苦悩
ヘンリクは受け取った書類を机の上に置くと向き直った。
「無事に戻ってくれて、良かった。
3年近い準備をかけての侵入であったが、こんなに早く上手くいくとは思わなかった。」
ベッシーニ伯爵領の賭博は、事件の前からヘレン妃の資金源を断つ為に調べられていたのだ。
オーツは、他にも賭博場で見聞きした事を報告する。
「ルーレットのテーブルでは取引もされてました。」
「なるほどな、舞踏会を装うのは、賭博を隠すだけでなく、取引も隠していたのか。
武器商人の出入りがあるが、それか?」
「はい。」
ヘンリクも視力が回復しているが、執務室に入るまでは全盲の振りで、カデナに導かれて来る。
そのカデナも、エイドリアンの車椅子を押して登城したレイゼラも、執務室にはいない。
カデナか、レイゼラをダンスのレッスンに連れ出している。
借用書を見ながら、ヘンリクがため息をつく。
エイドリアンに差し出してきた借用書には、貴族院議員の名があった。
「これで、エリスの処刑が早かったのも納得できるな。」
エリスは毒を盛った実行犯として処刑された、マイケルの婚約者だ。
「従来なら、もっと取り調べるはずなのに、3日後に我々が毒から意識を回復した時には処刑されていた。」
ヘンリクは、自分で取り調べたかった、と言う。
男達は会員名簿と借用書を照らし合わせ、精査に入る。
潰す人間の順番を決めるのだ。
カデナとレイゼラは練習の休憩時間にお茶をしていた。
「カデナ様が男性パートも踊れるとは、驚きました。」
「子供の頃、ヘンリクとパートを交換して踊って遊んだわ。」
「殿下と!?」
「あの頃のヘンリクは優しくて、かわいい女の子でも通る顔立ちだったわ、今は大きく育ったけど。」
フフフ、とカデナが笑う。
「想像もつきません。殿下は凛凛しい顔立ちですから。
羨ましい事です。
エイドリアン様の子供の頃の思い出は他の方のものですもの。」
レイゼラの言葉に、ああ、とカデナは紅茶のカップをソーサーに戻すと、ケーキの皿を取った。
「こちらは今年1番最初のラズベリーで作らせましたのよ。」
そう言って、レイゼラの前に置いた。
「もう、ラズベリーが出ているんですか。」
パクンとレイゼラが嬉しそうに口に入れる。
それを見て、カデナは話し始めた。
「貴女はエイドリアンに求められて婚約者になったけど、皆がそうではないわ。
もっとも、エイドリアンが女性に興味があった、ってことが驚きですけどね。」
子供の頃の婚約は家同士の取り決めでなされる。
貴族ならば、そういうものだとわかっている。
「ヘンリクも変わらざるを得ない事がたくさんあったわ。
最たるものが2年前の毒。
表情が変わると、優しい顔つきも凛凛しくなるのね。」
カデナの話をレイゼラは聞いている、とても重要な事を話すつもりだとわかる。
「意識が戻った後のヘンリクの苦悩は大変なものだった。
王太子なのに、目が見えなくなったのよ・・」
カデナは言葉につまり、レイゼラを見る。
「レイゼラ、貴女は知っておかねばなりません。」
レイゼラはカデナに頷く。
王太子を降りる事の方が、続けるより楽なのはわかる。
「あの男達は才能にあふれ、とんでもない自信家だったの。」
エイドリアンを考えても、今でさえ自信家なのだ、健常の時はもっとであったろう。
「なんでも散らかす方だったヘンリクは、盲目になってから、物を大切にし、場所を覚えるようになった。
メモを取る事ができないかわりに、記憶を重視するようになった。」
カデナの言う事が簡単な事でないのは、容易に想像がつく。
エイドリアンが効率よく、物事をすると思っていたが、それも事件の後、動けない身体の替わりに身に付けたものかもしれない。
「マイケルがね・・泣いたのよ。」
今は北部に偵察に行っているストラトフォード司令官の事よね?
「すでにエリスが処刑されたと聞いて、マイケルが泣いたの。
エリスに悪かった、と言って泣いたの。」
エリスってワインに毒を入れた人よね?
レイゼラは、怒るべきところを泣くのがわからない。
「マイケルとエリスは仲のいい婚約者だったの。
けれど、あの男達は女遊びを始めたのよ。」
王太子もエイドリアンもという事だ。
「特にマイケルは、地方に訓練で行くことも多く、遊びでない女性にも手を出していたの。
エリスは何も言わず、表情には出さなかったけど、嬉しいはずがない。
マイケルは結婚するのはエリスと決めていたけど、勝手な事よね。」
エリスはクレドールの優しい言葉に惹かれたのかもしれない、殺したい程マイケルを憎んでいたのかもしれない。
でも、マイケルはエリスが好きだったんじゃないか、と思う。
だって、数度しか会ってないけどあの人の表情は、悲しそうだった。
エリスが、どういった心境でマイケルを裏切ったかは、亡くなっており、知るすべはありません。
心に秘めた、思いも悩みも苦しみも、マイケルは知ろうとしなかった事だけが事実として残るだけです。