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 それは鮮やかな赤紫に染め抜かれた白薔薇の、無数の花びらの奔流だった。まるで意志があるかの如く礼拝堂の中空を旋回していたかと思うと、獲物を狙う禽の群れのように人々を次々と巻き込んでゆく。

「う……うぉぉおぉぉぉぉっ!」

 ワイアードは血走った眼をカッと見開くと、懐から呪符の束をつかみ取って己が周囲に撒き散らした。主の命を受けた呪符はたちまちの内に宙を舞い、堅固な結界となって赤紫色の激流を阻む。

 彼のように身を守る術を持たず、襲い来る激流に飲み込まれた人々は、為す術もなく倒れて動かなくなった。最初の流れからかろうじて逃れた者も、礼拝堂からの脱出を試みる間もなく別の流れに飲み込まれてしまう。そんな中、ローザは一切の被害を受けずに立っていた。

「凄いわね……」

 呟き、渦巻く花吹雪の向こう側に、ふと目を凝らす。

 ワイアードが先程落ちてきた壁伝いに二階へと続く階段の上に、大きな鞄を手にして立つ一人の少女の姿がある。

 やがて礼拝堂にローザとワイアード以外に立つ者がなくなると、赤紫色の激流は再び中空を旋回し始めた。そのまま徐々に収束し、ただ一点に吸い込まれてゆく。無数の花びらをすべて吸い込み、バタンと大きな音をたてて、少女の持つ鞄の蓋が閉じた。

 遠目ではっきりとは確認できないが、それでも確信に満ちた口調で、ローザは呟いた。

「ユーノ……」

 と。


 優乃はゆっくりと階段を下りてきた。

 ローザもまた壇を下りた。そのまま優乃に歩み寄ろうとして、ワイアードの鋭い叫びに阻まれる。

「近づくのではない! この者は……この者は、《第一級吸血鬼》だ!」

「《第一級吸血鬼》……?」

 聞き慣れない言葉に眉をひそめ、ローザは優乃に視線を移した。

 未だかつて感じたこともないほどの魔性の波動が、少女の全身から放出されている。元から色白だった肌は白を通り越して蒼白になり、瞳孔が完全に開ききった瞳は、いつもの栗色ではない、その奥に奈落の深淵を映し出している。バンダナの合間からはみ出した髪がふわりと揺れ、衣服の端がはたはたと鳴った。少しの風も、ないのに。

 そこに殺気はなかった。かつて見た強い意志の光も、静かに燃える怒りの炎も。憎悪ですら、一片の介入も許されてはいなかった。

 ただ、悲しみが。

 途方もない悲しみだけが。

「う! ……ぁあ……っ!」

 何の前触れもなく、ワイアードの身体が金縛りにあったように硬直する。恐怖に顔を引き吊らせ、為す術もなく立ち尽くすワイアードに、優乃は静かに歩み寄った。

 無造作に動かされた手が、今尚存在する呪符の結界に触れる。瞬間、結界の表面が激しく火花を散らし、優乃の手を弾き返す幻をローザは見た。あるいは結界を構成するすべての呪符が、跡形もなく消滅する幻を。

 だが現実は、そのどちらでもなかった。

 少女のほっそりとした指先は、何の抵抗もなく界面をすり抜けていた。薔薇の奔流を退けた呪符の結界も、優乃自身の魔性の波動の前では何の効果も発揮しなかった……いや、作用すらしなかったのだ。どんなに頑丈な金網であろうとも、流れる霧を阻むことはできぬように。

 優乃の手首が、腕が、そして肩が、音もなく界面をすり抜けてゆく。まっすぐに伸ばした指先が眉間に触れた途端、ビクンと全身を痙攣させ、ワイアードは倒れた。周囲に舞っていた呪符の数々が急速に力を失い、はらはらと床に落ちる。

 辺りは急に静かになった。

 優乃の瞳にスゥッと光が戻る。

「ご無事ですか、ローザさん……ローザさん?」

 間近からかけられる言葉を、ローザは音ではなく、肌の振動として感じ取っていた。視界に霞がかかり、ひどく息苦しい。全身から汗が吹き出し、まるで身体中の血液が沸騰して逆流しているかのようだ。

