第2話 猫になったわたし・わたしになった猫
ある朝目覚めたわたしは猫になっていた!
平凡な女子中学生なはずだったのに……!お願い、夢なら早く覚めて!
『明日一日、猫にしてあげる』
そう言った猫は、私になりすまして学校へ行ってしまった。
猫ったら、いったいどういうつもりなの?
でもって、その間に私は、こんな格好でどうしてろっていうのよ?
『いいわ。あたし、あなたがあの男の子に気楽に近付けるようにしてあげる』
なーんて、うまいこと言っといて~。
昼間は東クンだって学校行っちゃってるし……意味ないじゃないのー!
どうせかわってくれるんなら日曜日か、せめて土曜日にでもしてくれればよかったのに……。
――――って、そうじゃなくてっ!
あーあ……。今日一日何してよう……。
東クンの家へ行ってみたいけど……わかんないし。
学校へ行ってみようか……。
一時限目なんだっけ?
――――国語か……。
えーっ!!たーいへん!!
今日は授業の始めに、漢字の小テストがあるんじゃなかったっけ!
いっくら簡単なテストとはいえ、0点なんか取られたら、後で恥をかくのはこの私じゃないっ。
間違ってもカンニングなんかしないだろうなぁ……。何しろ、“泥棒猫”なんて言葉があるくらいだもんね。人の答えを盗むなんて朝飯前だったりなんかする……?
――――っと、こうしちゃいられないっ!
私を猫にしてやるだなんて勝手な約束しておいて、結局私と入れ替わったってことじゃない。何をしでかすんだか、わかったものじゃないもの。ちゃんと見張ってなくちゃっ。
『あなた、あの男の子のこと、好き、なんでしょう?』
突然、昨日猫に冷やかされた事を思い出しちゃった。
なんだか、いやぁ~な予感がする……。
東クンの前で、大変な失敗をやらかしてくれなきゃいいけど……。
そうとなったら、今すぐ学校へ行かなくっちゃ!
――――よいしょっとっ。
私は慣れない手つきで爪を使うと、桜の木の皮に引っかけた。
そう、今私がしようとしていること、なんと木登り。
通い慣れたはずの通学路に、いつもより時間をかけて、なんとか学校に辿りついた私は、目下桜の木に登ろうと格闘中。
考えてみたら、木登りなんかするの、15年間生きてきてこれが初めてだったかも。
今回みたいなハプニングでも起きなかったら、きっと一生しなかっただろうな。
豚だっておだてりゃ木に登るなんてゆーけど、中学二年にもなって、こともあろうに猫になんかなっちゃって、木に登るだなんて……思ってもみなかったよ……ふぇんっ。
――――くぅ~……。
手足に力が入んないよっ。
――――……と……ととっ……!
あともうちょっとなのにぃ……。
――――うっく……くくっ……!
登りかけては、ずり落ちての繰り返し。
何度も何度もそれを繰り返しながら、それでも一生懸命踏ん張る。
――――ガンバレ!わたし!
自分で自分を励まして。
遂に何度も格闘の末、なんとかよじのぼることに成功した。
――――はー……っ。ぜぃぜぃ……。
自慢じゃないけど、運動オンチの私が、ここまで出来ただなんて、自分で自分を褒めてあげたいっていうか、……ほんと必死だったけど(涙目)。
必死と言えば、自分の部屋から抜け出した時もスリリングだった。
アクション映画のスタントマンさながらで。
運よくお母さんが庭にクッションを干してあったから良かったものの、いくら子猫の軽い身とは言え、不時着してたら、翌日子猫の死骸じゃなくて、人間の死体が一つ、庭に転がっていることになりかねなかったもの。
――――ふー……っ。
丁度2年1組の教室の高さにある、枝の上まで辿り着いた。
私は呼吸を整えると、ペタンと木の上にお腹をつけた。
私達二年生は、南校舎の二階なのだけど、都合のいいことに私のクラスの目の前には、大きな桜の枝が伸びている。
つまり、教室の様子を覗く為に、苦労してこの桜の木と格闘していたわけなんだ。
まだ荒い呼吸をしながら猫を探す。
窓側から二列目の、前から三番目の私の席に猫がいる。
どうなの?あのすました顔。
漢字のテストがあるってみんなが騒いでいても、慌てる様子はぜーんぜんない。
わかってない……。
テストなのよ、テ・ス・ト!
