第3話 わたしになった猫・猫にされたわたし
ある朝、猫になっていたわたし。
猫の日の不思議な魔法?で猫と入れ替わってしまった。
しかもわたしになった猫は……!
人生最大のピンチです!
あの時――――
私はこの桜の木の下で、薄桃色の華吹雪に埋もれながら空想に浸ってた。
赤毛のアンのアン・シャーリーみたいに、どっぷり浸ってたの。
その時だった。
どこからか、サッカーボールが飛んできて、私の足元に転がった。
それは薄汚れたサッカーボールだった。
『ねぇ、わりい。そのボール蹴ってくんない?』
一人の男の子が向こうで叫んでた。
私は男の子とボールを見比べてから、言われた通り蹴ろうとしたの。
足を引いてね、ちょっと勢いつけてね。じゃないと、私の力じゃその子の所まで届かないと思ったから。
ところが、私ってひどい運動オンチだったのよね。
蹴ったつもりが、私ったら転んじゃってた。
勢いよく足を引き過ぎちゃったせいか、バランス失っちゃって、サッカーボールは情けなく私の足元に 転がってた。
『大丈夫っ!?』
男の子は慌てて駆け寄って来た。
『立てる?』
すっごく恥ずかしくて、私は顔を上げられなくて、耳元まで真っ赤になった顔みられたくなくて、俯いたまま頷いた。
『ほら―――』
私の目の前に手が差し出される。
私は恐る恐るその手に自分の手を伸ばすと、男の子は、転んだままの私の手を掴んで引っ張り上げた。
そして、私の汚れたスカートを一緒に払ってくれたんだけど――――……
『きゃっ!』
『あ、わりぃっ。』
男の子は慌てて手のひらを引いた。
私はお尻を叩かれて、ますます真っ赤になっちゃって、なんだか泣きたくなっちゃって……。
『足、平気?』
男の子が俯いたままの私を心配して、覗きこもうとした時――――
『おーーい東ィ!そんなとこで、女ナンパしてんなよー!練習遅れっぞぉ~~!』
男の子の友達らしい子がその子を呼んだ。
『……ったく。誰がナンパしてんだよ……。今行く!』
そう言うと、男の子は私の足元のサッカーボールを転がすと、友達の方へ蹴りだした。
男の子は私の無様な姿について、とうとう笑わなかった。
私だったら、絶対笑っちゃったと思う。
『サッカー教えてもらいたくなったら、1年8組のヒガシ・ユウ君に言ってね!』
振り向いて、そう叫んでた。その男の子が東クンだった。
私はというと、間近で顔を見られなかったけど、後ろ姿、いつまでも見送ってた。
サッカーボールを蹴って行く後ろ姿……四月の風にサラサラと黒髪を揺らして、風が通り過ぎたみたいに 爽やかで、東クンの最後の言葉は、どんな小説の言葉よりも素敵って思えた。
それが東クンと私の出会い。
それから、前半のクラスだった私と後半のクラスだった東クンとは、顔を合わせることはあまりなかっ たけど、私はそれからというもの、東クンをどこか探すようになってた。
あの時から、ずっと、東クンを見て来たんだよ。わたし……
まだ1年生の夏、レギュラーになりたくて、遅くまで一人でシュートの練習をしていたところ、試合に負けて雨の中ボールを蹴っていたところ、日曜日、近所の小学生相手にサッカーを教えてあげてたのも知ってるよ。
東クンの夢中になっているサッカーのこと知りたくて、本屋に行ってはサッカー入門書や専門誌を買い込んだ。東クン達の話にこっそり心の中で仲間入りしたくて……。
東クンがサッカー好きなように、私は東クンが好きだから、東クンが夢中でサッカーの練習するように、私はサッカーについて勉強した。
……それなのに、それなのに……。
これはいったいどういうこと!?
「へ~ぇ。南ってサッカー見てるんだ」
東クンが目を丸くした。
「オフサイドをちゃんと説明できるってことは、初心者じゃないな」
東クン達は“意外”って顔。
私だってよ!なーんで、ルールブックも読んだことない猫が知ってるのよー!