 異変に気づいた優乃が慌てて駆け寄ってくる、その腕に抱き止められる直前、ローザの意識は闇に溶けた。


 次に目が覚めたとき、ローザは見知らぬ部屋の中にいた。

 天井は高く、巨大なシャンデリアが吊ってある。床には絨毯が敷かれており、現在自分が寝かしつけられているベッドを除けば、家具の類は小さな丸テーブルと二人掛けのソファーが一つ。

 枕元に燭台が一つあるが、天井のシャンデリアと同様に火は灯っておらず、辺りは暗い。それでもかろうじて周囲の様子がわかるのは、開け放たれたままの大きな窓の外に、冷たく輝く月があるからだ。どうやら自分は、そう長い間意識を失っていたわけではないらしい。もっとも、あれから丸一日以上が過ぎたのでなければ、の話だが。

 額の上に、ひんやりとした感触がある。そっと動かした手につかみ取ったそれは、氷の溶けかかった氷嚢だ。冷たい感触を手の中で弄んでいる内に、ぼんやりしていた意識がはっきりしてくる。

 ローザはもう一度視線を巡らせ、そのとき初めて、ベッドのすぐ脇に一人の男が控えていることに気がついた。

「お気づきになりましたか」

 真面目そうな声の持ち主は、ハッとするほどに整った容姿をしていた。逞しくも引き締まった身体、涼しげな瞳。生まれつきなのか、短く切り揃えられた髪は一本残らず白髪だが、見た目は二十歳過ぎの青年だ。肌の色は浅黒く、何処か野ざらしの岩を思わせる。だがそれは決して冷たい印象ではなく、むしろ彼の精悍な顔つきを際立たせている。

「貴方は……?」

「私の名はトーマス=ベント。優乃お嬢様の身の回りのお世話をさせていただいている者です」

「……そうだ、ユーノ!」

 跳ねるようにして起き上がり、たちまち激しい目まいを起こして、ローザはベッドに倒れ込んだ。

「無理をしてはいけません」

 トーマスと名乗った青年の、大きくがっしりとした手が、薄地の毛布の上からローザの胸を押し留める。ローザは一瞬びくりとしたが、不思議と不快感はなかった。しばらく呼吸が整うのを待ち、目線だけ動かして、男の顔を見つめる。

「貴方、トーマスさんって言ったわね……あたしの身体、どうなったの?」

「ご心配には及びません。優乃お嬢様の発せられた魔気の急激な高まりが、貴女の体内を流れる服従の血を刺激したのでしょう。そしてそれを、貴女自身の血が抑え込もうとして衝突したのです」

「服従の血……? ……あっ」

 唐突に、ローザは思い出し、喉の傷痕に手をやった。

 そうだ、あたしは一度、吸血鬼に噛まれてるんだっけ。それから何だか、身体が凄く熱くなって……。

「……それって、あたしが吸血鬼になったっていうこと?」

 おずおずと尋ねると、トーマスはわずかに目を細めた。どうやら微笑んだらしい。

「思い当たるところがあるようですね。しかし、貴女は正真正銘、今も間違いなく人間ですよ。それに服従の血と言っても、貴女の体内に流れているのはほんの微量……覚えていらっしゃいますか? 二日前の夜、あの哀れな男との戦いの後に、優乃お嬢様とお会いになったことを」

「ええ。確か……」

 そっか、あのときは馬車があったから、トーマスさんもいたんだよね……。

 言われるままに記憶を辿り、そのとき何があったのかを思い出して、ローザは思わず頬を赤らめた。そんなローザの様子には留意せず、トーマスが話を続ける。

「あのとき、自覚はなかったでしょうが、貴女は大変危険な状態にありました。ご存じでしょうか、吸血鬼の誕生には二通りの方法があります。一つは人間と同様、異性間の交わりによって生まれるもの。そしてもう一つが、世間一般に言われているところの『吸血鬼に血を吸われた者は吸血鬼になる』というものです。しかし正確には、吸血鬼に血を吸われたからといって吸血鬼になるわけではありません」

「えっ……?」

「本当の原因は唾液……吸血行為の際に体内に流れ込む唾液こそが、人間を吸血鬼へと変化させる最初の因子なのです。優乃お嬢様にお会いになったとき、貴女は既に吸血鬼化の過程にありました」

 絶句するローザの胸の上から手を退け、トーマスは立ち上がった。開け放してあった大窓を閉じ、レースのカーテンを引く。部屋の中は一段と暗くなったが、それでも闇に馴れた目には充分な光量がある。

