できない。

喜劇でも悲劇でも、ストーリーの意味するところは、感情的なクライマックスで、説明的な台詞の力を借りずに行動として伝えなくてはならない。』


伝わらないんじゃないかと、つい台詞などで説明してしまいがちですが、読者の洞察力をリスペクトしないといけません。


『よく練られたストーリーでは、シーンやシークエンスか進むにつれてペースが加速する。

クライマックスが近づくにつれ、リズムやテンポが速まって徐々に各シーンが短くなり、一方でシーン内の動きが活発化する。

音楽やダンス同様、ストーリーは動的だ。脚本家は、映画の持つ感覚的な力を使って観客を幕のクライマックスへと一気に導く必要がある。

ストーリーが大きく変わるシーンでは、緊張状態が長く続き、展開もゆっくりであるのが普通だからだ。クライマックスとは短くて爆発的ということではない。

重大な変化をもたらすのがクライマックスだ。そんなシーンを手短に済ませてよいはずがない。しっかり展開させて命を吹き込まなくてはならない。

一旦ペースを落とせば、観客は次に何が起こるのかと固唾を飲んでスクリーンに見入るだろう。』


読者のことを考えたペース配分ですね。もう少し後の手順でしょうね。


『ストーリー・クライマックスはストーリーを構成する四番目の部分である。

この最大の転換点は、必ずしも音や暴力に満ちている必要はない。それよりも「意味」に満ちていることが大切だ。

もし私が世界中の映画プロデューサーに電報を送るとしたら、それは「意味が感情を生み出す」という一行だ。

意味-価値要素がプラスからマイナスへ、あるいはマイナスからプラスへ、ときにアイロニーを帯びて大きく変化する。

これは絶対的かつ不可逆的な転換だ。

この変化の持つ意味が観客の心を動かす。』


恋愛物だと価値要素「愛」が、途中いろいろあったけど、最後は最大限のプラスになってハッピーエンド、というのが望ましいでしょうか。


『変化を引き起こすアクションは、純粋で、説明を要しないものでなくてはならない。会話やナレーションで説明するのは、退屈で冗漫だ。

このアクションは、ストーリーの求めるものに適合している必要がある。

最終幕のクライマックスには脚本家の想像力の大きな飛躍が求められる。それなくしてストーリーは成立しない。』


「百一回目のプ○ポーズ」で、ウェディングドレス着て走ってくるシーン良かったねー。説明無くても行動を見ていて分かる感じ。


『クライマックスのアイデアは、何の脈絡もなく、急に頭に浮かぶものだ。

それをストーリーという虚構の中で筋の通ったものにするため、後ろから見直して理由といきさつを与えていく。

エンディングから遡って作業を進め、基本概念と対立概念によって全ての映像、ビート、アクション、会話がストーリー・クライマックスに結びついていること、

すなわち、壮大な落ちの伏線になっていることを確認する。

全てのシーンはクライマックスに照らして、テーマ上の構成上も相応のものでなくてはならない。

なくてもエンディングに影響を与えないシーンは削除すべきだ。』


「全てはクライマックスの伏線だったのかー」ってなったらいいけど。全シーンはきつくないですか。


・最後に

『世界があなたに求めるものは、想像力や技巧だけではない。何よりも、拒絶や嘲笑や失敗を恐れない勇気こそが求められている。

鮮やかで感動に満ちたストーリーを目指して、慎重に学び、大胆に書くとよい。』


ともかく、出し惜しみせず、妥協せず、才能のフルパワーをぶつけなくてならないでしょう。

「限界まで自分を追い込む」というと苦しくて辛いイメージがあったけど「各項目ごとに、自分の想像力の限界まで発想を広げてみる」だったら楽しめるかもしれない。

全ての項目で完ぺきな物を出さなくていいから、どこまで自分が発想を広げられるか見てみよう。

……その結果、どれくらいギャップが生じるのか……。直視したくないから本気出すのが怖いんでしょうね。

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