猫ったら、さっきから事もあろうに、休み時間サッカーの話題に花を咲かせている東クン達の仲間に、 ちゃっかり入っちゃって、調子よく話を合わせちゃってるの。
「どちらかというと、あたしもネイマールよりマラドーナ派だもの。東くん日本のマラドーナ目指してるんでしょ?なんかカッコイイよね」
猫はそう言うと、小首を傾げて東クンに笑いかけた。
――――なんて調子がいいの!
現在、小中学生の人気サッカー選手NO,1に上げられるネイマール。でも、なぜか東クンの中では今でもマラドーナがNO,1だ。
“マラドーナ”と言ったら、かつて世界NO,1プレイヤーで、世界中のサッカー少年の憧れであり、スーパースター選手だった。現役で活躍していたのは私達が生まれるずっと前の話だけど、サッカーファンのお父さんの影響で、子どもの頃からマラドーナのプレイ動画を見て育った東クンにとっては、今でもずっと憧れの存在なの。
世界から見たら、まだまだ日本のサッカーはレベルが低いのかもしれないけど、海外の有名なプロリーグで活躍できる選手も増えて来た現在、いつかきっと、日本からもマラドーナを超えるスーパースターが 現れる日が、来るかもしれない。
そして、それが東クンだって……私も一緒に夢見てる。
いつも一生懸命、自分の夢に向かって生きている、ひたむきな東クンが好き……。
「か・ら・か・う・な!」
東クンたら、赤くなってる……。
東クンのこんな表情見るのって、初めてって気がする。
「やだっ。東クンったら照れてるぅ~」
猫が目をクリンとさせて、悪戯っぽく笑う。
「ばーか」
なんて、東クンも一緒になって笑う。
――――むむむ……!
私だってあんなに間近で話したことなんてほとんど……ううん、たったの一回くらいしかないのに……。もぉ。気易く東クンと会話しないでよぉ。
だいたいね。調子良すぎるんだから。
東クン達のそばを何気なく通り過ぎるふりして
『ほんと、サッカー好きなのね』
とかなんとか笑いかけたりして。
次には今まで東クン達とは会話したこともない南みやこの猫は、ちゃっかり話の中へ入っちゃってるんだもの。
見習うべきかもしんないけど……。
「でもさ……マラドーナみたいな選手になりたいよな。いつか世界のすっごい選手を相手に、思う存分プレーできるような選手になりたいな」
東クンはそう言って、ちょっと夢見るように黒い瞳を輝かせた。
――――なれる!なれるよ、絶対に。
東クンなら……!
だって、いつもあんなに一生懸命練習してるんだもの……。
私だって、そんな東クンをこっそりだけど、陰ながら応援してるんだよ……。
「東くんなら、きっとなれるよ」
私が心の中で叫ぶと同時に、猫が同じことを口にした時、始業ベルが鳴った。
I am not so happy as you……
――――わたしはあなたほど幸福じゃない。
今の私の気持ちって、まさにその通りかな。
それでもって、“幸福”なのは言うまでもなく猫なわけで。
そう。おそらく、これって、始めっから猫の計画だったわけで、私はまんまと騙されたんじゃないかな……って。
猫は自分が人間になりたくて、私にあんなこと言ったんじゃないのかなって?
『――――約束よ』
そう言って笑った猫の怪しい目がふっと浮かんだ。
そうだ。きっとそうだ。
猫は自分が人間になりたくて……。
しかも、私の恋敵?
やだ、木から落っこちそうになったじゃないの……。
ライバルはそれでなくても多いって言うのに、猫までがライバルなんて……!
しかも、猫は私になりすまして、東クンに大接近している。
そりゃあね。私はいつも東クンとはまともに会話もできないけど。
でもね。私の姿をした猫が、東クンに近付くのを見るのは複雑な気分だよ。
自分が自分に嫉妬してるみたいで、なんか変な感じ。
だけど、あれは私じゃないんだもの。
そうだよ。あれは私じゃない……。
「じゃ、今の所を訳せる人?」
先生の問いに素早く手を挙げたのは、なんと猫だった。
――――でも、まさかね?
猫が英語を訳すなんてこと、できるわけないでしょ……。
いくら人間の言葉が解るって言ったって……英語だよ!?英語!
漢字のテスト満点取ったって言ったって……ね!?
「ほぉ~お。珍しいな。」
猫を見つけた先生は、ちょっと驚いて、メガネの縁を指でつまんだ。
「じゃ、南。今の所をもう一度読んでから訳して」
「はい」
猫はなんだか自信ありげに顔を上げると、優雅な物腰で立ちあがり、滑らかな口調で英文を読み上げちゃった!