「確認の為にお尋ねしますが……優乃お嬢様が、あの哀れな男と同じ吸血鬼であることは、既にご存じですね?」

「え? ……あ、うん……そうね、何となくだけど気づいてたわ。ワイアードの奴は、ユーノのことを第一級、あの男のことは第三級とか言ってたけど」

「成程……では、その分類に従ってお話ししましょう」

 トーマスは再びベッドの横の椅子に腰を下ろした。

「今、私は優乃お嬢様とあの男が同じ吸血鬼であると言いましたが、厳密に言って、二人の間には大きな違いがあります。一口に吸血鬼と言っても、そこには大きく分けて三つの種類が存在するのです。

 一つには、《第一級吸血鬼》と呼ばれる、吸血鬼の頂点に立つ存在。そのすべてが始祖の血を受け継ぐ者で、他のものとは比較にならない強大な魔力と、数多くの特殊能力を生まれながらに有しています。寿命は……あるのかも知れませんが、私の知る限り、未だかつて天寿を全うした者は一人として存在しません。優乃お嬢様は《第一級吸血鬼》としては最も年若く、これの末席に座していらっしゃいます。

 次に《第三級吸血鬼》ですが、これは吸血鬼の中で最も下位の存在です。誕生の方法は三通り、後から説明する《第二級吸血鬼》の唾液によるもの、《第三級吸血鬼》の唾液によるもの、そして《第三級吸血鬼》が異性と交わることによって生まれるもの。魔力は低く、特殊能力も、再生や飛翔などしか備わっていません。異性間の交わりによって生まれたものに限っては、例外的に人間として誕生し、ある時期を境に《第三級吸血鬼》として覚醒しますが……どちらにしても元々は普通の人間である上に、自らの意思とは無関係に作用する再生能力に生命力を著しく削られるため、多くの場合、短命です」

「…………」

 ローザはギュッと手を握り締めた。思わず脳裏に浮かんできたあの男の土気色の顔を、頭を振って追い払う。

 トーマスはローザの様子に気づき、少しの間黙っていたが、

「あ……ごめんなさい、続けて」

「では……最後に《第二級吸血鬼》ですが、これを説明するには、まず服従の血について知っていただく必要があります」

 話の続きを促されて、再びゆっくりと喋り始めた。

「俗説では、吸血鬼に血を吸われながらも生き残った者は、その吸血鬼の奴隷となりますね。現実には《第一級吸血鬼》の場合にのみあてはまるこれが、つまり服従の血……《第一級吸血鬼》の唾液だけが人体に及ぼす影響です。しかし逆に、《第一級吸血鬼》の場合に限り、唾液を受けた者はこの時点では吸血鬼になっていません。魔気に対する感知能力と強い耐性を得てはいますが、れっきとした人間のままなのです……そう、今の貴女と同じように」

「成程ね……話が読めてきたわ」

 ローザは内心ひどく動揺していたが、努めて冷静な口調で言った。

「つまりあたしは、あの吸血鬼に噛まれたことにより、《第三級吸血鬼》へと変化しつつあった。そのことに気がついたユーノは、あたしの体内に入り込んだ唾液を可能な限り吸い取り、更に自分の唾液を送り込んだ。同じ方法を用れば、より上位である《第一級吸血鬼》のほうが勝るのは当然のこと……結果、あたしを人間として留めることに成功した。言ってみれば、毒をもって毒を制したってワケね……それで?」

「これを……お嬢様から預かっています」

 トーマスは足元から手作りと思われる皮製のリュックを持ち上げ、懐から赤紫色の液体が入った硝子壜を取り出し、それぞれローザの手に握らせた。

「? これは……?」

「《第一級吸血鬼》に次ぐ強大な魔力と数多くの特殊能力、そして人間よりも遥かに長い寿命を持つ《第二級吸血鬼》……その誕生の方法は二通りです。一つは《第二級吸血鬼》が異性と交わること……そしてもう一つは」

 トーマスは一旦言葉を切り、ローザをじっと見つめ、また口を開いた。

「貴女のように服従の血の流れる者が、自らの主たる《第一級吸血鬼》の血を飲むこと……その瞬間、体内の服従の血は消滅し、《第二級吸血鬼》として覚醒します」


 ……少し後。

 暗い部屋の中で唯一人、上体を起こしてベッドに座るローザの手元には、赤紫色の液体が入った硝子壜と、そして手紙らしきものがあった。

 既に解かれてはいるが、封筒には略式ながら封の施されていた形跡がある。便箋に残る折り跡は、少しの狂いもなく四つ折りにされていたことを物語っている。送り主は几帳面な性格なのだろう。

