表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/11

 教会の中央に位置する礼拝堂には、百人を越える数の人々が集まっていた。

 一日の終わりを神に感謝し、また明日も太陽が上ることを願う、夜の礼拝。人々は一様に黙祷を捧げ、檀の奥に備えつけられた巨大なパイプオルガンだけが、荘厳なレクイエムを奏でている。

 壇上に立つ者の姿はない。一日の内で夜の礼拝だけは、きらびやかな服装の神官、粗末な管筒衣姿の信者に混じって、普段着のまま祈りを捧げている者の姿も見られる。彼等は入団者ではない。仕事帰りの者や家事の暇を縫って集まった主婦など、多くの時間や多額の寄付を教団に捧げられるほどの余裕がない人々だ。

 曲の一節が終わる度に、既に充分に祈りを捧げた人々が、他の人々の妨げにならぬよう静かに礼拝堂を去り、各々の帰路についてゆく。一方で、新たに訪れた参拝者が、思い思いの場所を見つけてひざまずく。この営みが、最後の一人がいなくなるまで続くのだ。それは今夜も変わることなく、いつも通りに行われるはずだった。だが。

 礼拝堂を支配していた沈黙を突如として破った轟音に、人々は驚き顔を上げ、そして見た。遥か四階の高さから降りそそぐ数々の木片を……そして、宙を舞う異形の者の姿を。


 ローザは男の顎に手をかけて、必死に身を守っていた。相手も飛びながらの攻撃はしにくいらしいが、それでもつかまれている部分が痺れるほどの凄まじい握力でローザの肩口を握り締め、鋭い牙で執拗に喉を狙ってくる。

 つかんでいる手を放せば、遥か地上に落下したローザが無事ではすまないことは、男の頭の中にはないらしい。だがこのままでは身体が落ちるまでもなく、男の牙にかかって命そのものを落とすことになりかねない。扉を突き破ったときに何処かが切れたのだろう、ズキズキと痛む頭でどうにかこの危機を脱する方法を考えていたとき、不意に男が慌てたように顔を上げた。

「しめた!」

 一瞬の隙を見逃さず、ローザは銃口を男の顎に突きつけて引き金を引いた。

 ドンッ!

 鈍い衝撃と共に顎が砕け、頭の上半分が吹き飛んだ。がっちりと肩口を握り締めていた手が握力を失いローザを放す。一瞬の浮遊感の最中に左手に何かが目に入り、咄嗟に銃を放してつかんだそこは巨大なパイプの切口だった。男が攻撃に気を取られている間に、二人は礼拝堂正面のパイプオルガンに突っ込むように飛んでいたのだ。ローザがかろうじて落下を免れた一方で、そのままオルガンに激突した男が弾き返されて宙を舞い、壇の上に落ちる。

 腕一本でぶら下がり、突然降ってきた異形の怪物に驚き騒ぐ人々を見下ろしながら、ローザは荒々しく息をついていたが、不意に左肩に走った激痛に顔をしかめた。どうやらパイプにつかまったときの衝撃で痛めたらしい。右手をそろそろと上げて手がかりを捜し、どうにか這い上がろうと試みる。

