3
夜。
雲一つなく綺麗に晴れた星空に、月が煌々と輝き始める頃。
既に大半の人々が仕事を終えて帰路につき、シ……ンと静まり返った商業区域の裏通りを、ローザは一人、事件解明の鍵を求めて歩いていた。
優乃と名乗った少女と別れた後、街の人から聞いた話や警察が公開している情報を繋ぎ合わせてみたところ、どうやら吸血鬼は同じ場所には二度と現れていないらしい。そこで残された地域の地理的条件を徹底的に調べ上げて人目につかずに犯罪を起こせそうな場所を特定し、更にその中から最も吸血鬼が出没する可能性が高いと思われる場所を突き止めたのだ。その手際の良さは、彼女が確かに探偵として優秀な技能を持っていることを証明するものだった。一部、非科学的な要素に頼ったことも事実ではあるが……。
「必要経費よね。あのバーさん結構本格的だったし、今のところ全部当たってるし……」
ぶつぶつと呟くローザの指には、やけにリアルな硝子の瞳と三日月型に開いた口が怪しげな、可愛げのない人形がぶらさがっている。
数時間前、評判の占い師がいるという噂を耳にして、ローザは彼女を訪ねていた。
「はぁ? 何ぞ仰りましたかいの?」
占い師のお約束な反応に、ローザは顔をしかめたが。
「だぁかぁらぁ、吸血鬼の話が聞きたいんだってばっ!」
「はぁ? もう少し大きな声で言ってくれやしませんかのぉ」
「吸血鬼よ、きゅ、う、け、つ、き!」
「はぁ……申し訳ありませんなぁ、近頃耳が遠くなって」
「……バーさん、そこの身代わり人形一つね」
「ハイハイ、銀貨一枚になりますでよ、ありがとうねぇ。で、何が知りたいんだい?」
そう言って、占い師のバーさんはニィッと白い歯を覗かせたのだった。
「それにしても……流石に気味が悪いわね」
ローザは不安げに辺りを見回し、普段とはうって変わって気弱な声で呟いた。
昼間の少女の前では強がって見せたが、やはり人気のない裏通りというものは一人で歩いていて気持ちのいいものではない。これならゴロツキの溜り場を巡回しているほうが余程マシというものだ。昼間のように、たとえ複数の屈強な男たちを敵に回そうとも臆することはない彼女だが、常識では理解し難いもの、正体がはっきりしないものは大の苦手なのだった。
今頃駅周辺の繁華街では、吸血鬼の噂などものともせずに多くの人々が夜の営みを楽しんでいるのだろう。行きつけの酒場に足を運ぶ者、遊戯場でビリヤードやカードゲームに興じる者、水辺に寄り添って愛を語らう恋人達。ここ一番の稼ぎ時と、懸命に大道芸を披露している者もいるかもしれない。
港を有するウィンストリアでは、日夜多くのものが市場を行き交う。宝飾品や日用品に混じって最も数多く店先に並べられるのは、新鮮な食材の数々だ。事前に軽く食事を済ませてはきたものの、建ち並ぶ屋台や酒場・食堂の厨房から美味しそうな匂いを漂わせているに違いない様々な料理を想像すると、どうにも食欲をそそられずにはいられない。
「ビーフストロガノフとぉ、ホウレンソウのバター炒めとぉ、サーモンとマッシュの包み焼きとぉ、ポテトサラダとぉ、それにカモミールティーでしょ、んでデザートはぁ……」
マッチ売りの少女よろしく幸せな妄想に浸りながら歩き、次の角を何気なく曲がったところで……突然、誰かがローザの肩に手を置いた。
「ひゃあぁぁっ!?」
いささかみっともなく悲鳴をあげて跳び上がり、ローザは慌てて振り返った。
「な、何よいきなり、大きな声を出して……」
顔をしかめて立っていたのは、少女の面影が強く残る小柄な女性だった。淡灰色の制服に身を包み、腰には拳銃と金属棒を携えている。胸や帽子についている印章は、ラウアール帝国旗を簡略化したものだ。どうやら警察官らしい。
「ああ、ビックリしたぁ……驚かさないでくださいよ、お巡りさん」
「驚かすも何も、そっちが気づかなかっただけじゃないの」
