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 翌日。

 ローザはウィンストリア中心街にある酒場の片隅で、口にティースプーンをくわえながら、卓の上に並べられた地図や書類と睨めっこをしていた。

 昼時をとうに過ぎ、夕暮れまでにはまだ時間があるので客の数は少ない。この時間帯の酒場に漂う都会の中心にありながら喧騒とは無縁な雰囲気を、ローザは気に入っていた。今も四人がけの卓を一人で占有しているが、文句を言う者は誰もいない。たまに店員が卓の拭き掃除に来るくらいだ。

「お客様、少しよろしいですか?」

 声をかけられ、ローザは顔を上げた。清楚なエプロン姿のウェイトレスがコーヒーを乗せた盆を片手に立っている。この酒場の看板娘で、なかなかに可愛らしい女の子だ。制服のスカート丈が短いのは店長の趣味だろうか?

「ふぁひ? あふぁひふぉーひーはほんふぁっへ?」

 ティースプーンをくわえたまま尋ねると、ウェイトレスは、いいえ、と微笑んだ。

「当店からのサービスです。ここ最近、お客様には毎日来ていただいているので。それに、夜の忙しいときにはこういうことはできませんから……」

「ふぇ〜……んっ、ありがと。でも、よく今のが聞き取れたわねぇ」

 ローザはコーヒーを受け取り、ティースプーンをカップに入れた。

「酔っぱらいの相手で慣れてますから。これから少し店内の掃除をしますけど、お気になさらずにごゆっくりどうぞ」

「うん。ふぅ、それじゃあ、ちょっと休憩……」

 ローザはう〜んと伸びをし、両腕を前に投げ出して卓に伏せた。長い髪を指でいじりながらコーヒーをすする。

 硝子板一枚隔てた窓の外では、人々がいつも通りの生活を送っている。馬車や路面電車に交じって最近普及し始めた自動車が行き交い、時折ブザーを鳴らして通行人を驚かせている。幼い少年が母親に手を引かれて歩く一方で、こちらも息子なのだろう、壮年の紳士が杖をついた老女の手を引いて歩いている。

 何もかも、かわりばえのない光景。まるで、昨夜の事件が嘘のような……。

「お客様、最近よく調べものをなさっているようですけど、どうかなさったんですか?」

「ん〜? そうね〜」

 不意に現実に引き戻されたローザは、ウェイトレスが隣の卓の上を片付けているのを見ながら、ちょうど目の前にあったスカートの端をつまんだ。

「見えそで、見えないのよ……貴女のスカートの中身と同じでさ」

「きゃん! もう、やめてくださいよ〜っ」

 ウェイトレスが笑いながら文句を言う。その頃には、ローザは再び深い思考の海に沈んでいた。

 昨夜の事件……商業区域の裏通りで遭遇した吸血鬼と、教団《光と闇の礎》について。

 今朝早く、ローザは目撃者として自ら警察署に出向いていた。

 氏名、年齢、住所、職業などの確認から始まり、どうして事件現場にいたのか、そして当時の様子など、事情徴収は淡々と進んだ。大半の質問には正直に答えたが、今回の事件を優乃から聞いて知ったことや吸血鬼との戦いの中で助けてくれた謎の人物、ワイアード大神官の不審な言動については一切触れなかった。一度首を突っ込んだ以上、ローザはこの事件に自分自身の手でカタをつけるつもりだった。

 そして、事情徴収の後。応対してくれた刑事との別れ際に、ローザは教団《光と闇の礎》について尋ねてみた。すると、教団の神官・信者たちで結成された自警団は、いつも必ず警察よりも先に犯行現場に現れることがわかったのだ。

 教団と事件が深いところで繋がっているのは間違いない。立場上はっきりと口に出しては言わなかったが、刑事の口調にはそう確信している響きがあった。

 そしてまた、ローザも同じことを考えていた。昨夜のワイアードの台詞、

「犯人は黒いコートの男で身体と額に銃弾による傷を……」

 忌々しいが、あの吸血鬼の再生能力は高かった。ローザが最後に見たとき、銃弾による傷跡はほとんど残っていなかったのだ。血は上半身全体に付着していたし、辺りはかなり暗かった。何処かに隠れて最初から見てでもいない限り、撃たれたのが額だと特定できるはずがない。

 そしてもう一つ。吸血鬼を撃ったのがローザだと思った理由について、ワイアードの説明は理に適っているようだが、被害者の一人は警官なのだ。客観的に考えればローザが撃ったとは思わないだろう。

 共謀しているのかどうかまではわからないが、教団の上層部、少なくともワイアードと名乗った大神官は、吸血鬼の行動を把握しているようだ。そして自警団という名目で結成した部隊を利用して、吸血鬼が逮捕されるのを巧みに妨害している。目的は、この騒ぎに乗じた信者の獲得と勢力の拡大といったところか。