 ……と。

 一階で騒いでいた人々の気配が、にわかに恐怖と混乱の様相を示した。ローザはハッと目線を下ろし、

「やばい……!」

 急いでパイプの上に這い上がった。

 オルガンを伝って回廊に渡ろうとするローザの遥か下方で、うつ伏せに倒れていた男の翼が、力強く、バサリとはばたく。


「私は非暴力主義者でね」

 血走った眼を狂気と正気のはざまに揺らしながら、ワイアードはうっすらと微笑んだ。

「できることなら手荒な真似はしたくないのだよ。特に、君のように可愛らしいお嬢さんにはね」

「他の方々は、そうでもないようですが」

 優乃は衣服の乱れを整えると、銃を構えて周囲を取り巻く男たちを一瞥した。

「これが暴力ではない、と……そう仰るのですか?」

「我々の非は認めよう。だが、争いを未然に防ぐ方法としては仕方のないことなのだ。世の中には君の仲間のように、無益な争いを好む者も多い……君は、どうなのだね?」

「私は、それが誰であろうとも、争うことを好みはしません」

 ワイアードは優乃の答えに満足げにうなずくと、部下たちに命じて銃を下ろさせた。

 あの吸血鬼に立ち向かおうとしてローザに突き飛ばされた、少し後。二人を追って礼拝堂に向かおうとしたところで、優乃はワイアード率いる男たちに取り囲まれていた。

「好みはしませんが……」

 優乃はポケットからサングラスを取り出すと、

「仲間、ですか……いい言葉ですね」

 感慨深げに呟きながら、それをかけた。

「そう、あの人は、こんな私を信じてくれたのです。そして自分の危険もかえりみずに、私を助けようとしてくれた……だから私も、あの人を助けなければなりません。たとえそれによって、恐れられるようなことになったとしても……」


 漆黒の翼を大きくはばたかせ、男は空中高く舞い上がった。すぐ近くで腰を抜かしているオルガン奏者や、檀の下にいる大勢の信者たちには見向きもせずに、まっすぐにローザに向かって突っ込んでくる。

 ローザは慌てて三階の回廊に跳び移った。その背後で、ついさっきまでローザがいた場所に男が激しく衝突する。ローザは銃を構えようとして、手元にないことに気がついた。先程パイプにつかまったときに、下に落としてしまったのだ!

 愕然とするローザ、その一方で、男が又も何事もなかったかのように立ち上がる。ギクリと振り向いた視線の先で、男は翼を広げ、ローザを睨みつけた。

 ローザの背筋を冷たいものが走った。たまらず駆け出し、逃げ込んだ回廊脇の暗い廊下のその先は、何と行き止まり。

「…………!」

 冷たい壁に拳を打ちつけ、ローザはその場に膝をついた。


「一つ、忠告しておこう」

 ワイアードは顔から表情を消すと、再び銃を構えようとした部下たちを制し、抑揚のない声で言った。

「人形使いもそうだが……何かを操ろうとする者には、操る対象に見合っただけの知識と技術が要求される。君は私が、あの《第三級吸血鬼》よりも弱いとでも思っているのではないかな? だとすれば、それは大きな間違いだ」

 懐から呪符の束を取り出し、片手に四枚ずつ、カードマジックでもするような手つきで指の間に挟み持つ。すると残りの呪符はひとりでに宙を舞い、優乃の周囲を取り囲んだ。

「……呪符魔術……ですか」

 優乃はサングラスの縁を指で挟み、ゆっくりと上にずらした。

 ダークグレーの色硝子の下から現れた栗色の瞳には、魔性の月の輝きがあった。

 形のよい薄紅色の唇が、にっこりと微笑む……。


 背後ではばたきの音がした。続いて壁や天井に何度もぶつかりながら、無理やり追ってくる音。思わず振り向いた視界の端に、壁にぽっかりと開いた虚ろな空間が映る。

 ……階段!

 なりふりかまわず階段に跳び込んだ瞬間、背中のリュックが斬り裂かれた。男はそのまま正面の壁に激突し、ローザはリュックの中身をぶちまけながら、階段を二階に向かって転げ落ちる。廊下に投げ出され壁にぶつかって止まると、ローザは低く呻き、身体を開いて、その場に大の字になって寝転んだ。