警官は頬を人指し指で掻くと、そんなことより、と続けた。
「一体こんなところで何をしているの? 早く家に帰りなさい。吸血鬼の噂は知ってるでしょう?」
「え? ええ、まぁ……」
どうするべきか、ローザは少し迷った。捜査をやめる気は毛頭ないが、自分はまだ許可を取っていない探偵だし、今ここで警察を敵に回すのは得策とは思えない。それに彼女の言葉には職務に対する責任感や忠実さこそあれ、嫌味なところは微塵も感じられない。ここは素直に退いたほうがよさそうだ。
「すみません、仕事が遅くなっちゃって、つい近道をしようと……」
「仕事熱心なのはいいことだけどね。残業も程々にしておきなさいよ」
「はい、わかりました……あの、申し訳ないんですけど、明るい所まで護衛をお願いできませんか?」
「ええ?」
警官は呆れたような声を出したが、
「仕方ないなぁ……ま、いいわよ」
先に立って歩き始めた。
「あの、貴女はどうしてこんなところを巡回してるんですか?」
後について歩きながら、ローザは警官に話しかけた。
「もっと人の多い場所とか、住宅街の方が、吸血鬼も人を狙いやすいと思うんですけど」
「ああ、ほとんどの人はそっちのセンで動いてるわよ。これは私の単独行動なの」
にこりともせずに、彼女は答えた。
「今までの状況を見る限り、犯人は相当にズル賢いわ。わざわざ人が滅多に通らない場所で、誰にも目撃されずに人を襲ってる。明らかに待ち伏せよ。にもかかわらず、被害者の殺され方はいつも同じ、しかも狙われるのは若い女性ばかり……何か作為的なものを感じるのよ。まるで、本当は殺す対象なんて誰でもいいような……人を殺すことが目的じゃない、吸血鬼の噂を広めることこそが目的のようなね。それとも逆に、唯一人を殺すためだけの捜査撹乱を狙った偽装か……」
「へぇ……凄いですね、何だか推理小説の主人公みたいです」
ローザが褒めると、警官は少し怒ったような表情になった。
「あのねぇ、これは現実に起きている殺人事件なの。次に襲われるのは貴女かもしれないのよ?」
「す、すみません」
「まったく、これだから本部の人達が自由に動けないのよ。夜には出歩くなって言ってるのに、ほとんど誰も言うことを聞いてくれないし。そのクセ何かあったら私たちに責任転嫁するんだから。自分の身の安全くらい自分で確保してくれなきゃ、幾つ身体があっても足りやしないわ」
ぶつぶつと文句を言いながら、彼女はどんどん先に歩いていってしまう。少し読みを間違えたかな、と反省しながらも、ローザは警官の態度に好感を抱いていた。彼女は真剣に街の平和のことを考え、動いている。
しばらくの間、暗く狭い裏通りには二人の靴音だけが響いていた。
歩きながら、ローザは今までに得た情報を整理した。
度重なる犯人の行動から、警察側もある程度の予測はたっているようだ。だが住民の不安を取り除くために、大多数の人員を無駄な警備に割かれてしまっている。この婦人警官のように独自の判断で行動している者もいるが数は少なく、未だ犯行現場を目撃した者はいない。被害者の数が増えるにつれて住民側の不安はますます募り、警備の増強が要請される……典型的な悪循環だ。
「……まぁ、全員が貴女くらい楽観的でいてくれるなら、却って楽なんだけどね」
「えっ?」
唐突に、警官が快活な声を出したので、ローザは驚いて顔を上げた。
「吸血鬼だか何だか知らないけど、この街で悪さをするならただの犯罪者よ。絶対に捕まえてみせるわ」
そう言って、彼女は不器用に微笑んで見せる。どうやらローザの沈黙を、怒られて落ち込んでしまったと取り違えたらしい。ローザは思わず相好を崩した。
「頼もしいですね。貴女みたいな人がいてくれるなら安心です」
「そう言ってくれると嬉しいわね。正直な話、上の人達はアテになんないから。賞金なんか出してみっともないったらないわよね。だから教団なんかにつけ込まれるのよ」
