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「あのですねぇっ、私、とぉーっても不幸なんですぅ!」

 カウンターに両手をついて、ローザは少年の顔を覗き込んだ。

「父は会社を潰して自殺しちゃったんですぅ! 母はショックで寝たきりになっちゃうし、他にも幼い弟たちがぁ……オイオイオイオイッ」

 教団の教会は、繁華街からそう遠くないところに建てられていた。

 教会と言うと古めかしく質素なものと思われがちだが、新興宗教団体である《光と闇の礎》の教会は、四階建ての比較的近代的な建物だ。敷地は広くとってあり、公園並みに緑が多い。宗教色を抑えてあるのは一般の人が訪れやすいようにとの配慮なのだろう。門は常に開かれており、散歩をしている老人や、元気良く駆け回っている子供たちの姿もある。

 時刻はそろそろ夕暮れを迎えようかという頃。教会を訪れたローザは、受付係の少年信者を相手に大演説の真っ最中だった。

「……つまり、倒産で、自殺で、寝たきりで、家賃滞納で、不治の病で、手抜き工事で、日照権侵害で、騒音問題で、ノイローゼで、賃金カットで、セクハラで……えっと何でしたっけ?」

「借金返せないと、私、スケベじじいと結婚しなきゃなんないんです! ねぇ、ひどいと思いません!?」

 ローザは胸の谷間を強調するように腕を寄せ、潤んだ瞳で少年を見上げた。こんな時のために、シャツの胸元のボタンは予め外してあったりする。やや過剰気味な演出だが、神を信じる純真な少年には充分な効果を発揮したらしい。受付係の信者は慌てて視線を逸らすと、顔を真っ赤にしてパンフレットとペンを差し出した。

「か、神様はきっと貴女のお力になってくださいますっ。こ、こちらにお名前を御記入の後、中へお入り下さいっ」


「中に入っちゃえばこっちのもんよ。あ、妹がグレて家出したってのを忘れてたな……って、それはあたしか」

 受付を過ぎると、ローザは手早く身だしなみを整えた。胸元のボタンをきっちりと止め、長い髪を背中で束ねる。

「さて……行きますか」

 ローザは教会の奥へと進んだ。パンフレットを片手に、堂々とした足取りで、ゆっくりと。こそこそしていては、却って怪しまれることになる。

 廊下の両側には幾つもの部屋が並んでいた。それぞれの部屋では神官が一人ずつ教壇についており、予想以上に多くの人々が教義を受けている。やはり吸血鬼の噂の影響だろうか。あるいは、世の中にはローザが思っている以上に不幸な人が多いのかもしれない。

 入口に立って様子を伺っていると、こちらに気づいた一人の婦人に中に入るよう勧められた。ローザは丁重に断り、更に奥へと進んだ。信者や神官たちの目を盗んで、関係者以外立入禁止の看板の横をすり抜ける。

 次の角を曲がったところには上り階段があり、二階に出た途端、建物の様子が一変した。外観や一般人が入れる場所に比べて、遥かに質素な造りになっている……いや、みすぼらしいと言ったほうが適当だろうか。

 流石に関係者以外立入禁止の区域だけあって、どの部屋の扉にも鍵がかけられており、そう簡単には中に入れそうもない。しばらく進み、探索の手が三階に伸びたところで、ようやく鍵の壊れた扉を見つけた。ローザは周囲に誰もいないことを確認し、扉に耳をつけた。人の気配はない。音をたてないよう慎重に扉を開け、素早く中に入り込み、後ろ手に扉を閉める。

 倉庫らしき部屋だった。天井は高く、二階分はありそうだ。日用雑貨や非常食の他、儀仗、教団の紋章の刺繍が施された旗、燭台など儀式に用いられるらしい道具の数々を納めた棚や、あの派手な衣装が入っているのだろう衣装箪笥、その他天井近くまで積み上げられ布を被せられた荷物の山が、迷路のように立ち並んでいる。

 ローザは部屋を調べ始めた。しんと静まり返った部屋の中、規則正しく微かに響く足音が、とある一角に到ったところでぴたりと止まる。

「……これは……」

 ローザが足を止めたのは、幾つもの皮袋が並んだ棚の前だった。落ち葉や木の実を拾い集めるのにでも使いそうな粗末な材質の袋だが、その割には妙に厳重な封が施してある。試しに幾つか持ち上げたところで、ふとローザの手が、他とは明らかに異なる重さを感じ取った。ジャラン、と独特の音が響く。

 ろくなもんじゃないわね、この教団は。ローザは顔をしかめた。それとも宗教団体ってやつは、どこでもこんなもんなのかしら?