 枕元の燭台には赤々と燃える蝋燭がある。薄闇に揺れる小さな炎が、流れるように便箋にしたためられた文字を克明に照らし出し、その文面を明らかにしていた。



  親愛なるローザさんへ


 貴女がこれを読んでいる頃には、貴女の身に何が起きたのか、トーマスに聞いて知っていることと思います。本来ならば私の口から説明すべきことなのでしょうが、私には貴女に会わせる顔も、その勇気もありません。

 できることなら、貴女には何も知って欲しくありませんでした。何も知らずに、普通の人間として生きてもらいたかった。でも、何も知らないまま、何もわからないままでいるなんて、貴女はきっと納得しないでしょう。ですからトーマスに頼みました。ローザさんの問いに、可能な限り答えるように、と。

 しかし、トーマスとてすべてを知っているわけではありません。彼はこの館の執事であり、また私の養い親でもありますが、吸血鬼ではないのです。彼が自分のことを貴女に話したかどうかがわからない以上、ここに詳しく彼のことを書くわけにはいきませんが……ともかく、彼の知らない事柄を含む、すべての真相をここに記します。


 貴女もご存じの通り、この事件の一人目の犠牲者が出たのは数週間前のこと。しかし事件そのものは、一ケ月以上も前から始まっていたのです。

 生来吸血鬼には、魔気に対する優れた感知能力が備わっています。貴女自身、既にその身をもって体験されたことと思いますが、特に我々……あのワイアードという方の言い方を借りるのならば《第一級吸血鬼》の感知能力は突出しており、《第三級吸血鬼》レベルの魔気であれば、ほぼウィンストリアの全域、何処にいても感知することができるのです。ですから勿論、彼がこの地にやってきたとき、私はすぐに気がつきました。そして、この地に住む唯一人の吸血鬼として、彼に会いに行きました。

 彼は私を暖かく迎え入れてくれました。街の中心に堂々と住み、人間として生きる彼の姿を見るうちに、私は彼の生き方に憧れるようになりました。何度もトーマスの目を盗んでは街に下り、彼を訪ねました。勿論、彼の人間としての生活の妨げにならないよう、多くの場合は夜、それもごく短い時間でしたが。階級の違う吸血鬼同士が交わることは決してないため、私達は仲間として、楽しい日々を過ごしていました。

 でも、あるとき。私がいつものように彼の家を訪ねると、彼はそこにいませんでした。

 先程も書きましたが、私は彼の人間としての生活の妨げにならないよう、プライベートなことには干渉しないようにしていました。たまたま留守にしていたことはそれまでにも何度かありましたし、私も感知能力を意識的に抑え、彼の行方を探るようなことはしませんでした。でも、その日は何故か、嫌な予感がして……。

 これは街の人々と接している内に気づいたことなのですが、我々吸血鬼のように闇に住まう者は、人間に比べると、理屈や知識・経験よりも、自らの感覚を重んじる傾向にあるようです。私も例外ではなく、どうしても気になって感知能力を用い、彼の行方を追いました。そして、見たのです。若い人間の女性を襲う、彼の姿を。

 もう既にトーマスから説明を受けたかも知れませんが、吸血行為は《第一級吸血鬼》にとっては相手を虜にするための行為であり、その能力のない《第二級吸血鬼》にとっては嗜好行為に過ぎず、《第三級吸血鬼》に至っては衝動的な発作のようなものでしかありません。勿論、仲間を増やす、という目的を持って行われることもありますが……人間と同様に異性間の交わりによって子孫を残すこともできる以上、生きる上でどうしても必要な行為ではないのです。

 だから私は、彼を止めました。そうして、女性が逃げてしまうと、彼は私を振り払い、何処かに行ってしまいました。私は彼を止めることができたことに安堵し、それ以上のことには考えが及びませんでした。ただ次の日にでも、じっくり話し合えばいいと……そんな風に思っていただけで。でも、そのとき……今から思えば、彼はもう、彼ではなくなっていました。

 その後、彼は自分の家には戻ってきませんでした。魔気も途絶え、私の感知能力をもってしても、行方を知ることはできなくなりました。もしかしたらウィンストリアを出ていってしまったのかと、私が諦めかけていた頃……彼の手による最初の殺人が起こりました。