聞き慣れない言葉を耳にして、ローザは眉をひそめた。
「教団……って何です?」
「ああ、知らないの? 教団《光と闇の礎》のこと」
警官が意外そうに言う。最近引っ越してきたばかりですので、と付け加えると、彼女は親切に教えてくれた。
《光と闇の礎》……それは『太古の昔、人は神の御子であった。信仰と祈りによって、人は再び神の御子として覚醒する』という基本教議のもと、最近勢力を伸ばしてきている新興宗教団体だった。今回の事件については吸血鬼の出現を神の罰と考え、神の怒りを鎮めるためと、多数の神官・信者たちで自警団を結成して街を見回っているらしい。
ま、信者獲得のための宣伝活動ってとこかな。ローザは思った。自分なら天罰として人の喉を喰い破る吸血鬼を遣うような神を敬う気にはなれないが、警察が犯人を捕らえられない以上、人々の不安は募るばかりだ。中には宗教に走る者も出てくるだろう……警察への信頼と引き換えに。
やがて行く先に街灯の光が見えてきた。先に立って歩いていた警官が、この辺りでいいでしょう、と振り返る。
「じゃあ、私はこれで。気をつけて帰るのよ、何かあったら署にいらっしゃい」
「はい、どうもありがとうございました。そちらも気をつけて下さいね」
ローザが言うと、警官は初めて屈託なく笑った。
「私みたいなっぽい女、吸血鬼が狙うワケないじゃない」
しかし彼女の笑顔は充分に魅力的だったし、去り際に振られた手には、美しい婚約指輪が光っていた。
表通りに出てしばらく歩くと、比較的大きなバス停留所が見えた。木目も見事な一枚板のベンチに腰かけ、軽く溜め息をつく。
辺りに人影はない。足元にはゴミ箱からあふれ出した紙屑が散らばり、頭上ではジジジジ、と独特の音をたてる街灯の周囲を、数匹の蛾がひらひらと舞っている。薄ぼんやりとした黄色い光を頼りに地図とメモ帳を広げて、ローザは情報整理の続きと今後の方針の検討を始めた。
既に吸血鬼出現の可能性が高いと思われる場所には○印をつけてある。今までに吸血鬼が出現したとされる場所には×印がつけてあるが、内三つは正確には『被害者の遺体が発見された場所』だ。目撃者がいない以上、必ずしも犯行現場とは一致しない。先程の婦人警官が言ったように犯人が智謀に長けているならば、遺体を別の場所に運んで捜査の撹乱を謀るくらいのことはやりかねないだろう。人目につかないよう人一人を殺害し、尚かつ一晩の間に別の場所に運ぶとなると、単独犯とは考えにくくなるが……。
教団《光と闇の礎》のことも気になる。自警団を結成して街を見回るというのは大いに結構なことだが、警官の口調から考えると警察と足踏みは揃っていなさそうだ。警察側が知らない何らかの情報を握っている可能性がある……調べてみる価値はある。
「捜査初日としてはこんなものかな……まだまだ情報不足だけどね」
今日の日付けと捜査の経緯を簡潔に書き記して、ローザはメモ帳を閉じた。警官に横槍を入れられたのは計算外の出来事だったが、咄嗟の機転でうまい具合に話を聞くことができた。今夜は警察側の情報がつかめただけでもよしとすべきだろう。
警察の人間と自然に顔見知りになれたことも大きい。今後、彼女との繋がりが役に立つことがあるかもしれない。
「さって、どうしよっかなぁ。今更別の場所に行く気にはなんないし、かと言って寝るには中途半端だし……酒場にでも行こっかな……あ、この印……」
地図を畳もうとして、ローザは商業地域の一角につけられた◎印に目をやった。夕方に訪ねた占い師のバーさんが「今夜ここで何かが起きる」と言った場所……つまり、つい先程までローザがいた場所だ。
「何かが起きる……ね。ま、外れちゃいないか……ん? ……あれ?」