 汗にまみれた衣服が、べっとりと全身に張りついている。肺は今にも破裂しそうだ。身体中が心臓になったような錯覚に、何処に傷があるのかわかりもしない。

 ……と。

 上の階から、低い呻き声が聞こえてきた。

「まったく……少しは休ませて欲しいわね……っ」

 痛めた左肩を右手で押さえながら、ローザはヨロヨロと立ち上がった。周囲に散らばった荷物の中に赤く塗られた缶を見つけ、わずかに表情を和ませる。

「いちかばちか……これが最後の切り札よ」

 自らに言い聞かせるように呟くと、ローザは赤い缶をつかんでポケットに突っ込み、一階を目指して走り出した。


 全身から血を流しながら駆け込んできたローザの姿に、多くの人々は更なる恐慌に陥った。我先に逃げ出そうとする者と、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた者とがぶつかり合って、たちまち各所で混乱が始まる。

 人込みを掻き分け、行く手を阻もうとする者は有無を言わさず殴り倒して、ローザは壇上に駆け上がった。腰を抜かして座り込んでいるオルガン奏者の手前に、銀色の塊が落ちている。

 銃だ!

 思わず微笑んだローザの背筋を、不意にゾッと冷たいものが走った。咄嗟にもんどり打って逃れるローザのすぐ脇を、翼持つ異形の影が通過する。影はパイプオルガンの手前で宙高く旋回し、銃の近くに舞い降りる。オルガン奏者はなさけない悲鳴を上げて、這うようにして逃げ出した。

 礼拝堂は沈黙に包まれた。

 多くの人々が逃げ出すことも忘れて見守る中、男はよつんばいの態勢になり、床で爪を研ぎながら、じりじりと間合いを詰めてくる。鋭い牙の覗く口から、赤いものの混じったよだれが滴り落ちる。

 威圧感と言うべきか、それとも圧迫感と言うべきか……男を取り巻く禍々しい気配が薄れていることに、ローザは気づいていた。

 動きも若干鈍くなっている。元から青ざめていた肌は更に血の気を失い土気色になっており、もはや生者のものとは思えない。度重なる再生は、やはり身体への負担が大きいのだろうか。

 ……こんなになってまで。

 緊迫した時間の流れの中で、ローザの心の内に、ふと男に対する哀れみが生じた。

 こいつが元はどんな奴で、何をしていたのかはわからない。もしかしたら人を襲っていたかも知れないし、血を吸っていたかも知れない。だがもし、それがこいつの背負った宿命であり生きる術であるのなら、自分やあの警官は、人間の誇りと尊厳をかけて戦っただろう。

 しかし今のこいつは自らの意志とは無関係に、一部の人間の身勝手な欲求を満たすために利用され、殺戮を繰り返すように仕向けられている。

 くだらないな……ローザは思った。どうして人間というものは《力》や《数》に固執するのだろう。確固たる信念を持つのはいい、だがどうしてそれを他人にまで押しつけようとするのか。本当に大切なものは十人十色、一人一人の心の中にこそあるはずだ……少なくともローザは、自らの心の中の《大切なもの》を捜し求めて、このウィンストリアにやってきたのだ。

 グルゥァアァァァァアァッ!

 天地も裂けんばかりの咆哮を上げ、男が飛びかかってくる。ローザは踏み込みながら身体を沈め、ポケットの中でずっとつかんでいた赤い缶を力一杯投げつけた。男の鋭い爪が缶を斬り裂く、中からあふれ出した液体がたちまちの内に炎上する、炎が男の全身を包み込む。燃え盛る火球となった男はローザの頭上を越えて檀の上から転げ落ち、ローザは銃を拾い上げ、懐に納めた。だが。

 振り返り、歩き出そうとしたローザの行く先で、またしても男が立ち上がる。今尚燃え続けるコートの残骸を身にまとい、全身の皮膚が真っ赤に焼け爛れ崩れた痛々しい姿をさらけ出して。壇上へと続く階を、一歩一歩、上ってくる。