 闇の者がその能力を発揮するとき、通常とは比較にならない量の魔気が放出されます。突然街の中に出現した魔気を感知した私は、それが彼のものであることを確信し、急いで街に向かいました。しかし、私が現場に到着した頃には、彼の姿はなく……喉を喰い破られて殺害された女性の死体だけが、その場に放置されていました。死体の様子から、彼が吸血行為に及んだわけではないことは、すぐにわかりました。しかしどんな理由があるにせよ、彼を止めなければならないと……トーマスにも力を借り、私は彼を追うようになりました。

 その後のことは、貴女もご存じの通りです。

 私の力が及ばないばかりに、四人もの女性が犠牲になりました。教団については、彼を追ううちに不審な人影を多く目撃してはいたのですが、彼の人間としての生活を壊さないためにも可能な限り内密に彼を止めなければならないと……あくまで感知能力だけに頼り、情報を集めるなどの街の人々との接触を極力避けていたため、結局貴女に教えていただくまで事件の真相に気づくことができませんでした。彼の意識がどの時点から教団の支配下にあったのか、今となっては知る由もありませんが……少なくとも、この一連の事件に関する彼の行動は彼の本心ではなかったと、私は信じています。

 そしてもう一つ……今になって思うことがあります。

 私は何故、初対面の貴女に、あんな話をしてしまったのでしょう? 話せば事件に巻き込む可能性があることくらい、充分に承知していたはずなのに。

 貴女が強い《力》を秘めた銃を持っていたから……勿論、それもあったのでしょう。

 彼を捕らえることができず、事件解決の手がかりをつかむこともできずに疲れていた私には、正常な判断力が欠けていたから……これもあったと思います。

 でも本当は、助けて欲しかったから。あの露地裏で初めてお会いしたときみたいに、暗い袋小路に迷い込んでしまった私を、貴女が助けてくれるような気がしたから。無意識に助けを求める気持ち……それが私に、事件のことを喋らせたのでしょう。

 そして私の望んだ通り、貴女は私を助けてくれました。一族の恩人たる貴女を自らの手で奴隷にしてしまうという、償いがたい罪と引き換えに……。


 ……これ以上、貴女に伝えるべき事柄を、私は多く持ちません。ただ貴女にすべてをお教えすることが、私に許される数少ない償いの方法の一つだと、そう信じて……あと一つだけ、ここに記すことがあります。

 この手紙を入れておいたリュックと共にトーマスに預けた硝子壜の中には、私の血が入っています。これを飲むことによって、貴女の体内を流れる服従の血は消滅します。そして貴女は、《第二級吸血鬼》として覚醒します。

 物心ついた頃から《第一級吸血鬼》として生きてきた私には、人間として生きることと《第二級吸血鬼》として生きること、どちらが貴女にとって幸せなことなのか、知る術がありません。ですからその判断を、貴女に託します。

 人間であることを選んだからといって、私に近づきさえしなければ、服従の血が貴女に危害を加えることはありません。この先も探偵業を続けられるのなら、いつかまた今回のような事件に巻き込まれた際には、むしろ魔気への感知能力と耐性が貴女を守ってくれるでしょう。《第二級吸血鬼》の能力など必要ないと思われれば、その血は捨てて下さい。そして私のことも忘れて、平和な暮らしに戻って下さい。

 最後になりましたが、この度は私達の問題の解決に力を貸して下さって、本当にありがとうございました。吸血鬼の頂点に立つ者の代表として、心から御礼申し上げます。

 さようならローザさん……どうか、お元気で。


                   橘=優乃=ジェクスクト



 一つ大きな溜め息を洩らし、ローザは顔を上げると、いつの間にか側に控えているトーマスの存在に気がついた。彼女が手紙を読み終える刻限を過たず推し量り、彼女の思考の妨げにならぬよう、闇に紛れて待っていてくれたのだ。

「……優乃お嬢様は、ずっと孤独でした」

 ローザの心を見透かしたかのように、トーマスは語り始めた。

「私は、優乃お嬢様の祖父の代から仕えている、言わばジェクスクト家の従者です。優乃お嬢様がお生まれになったのは、今から百年以上も前のこと……そのとき屋敷には、三人の住人がおりました。優乃お嬢様の兄上であられるゼティ様と、母上であられる春奈様、そして私です。春奈様は優乃お嬢様をお生みになった後、間もなくお亡くなりになられました。私とゼティ様は力を合わせ、優乃お嬢様を育てて参りましたが……十数年後、ゼティ様は優乃お嬢様を私に託し、この地で永き《眠り》にお就きになりました」