もぉっ……。
私は前足の上にガックリと頭を乗っけた。
桜の葉をゆらして風が通り抜ける。
ふわりと毛の中にまで風が入って、汗ばんだ体温を冷ましてくれる。
冷たい木肌も気持ちいい。
いつのまにか、呼吸も楽になっていた。
――――そういえば、すべてはこの桜から始まったんだ……。
ふと、一年前のことを思い返しながら、私は桜の葉が風に揺れる音を聞いていた。
私にとってこの桜は、特別な桜だ……。
我が校の名物の一つでもあるこの桜は、エドヒガンという種類で、一般的に知られているソメイヨシノとは違って高木だ。幹の太さは、大人が二人で手を繋いで抱えられるくらい。樹齢1000年は超えてるらしい。
でも、名物と言われるのはそれだけの理由じゃなくて。
この桜の木に伝説があるから。
この学校を卒業した恋人同士が、この桜の木を真ん中にして手を繋いで愛を誓うと、幸せになれるという、伝説。
いったいいつから、誰が言い出したのかは不明だけど。
それが本当だったら、素敵だなって、ちょっと憧れる。だから……。
そんな伝説のある、この桜の木が……私も大好きなんだ。
春になると、窓の外がピンク一色になるくらいの花を咲かせて……思わず見とれちゃうんだ。
――――そう、あの時も……。
やっぱり桜って、木登りするよりお花見するものだよなぁ……。
まったく、なんだって私がこんな目にあわなきゃなんないの……。
これも、みーんなあの猫のせい……。
その猫はと言うと、いとも涼しげに漢字のテストを受けている。
でも……どうやら真面目にやってるみたい。
取り敢えず、よかった……かな。
ほっと胸を撫で下ろした所で、不意に、昨日猫が言っていた言葉を思い出した。
『あたし達って、人間にそう思わせておくの。人間とうまくやって行く為に、そうしてるってだけ。欺いてるんじゃないわ。これは人間に対する最高の思いやりよ。』
もし、本当にそうだとしたら、猫っていう生き物は、なんて奇妙なんだろう。
何考えてるんだか、さっぱり解んないや。
不気味だよ。
考えてみれば、猫って人間を、ううん、世間を観察してるところがあるもんね。
かわいがってても知らない間に、いつとはなしに消えてしまっていたり。
気紛れで、自分勝手で、自由だ。
いつだったっけ?テレビの動物番組で、犬と猫の特性について言ってたっけ。
そもそも猫と人間の付き合いは、今から約五千年程前に、穀物を荒らす鼠を捕らえさせる為に、野生の 猫を飼い慣らしたことから始まったと言われるらしい。何しろ古代エジプトの絵巻にも描かれているくらいだから、人間とは古い付き合いかも知れない。
と言っても、犬は太古の昔から人間の良きパートナーだったし、歴史から見ても人間との深い繋がりは、犬の方がずっと深いかもしれないけど。
ただ、犬と猫の人間との繋がりの違いは、そんなことじゃなくて、例えば――――猫が飼い主の膝の上で寝るとする。それは人間に全てを委ねて心を許している犬の愛情とは少し違ったもので、猫は人間の膝を一つのテリトリーとして考えているだけのことだと言うのね。
私はその話を聞いた時、ショックだった。
なんかそういうの、悲しい。
小学校の頃、給食時になると、決まって現れる猫がいて、教室の窓の外で甘えた声で鳴き出した。ところが、一度給食の時間とは違う時間に、校庭の隅を通り抜けた猫を見た時、声を掛けたけど、見向きもされなかった。それどころか、私が近寄ろうとすると気付いたのに、何を思ったのか、さっと足早に走り去ってしまった。
私が猫を好きじゃなくなったのは、そんなことがあったからでもある。
だから、昨日も猫に私の片思いを見抜かれた時、正直言って、背中にぞくっと来た。
もしかして、ずうっと前から私のこと監視してたんじゃないかって思ったら、猫に対する一種の嫌悪感を感じちゃったの。
「はい。時間です」
先生の声で、私はふいに我に返った。
「では、隣同士交換して採点して下さい」
あー……神様……。
私の心配を余所に、猫はと言うと隣の西本君の答案用紙と取り換えると、自信ありげな笑みまで浮かべて、私の愛用のリボンとレースの付いたペンポーチから、赤ボールペンを取りだした。
私は西本君の受け取った猫の答案用紙が気になって、木の上から首を長―くした、けど、いくら私の目が左右とも2.0だって、ここからじゃ見えるはずもなく、せいぜい西本君のボールペンを握る手の動きで、 円をいくつ描くが見るだけ。
一つ。二つ。
三つ、四つ、五つ……え?
な、なに?
なんと、西本君の手は、ぐるぐると円を描きっぱなし!
少なくとも、ここから見受ける限りでは、あの猫の答案は、満点……!