「あら。タバコ、お吸いになるんですか?」

 ウェイトレスの声が、再びローザを現実に引き戻した。いつの間にか、無意識の内に備品のライターをいじくってしまっている。

「ああ、ごめんなさい。壊しちゃ悪いわね」

 誤りながら、ローザは灰皿の横にライターを戻した。

「タバコは吸わないわ、身体に毒だもの」

「あたしもです。苦手じゃありませんけどね……さて、お掃除終わりっと!」

 ウェイトレスは雑巾入りのバケツを持つと、軽く会釈をして店の奥に入っていった。

「元気のいい子ね……」

 呟き、ローザは手元の書類を手に取った。それは教団や吸血鬼と並ぶ今回の事件の大きな謎の一つ……太陽と月の魅力を合わせ持つ少女、優乃に関する調査書だった。今朝方、警察署に向かう途中で、私立の調査団体に依頼しておいたのだ。


 橘=優乃=ジェクスクト 十七才 女性   《風渡る丘》在住

  交通:巡回13番系統《クーン橋》下車    南へ徒歩およそ半刻


 広大な屋敷の実質的な主人。二十代前半の男性使用人を一人住まわせているが家族はいない。住民登録は彼女自身が十五才の頃に行い、そのとき既に両親は亡くなっていたという。

 莫大な財産を所有し、その財力は一地方領主にも匹敵すると想定されるが、彼女が巨額の取引をした記録はない。

 サングラスと日傘を常備しており、それらの熱心なコレクターであることは商店街では有名な事実である。水際立った容姿と温和な性格から、評判は良好。しかし、常に単独で行動し、用事がすむとすぐに馬車で帰ってしまうことから、友人の類はいないものと思われる。

 一時は使用人との恋仲が噂されたが、二人が絶対の主従関係にあることは誰の目にも明らかであり、すぐに消えた。しかし、真偽のほどは定かではない。

 今回の調査では、彼女の屋敷での生活を知ることはできなかった。


                           以上


「商売敵もこういうときには役に立つわね……ま、半日の調査じゃこんなものかな」

 ローザは残りのコーヒーを一気に飲み干すと、書類と地図をまとめて鞄に入れて席を立ち、財布から数枚の銅貨を取り出して卓の上に置いた。

「お勘定、ここに置いてくねー!」

「あっ、はーい! ありがとうございましたー!」

 店の奥からひょっこり顔を出したウェイトレスに手を振って、ローザは酒場を出た。

 今日は他にも行くところがあるのだ。


 クーン橋。

 ウィンストリアを流れる全ての水路の源流に架けられた、この街に数ある橋の中でも最も巨大な石橋である。

 街の外れに位置しており華やかさにはやや欠けるが、風光明媚で名高い《風と水の都》を一望できることから観光に訪れる者が多く、ここから街中を周遊して港へと向かう遊覧船の乗り場や、夏には流れに足をつけて涼みながら食事ができる洒落た店構えの喫茶店などが、粉引きの水車小屋に交じって建ち並んでいる。

 そんなのどかな光景が、夕暮れの朱に染まり始める頃。調査書を頼りに路面電車に乗り込み、観光客に交じって《クーン橋》にて下車したローザは、街の中心とは反対方向へと続くなだらかな坂道を、観光気分に浸りながらゆっくりと登っていた。

 《風渡る丘》と呼ばれる地域に足を踏み入れてすぐに、ローザは時の流れではない、土地柄による季節の移り変わりを目の当たりにすることになった。後にしてきた街は活気に満ち、人々の営みが街全体を暖かく包み込んでいたが、人家もまばらな《風渡る丘》には、一足先に秋が訪れていたのだ。

 魔峰、霊峰の連なるクスウルの山塊を背後に控え、一年を通して冷涼な気候に育まれた樹々は、いずれも逞しく大地に根を下ろしている。幹や根の辺りからは茸が生え、落ち葉が絨毯のように敷き詰められた幅広の道のここかしこには、様々な木の実が埋もれている。風が吹き、栗鼠やイタチが駆け回り、枝葉を揺らして涼しげな音をたてる。

 歩き始めてから半刻も過ぎた頃には、人と擦れ違うこともなくなり……ローザの目の前には、橘=優乃=ジェクスクトの屋敷が森に抱かれ眠るようにしてひっそりとたたずんでいた。