「それにしても、随分と管理が甘いわね……」

 皮袋をつかむ手を離し、溜め息混じりに呟いたとき。

 コツ、コツ、コツ、コツ……。

「…………!」

 ローザは全身を緊張させ、音のした方向を振り向いた。

 出入口の扉の向こう側から小さな足音が近づいてくる。誰かが廊下を歩いているのだ。ローザは手近な棚の陰に身を潜め、息を殺して、廊下を歩く何者かが通り過ぎるのを待った。

 足音が扉の前を通過した。そのまま徐々に小さくなってゆき、やがて消える。ローザは安堵の溜め息を洩らし、棚の陰から出た……途端。

 誰もいないはずの背後から、ローザの肩に手が置かれた。


 微かな物音を耳にして、エリオン神官見習いは立ち止まった。

 今しがた通り過ぎたばかりの倉庫に使われている部屋の中からのようだ。振り返って見ると、扉の鍵が壊れていることに気がついた。あの部屋の鍵は、以前から壊れていただろうか?

 エリオンは不審に思い、足音を忍ばせて部屋の前に戻った。静かに扉を開けて、中の様子を伺う。誰もいない。

「……誰かいるのですか?」

 尋ねてみても、応える者はない……物音もしない。

 気のせいか……?

 もっとよく調べてみようと、エリオンが部屋の中に進み出たとき。不意に廊下の角の向う側が騒がしくなった。誰か来る。神官の許可もなくこんな所にいては、あらぬ誤解を招きかねない。エリオンは素早く身体を翻して部屋を出ると、扉をそっと閉め、何食わぬ顔で立ち去った。

 しばしの後、数人の足音と談笑が近づき、また遠のき……辺りに静寂が訪れた。

 ……と。

 バタンッ!

「……ッハァッ、ビックリしたっ! いきなり後ろから肩叩くんだもん!」

 衣装箪笥の扉が勢いよく開き、中から二つの人影が飛び出した!

「って、何で貴女がこんな所にいんのよ、ユーノっ!?」

「はぁ……」

 ローザの胸に顔を埋めるようにして抱きかかえられていた優乃は……そう、ローザの肩を叩いたのは優乃だったのだ……しばらくの間ぼーっとしていたが、不意に頬を赤らめると、

「ローザさんって……意外と胸が大きいんですね」

 恥ずかしそうに微笑んだ。


 少し後。

 荷物の山から引きずり下ろされ、床に敷かれた毛布の上で、ローザと優乃は向かい合わせに座っていた。

「……つまり」

 ローザは念を押すように言った。

「今日も用事があって街に出てきた貴女は、道端で信者から勧誘を受けて、断り切れずにこの教会まで連れてこられた。何とか信者の目を盗んで教室からは出たものの、外に出る道がわからない。迷っているうちに誰かに見つかりそうになって、咄嗟にこの部屋の中に逃げ込んだ、と……こういうことね?」

「ええ、そうです」

 優乃が軽くうなずく。ローザはガックリと肩を落とした。

「あたしのあの苦労は何だったのよ……」

 彼女の話を全て信じたわけではない。しかし、話自体には真実味がある。そう、わざと勧誘を受けるという方法もあったのだ。受け付けを通さなければ、あるいは名簿に名前が残ることもなかったかもしれないのに。

