いったい誰が語ってるのかわからないシーン
彼女(え? あたしのこと?)の座るカウンターの後ろ。テーブル席に同じ飯田橋高校の制服着たグループが座っている。ダークブラウンのテーブルを寄せ並べて、その上に書類とファイルの山を構築して、何か小難しい面持ちで話をしている。その一つ隣のテーブルには見覚えのあるスタジャンを椅子の背もたれにかけ、利発そうな女の子が所在無げにグラスを見守っている。女の子というよりはお姉さんな感じもするその生徒は、グラスの中の最後の氷が溶け去るの見届け、やがて立ち上がる。
“……では、詳細が決まりましたら、またご連絡ください”
凛としたその言葉の端に少々の棘と諦めをない混ぜにしながら、足早にその場を辞去する。カウンターのおじさんに軽く会釈して、折り畳んだスタジャンを小脇に抱えて店の外へ出てゆく。
“ったく、いい加減にして欲しいもんだわっ! この期に及んで競技増やして順番変えるなんて、仕事増えちゃうじゃないの。ただでさえクソ忙しいこの時期にっ! もーツイてないわねえ……、それにしても新入生が一人しか入らないとかってどういう事態なのよ! とっとと引き継いで引退しなきゃ、わたしの人生計画メチャクチャよっ!!”
などと頭の中で愚痴りながら、見目……だけは麗しき飯田橋高校放送委員会委員長2年3組神崎美鈴は、信号がせっかちに瞬き始めた靖国通りを横断する。そんなにイヤなら委員会を辞めれば済むような気もするのだが、妙に責任感のある委員長のアタマにそのような考えが浮かぶはずも無く、ストレスのかたまりとなって、校舎の方へつかつか歩いてゆく。裏門から入り、階段を上がり、放送室に入る。いつものようにたゆたう珈琲の香り。ヘッドホンを耳にあて、オープンリールをがちゃがちゃいわせている早瀬、が委員長のご帰還に気がつき、振り返る。
「おかえり。呼び出し依頼溜まってるよ」
「って、なんでやってくれないのよっ!」
「……だってアナウンスしようとすると神崎怒るじゃないか」
「当然よ! ろくに発声練習もやんないエンジニアにアナウンスなんか……そもそも雪ちゃんはどうしたのよ」
「あぁ、白山さんなら四限水泳だから、時間かかってるんじゃないか?」
壁にかかった行動予定表。委員たち各自の時間割やら行き先やらが複雑に書き込まれ、傍目には何がなにやら判然としない、その表を見ながら早瀬は答える。
「着替えとかあるし、それ以外にも女の子はいろいろ大変なんでしょ」
「かかり過ぎよ! ったく、なんでうちの代は二人しかいないのかしら」
「最初はあんなにいたのにな」
「あれは加瀬先輩目当てよ! 今年も歌って踊ってくれればよかったのに……」
「……じゃ、誰が調光卓つくのさ」
突然、神崎は早瀬の顔をのぞき込む。
「な、なんだよ」
「……間違ってもアンタ目当ての新入生なんて来ないわよね〜」
「そりゃ、そうだ」
「今年は新入生たくさん入れて引き継ぎやってとっとと引退するからね! 早瀬もしっかり勧誘すんのよっ!」
「はいはい……」
「ふふーん、人ごとだと思って……早瀬にいいこと教えたげる」
「……いいこと?」
「おめでと〜。体育祭。競技増えま〜す&順番変わりま〜す」
今度は早瀬がげんなりする番だった。ぼさぼさに伸びた髪の毛(本人曰く流行りの無造作ヘア)まで、こころなしかやつれている。
「そんな、今からかよ……」
意外にもへこんでいる早瀬を見て、神崎は少し得意気になる。
「あら、早瀬殿も落胆なさることがあるのね」
「まぁ、一応人間なんでね……」
「一応って自覚あるんだぁ」
「……ほら呼び出し、呼び出し」
一つ伸びをして神崎は放送卓に腰をおろす。背筋を伸ばし、メモを一瞥する。相変わらず憎たらしい程の達筆で呼び出し依頼の内容が書かれている。3年5組山下→体育科、式実委員長→上、吹奏楽部部長→上、天文部部長→天文台、水部部長→体育科、などなど。既にメモはちょっとした紙束になっている。と、そこへさらに電話がかかってくる。アナウンスに備え、着信ランプに切り替えてある電話を早瀬が取る。
“はい、放送室です。はい、はい、生徒会長を英語科。はい……”
そうこうしている内に委員長が放送卓の出力選択スイッチをいじり、呼び出しチャイムを再生し、カフをぐいと押し上げ、アナウンスを開始する。
“お呼出いたします。3年5組の山下さん、3年5組の山下さん……”