まるで歌うように。
まるで、英語というものが猫の口から生まれるかのように……。
クラス全員、先生までもが、猫の英語に聞き惚れてしまった。
まったく、なんてことしてくれちゃったのよ……!
自慢じゃないけど、私はあんなに上手く英語話せない。
おまけに、一つも間違わない正確な文法で、読み上げた英文を、いとも簡単に日本語に置き換えると、ふわりと椅子に腰を下した。
し、信じられない……。
猫社会まで、国際化の波が押し寄せてるっていうの?
「はい。よろしい。そう、ここの所の訳は今南が訳したとおりでいいだろう。パーフェクトな訳だな。発音も言うことなし。これくらいいつも予習してあると満点だぞ」
――――はいはい。
どーせいつもの私じゃこうは行きませんよね……だ。
猫がくすっと笑った。
照れて笑ったと言うよりも、私のこと笑ったみたいで、私はカーッと顔が赤くなった。
――――ふんだっ。
おもしろくない……。
こんな所で猫の活躍を見てたって、ちーっともおもしろくないもん。
あ……まただ。
猫ったら、また東クンを見てる。
みんなが先生の後をついて英文を読み上げる間、教科書読む振りをして、こっそり東クンを見てる。
私の胸の中が熱くなってきて……痛っ!
前足の先に突然痛みが走って、見たら木の皮が食い込んでた。
私ったら、無意識のうちに、枝に爪を立てていたみたいだ。
やだ……どうして。
今までこんな風に感じたことなかった……。
これが嫉妬?
猫に嫉妬するなんて、私も最低だ……。
自分が情けなくなる……。
――――どうせ、私はただの女の子。
漢字のテストで満点取って、英文すらすら読んで訳してしまえる猫にも劣る。平凡な人間。
相手は魔法の使える猫。
人間の男の子を好きになっちゃう、とんでもない猫。
私より積極的で大胆で――――
それにしたって……なんで相手が東クンなのよー!
――――そう思うけど。
私は猫も敵わないんだから……くすん。
だって、だって……東クンとあんな風に愉快に笑いながら話したことなんてないし、考えただけで恥ずかしいもん。
そりゃあ――――そりゃあね。
そんな風に気軽に会話できたら……どんなに楽しいだろうなぁって思うけど、どうしても女の子の友達や、他の男の子と話すようにはいかないんだもの。
おかしいよね。
好きになった分だけ意識しちゃって、なんて話していいか分からなくて、言葉が出て来なくなっちゃって……。
そんな風だから、“おはよう”だって“バイバイ”だって、そんな簡単な挨拶でさえ口に出来なくて……。
東クンに大きな声で“おはよう”って言えたらどんなにいいだろう……。
サッカーボールを蹴りながら、まだ登校時間より少し早い通学路を、東クンがやって来る。
私はそれを待ちかまえていて、まるで偶然のように顔を合わす。
『おはよう~東クン』
私は極上のスマイルを東クンにパス。
『おはよう!早いね南』
東クンも朝日のようなキラキラした笑顔を私に返す。
『うん。今日は早く目が覚めちゃって。こんないい天気だし、なんだかすぐにでも歩いて行きたくなって』
『早起きは三文の得だからな!』
『うん、ほんと。今朝はとっても得した!未来の日本代表に会えたもんね』
『うまい!じゃ、南にパス!』
東クンがボールを私の足元へと蹴る。
『OK!』
って私はそれをドリブルして東クンにパス。
『よぉし、いいぞ』
っていう具合に、二人でサッカーボールを蹴りながら登校なんかしたりして……。
――――いいなぁ……そんなの……。
でも、それってあくまでも空想。
私の独りよがりの儚い夢でしかない。
いつも夢だけが私の中でどんどん膨らんでって、勝手に独り歩きしてしまう。
だから余計に現実の私は悲しい片思い……。
そんな私だから、どうせ陰から見てるだけしかできないけれど、東クンに近付く私の姿をした猫を見ていると、ジェラシー……ううん、違う。
これはたぶん――――
そう、きっと……。
私は猫がうらやましいんだ。
私がしたくても出来ないことを、とっても自然にやってしまえる猫の行動力が、うらやましいだけなんだ……。
