第5話 猫が人間になりたかっ理由(わけ)
ある日の放課後、不思議な白い猫に声をかけられた私。
『明日一日あなたを猫にしてあげる。』
その言葉通り、翌朝目覚めると猫になってた私は……
「ほら。飲みな」
用務員のおじさんが、深めのお皿を、私の前に置いた。
私はあれから用務員室に連れて来られた。
なんだか逃げる気力もなくなって、ここで大人しくしていた。
丁度泣き過ぎて喉が渇いていたから、タイミングの良さに少しばかり感激してしまった。
冷蔵庫から取り出したばかりの牛乳は、ちょっとまだ冷たい冷気を帯びていておいしそうだ。
だけど、それを飲もうとして、つい両手――――今は前足と言った方がいいんだろうけど――――を使おうとして、お皿をひっくり返してしまった。
「こらこらっ。あー……こぼしたら駄目じゃないか」
「みゃぁ……(ごめんなさい……)」
用務員のおじさんは、雑巾を持ってきて、床の上のミルクを素早く拭き取ってくれた。
それからもう一度、お皿に注いでくれた。
「もうこぼすんじゃないぞ」
一瞬、どうやって飲もうかためらった。
犬や猫って、どうやって飲むんだっけ……?手は使わないんだから、顔を突っ込んで、舌先で舐めるようにして飲むんだっけ?
私はしょうがなく、顔をお皿に近付けると、猫の真似をしてお皿の中のミルクを舐めた。
――――くすん。
ほんと、こんなことしてると、つくづく今の身の上が情けなくなってくる。
なんでこんな格好してなくちゃなんないのよ……。
なんか疲れてきちゃった……。
ちっとも飲めない……。
「なんだ、もういいのかな?」
私は“もういらない”というように顔を背けると、おじさんはお皿を下げてくれた。
ジェスチャーで気持ちを伝えるしかないもんね。
言葉が話せないってじれったくてもどかしい。
こんなに不自由で悲しいものだなんて……。
今まで人間であれば言葉を話すこと、当たり前のことだと思ってた。
手を使うこと、足で歩くこと、当然のことだと受け止めてた。
でも、それって、本当はとっても貴重なことだったんだ。私はそうやって、少しずつ何かに感謝すること忘れてたのかもしれない。
自分がその立場になってみないと頭で解ってても、心で感じること出来ないのかもしれない。それが気付かなかった私への、これは罰なんだろうか?
「そうだな。そろそろ昼飯の時間だな。おまえにもなんかやんなきゃな」
おじさんはそう言うと、奥へ入って行った。
「見るところ、ただの野良子じゃないみたいだな。今風で言うと、お嬢様猫っていうところかな?それと、家出娘かな?」
おじさんは笑った。
私のこの猫の姿って、おじさんにはそう見えるのか……。
「ふつーのキャットフードかなんかしか食べないような顔してるけどなぁ……」
――――キャ、キャットフード!?
いっいらないっ!そんなの食べたことないよっ!
「あれって、結構高いらしいな。まぁ、我慢しておじさん特製の猫マンマでもご馳走になってくれ」
――――うん。うんっ。
「待ってろよ。すぐ出来るらな」
なぁになぁに?何作ってくれてるのかな。
わくわく。
って、あれ?猫マンマって言った?猫……マンマ!?
「ほうら、出来た。熱いから冷ましてやろうな。ふぅっふぅっ……」
“ふぅっふぅっ”って……。
私の前に置かれたのは、まだ湯気の出ている深皿。
そしてその中に入っていたのは、ご飯の上に三分経ったばかりのカップラーメンがかけてある、正真正銘おじさん特製の猫マンマ!
「高級キャットフードよりうまいぞ~」
うっ!おじさんっ、食べたことあるのー!?
「遠慮しなくたっていいんだぞ」
――――え、遠慮なんかしてませんけど……。
私、猫マンマの類ってだめなの。見ただけで食欲なくなっちゃんだもの。
「まだ熱いのかな?お前、猫舌だもんな」
そういう問題じゃないんだけど……。
後ずさりする私を見て、おじさんはもう一度器を取り上げると、息を吹きかけて冷ましてくれる。
その姿を見て、いい人だなぁーって思うんだけど、それを食べるのかというと、別問題になってしまうのよ!
でも、食べないとがっかりするだろうな……。
そうか、猫になったら、猫マンマ食べさせられるのか……。
それも考えに入れてなかったわ……!