「……あの……?」

 一人苦悩しているローザに、優乃がためらいがちに声をかける。

「え? ……ああ、何?」

 後悔はひとまず棚上げにして聞き返すと、優乃は安心したように微笑んだ。

「ローザさんは、どうしてここにいらっしゃるんですか?」

「……それは……」

 ローザは返答に詰まった。至極当然の質問だったが、答える用意をしていなかった。

 どうしようか。ローザは迷った。迷ったが、今更じたばたしたところでどうなるものでもない。ローザは表情を整えると、優乃の瞳を真正面から見据えた。

「ユーノ、よく聞いて頂戴。あたしはここに、今回の事件の犯人を捕らえるために来たの。貴女が嘘をついてるとは言わないけど……」

 そこまで喋って、優乃の服装に視線を落とす。

 今日の彼女は随分と活動的な格好をしていた。大きな鞄とサングラスは相変わらずだが、いつものドレス姿ではなく、全身にフィットした黒地のアンダースーツの上から裾が股下まであるゆったりとした上着を着込み、ベルトで腰を締めたラフスタイル。頭には帽子の代わりにバンダナが巻かれ、シーフかロックバンドの紅一点といった雰囲気に仕上がっている。

「その格好、どう見ても普段着には見えないわね。貴女もあたしと同じ目的で、ここに忍び込んだんじゃないの?」

「……ローザさん、貴女も御存じの通り、ここにいるのは人間ではない魔性のものです」

 優乃のぼんやりとした仮面の下から、真剣な表情が顔を出す。

「悪いことは言いません。どうか、この件から手を退いて下さい。これは」

『私達の問題なんです』

 二人の声が重なった。優乃が驚いて口をつぐむ。

「……でしょ? 言うと思ったわ。でもね、ユーノ」

 優しく、だが強い口調で、ローザは言った。

「この事件はもう、あたしも含めて、たくさんの人を巻き込んでしまっているのよ。だから退けない……探偵としても、あたし自身としても。だからね、ユーノ。この事件はもう貴女達だけの問題じゃない、あたし達の問題なのよ」

 優乃は大きく目を見開いた。

「私と……一緒にいてくれるのですか? 私が誰でもかまわないのですか?」

「興味がない、って言うと嘘になるけど。仕事でもないのに他人のことを詮索するのはあたしの趣味じゃないし。少なくとも、敵じゃないとは信じてるわ……それともあたしを殺したりする気? 一回マジで戦ってみる?」

「こ、殺すだなんて、私はそんなこと……!」

「……ゴメン、ちょっと言い過ぎた」

 ローザは表情を和らげると、青ざめる優乃に素直に詫びた。

「あたしもさ、この街じゃ、まだ貴女と同じで一人っきりなのよ。だから協力して欲しいの……お願いできるかしら」

「ローザさん……」

 優乃はしばらく考え込んでいたが、やがて一つ大きく溜め息をつくと、右手を差し出し、おずおずと微笑んだ。

「よろしくお願いします」

「こちらこそ!」

 ローザは差し出された手を握り返すと、勢いよく立ち上がった。

「さて! そうと決まれば、こんな所に長居は無用ね。パッと見た感じ、吸血鬼の手がかりもなさそうだったし……もしあったとしても、これ全部調べてたら何日もかかっちゃうわ。行きましょ、ユーノ」

「行くって、何処にですか?」

「そうね……」

 優乃の手を引いて立ち上がらせ、辺りを見回す。やがて天井の採光窓に目を止めて、ローザはニッと微笑んだ。

「まずは上に行きましょうか。定番だけどね」


 屋上に人はいなかった。

 周囲に教会よりも高い建物はない。ここならば誰かに見咎められる心配はなさそうだ。

 窓の隙間から顔だけを覗かせて様子を伺っていたローザは、下にいる優乃に手招きすると、窓を限界まで開き、縁に手をかけて懸垂の要領で一気に屋上に出た。まず鞄を受け取って、後から来た優乃を引っ張り上げる。