ローザはふと、あの可愛げのない身代わり人形が手元にないことに気がついた。慌てて身体中のポケットを捜しても、出てくるのは財布やペンやメモ帳ばかり。
「あっちゃー、多分あのときだわ……」
ローザは額に手を当てて星空を仰いだ。警官に肩を叩かれたとき、驚いて跳び上がった拍子に落としてしまったのだろう。
別にいらないんだけどなぁ……でも高かったし……。
ローザは迷った。これから金貨百枚を稼ごうというときにケチ臭い気もするが、一月銀貨三枚のアパートで暮らす今の自分にとっては銀貨一枚と言えども大金だ。
「ええい、仕方がない。役に立つとは思えないけど……独り暮らしの鉄則その一、物は粗末にしないっ!」
かけ声と共に立ち上がり、ローザが裏通りに戻ろうとしたとき。風に乗って運ばれてきた微かな音に、ローザは一瞬その場に凍りついた。
「悲鳴? まさか……」
口に出した言葉とは裏腹に、ローザの耳は確かにその音を捕らえていた。本当に悲鳴なのかどうかは、はっきりと確認することはできなかったけれど。
吸血鬼かもしれない。脳裏をかすめた考えに、ローザの心臓は高鳴り始めた。身体の芯の辺りが熱くなり、続いてゾッとするほどに冷たくなる。髪を揺らす夜風には、もう何も運ばれてはこない。
……と、風がやんだ。突然途方もなく深い洞窟の奥底に放り込まれたような静寂に、ローザの肌はあわだった。自分は今、夜の街に一人でいる。その現実が、恐怖という形をとってローザの胸を押し潰そうとする。
「……行くわよ、ローゼンシル=レクター」
自らを奮い立たせて、ローザは声が聞こえてきた方向に歩き始めた。一歩踏み出してしまえば後は楽だった。恐怖の対象が何かわからないのなら、それを確かめればいい。自分はこうして動けるし、こんなにも落ち着いている。
ローザは元来た道を戻り、警官と別れた角から裏通りに入った。
数ある別れ道を勘に任せて選択し、視界の利かない曲がりくねった道を進む。やがて十字路にさしかかり、そのまままっすぐに通り抜けようとした瞬間、左の道の奥に人影が見えたような気がして、ローザは咄嗟に身体を翻した。十字路の手前まで戻り、左側の壁に背中をつける。いつでも銃が抜けるように右手を空け、そっと顔だけ出して様子を伺おうとし……ふと何か違和感を感じて、ローザは足元に視線を落とした。
ローザの足に踏まれていたのは、あの可愛げのない身代わり人形だった。どうしてこんな所にあるのだろう? 一人でいたときも警官に会ってからも、この十字路は通っていないはずなのに。
不思議に思いながらも人形を拾おうと身を屈めたのと、
ブォッ!
「……っ!?」
背中に鋭い痛みを感じたのが同時だった。今さっきまで自分の上半身があった空間を、正面の闇の向こうから跳び出してきた《何か》が、猛烈な勢いで貫いていったのも。一瞬遅れて巻き起こった突風に、銀髪の切れ端が宙を舞う。
背後から、《何か》が勢い余って地面に激突する音が聞こえた。
「か、屈んでなかったら殺されてた……」
ローザの背筋を冷たいものが走り、両膝と両手のひらがカッと熱くなった。すぐ目の前に地面がある。いつの間にか倒れたらしい。腕も脚も、かろうじて身体を支えてはいるものの、ガクガクと震えるばかりでまるで言うことを聞こうとしない。
倒れていた《何か》が起き上がり、じりじりと間合いを詰めてくる。荒々しい息遣い。ポタポタと落ちるよだれ。何か硬い物がしきりに地面を削っている。今にも襲いかかってくる。若い女性の柔らかな肉を切り裂き、熱く甘い血を啜ろうと。このような状況に追い込まれて尚明晰なローザの頭脳が、かつてない早さで回転し始める。
後ろにいるのは何だ。
おそらく人間ではない。
背中に負った傷。
この感覚は刃物によるものとは違う、鋭い爪でえぐられたようなものだ。
あの少女が言ったように、野獣の類か。
ならば接近戦では勝ち目が薄い、距離を稼いで……何だ?