「これくらい冷ましてやりゃいいだろう。そうら、食いな」
再び私の目の前に置かれる器。
ほんとにまた泣きたくなってきちゃった。
祈ってもしょうがないけど、オー、マイゴット!って、サッカーの選手みたいに頭の上で手を合わせてそう叫びたいっ。
そう思った時だった。
数人の女生徒の騒がしい声が聞こえた。
「みゃーこが猫を飼ってたなんて、知らなかったなぁ」
「そうそう。だって、みやーこ、猫ギライだったもんね」
カオリとアキコの声だ。
……ってことは、猫……何しに来たの?
「すいませぇん」
入り口で猫の声がした。
「なんだい?」
おじさんは、入り口の方へ振り向いた。
「あのぉ。さっきの猫なんですけど」
「はぁ?ああ、猫ね」
「ええ。あの猫、私の猫なんです」
「君の猫?駄目じゃないか。学校に猫なんか連れて来ちゃあ」
「すいません」
素直に謝る猫に、おじさんは苦笑して……ほんとに人がいいんだな、このおじさん。
「猫なら、おじさんが預かってるよ。仲良しになったからな。ほら……」
そう言って、おじさんは私の方を指差して振り返った。
「あそこに――――!?」
でも、その時私はそこにはいなかった。
なんでだろう。逃げなきゃって思ったんだ。
それで奥の窓から外へ飛び出して、おじさんが振り向いた時には、私は中庭へ出ていた。
疲れたよぉ……。
朝から何にも食べてなかったなぁ。
いつも朝は軽くしか取らないけど、今日はアクロバット並みの運動をしちゃったから、いつもより倍カロリーを消耗したみたい。
通学にだって本当なら片道15分が、倍はかかってるわよ。
あーん。カロリー不足~~~~!お腹すいたよー!
と、私が嘆いていると、やや?クンクン……。
何やらいい匂いが風に乗ってやってくる。
きっと二階の家庭科室だ。
この時間は調理実習のはず。
ちょっと覗いてみようかな。
気になるな。
――――そう思った時には、もう私の足は家庭教室の入り口まで運んでいた。
三年生みたい。
“チキンライスの作り方”っていうのが黒板いっぱいに書いてある。
私は一番後ろの入り口へまわって、こっそり中へ忍び込んだ。
だけどみんなもう試食を済ませて片付けはじめちゃってる。
つまんないのー。
でも、あれれ?
私のいる窓側の一番後ろの班の机の上にお皿があって、チキンライスのおむすびが3つ乗っているのを見つけた!
わ・おいしそう~。
机から人がいなくなるのを見計らって、椅子の上に飛び乗り、お皿の上を見た。
食べたいな……。
でも、これを取ったら泥棒猫になる。
んーっ……だけど、お腹空いたよぉ……。
おむすびとにらめっこをしていると、それを見つけた三年生が声を上げた。
「やだっ、猫――!」
「えっ?」
みんなが一斉に私を見る。
私は慌てて椅子から飛び降りると、窓へと駆け寄った。
ところがこっち側の窓って閉まってるの!
「こんのォ!泥棒猫!よっくもあたしのカワイイカワイイおむすびちゃんを横取りしようとしてくれたわね!」
女子プロレスラーみたいにガッシリした体形の三年生が、私の前に仁王立ちして目をギラギラさせた。
完全に食欲に?目がくらんでるっ……!?
私は全身から冷や汗が滴り落ちそうになった。
「イエス・キリストが許しても、お百姓さんが許しても、このあたしは許さないわヨッ!覚悟しなッ!」
「ふにゃぁ~~(ひぇ~~)!」
三年生が飛びかかってきて、私は無我夢中で飛びのいた。
――――ゴチン!
「痛ったあぁっっ!!」
三年生は両手でおでこを押さえると、豪快に唸った。
思いっきり机にぶつけちゃったらしい。
私はその隙に、一目散で外へ逃げ出した。
「クヤシイーーッ!食いもんの恨みは覚えとくわヨーーッ!!」
後ろで怒鳴ってる三年生の声が聞こえた。
――――まだ取ってないのに……。
でも、ごめんなさいっ。
とにかく、脱出成功!