 互いの衣服の汚れを手で払うと、二人は適当な場所に腰かけ、休憩をとった。

 陽は既に沈んでいた。南の山脈の稜線近くに薄く雲がたなびいており、西からの夕陽の名残に照らされて、鮮やかな紫に染まっている。

 夜と秋の気配が相まって、風は涼しい。

「綺麗ね……」

 呟き、ローザは何となく可笑しくなった。

「変ね、あたし最近、随分と感傷的になったみたい。綺麗なんて台詞、前は滅多に使わなかったのに……この街に来てから、もう何回言ったかわかんないわ」

「ウィンストリアは美しい街ですから」

 と優乃。

「でも確かに綺麗ですね。私、普段は星空ばかり見てるから、何だか新鮮な気分です」

「星空かぁ。あたしはそっちのほうが見てないわね」

 ローザは背負っていた小型のリュックを下ろすと、荷物の整理を始めた。

「こないだは遅くまで起きてたけど、空を見てる余裕なんかなかったからなぁ。あ、そう言えば、ユーノって夜に会ったとき雰囲気違ったわよね。あれってどうして?」

 優乃はサングラスを外して、紫から紫紺、そして紺へ、刻一刻と表情を変えてゆく空を眺めていたが、ローザの問いに振り向き、

「私、夜のほうが強いんです」

 冗談めかして言った。

「ふーん、そうなんだ。ちょっと意外ね。夜が強いなんて、まるで……」

 言いかけて、ローザはハッと言葉を切った。

 沈黙が落ちた。

 にわかに風が強くなり、二人の間を吹き抜ける。

「……まるで?」

 抱えた膝に頭を乗せた格好で、優乃が悪戯っぽく微笑む。

「え、えーっと……な、何でもないわよ!」

 ローザは慌ててごまかし笑いを浮かべ、両手を顔の前で振ろうとした。

「何でも……あっ!?」

 リュックの中に突っ込んでいた手を抜いた弾みに、中から赤い缶が飛び出した。咄嗟に手に持っていた何かを放り出し、缶が床に落ちる寸前に両手で受け止める。

「ま、間に合ったぁ……」

 缶の無事を確認して、ローザは深々と安堵の溜め息をもらした。

「??? 何なんですか、それ?」

 優乃が不思議そうに缶を見つめる。

「秘密兵器よ……それもすんごい危険なヤツ。あ〜、寿命が縮んだわ」

 ローザは缶をリュックに入れると、しっかりと口を閉じて背負い、先程放り出してしまった物を拾いに行った。

 少し離れた位置にある天窓のそばに落ちていたのは、あの可愛げのない身代わり人形だった。一度は命を救われたこともあって手離す気になれず、かと言って肌身につけて持ち歩くには趣味が悪いので、リュックの中に入れておいたのだ。

 ローザは人形を拾い上げ、ついでに何気なく窓の中を覗き込んだ。

「…………!」

 そろそろと顔を戻し、その場に座り込む。両手で人形を目の前に掲げ、ローザは、小声で叫んだ。

「やっぱ役に立つじゃない、オマエ!」

 人形をひとまずポケットに突っ込んで、もう一度中の様子を伺う。間違いない。

 部屋にいたのは、ド派手な衣裳に身を包んだ初老の男……教団《光と闇の礎》の大神官、ワイアードであった。


 下の部屋は、どうやら書斎らしかった。

 今まで見てきた場所に比べて格段に豪勢にしつらえてあり、壁際に並ぶ書棚や、部屋の中央に備えられた卓と椅子は、美しい光沢を放つ黒檀製の高級品だ。床には絨毯が、壁には緞帳が張り巡らされ、いずれも教団の紋章が刺繍されている。

 ワイアードは今、部下と思われる数人の男たちと共に卓を囲み、何やら熱心に話し合っているところだった。天窓の硝子は防音効果に優れているらしく、声は聞き取れない。だがそれは、相手側からも外の音は聞こえないということ。余程大きな物音をたてたりしなければ、気づかれることはないだろう。

「ローザさん? どうかなさったんですか?」

 振り返ると、優乃がすぐそこまで来ていた。静かに。まっすぐに立てた人指し指を唇に当てる仕草で、ローザは意思を伝え、もう片方の手で天窓を指差した。優乃がキョトンとした表情で窓の中を覗き込み、小声で尋ねる。