不意に指先に冷たいものが触れ、ローザの思考は途絶えた。地面が濡れている。顔を上げると、強烈な血の臭いが鼻をついた。
視界の左端に先程の人影がある。壁に背を向けて道端に座り込んでいる……ピクリとも動かない。
「き……」
人影の周囲には水たまりのようなものがあり、時折何処からかしたたり落ちる滴が、ぴちゃん、ぴちゃんと音をたてている。
その人影の左手に光っている指輪には、見覚えがあった。
「貴様ぁぁ−−−−−っ!」
グギャアアアァァアッ!
ローザが銃を抜いて振り向き様に発砲した瞬間、けたたましい叫び声をあげて跳びかかってきたのは黒いコートを着た男だった。弾丸は目標から大きく左に外れ、建設中の建物の石材に火花を散らす。長く鋭利な爪を備えた男の右手が、身体の回転と共に空中になびいていたローザの銀髪を横薙ぎに斬り払う。無理な体勢に加えて弾丸発射の際の反動で後ろ向けに倒れたローザの目前に、男の異様に青ざめた顔と獣の如き牙が迫った。
ローザの瞳は氷のように冷たく透き通っていた。先程までの恐怖心は跡形もなく消え失せている。目の前の男が吸血鬼であろうとなかろうと、そんなことは最早さしたる意味を持たなかった。胸の前で銃を構え、男が喉に喰らいついてきた瞬間、相手の心臓を正確に撃ち抜く。続いて右の肺、左の肺を撃ち抜かれ、ローザの喉を咬み締めていた男の牙が外れる。ローザは右脚を折り曲げて膝を胸に引き寄せると、渾身の力を込めて男の胴体を前方に蹴り飛ばした。地面を突っぱねて上体を起こし、狙いすました一撃を放つ。
ぐらり、と男の身体が揺れた。驚異的にも両足で着地していた男は、弾丸に貫かれた額から盛大に血しぶきを迸らせ、倒れた。
静寂が訪れた。
長々と息を吐ききって、ローザもまた仰向けに倒れた。光源としてはあまりに頼りない月明かりと星明かりが、今はやけに眩しく見える。
頭を横に巡らせると、あの可愛げのない身代わり人形があった。ローザは人形を拾い上げ、
「前言撤回……役に立つじゃない、オマエ。でも、どうせなら……」
既にこときれている警官に目をやった。
「彼女も守ってあげてほしかったわね」
そして、人形を懐のポケットに入れた。
……と。
突然聞こえた微かな物音に反射的に上半身を起こし、身構えたローザが見たものは、信じ難い光景だった。
二度と動かぬ骸と成り果てていたはずの男が、今、目の前でもがいている。苦しそうに呻きながらも、両手をつき、膝を立て、起き上がろうとしている。
ローザの中の常識は音をたてて崩れ去った。当然だ、発射した弾丸のうち三発は男の心臓と左右の肺を、最後の一発は脳を貫いているのだ。このようなことが常識で考えられるはずがない。
吸血鬼。茫然とするローザの頭に、その単語が改めて浮かんだ。男の胸と額の傷が、見る見るうちに癒え、塞がってゆく。ローザは我に返り、急いで残りの銃弾の数を確認した。
あと一発、か……。
先程と同じく、頭部を狙うしかない。できれば側面から、左右の眼球を貫くように。ローザの頭脳は最良の解答を弾き出していた。致命傷を与えることはできそうにないが、頭部への攻撃が時間稼ぎになることは実証済みだ。
今や傷口は完全に塞がり、起き上がった男が血走った眼でローザを睨んでいる。
グルゥァアァァアァアッ!
血泡を吹いて襲いかかってきた男の爪を、刹那の差で跳んでかわす。動きが鈍い。多少なりともダメージが残っている? 試しに放った回し蹴りが脇腹に深々とめり込み、男が苦悶の表情でうずくまる。……いける!
ローザが距離をとって男のこめかみに銃口を向けた瞬間、
ズドドドドドォッ!