私はあんぐりと口を開けてしまった。
「はい。じゃあ、採点が済んだら元の持ち主に戻して」
西本君は、“さすが”って顔して、猫に答案を返す。
そりゃあね。私だって国語は好きだし、得意科目の一つだけど、猫に満点なんか取られちゃうと、0点取られるのと同じくらい、これはこれで複雑……。
「みんな自分の答案用紙戻ってきたかしら?恒例“トーナメント”行くわよ」
トーナメント――――勝ち抜き戦――――
1問2点で25問中まず18問36点以上の人に手を挙げさせて、50点満点まで何人手を挙げていられるかというわけ。
逆にこれが36点以下からっていうとみじめだけど、これなら励みになるからって言う先生の考えなの。
38点で東クンが手を下げた。
東クンって国語が苦手らしいんだ。
理数系のが得意みたい。
理数系が苦手な私とは反対。
私の場合、特に理科が強敵。
教科書の解剖写真なんか見ると、そっとしちゃうんだ。
だから、いつも国語とか美術や音楽でテストの点数稼いでるけど、東クンはよく休み時間に数学の宿題を教えてあげたりしてるもんね。
『まぁーったく、おまえら何やってんの?俺、昨日なんか死ぬほど疲れてたんだぜ。楽するなよ楽を!』
『そーゆーなよ。帰りにハンバーガーおごるからサ』
『でもヨ、東って、サッカーだけしか才能ないかと思ったけど、ほんとサッカー馬鹿じゃなくて良かったよなっ』
『誰がどう見たって体育会系だもんな』
『おまえらには、もうぜってぃノート見せねぇ!』
――――なーんて会話をよく耳にしながら、私はこっそり笑ったりして。
なんだかんだ言って、東クンの面倒見がよくて人がいい所とか、大好き。
東クンに数学教えてもらったらどんなに幸せかなぁ。
私は一生懸命勉強しちゃうな。
あ、でもぼーっとしちゃって頭に入らなかったりして……えへへ。
「なぁに?南さんだけ?たるんでるわよ、みんな。二学期の中間テストが近付いてるから、もっとみんな勉強しているかと思ったわよ?」
国語の広田先生の声で、我に返っちゃった。
私が一人妄想の世界にいる間、手を挙げているのは猫一人きりだった。
先生は視線を教室中ぐるりと一周させてから、ため息をついた。
「今日のは簡単だったはずよ。この間もそうだったけど、みんなとっても初歩的なミスなの。あ、ごめんなさい。南さん手を下して」
優雅な動き猫が手を下す。
なんだかわざとらしいそぶりだ。
「よくある一例で説明するとね」
そう言うと、先生はチョークを持って黒板に向かった。
「みんなが間違えやすい漢字の中で、特に“衤”と“礻”の間違えね」
先生は大きく書きながら――――
「それから……“恵”のここ、右上に点付け加えちゃったり、逆に“博”の右上の点取っちゃったり……未来の日本代表、ヒガシ・ユウ君」
先生が突然その名を呼んだので、私はドッキリして、危うく枝から滑り落ちそうになった。
「東君の“裕”は余裕の裕と書きます。東君はもちろん間違えないわよね」
うん。私だって、目を瞑ってたって正確に書けるっ。
「でも、中にはさっきも言ったように“衤”の部分を“ネ”と間違って覚えている人がいて、間違って書いている人が多いけど、そもそも“裕”の編が示編じゃなくて、衣編なのには、ちゃんと訳があるのよ。これには衣と谷の二つの文字の構成から成るのだけど、“衣”は衣服を意味して、“谷”は音を表すと同時にゆたかにある――――つまりは心にゆとりがあるということを言ってるからなのよ。ね、東君」
「いよっ!偉大なるサッカー少年!」
東君とドタバタコンビの西本君の野次に、みんながどっと大爆笑。
西本君に『うるせー』って言いながら、ちょっと照れたように赤くなる東クン。なんかカワイイ……。
「というわけで、このように漢字の一つ一つの意味をつかみ取ってほしいな。それらを理解しようとすることは、物事を理解することに繋がって、これから沢山の人と出会って行くみんなにとって、きっと役立つと思うわ。では、答案用紙を集めて。いつものように手を挙げなかった人は、“漢字の演習”の113ページから115ページまでをノートに書いて提出のこと」
――――漢字も意味を持っている。……か。言葉と同じように。
でも、今の私の言葉は自分自身で聞いてもわからない猫の言葉……。
猫を見る。
猫ったら、なんだか楽しそうにして授業を受けている。
幸せそうな顔……。
もうちょっと緊張してもいいのに。
あ。余所見なんかして。
先生が黒板に向かう度に、みんなひたすらノートを取っているのに、猫ったらチラチラ余所見している。
何見てるのよ?
ちゃんとノート取ってよぉ……。
猫ったら……も~っ……どこ見て……?
私は猫の視線を辿って行って――――……
「……!」
――――まさか!
なにっ、どういうこと!?
猫の視線の先には、なんと――――
私の大好きな東クンがいたんだ……!