「あの方たちは……?」

「多分、ここの上層部の連中ね。大神官と、その取り巻きってとこかしら」

「大神官」

 確認するように呟き、もっとよく見ようと、優乃が大きく身体を乗り出す。ローザは慌てて優乃を引き戻し、耳元にささやいた。

「見つかったら元も子もないわ。このまま待って、奴らがいなくなってから中に入る。いいわね?」

「はい……でも、よくここに上層部の方たちがいることがわかりましたね」

「偶然よ、偶然。運が良かったのよ」

 ローザはポケットに入っている身代わり人形を、服の上からそっと押さえた。

「何せあたしには、ちょっと可愛げのない幸運の女神がついてるからね」

「はぁ……?」

 優乃が曖昧な表情で首を傾げる。まだ何か聞きたげな優乃の唇に人指し指を当てていさめ、リュックの中からコートを引っ張り出して、ローザは優乃と肩を寄せ合って座った。二人で一つのコートに身を包み、じっと待つ。

 ワイアードたちが会議を終えて書斎を後にしたのは、二人が屋上に潜んでから半刻余りが過ぎた頃だった。既に西の空からは夕陽の名残が失われ、天頂近くに昇った月が、周囲の雲を淡く輝かせている。

 二人は行動を開始した。

 ローザの持ち込んだ数々の道具で天窓をこじ開け、ロープの一方を適当な場所に固定し、もう一方を部屋の中に放り込む。まずローザが慎重に、続いて優乃が宙を舞うように素早く、書斎の床に降り立つ。

 部屋の探索を優乃に任せると、ローザは適当な大きさの本を書棚から拝借し、ロープの端に縛りつけて窓の外に放り出した。天窓を開放したままなので完璧とは言えないが、侵入の形跡の一部は隠滅できた。多少の時間稼ぎにはなるだろう。

「こっちはこれでよし、と……ユーノ、どう? 何か見つかった? ……ユーノ?」

 優乃は部屋の中央の卓に片手をつき、一輪の花を額の前にかざしていた。じっと瞳を閉じたまま、静かに呟く。

「扉……があります」

「扉?」

「はい」

 優乃はおもむろに目を開けると、花を卓の上の花瓶に戻した。書斎の両壁に並ぶ書棚の一つに向かい、迷いなく一冊の本を取り出して、その奥に手を突っ込む。

 ガチリ。

 優乃の背後、部屋の反対側の壁の辺りから、小さく鈍い音が響く。驚いて振り向き、ローザは茫然と目を瞬いた。如何なる仕掛けか、大小様々な本がぎっしりと詰められた、一体どれほどの重量があるのか見当もつかない黒檀製の書棚が、滑るように左右に分かれてゆくではないか。

「……隠し扉か……こんなものまで造ってたとはね……」

 やがて書棚は動きを止め、奥から扉が姿を現した。頑丈そうな金属製の扉だ。

 扉の前まで歩み寄り、ローザは辺りに埃一つ舞っていないことに気がついた。扉の周囲の壁と更に外側の壁との色合いには大きな差があり、絨毯にはくっきりと書棚の跡が残っている。どうやら長い間使われることなく放置されていた仕掛けのようだ。しかし最近になって、この仕掛けを頻繁に作動させている者がいる。

 ローザは扉の取っ手を回してみたが、どうやら鍵がかけられているらしい。押しても引いてもビクともしない。試しに鍵穴破りを試みたが、不慣れな作業である上に暗くて仕掛けがよく見えず、徒労に終わった。

「ダメだわ、開かない……先に鍵を見つけなきゃいけないみたいね」

 作業を諦め、ローザは鍵を捜すべく立ち上がった。

「それにしてもユーノ、よく隠し扉の仕掛けが……」

「ローザさん、鞄をお願いします」

「えっ? ……ちょっと、ユーノ?」

 戸惑うローザに鞄を手渡して、優乃は扉の前に立った。まるで無造作に、扉に両手のひらをあてがう。

 そして。

 彼女は、静かに、力を込めた。


 書斎は沈黙に包まれていた。

 先程のものと同様の、しかし遥かに重く、そして長い沈黙だった。

 ギィィ……ッ。

 微かな風に隠し扉の残骸が揺れ、蝶番が渇いた音をたてる。

「…………」

 ローザは頬に触れた。ぬるりとした感触。指先を見てみれば、そこは赤い。これは血だ。飛び散った扉の破片に傷つき流れ出た、紛うことなき自らの血だ。

 ……では、彼女は。壊れた扉、その奥に覗く暗闇の前に立つ、無傷の彼女は。立ち尽くすローザの目の前で、彼女は振り返り、にっこりと微笑んだ。

「さぁ、行きましょう、ローザさん」

 それは可憐で、健気で、可愛らしい微笑みだった。邪心の欠片もない、何の疑いも企みも感じさせない、素直で純粋な微笑み。ローザは知らず後退っていた。優乃の表情から微笑みが消え、次いで、深い悲しみの色が浮かぶ。それも、やがて消えた。