「なっ!?」
突如轟音と共に降り注いだ大量の石材や木材が、うずくまる男を下敷きにした。咄嗟に体勢を低くし、両腕を眼前に交差させて飛び散る破片から身を守ったローザは、それらが落ちてきたと思われる方向に目を凝らした。
誰かいる。十字路の一角、建設中の建物の地上五階ほどの高さの所に。小柄な少年のようなシルエットが、絶妙なバランスで骨組みの上に立ってこちらを見下ろしている。だが誰何の声をかける間もなく、その人物の姿は闇に溶けるようにして消えてしまった。
「……何なのよ、一体……?」
動くもののなくなった裏通りに一人とり残されたローザは、しばし茫然としていたが、
カラン……。
目の前に降り積もった建材の山から小石が落ちる音を聞いて、露骨に顔をしかめた。いい加減にしてよ、もう。心の中で誰にともなく文句を言う。
コートの内ポケットから予備の弾丸を取り出して、弾倉に詰めるだけの余裕はあった。これであと六発。ゴトゴトと揺れ始めた建材の山に銃口を向け、ぴたりと静止する。
……と、建材の揺れが止まった。
「…………?」
ローザが不審に思い、引き金にかけた指に力を込めた、そのとき。
「こっちだ! 誰かいるぞ!」
唐突に、背後の闇から声変り前の少年の声がした。続いて、大勢が駆け足で近づいてくる物音。ローザは驚いて振り返り、
ガラガラガラァッ!
「しまった!」
視線を戻したときには、もう遅かった。建材の山は崩れ、男の後ろ姿は闇に消えるところだった。
行きがけに、凄まじい殺気をみなぎらせた眼でローザを睨みながら。
……逃げられた。
緊張の糸が切れてその場に座り込んだローザの横を、
「吸血鬼だ! 吸血鬼が出たぞ!」
「黒いコートの男だ!」
「そっちに逃げたぞ!」
「回り込め!」
何処から出てきたのかと思わせるほどに大勢の男たちが、先端に炎の灯った杖を手にして口々に叫びながら走り過ぎてゆく。ほとんどが青年や壮年の男たちだが、中には先頭切って駆け抜けていった少年のように、まだ幼さを残した者の姿もある。浅黒い布を筒型に縫っただけの簡素な服装に混じって、時折妙な模様の旗や派手な衣装が見え隠れする。
何なのよ、コイツら……。
ローザは呆気に取られていたが、ふとあることに気づいた。
「……って、あたしの手柄を横取りするんじゃないわよ! 待ちなさいってばっ! 聞いてるの、アンタ達!?」
ローザは怒りと屈辱に唇を咬んだ。手柄云々は本心ではない。彼等は誰一人として彼女の声に耳を貸さずに行ってしまったのだ。ローザだけではない。あの警官の亡骸にすら、まったく関心を払わずに。
シャリィィィ……ン……。
美しく澄んだ音色が、狭い裏通りの壁に幾重にも反響する。振り返ると、派手を通り越してド派手な衣装で全身を着飾った男が一人、警官の亡骸の前に片膝をついて錫杖を打ち鳴らしていた。片手で不可思議な印を結び、よく聞き取れないが経文のようなものを唱えている。やがて錫杖の音の余韻が闇に消える頃、男は立ち上がり、懐から通信機らしきものを取り出した。
「こちら自警団第一部隊、犯行現場を目撃しました。現在地は第四商業区域、犯人は黒いコートの男で身体と額に銃弾による傷を受けており現在逃走中、方角は特定できません」
自警団? するとこいつらが教団《光と闇の礎》なのだろうか……それにしても。ローザは眉根を寄せた。
それにしても、今のは一体どういうこと?