あー……怖かった。
まだ心臓がドキドキしてる……。
呼吸を整えて、深呼吸。
その時、向かいの昇降口から数人の男の子の声がした。
「東ィ。俺さぁ、前から聞きてェと思ってたんだけど、オマエ、サッカー以外興味ねぇの?」
「なんだよいきなり」
「だからさぁ、もっと別の人生ってあると思わねぇ?」
「なんだよそれ」
「だからさぁ、つまり……例えば、昼休みにサッカーやらないでだ。屋上で空を見てると、一人の女の子がやって来て、オマエニ“スキです”って愛の告白するわけよ」
「はーん?」
「――――で、オマエはそういうの“いいなぁ”って思わねぇ?」
「なんだそりゃ」
「それそれ!オマエ中二で何気取ってんだよー。オマエのそういうとこ、俺スッゴク不安!」
「おまえこそ、中二のくせに不健康だぞ。学生らしくもっと勉学にスポーツに励め!」
「オマエ、このまま高校行っても、サッカーボールに“命”なんて書いて、大事に抱えて通学するんだろうな」
「どこの漫画の主人公だよ」
「そこんとこが分かんないんだよな。オマエさぁ、女ともよく話すくせにさぁ……昨日も、テニス部の一年生振っちゃうしさ。結構可愛かったのにさぁ。もったいない」
「もう、そのことはいいよ。早く行こうぜ」
「あー!それとも、オマエ好きな奴いたりして?」
「なんだよ……」
「いるの?いるんだろー!」
「……いないって……!」
「オマエのそういう時の態度はアヤシー!」
会話はの内容はよく聞き取れなかったけど、昇降口からの数人の男子達の声は、東クン達だった。
東クンたら、いつも早くお弁当を食べると、グラウンドへサッカーをやりに行く。
よっぽど好きなんだね。
もうサッカーボールを蹴飛ばしてる。
この時、私の頭にある考えが浮かんだ。
“今な誰も私だなんて気付かない。猫なら東クンに近付ける”
東クンは駆け寄る子猫を優しく抱き上げてくれる。きっと。
『あたし、あなたがあの男の子に気軽に近付けるようにしてあげることが出来るのよ』
異国の宝石のような謎めいた瞳を光らせて言った、猫の言葉がオーバーラップする。
そうよ。猫ばっかり人間の私を楽しんじゃってるんだもの。この際勇気を出して、私だって少しくらい今しか出来ない事したって……。
よぉし!がんばるぞっ!
「にゃぁ(東クン)♪」
突然の私の出現に、東クンは驚いて飛びのいた。
「あぶねぇな!もうすぐて蹴飛ばすとこだったじゃないか!」
東クンはそう言って、いつにない怖い顔をした。
「ふみぃ……(ごめんなさい……)」
叱られて、思わず小さくなる私。
けれど、そんな私におかまいなしといった様子で、東クンは再びボールを蹴りだした。
――――あん、待ってよ!
私も後ろについて駆けだした。
ふいに東クンがボールをキープして立ち止まった。
「こらっ!ついて、く・ん・な!あっち行けよ。しっ!」
東クンはそう言って、とっても怖い顔をした。
辺りが一瞬にしてモノクロになって行く。
私の体は完全に硬直。
時間が止まってしまった――――
「オマエ冷てぇな。おい、チビ!こっち来い」
西本君は、私に近付くと頭を撫でた。
「かわいいじゃん。こいつ、今日理科室に飛び込んで来た奴じゃんか」
他の男の子達も、私の周りにやって来たのに、東クンたら一言――――
「時間なくなるぞ。俺、先行くぜ!」
東クンは再びボールを蹴りながら、駆けて行ってしまった。
その後ろ姿を見送ったまま、私はいつまでもその場を動けなかった。
ひどいよ……。
私、何かした?
また胸がチクンと痛む。
だけど今度のは、さっき感じたのよりも、ずっと、ずっと、重症だったみたいだった――――。
寝る前にいつも思うの。
朝起きたら違う自分になっていたらいいなって……。
前の日までの事、全部忘れちゃって、失敗も、悩み事も……そして、東クンをまた好きになって……。
だけど、生まれ変わった私はホウレン草を食べたポパイのように勇気百倍!東クンのこと真っすぐ見つめて、元気よく話しかけられる。
『おはよう。東クン』
『ねぇ、ねぇ、今月のサッカーフレンド買った?今月、東クンのひいきのベルディーの特集だったね』
――――なんてね。
そんな風に……。
こんなうじうじした空想好きの女の子の南みやこじゃなくて。
そう思って……。
でも、ある朝目覚めたら猫になっていた。
全く違う自分には違いないけど……これはあんまりにも想像以上の展開だよ……。
しかも、東クンに頭を撫でてもらうのも、膝の上に甘えるのも、そんな夢さえも全部吹っ飛んだ。
東クン、猫ギライだったの?
だって、あんなに冷たいんだもの。
それとも、サッカーの邪魔しちゃったから?