 疑ってはいけない。信じなければならない。少なくとも、敵じゃないとは信じてるわ……ついさっき自分が言った台詞が、脳裏に浮かび消えてゆく。だが。

 優乃は落ち着いたまなざしでローザを見つめながら、ゆっくりと近づいてきた。その瞳に、薄闇の中にも際立つ華奢な肢体に、かつて見た不可思議な魅力が満ちてゆく。ローザの胸の内に消したはずの疑念と、そして否定しようのない恐怖が浮かび上がってきた。

 ……この子を本当に信じていいの……?

 一瞬の躊躇いが、抵抗の機会を奪った。優乃の伸ばした両手が、ローザの頬にそっと触れる。瞬間、ローザは身体が自分のものでなくなったような錯覚に陥った。膝が砕け、手は預かっていた鞄を取り落とす。満足に呼吸もできず、声など出せるはずもなく。床に両膝を突いて尚、顔を背けることも、視線を逸らすことすらできない。

 まただ。ローザは戦慄した。あの夜と同じ。意志では逃れようとしているのに、身体は優乃を……月の魅力あふれるこの少女を……求めている。

 しなやかな髪が頬に触れた。少女の左手が首筋から背中にかけてを優しく撫で、右手は肩から胸のふくらみを越えて、上着の内側に滑り込む。焦らすように肌をまさぐる指先が、脇腹に至ったところで何かを探り当て、動きを止めた。

 ……銃だ!

 気づいたときには、もう遅かった。肩に吊り下げていたホルダーから、銃が素早く抜き取られる。月の呪縛から解き放たれ、考えるよりも早く奪い返しに動いた手は、銃ごと優乃の手に絡め取られた。

「ローザさん……もしも、ですよ」

 感情が抜け落ちたように無機質な口調で、優乃が尋ねる。

「もしも私が人間じゃなかったら……どうします?」

 そんなことは関係ないわ。咄嗟に浮かんだ台詞を、しかし、ローザは口にすることはできなかった。声に出して言ってしまえば、自分と優乃、両方に嘘をつくことになる。

 すると何を思ったのか、優乃はローザの手を握り締めたまま、銃口を自らの胸に突きつけた。

「私を……殺しますか?」


 ……パァン!


 突然頬に衝撃を受けて、優乃はその場に倒れた。床に投げ出された格好のまま、茫然とした表情で頬を押さえる。

 奪い返した銃をホルダーに納め、ふらつく脚で立ち上がったローザは、肩で荒々しく息をつきながらもキッと優乃を睨みつけた。

「そんな泣きそうな目で殺すの殺さないの言うんじゃないわよ! 貴女はそんなに生きることが嫌いなの!?」

「……そ……」

 優乃の瞳から、みるみる大粒の涙が沸き上がり、ポロポロとこぼれ落ちた。

「そんなこと……そんなことないです! 私、お花も動物たちも、人も生きることも大好きです! でも……でも、私はみんなとは違うから……」

「みんなって誰よ!? あたしはローザで、貴女はユーノでしょう!? あたしは《みんな》なんかじゃないのよ!」

 吐き捨てるように言い、ローザは優乃の前に膝をついた。すぐ目の前で怯えと戸惑いに揺れている瞳には、もうあの不思議な輝きはない。胸に熱いものが込み上げ、潤む瞳を隠すように、ローザは乱暴に優乃を抱き寄せ、抱き締めた。

「ローザ……さん……?」

 詫びる言葉はなかった。自らの腕に爪を立て、その中にいる少女を折れそうなほどに強く抱き締めて。ローザは耐えた……だが。

 おずおずと、やがてしっかりと、腕の中の少女に抱き返されて。

 声を押し殺し、全身を激しく震わせて、ローザは、泣いた。

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