「《眠り》……?」

「冬眠のようなものと思っていただければよろしいでしょう。吸血鬼は人間のように定期的な睡眠を必要としない代わりに、時折《眠り》に就かなければなりません。そしてその期間は、上位の者になればなるほど長くなります……話を元に戻しましょう」

 ローザの問いを面倒がることもなく、話の腰を折られたことに憤ることもなく、トーマスは淡々とした口調で話を続けた。

「優乃お嬢様が初めて街に出られたのは、七十年余り前のことです。最初の内は、街の同じ年頃の子供たちと戯れる優乃お嬢様のお姿に、私も安心しておりました。太陽の光を苦手とする性質ゆえ、曇りの日や夕暮れどきに限られた交流でしたが……いつしか友人も増え、ときには私に無断で屋敷を抜け出すほどの、楽しい日々を過ごしておられました。

 しかし、その生活も長くは続きませんでした。人間と《第一級吸血鬼》に流れる時間の差が、優乃お嬢様と街の子供たちを引き離してしまったのです。一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年が過ぎ……五年が過ぎてもほとんど成長しない優乃お嬢様の姿に、人々はいつしか我々を恐れ、忌み嫌うようになりました。中には、親や街の人々には内緒で友人であり続けてくれた方もいましたが……そんな方さえも、やがて訪れた戦乱の時代が奪ってゆきました。

 ……以来、優乃お嬢様は館に閉じこもりがちになり、街に下りられることは滅多になくなりました。更に時代が移り、我々が闇の者であることを知る者がほとんどいなくなってからも、やはり必要以上に人と接しようとはなさいませんでした。成長に伴って《第一級吸血鬼》としての能力が覚醒し、自らに流れる時間を操作する術を身につけてからも同様に……自分は他の人とは違うから、友達を作っても悲しい思いをするだけだから……自分自身にそう言い聞かせることで、優乃は孤独に折り合いをつけてきたんだ……」

 突然口調を変えたかと思うと、トーマスは苦しげに黙り込んだ。消えかけた蝋燭の火をじっと見つめ、儚い光に顔を彩られながら、しばらく声もない。

「……優乃は今、吸血鬼と人間とのはざまで揺れている」

 低く、小さく、だが力強い声で、トーマスは言った。

「この部屋は三階の西側にある。優乃の部屋は四階、東側の一番奥だ」

「どうして……それをあたしに……?」

「ローザさんの問いに、可能な限り答えるように」

 突然、トーマスは命令口調で言い、フッと微笑んだ。

「優乃は僕にそう言った」

 沈黙が落ちた。

 ローザは、しばらく黙っていたが、

「……そう……」

 目前の男の主と比べても決して見劣りするものではない美しい顔に、長く忘れていた微笑みを浮かべ、静かにベッドから降りた。手紙と硝子壜はリュックに入れて片手に持ち、部屋に一つしかない扉に向かう。扉を開け、廊下に出ようとしたところで足を止め、精一杯の感謝を込めて。ローザは、ささやくように言った。

「ありがとう、トーマスさん」

 返答はなかった。

 不思議に思って振り返ると、最早そこには、何者の姿もない。


 暗い、昏い部屋の中。

 吹き込む風にカーテンが揺れる、開け放たれた窓の際。

 博物館にでも展示されていそうな古めかしい家具の数々に囲まれて、優乃は一人、輝きを失ってゆく星々を眺めていた。

 街ではそろそろ最初の船が入港する頃だろうか。人々の目覚めと共に闇に住まう者たちの時間は終わりを告げ、陽の光あふれる世界が胎動を開始する。

 夜が明ければ、ローザを街に送り届けるようトーマスに言いつけてある。彼女が吸血鬼を倒すところは多くの人々が目撃しているし、ワイアードを含む数人の者には記憶封鎖を施しておいたから、事件解決の手柄はすべてローザのものとなるだろう。これをきっかけに腕利きの探偵として、街で活躍するに違いない。でも、自分は。

 ……もう二度と、こんな思いはしたくなかったのに……。

 後悔と絶望に微笑みさえ浮かべ、優乃は、ふと耳をすました。扉の向こう、廊下を歩く何者かが、靴音高く近づいてくる。

「トーマス?」

 振り返り、扉を開いた者の姿に、優乃は息を飲んだ。

「ローザ……さん、どうして……」

 その問いには答えず、ローザは後ろ手に扉を閉めた。立ち尽くす優乃の目前にまで歩み寄り、高々と手を振り上げる。


 バシィッ!