そりゃあ……東クンは、子猫や子犬なんかよりも、サッカーの方が好きなんだろうけど……。
だからって――――……私、そんなに嫌われるようなことしたっけかな。
くすん……。
なんで私がこんな思いしなきゃなんないのよ……。
猫はあんなに楽しそうにしてるのに、私は東クンにやっと近付く勇気が出たって言うのに……。
『うっふっふっ』
頭の中で、猫の笑い声。
『騙されたわね、みやこ。べーっ』
悔しいよ……悔しい!
猫のウソツキ!
私のお気に入りのリボンを勝手に結んじゃってさ。
友達まで騙してくれちゃって。
そうよ。朝からご飯二杯もおかわりするし、私いつも小食なのよ。
そうだ!
今すぐにでも魔法を解いてもらおう!
いつまでも猫の思い通りになんかさせとかないよーだ。
そう思った時、昼休み終了5分前のチャイムが鳴った。
「東くーん」
猫の声がして、はっとした。
東クン達が、グラウンドから引き揚げて来るところを猫が呼び止めたのだった。
「熱心だね。練習?」
「軽いウォーミングアップ!」
「ふぅん」
「南だって、それ」
東クンが、ねこの抱えていたスケッチブックを指差す。
「軽~いウォーミングアップよ」
なんて猫が調子よく返すと、二人は目を見交わしてにっこり。
私の胸はドキドキ。
西本君達は、先に行ってしまって、東クンと猫と二人だけが残った。
「南米の選手はさ。みんな貧しくてボールなんて買えないんだ。あのマラドーナだって、ワインのコルクなんかを蹴りながら大選手になったんだぜ。すごいって思わない?」
足先で器用にボールを遊ばせていた東クンが顔を上げた。
「俺なんか、恵まれ過ぎてるって思うけど……でも、俺もボールがなくても、やっぱりサッカーやりたいって思うけどさ」
サッカーの話をしている時の東クンの目は、サッカーボールを蹴って駆け回っている時みたいにキラキラしてる。
そういう東クンを見るの、私はとっても好き。
「東クンかっこいいよ」
猫が突然言ったので、東クンは面食らったように目を丸くした。
「なんだよ、いきなり」
「東クンの頭の中って、いつもサッカーの事でいっぱいなんだね」
「サッカーバカって言いたいんだろ」
と東クンが横目で見ると、
「うん」
猫は人懐っこい笑顔で頷いた。
「でも、そういう東クンって、すっごくいいよ。かっこいいよ」
猫は急に真顔になって、東クンを見た。
「よせよ、なんか体がむず痒くなっちゃうよ」
東クンは赤くなってサッカーボールをポーンと空へ向けて蹴ると、ボールを追いかけて行こうとした。
「あ、ねぇ、東くん!白い子猫見かけなかった?」
猫が慌てて東クンの背中に向かって声をかけた。
ふぅん?猫ったら、私のことが気になるのかな?
私が邪魔するとでも思って探してたの?
「猫?」
東クンはさっきとは不釣り合いな無表情だった。
「そう、エメラルド色の目をした真っ白なかわいい子猫。ほら、実験室に入って来ちゃった――――」
「……ああ。そーいえば……昼休みが始まる前に見たけど」
「それで?」
「さぁ?どっか行っちゃったんじゃないの?」
東クンは、ボールを巧みに足で操ると、膝の上で弾ませ、手の中に収めた。
「猫に冷たいんだ。東くんて」
猫は少し怒ったような口調でつぶやくように言った。
でも、なぜだろう?
その言葉の中に、どこか悲しげな響きを感じたのは……私の気のせい?
「猫に冷たいって……」
東クンはちょっと困ったような顔をした。
「俺さ、猫って動物好きじゃないんだよね。なんかさ、自分が必要な時に甘えてくる。そういうのって俺、どうも苦手なんだよね。猫ってそういうとこない?どうも好きになれないんだよね……」
やだ。知らなかった。
東クン、私と同じ理由で猫ギライだったなんて……。
「……猫……そんなに、きらい?」
気のせいか、猫の声が震えているみたい。
「う……ん。犬の方が好きだな」
東クンが答えるその横で、猫がなんだか悲しげな目をした。
その目を見た時……
私、わかってしまった。
猫――――あなたって……。
確かに、さっきの猫の声は震えていた。
そして今、猫の心は震えている。
そう。
きっと。
猫は、ずっと東クンに片思いしていたんだね。
私みたいに、いつも遠くから見ていたんだよね。
東クンに嫌われているのを知って。
そして、人間になりたかったんだね。
人間の女の子に、なりたかったんだよね……。