私は、あんな風に話しかけられる勇気がないから……。
いつだってそうだった。
ほんのちょっと勇気を出せばよいだけのことだったのかもしれない、あの時も……
――――それは、とある昼休みの出来事。
『ぶぁーっはっはっ!オマエなんよ、これー!』
『わ・ら・う・なっ!!』
『笑うなって言ってもよ、これ見りゃ誰だって笑うぜ~!!』
『だから笑うなってのっ!』
『ひっひっひっ……』
『おまえ俺の顔面シュートそんなにくらいたいわけ?人がなー、一生懸命書いたもんをなー!』
『そう言ってもよ、サッカー部に入部しようと思ってるかわいい新入生がこれを見たら、きっと考えちゃうかもな。昔っからオマエ字ィどヘタだったけど、相変わらずひでぇの』
『俺はな、サッカー部なの!書道部じゃないの!わかったかよっ!』
東クンとは通称“東西コンビ”と呼ばれている西本君とのいつものじゃれあいを聞きながら、私はその時こっそり笑ってた。
どうやら東クン達、昨日部長から言われた新入生勧誘のポスターで、二年は一人必ず二枚書いてこいっていうのを守ったらしい。
東クンそういうとこ真面目だもんね。
『でもよ、できるだけ目立って書けよ、って言った部長の指示通りだよな』
なんて平気でからかう西本君を、後ろから羽交い絞めにしたりしているの。おかし……。
『かえせよっ!』
東クンは西本君の手から画用紙を取り上げようとして、手を伸ばした。
ところが、西本君がそれを振りまわしているうちに風に飛ばされて――――
なんと、私の足元に!
――――わっ……!
思わず足元見ちゃった。
――――すっごい……。
これは、あんまりにもすごいわ……と思ってしまった。
東クンらしい堂々とした字が、画用紙いっぱいに笑っちゃってるわ。
『わーーーーっ!』
『!!』
いきなり東クンが大声出したので、全身金縛りみたいになってしまった。
『南ぃ……見たな?見ただろっ!』
東クンは私に近寄って来ながら言った。
――――ぶるんぶるんっ。
私は一生懸命首を横に振った。
そのとたん、ドキッとするほど人懐っこい笑顔。
『そおだよな。なんで気がつかなかったんだろ。南、絵得意だったんだよな。字も綺麗だし。悪りぃっ。サッカー部のポスター描いてくんない?』
東クンはそう言うと、長い指を合わせて。
『なっ!このサッカーの天才児東クンを助けると思って』
と言って、片目を瞑った。
『そっ!でもって、字のどヘタな』
すかさず横から西本君がちゃちゃを入れて、東クンにもう一度羽交い絞めにされそうになった。
『うふふっ』
思わず口に出して笑っちゃって、驚いたように振り向く東クン。
私は慌てて口を押さえる。
――――いっけない……。
困った。私、すっごーく困った……。
『あ……だ……だめっ』
私は必死になって首を振った。
『……そうだよな。南に描かせたって、しょうがないもんな……』
東クンは気が抜けたような声でそう言うと、足元のポスターを拾った。
本当は、二つ返事で『OK』って言いたかったの。『いいよっ。』って……。
でも……言えなかった。
東クンはあんなに親しげに笑いかけてくれたのに……私は……私は……そんな東クンに背を向けてしまった。
いつも……そうだった。
差しのべてくれる手を、私は振り払ってた。
だから友達の握手だって交わせない。
東クンに、ほんのちょっとでも近付ける神様がくれたチャンスを、私は無駄にしてきたのかもしれない。
あの時、『うん。いいよ。』って気軽に言えてたら……
軽くジョークで『やーだよ。』なんてお茶目に言えてたら……。
そんな私だったらよかったのにって。
でも……言えなかったんだもの。
言えないんだもの。
例え、東クンが初めて会った日の事を覚えていないとしても、あのみっともない運動オンチの女の子が私だって……いつかきっとわかっちゃうもの。
その時が怖くて……。
きっと完全に嫌われちゃう。
それなら……このままの方がいい。
どうせ憧れだもん。
いつか私の胸の中を走り過ぎて行っちゃうんだから。
だから――――
今は心の中で好き。
大好き……猫になっても、好き。
たとえ私の悲しい片思いでも……。




