その一年半ばかり前、いろいろと寒い日々
2月24日。東京都立飯田橋高等学校入学試験の日。あたしはそれなりに緊張していた。模試でA判定だったとは云え、出願したのがここ一校きりなのであとがない。由緒正しく歴史と実績のある進学校。充実の設備と独自のカリキュラム。活発な部活動と盛んな学校行事。そして何より可愛い制服と電車通学と私自身の経済的状況が志望理由。
JR総武線を飯田橋駅で降りて西口を出て左側、教会のある方の坂を道なりに上ってゆく。本屋や雑貨屋、レストランや喫茶店を過ぎると、大学や小学校や幼稚園や高校や中学があって、坂が急になってくる。そして、その坂の終わりにはやたらに大きな校舎が、冬の弱々しい朝陽の中、聳えていた。
時計を見ると、試験までは2時間もあった。開門時間も試験開始の1時間前なので、時間があまってしまった。ちょっと息抜きしよっ。そう思えたのは自分でも驚きだった。な〜んだ、余裕じゃんあたしってば。校舎を横目に通り過ぎると靖国神社の鬱蒼とした木立が目の前に広がる。そこを横切ると靖国通りがあって、その向こうは千鳥が淵だ。
あたしは学校説明会の時に目をつけてた喫茶店に入る。“dutch”の店内は、出勤前の会社員がそこそこに入っていて、珈琲とタバコの香りが鼻をくすぐる。と、奥の方からピアノの音が聞こえてくる。アップライトのくぐもった音がとぎれとぎれに。古びたこのお店のつぶやきのような音の連なり。カウンターに腰掛けてブレンドを頼んだあたしは、ふと店の奥を見やる。そこには何とも云えない光景があった。
その男の人は何かの本を譜面台にかけ、時々それをめくっては鍵盤に触れていた。華奢な感じの長い指が、およそピアノの弾き方を知らないといったその手が、鍵盤の上をふらふらと彷徨い、またページをめくる。こちらに背中を向けているのでよくはわからないが、ゆるやかに伸びた背中が、小さめのアップライトピアノと対等に向き合っているのであまり背は高くない。そして……。
男の人はふと振り返る。目があってしまう。きれいな眼差し……。一瞬ぼーっと見てしまってたあたしは、あわてて視線を外す。しかし、その姿はしっかりと脳裏に残ってしまった。そして気づいていた。その男の人は、どちらかというと男の子で、でも年齢は見当もつかなくて、実はわりに背が高くて意外なほど身のこなしが速くて、でも心と体が同じ所にいないような感じ。で、何故か妙に似合わないちゃちなえんじ色のネクタイをしめていた。洗いざらしのワイシャツのうえにとってつけたようにぶらさがってるその布切れが、これから入試を受けようとする高校の制服のだってことに気付いたのは、その男、の子が本とジャケットを掴んで腕時計に目をやりながら、すごい歩幅で足早にお店の外へと消えたあとだった。
ちょっと待て。あたしに初対面でこれだけ云わせたんだから、もうちょっといてもいいじゃない。勝手にそう叫んだあたし(もちろん心の中で、だけど)は、席から腰を浮かして、彼の出て行った方を見やる……。
カタッとカウンターにカップが置かれる。びくっと振り向いたあたしはカップを置いた店のおじさんと目が合い、一瞬なんだかすごく気まずい空気が流れた。さりげなく置いたつもりが、なんだか凄い形相で見返されたものだから、おじさんも決まりが悪そうにカウンターの奥へと引っ込んでゆく。思い直したあたしは席に落ち着き、珈琲を頂く。あら、結構おいしいじゃない……。
そして、何となく思い返していた。さっきの男の子の持ってた本、表紙に“Hubble Space Telescope Technical Supplement”とか書いてあった。それって楽譜でもなんでもないよなぁ、って。そして、ぼんやりと思い出してた。あの望遠鏡がNASAに見捨てられて大気圏に再突入して流れ星になった日のこと。しばらくコーヒーを飲みながらふらふらと思い出す。あぁ、今日は入試だったっけ……。
なんだか気が抜けてしまって、入試のことはあまり憶えていない。隣の席の子が試験前に手元に隠したスマホでずっと何かやってたのは妙に憶えているけど。でも、合格することはわかってた。だって応募倍率7倍程度じゃ、合格して当たり前よね→あたし。
中学で同じ高校を受けた人はいなかったので、合格発表も一人で見にいった。当然あたしの番号はあったのだけれど、なんかどうでもよかった。それより、今の中学から早く離れたくてどうしようもなかったのだ。実際、入学手続きを済ませたあと、あの中学には一度も行っていない。もちろん卒業式にも。そうすることで、大げさだけど人生やり直せる気がしていた。高校デビューっていうか青春デビュー? とにかく、そんな気がした。それに、高校に行けば、あのピアノ氏に会うことだってあるかもしれない。
そう。実際の所、彼はあたしの心の中にずっとひっかかっていた。そして、わかってもいた。彼はあたしのことなんか気付いてもいないってことを。人に関わってもらえないことには慣れていた。おおかた一人で生きてきたから。でも、あの朝、あたしの人生にふらりと現れた彼に、なんとなく懐かしい匂いを感じていたのだ。あたしの座っていたカウンターの横を通り過ぎたとき、腕時計に目をやるその横顔に。