増えたメモを神崎の脇の紙束の一番下に追加して、早瀬はオープンリールの前に戻る。なぜ21世紀に入っていい加減たっているのにオープンリールで編集せねばならぬのかというと、それは今しがたまでのやり取りが嘘のように美しい日本語、正しい発音で“お呼び出し”をしている我らが委員長が、この間の新入生歓迎ステージのバラシの時に、MacBookProをニュートンの法則に従わせてしまったからに他ならなかった。結果、6月の体育祭に向けて、各競技やチアリーディング、パフォーマンスなどで使用する音楽の編集と再生を、もはや骨董品となったこのオープンリールデッキ、OTALLI MX-5050に頼らざるを得ない状況となったのだ。
新たな競技追加と順番の変更は、せっかくつくったAリールやらBリールの編集やり直しぃ〜! という単純な事実として早瀬へ跳ね返ってくる。Macだったら何回かのクリックとかドラッグで済む作業が、オープンリールだと余裕で数時間程度かかってしまうことだってある。また当日アナウンスを担当する神崎も、原稿やら何やらを全部見直すことになる。これはますます新入生獲得が至上の命題となってくる。
「そもそも新歓行事にまともに参加できなかったのが痛かったわね……」
溜まっていたアナウンスをこなし、一息ついた神崎はつぶやく。
「……一応客席にブース組んだし、リーフレットに名前も載せてもらったから、少しは宣伝になったはずなんだけどな……」
と早瀬。
結局4月29日現在、放送委員会に新入委員として迎えられていたのは、1年5組の白山雪子ただ一人だった。
「だいたい、委員の絶対数が少なきゃ、予算の枠だってどんどん削られるんだからね」
「そりゃ、確かに問題だな」
「そもそも表の貼り紙がいい加減すぎるんじゃない?」
「こんな校舎と校舎の隙間みたいな廊下、誰も通らないよ……」
「わかった、アンタちょっと一年生の教室行って新入生引っ張ってきなさい」
「いいけど神崎編集してくれんの?」
「……なんか最近反抗的ね早瀬」
「一応人間ですので」
神崎はふと壁の行動予定表に目をやる。ちょうど一人分だけ綺麗さっぱりの欄がある。“長期休暇中♪”とだけ書き残して。どうせろくでもないことしてるんだわ。先輩。
「……うーん。お願いしてみるかな」
ふーっと一息ついて、神崎は自分のマグに珈琲を注ぐ。早瀬のことはどうでもいいけど、奴のいれた珈琲だけは別なのだ。何の変哲もないペーパードリップでいれた珈琲なのだが、その香り高い液体は、神崎の珈琲感を一新させてしまった。自宅でどういう淹れかたをしても放送室の珈琲にはかなわないのよねぇ。いっそのこと珈琲研究会とかにしちゃおうか、ここ。
呼び出しが一段落したので、神崎はデスクワークに戻る。先ほど喫茶“dutch”で行われていた式典実行委員会体育祭実行部第13回定例会の結果をふまえ、事細かに作り上げていた司会進行用のアナウンス原稿や進行表やその他雑多な書類の修正や作成をすさまじい勢いでこなしてゆく。途中で何度か呼び出し依頼の電話がかかり、アナウンス業務もこなす。
その脇では早瀬がこれまたすさまじい勢いで編集を進める。傍目から見ればそれはまるで本物の報道局か何かのように見えたかも知れない。しかし、彼らを見るものなどいないのだ。新入生歓迎週間ということで開け放たれた扉の外は薄暗い辺境の廊下。人が通るはずもなく、ただうすら寒いばかりの空気に珈琲の香りが彷徨っていくだけ。
静まり返った放送室にカチッと小さな音が響く。放送卓がマスタークロックからのリレー回路でオーバーライドされ、デジタルプログラムチャイムが予鈴のウェストミンスターの鐘を再生し始める。神崎と早瀬が没頭していた仕事から我に帰り、普通の高校生に戻る。じゃ放課後、といって二人はそれぞれの教室へ戻る。
この見目麗しき委員長と髪の毛ぼさぼさの冴えないメガネ男の組み合わせ。放送室が普段は閉ざされた密室ということもあり、一部の生徒の間では“アイツら絶対ヒトに云えないようなうらやましいことしてるんだぜ”的な邪推をされていたりもするのだが、そんな小学生レベルの噂を聞かされた二人はおそらくこう答えるだろう、
“そんなことしてる暇があったら仕事するわ/するよ”
と。
ちょうど同じ時、期待の新入委員、白山雪子が何をしていたかというと、保健室のベッドで仰向けになって、この学校に入学したことをまた少し後悔していたところであった。
“水深3mとかって超絶無理ゲーじゃない?”
生まれて初めて足のつかないトコで泳がされ、プールの底が遥か彼方に見えたところで気が遠くなり、一歩間違えれば溺死というところで、体育科の先生に腰紐で一本釣りされて、とりあえず保健室へ運ばれた白山雪子の二度目の後悔は始まったばかりであった……。