「被害者は若い女性が二人。一人は警官と思われますが、既に死亡しています。もう一人のほうは無事です」
男は事務的口調で喋り終えると、通信機を懐に戻してこちらを振り向いた。格好はド派手だが、落ち着いた雰囲気の初老の男だ。かなり背が高く整った顔立ちをしている。若い頃はさぞモテたに違いない。
「やたらと銃を振り回すのははしたないですな、お嬢さん。それに奴は物質兵器では倒せません。神の怒りを鎮められるのは神への信仰の力のみ……女の子は早く家にお帰りなさい」
嘲笑うような口調と高慢な態度に、ローザの男に対する評価はガラリと変わった。唯一人あの警官の死を弔ってくれたのは嬉しいし、身なりから見て相当高い位にいるのもわかる。しかし、おそらくは信者や神官たちなのだろう他の男達の、死者をないがしろにしたあの態度。上に立つ者ならば、彼等の不調法はこの男の責任ではないか。それに……。
「どうしてあたしが銃で撃ったってわかるんです?」
とぼけた顔で尋ねられ、男は少しギョッとした様子を見せた。が、すぐに表情を元に戻し、うって変わって穏やかな口調で答える。
「先程銃声が聞こえましたし……それにほら、貴女、銃を持っていらっしゃるじゃないですか」
「ああ、これですか?」
とローザは手に持っていた銃を持ち上げた。ええ、とうなずく男の顔に、いきなり銃口を向ける。驚いた男が逃げる間もなく、ローザは引き金を引き……闇の中に、ポッ、と小さな火が灯った。
「よくできてるでしょう? このライター。ほら、年代物だけどちゃんと火もつくし」
唖然とする男の前にライターを突きつけて、ローザは更に問い詰めた。
「本物の銃なんて持ってるはずがないじゃないですか。だってあたし、女の子ですよ? あたしが撃っただなんて……何処で、見てたんです?」
揺れる炎に照らされて、男の顔が歪む。だがそれは、炎のせいだけではなかった。
「は……はっはっはっ、何とも愉快なお嬢さんだ。どうやら私の勘違いだったようですな。ともかく無事で何よりです」
軽く笑い、男はどうにか平静を装ったが、その口元が引き吊っているのをローザは見逃さなかった。
「申し遅れましたが私、《光と闇の礎》の大神官、ワイアードと申します。もし何かあれば、いつでも我等が教会へとお越し下さい」
今日はよく招待される日ね。思いながら、ローザも笑顔を返した。ただし、不敵な笑みではあったが。
「ローゼンシル=レクター……探偵よ」
口元に引き続いて目元をも引き吊らせたワイアード大神官の表情は、既に笑顔には見えなかったが、ある意味充分に笑える顔ではあった。
「で、では、吸血鬼を追わねばなりませんので、私はこれで。じきに警察が来るでしょうから、お嬢さんはそこで休んでいて下さい」
ワイアードが去り、裏通りに静寂が戻ると、ローザは太股の内側に手を忍ばせた。
「意外な形で役に立ってくれたわね……普段は逆の使い方しかしないんだけど」
取り出した銃とまったく同じ姿形のライターに、ローザは軽く口づけた。
ワイアードは休んでいろと言ったが、正確な位置を知らない警察が自分たちを見つけるには時間がかかる。後々面倒なことにならないように銃とライターは懐と太股の内側に戻し、ローザは警官の亡骸を引きずって表通りを目指した。
無暗に曲がらず直進し、ほどなく表通りに出た頃には、騒ぎを聞きつけて集まった大勢の野次馬と、それらの人々をなだめすかして懸命に家に帰そうとしている警官達の姿があった。駆け寄ってきた数人の警官に亡骸を預け、医師達の制止を振り切って歩き出す。
身体が、頭がひどく熱かった。視界は不安定にぐらぐらと揺れ、些細な物音が頭に響く。野次馬でできた人垣を抜け出る頃には、ローザは全身汗だくになっていた。
熱い……何でこんなに熱いんだろ。
ついさっきまで肌寒くさえあったのに、今となっては夜風が恋しい。上着を脱ぎ、後ろ髪をまとめて束ねると多少ましになったが、それでも後から後から汗が吹き出てくる。