「……もう……」

 やめよう。

 言いかけて、ローザはハッと口を閉じた。

 男の瞳のその奥に、確かな感情の光が宿っている。

 それは己の運命を弄ばれたことへの怒りでもなく、人々に恐れられ蔑まれることへの悲しみでもなく。

 ただ、はっきりと、憎悪。


「……人にあらざる者、闇に住まう者よ」

 男の瞳をまっすぐに覗き込み、ローザは、静かに言った。

「この先の闘いは、我々二人の闘いに他ならない。そなた自身の尊厳と誇りにかけて、全身全霊をもって挑まれよ」

 階を上り終え、男が歩みを止めた。

 二度の闘いを経て今一度、二人が壇上で対峙する。

「我が名はローゼンシル=レクター……そなたに永久の眠りを与えんとする者である」

 ローザが言い終えると同時に、男は稲妻のような速さで突撃してきた。

 ローザは懐から銃を抜いた。銃を支え持つ五本の指に、手のひらに、全ての願いと祈りを託し……ローザの意志に反応した《吸血鬼退治の銃》が、淡く美しい輝きに包まれる。大きく翻るコートの残骸、その下から現れた男の焼け爛れた上半身、刻々と脈打つ心臓に狙いを定めて、ローザは、迷うことなく引き金を引いた。


 輝きは収束し、凝縮し、そして弾け飛んだ。

 次の瞬間、銀色の閃光が迸り、男の心臓を貫いていた。

 男の瞳が驚愕に開かれ、次いで、自らを滅ぼした者へと向けられる。

 二人の視線が交わった。

 一点の曇りもない澄んだ瞳に見つめられて、ローザが少し当惑した表情を見せると、男は、フッ、と微笑んだ。

 寂しげに。

 悔しげに。

 羨むように。

 振り降ろされた男の爪が、ローザの身体を斬り裂く直前、灰となって崩れ去る。瞬く間に無垢なる灰となった男の身体は、ローザの身体を突き抜け、背後へと流れ、そして、消えていった。

 ローザはしばらくの間、その場にじっと立ち尽くしていた。やがて、ゆっくりと、銃を納める。手のひらにわずかに残った灰を握り締め、ローザは、大きく息を吸い込み、長々と吐ききった。

 ……そこへ。

「誰かワイアード様に報告しろ! いいか貴様、逃げられると思うなよ……!」

 今更ながら駆けつけてきた神官たちが、ローザを取り囲んで銃を構えた。

 ローザは腹立たしげに神官たちを一瞥したが、抵抗はしなかった。最早彼等と一戦交える体力も、銃を抜く気力さえも残ってはいないのだ。

 礼拝堂に残っていた数十人の信者たちは、目の前で立て続けに起こる出来事に何が何やらわけもわからず、異形のものを退治した勇敢な娘と敬うべき神官たちとを見比べるばかり。神官たちでさえ、とりあえず包囲はしたものの相手に抵抗の様子がなく、この先どうすればいいのかを指示する者もなく、気まずそうに互いの顔を見合わせている。

 そのとき。

 礼拝堂に張り詰めていた緊迫した空気の何処かが、ざわり、と揺れた。誰かが顔を上げ、誰かが何かを指さして、たちまち口々に騒ぎ始める。

 ローザが、神官たちが顔を向けたその先には、一人の男の姿があった。

「ワ……ワイアード大神官様!」

 数人の信者が慌てて駆け寄る中、二階から壁伝いに続く階段を転げ落ちてきたワイアードは、錫杖を支えに立ち上がったかと思うと、

「き、吸血鬼だ……吸血鬼が来るぞ……!」

 不吉な言葉を言い残して、力尽きたように倒れた。

 ……と。

 突然、辺り一帯に濃密な花の香りが立ち籠めた。意識を失ったかと見えたワイアードがギクリと顔をこわばらせ、絶対的な恐怖に彩られたまなざしを、自らが落ちてきた階段の上へと向ける。

「き……来た……」

 ワイアードが震える声で呟いた、次の瞬間。

 礼拝堂へと続く通路という通路から、赤紫色の激流が、凄まじい勢いで流れ込んできた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