 一目でそれとわかる石造りの門。

 広大な敷地の大半は緑に覆われ、形ばかりに境界を示す石垣は、身軽な小動物たちの格好の通路となっている。

 奥へと続く道はわずかに弧を描いた石畳。

 沿道の花壇には季節の花が一面に咲き誇り、敷地の中程で左手に別れた道の行く先には、中央に憩いの場を備えた島の浮かぶ大きな池がある。水辺には幾つかの墓標が並んでいる様子も伺えた。この屋敷の代々の住人が、今も静かに眠っているのだろう。

 神殿にも似た造りの館は、とても大きく美しかった。屋根から壁そして地面に至るまで、最も高い所で五階建ての館は半ば蔓草に覆われており、この地に過ごしてきた年月の長さを物語っている。玄関や数ある窓のそばには色とりどりの花が飾られ、蔓草や周囲の景色も相まって、本来の姿は荘厳華麗に違いない白亜の館を暖かみのある可愛らしい姿に彩っている。

 馬車の姿は見あたらない。厩舎と共に館の裏手にあるのだろうか。何も知らない者が見れば花の女神の神殿とでも思いそうな人気のない屋敷を眺め、優乃の明るい笑顔を思い起こしながら、ローザは考えた。

 街から遠く離れた屋敷にひっそりと住む、花を愛する孤独な少女……そんな彼女が、どうして街の残忍な殺人事件に絡んでくるのだろう。おまけにこの事件には本物の吸血鬼まで絡んでいるのだ。およそ彼女ほど《邪悪》や《魔性》といった類のものと縁遠い人間もいなさそうなものなのに。

 ローザは優乃のもう一つの顔をも思い起こしていた。昨夜の別れ際に見せた悲しげな表情。屋敷に招待してくれたときの嬉しそうな笑顔や、初対面のローザに御辞儀をした後の微笑みからは余りにもかけ離れた、強い意志と決意を秘めた、あのまなざし。

「これは私達の問題なんです、か……」

 呟き、ローザはふと、また自分がライターをいじっていることに気がついた。これは考えごとをするときの父親の癖だ。小さい頃から見ていたせいか、いつの間にか身についてしまい、直せずにいる。

「やれやれ、あたしも完全に逃げられたってワケじゃないのか……」

 自嘲気味に微笑み、ライターを懐に戻して、ローザは館に背を向けた。

 今日この場で優乃を訪ねるつもりはなかった。折角招待してくれているのに、疑いのまなざしを向けて好意を踏みにじるような真似はしたくない。

「また来るわ、ユーノ。今度は探偵としてじゃない、貴女の友達として、ね」

 背を向けたまま小声で告げて、ローザは屋敷を去った。


 数刻の後。

 月明かりに照らされた石畳の道を、真紅のレザードレスを身にまとった華奢な少女が一人、大きな鞄を片手にゆっくりと歩いていた。

「今年もよく咲いたわね……」

 見事に花を咲かせた植物の数々を満足気に眺めながら、夜風に流れる髪をそっと撫でつける。両の瞳は髪と同じ艶やかな栗色、薄く笑みをたたえた唇は薄紅。この広大な敷地と館の主人、橘=優乃=ジェクスクトである。

「そう思わない? トーマス」

 親しげに、振り返りもせず語りかける優乃の背後で、闇が揺らいだ。しばしの後、優乃の声に命を吹き込まれたように、闇が一人の男の姿を象る。

「……やはり、私は反対です」

 人の姿をした闇……トーマスと呼ばれた男は、咎めるような口調で言った。

「お嬢様にこのようなことは似合いません」

「私の他に、誰がやると言うのですか? これは我々に課せられた使命なのです」

「私は……いや、僕は君に、普通の生活をしてもらいたいんだ、優乃」

 低く落ち着いていたトーマスの声に、急に若々しい響きが混じった。主に仕える執事の如く丁寧だった口調も、妹を心配する兄の如きそれへと変化している。

「血や家に捕われずに、一人の女の子として幸せをつかんで欲しい。いつまでもこんな屋敷に閉じこもってないで……」

「トーマス!」

 優乃の悲鳴にも似た叫びに、トーマスはハッと言葉を切り、地に片膝をついて深々と頭を垂れた。

「……申し訳……ございません、お嬢様……」

「もうよい……おさがりなさい」

「……はっ」

 トーマスの姿が、輪郭を失い闇へと還る。

 しばしの静寂の後、優乃は手元の白薔薇を一輪手折ると、花を下向きにして顔に近づけた。茎をつかむ指先が棘に傷つき血を流し、わずかに青の混入した赤に……赤紫に……白薔薇を染めてゆく。優乃は薔薇にそっと口づけると、鞄の蓋を開いて中に入れた。

 一輪、また一輪。

 次々に手折られる白薔薇は、乙女の血と口づけを受け、赤紫に染まっていった。

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