 鋭い音が響き、近くにあった飾り棚を巻き込んで、優乃は倒れた。硝子板や飾り皿が割れ、鋭く尖った幾多の破片がバラバラと飛び散る。

「……何だ、やっぱ逆らえるんじゃない」

 両手をパンパンと打ち鳴らしながら、ローザは意外そうに言うと、破片で傷つくのも構わず床に片膝をつき、茫然自失している優乃の襟首をつかんで引き寄せた。そのまま有無を言わせず、強引に唇を重ねる。

「ん……っ!?」

 声にならない呻きを洩らし、優乃は驚愕に目を見開いた。信じられないくらい間近にある、斐翠の宝玉にも似た翠の瞳に、他ならぬ自分の顔が映って揺れている。優乃は両手でローザの胸を押し、弱々しく抵抗を試みたが、やがて互いの衣服越しにローザの温もりを感じると、抵抗する力をなくしてローザに身を委ねた。

 いつしか二人は、しっかりと互いを抱き締めていた。長い時間をかけて濃密な口づけを交わし、静かに唇を離す。恍惚とした表情で吐息を洩らす優乃を見下ろし、

「こないだのお返し……さっきの平手打ちと合わせて、これで全部チャラにしてあげるわ」

 ローザはニッと微笑んで見せた。

「……私のことを、恐れないのですか? 私のことを、殺さないのですか?」

 美しい栗色の瞳を戸惑いに揺らしながら、おずおずと尋ねる。ローザは、ああ、と呟くと、すまなさそうに言った。

「ゴメンね……貴女の仲間を。でも、ああするしか方法がなくて……」

「そんな、謝らないで下さい!」

 優乃は思わず叫び、驚くローザの胸に顔を埋めた。

「彼のことは感謝しています、彼の魂は救われました! みんな、みんなローザさんのおかげです! でも私は……私も、吸血鬼です……人間の血も混ざっているとは言え、あのような力を操ることもできます。ローザさんとは、違うんです……」

 それ以上は言葉にならず、優乃はぐっと押し黙った。喉がキュッと痛み、今にも涙があふれそうになる。だがローザは、そんな優乃の肩をそっとつかんで引き離すと、

「ふーん、人間の血も入ってるんだ」

 じぃっと顔を覗き込み、優しい声で尋ねた。

「……で? あたしは何で攻撃できたの? 確かユーノの奴隷になったんじゃなかったっけ?」

「それは……奴隷と言っても、魔力の介在なくしては命令ができないからで……今のように不意をつかれた形では、魔力を用いて命令する暇も……」

「つまりそれって、ユーノが意識的に魔力を使って命令しない限り、あたしの自由は制限されないってことよね?」

「え、ええ……そういうことになります」

「なーんだ! だったら何の問題もないじゃない!」

「……えっ?」

 呆気に取られる優乃の肩をつかんで立ち上がらせ、ローザは晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。

「あーよかった! いくら友達でも、ケンカもできない、好きなことも言えないってんじゃたまんないからね!」

「……友達……」

 優乃は茫然と呟いた。

 何年ぶりに、その言葉を口にしただろう。何十年ぶりに、そう呼べる人に出会えただろう。心の中で自分を縛っていた、重く冷たい孤独という名の鎖が、音をたててちぎれ、崩れていく。

 そして次にかけられる言葉が、心の奥底でチリチリと燃える疑惑という名の昏き炎を跡型もなく消し飛ばしてくれることなど、優乃に想像できるはずもなかった。


「ねぇ、あたしと一緒に仕事しない?」

 更に呆気に取られる優乃を見つめ、ローザは続けた。

「ユーノの能力とあたしの能力、二つ合わせれば無敵だと思わない? まぁ、イヤならいいんだけどさ」

「……ローザさん……」

「ん?」

「…………っ!」

 壊れそうな笑顔にボロボロと涙をこぼし、優乃は、勢いよくローザの胸に飛び込んだ。

「はい……はい……! お手伝いします、私で良ければ、いくらでも……!」

 危うく後ろ向けに倒れかけたところをギリギリの線で踏み留まり、優乃の栗色の髪を優しく手櫛で梳きながら、ローザはふと、遠い故郷に想いを馳せた。

 家族のことを考える。

 故郷の家にいた頃の、自分のことを考える。

 あの頃の自分は、商売に夢中でほとんど家にいることもないくせに、古臭い行事や交流会には必ず自分を連れていく親が、嫌いで嫌いで仕方がなかった。少しでも早く家を出たくて、一人で生きていけるようになりたくて、料理や洗濯、掃除から裁縫に至るまで、決して他人任せにはしなかった。自分の身は自分で守れるように、武術や射撃の稽古にも励んだ。

 でも、今となってはもう遅いけど、形ばかりでも親がいて、財力があって、自分を高めるために費やす時間もあったっていうことは、それはそれで結構幸せなことだったのかも知れない……。

「ローザ様、馬車の用意が整いました」

 背後からかけられた声に、ローザの意識は現実に戻された。胸の中で今も啜り泣いている、幼く無邪気でずっと年上の友人の背を、空いているほうの手で優しく叩く。

「ユーノ、ほら顔を上げて……お迎えがきちゃったからさ」

 だが、優乃は動かない。幼子が駄々をこねるように、ローザの服をしっかりとつかんで放そうとしない。ローザは溜め息混じりに苦笑し、

「トーマスさん、悪いんだけど、もう少し待ってくれな……」

 振り返った顔をこわばらせた。

 爛れ崩れた肌。

 淡灰色に濁った瞳。

 眼窩からはみ出た目玉。

 服装、体格、声に至るまで、あの見目麗しい青年と寸分たがわぬものを持ちながら、腐乱死体が服を着たような不気味な容姿の男が、扉口に立って慇懃な礼の型をとっている。野ざらしの岩めいた浅黒い肌や、短く切り揃えられた白髪は、むしろ彼にこそ相応しい。

「…………? ローザ様?」

 反応がないことを不審に思ったのか、男がゆっくりと近づいてくる。どう見ても死んでいるとしか思えない男に間近に寄られ、腐った手を目の前でぶんぶんと振られて、

「……ふぅっ」

 流石のローザもあえなく失神した。


 長い夜が、明けようとしていた。

 何処かで何かが目を覚まし、枝葉をザッと鳴らして去る。ほのかに香る蜜の匂いに、虫たちがせわしなく飛び回る。

 ベッドの横で椅子に腰かけ、気を失っているローザの膝の手当てをしながら、優乃はふと目を細めた。

「……ねぇ、トーマス」

 不意に呼びかけられて、窓際にたたずんでいたトーマスが、驚いたように顔を向ける。

「何でしょう?」

「実はね、私……もうずっと前から、やってみたかったことがあるの」

 楽しそうに、夢見るように喋る主の横顔に、トーマスは眩しそうに目を細めた。

「私は吸血鬼だから、他の人とは違うからって、ずっと諦めていたけど……ローザさんと一緒だったら、何だか、簡単にできそうな気がするの。……うまくいくかしら?」

「……そうだね」

 トーマスは微笑み、窓の外の景色に目をやった。

「きっと……何だってうまくいくさ。それに、これからもっと増えるよ。彼女のように、優乃に勇気を与えてくれる友達が。何人も何人も、両手に余るくらい……そして、みんなで幸せになれる」

「うん……そうなったら、今度はトーマスが友達を作る番だね」

 優乃はクスクスと微笑んだ。

「でも、きっと大変よ。ローザさんでさえ気絶しちゃったんだもの。その顔で人前に出ちゃダメだって言ったのに」

「ひどいこと言うなぁ。仕方ないんだ、知ってるだろ? 結構疲れるんだよ、生きてた頃の顔でいるのは」

 爛れ崩れた不気味な顔に、さも憤慨したような表情を浮かべて見せる。だが優乃が、心から楽しそうに微笑んでいるのを見ると、トーマスは、フッと表情を和ませた。

 似ている……本当にそっくりだよ、春奈。あの頃の君に。

 遥かな過去、彼がまだ闇の住人でなかった時代。短い生涯の中で愛した永遠の想い人の姿を胸に、トーマスは心から優乃を祝福した。

「……おめでとう、優乃。君は自由だ」


 《風と水の都》ウィンストリアに、また新たな一日が訪れた。

 何処かで何かが目を覚まし、枝葉をザッと鳴らして去る。ほのかに香る蜜の匂いに、虫たちがせわしなく飛び回る。

 長い夜が、明けようとしていた。

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