「……? あれは……」
一日歩き通しで疲労が蓄積していたこともあるのだろう、ふらつく脚を叱咤しながら、ともかくアパートに戻ろうと歩いていた途中。ふと街角に見覚えのある顔を見つけて、ローザは立ち止まった。
道端に止められた馬車のそばに細身の少女が一人、何をするでもなくたたずんでいる。満天に輝く星々を眺めながら、まるで誰かを待っているようだ。
「ユーノ……だったわよね」
名を呼ばれたことに気がついたのか、少女が振り向いてこちらを見、ゆっくりと歩み寄ってきた。それは確かに昼間に出会った少女、優乃だった。
しかし、随分と雰囲気が違う。ローザは少し戸惑った。日傘とサングラスがないこともある。昼間とは一転して優雅な黒絹のドレスを着こなす姿は、まるで二十代後半の貴婦人のように大人びている。しかし、それらとはまったく別の……魔性の輝きを放つと言われる宵闇に浮かぶ月のような、不可思議な魅力に満ちあふれている。昼間に見たときには、まるで陽の光の中で舞う花びらのようだったのに。
「こんばんは、ユーノ」
「こんばんは、ローザさん」
軽く挨拶を交わすと、疲労と倦怠に沈んでいた気分が心持ち楽になった。群衆のざわめきは耐え難かったが、優乃の涼やかな声は耳に心地好い。さっさと自分の部屋に帰るつもりだったが、ずっと一人だったところに知った人間に会えたことが嬉しくて、ローザはついつい言葉を重ねた。
「どうしたの、こんな所で。《風渡る丘》って確か、ここからだと街の反対側でしょ?」
「ええ……そうなんですけど、せっかく街に出てきたんだからと思って。これを」
と、優乃が取り出したのは、淡い緑の輝きを帯びた螢光硝子の眼鏡だった。
「他にもいいのが沢山あったんですけど、そんなに持ち合わせがなかったものですから。五時間もかけて選んだんですよ。……どうです、似合ってますか?」
帽子の前に取りつけられた黒絹の紗を上げて螢光眼鏡をかけ、優乃は華やかに微笑んで見せる。ローザは初め呆気に取られていたが、やがて吹き出し、クスクスと笑い始めた。
「???」
不思議そうな表情で優乃が見守る中、息を切らして喘ぎながらも、顔を上げて目尻にたまった涙を指で拭う。
その螢光眼鏡は、確かに彼女によく似合っていた。かけた途端に、大人びていた容姿が一気に少女のものに戻ってしまったけれど。
「うん、似合ってる似合ってる。……ははっ、何だか気が抜けちゃったなぁ。ありがと、ユーノ。会えて嬉しいわ。でも……」
「でも?」
優乃が不思議そうに小首を傾げる。ローザは表情を引き締めた。
「早く帰ったほうがいいわ。ここだけの話だけど、昼間言ってた連続殺人犯……あれ、本物の吸血鬼よ。あたし見たの。オマケに教団も何か絡んでるわ」
「教団……?」
優乃は吸血鬼のことよりも教団の方に関心を示したようだったが、ふと何かに気づき、表情をこわばらせた。
「……ローザさん、その怪我……」
「え? ……ああ、これ?」
ローザは喉に軽く手を触れた。
「言ったでしょ? 吸血鬼を見たって。そのときに咬まれたのよ」
優乃が螢光眼鏡を外し、黒絹の帽子を脇に抱えた。手布を取り出して口をつけ、唾液を馴染ませてローザの首に手を寄せる。
「じっとしていて下さい、ローザさん」
「あ、うん……でも、そんなに心配しなくても大丈夫だと思うわよ。ちょっと咬まれただけで、血を吸われたわけじゃないし……」
傷口を拭われながら、ローザは軽い気持ちで笑っていたが、優乃の真剣そのものの瞳に見つめられて言葉を濁した。と、優乃の瞼がスッと閉じられたかと思った途端、
「えっ……?」
優乃がローザを抱き寄せ、胸元に口づけた。その生暖かい、甘美な快感にも似た感触に、ローザの頭の中は真っ白になった。優乃の薄紅色の唇が、暖かくなめらかな舌が、胸元から鎖骨の間、喉にかけてを丁寧に這う。流れる血を逆に辿り、やがて舌先が傷口の一つを探りあてると、優乃は唇をすぼめ、
「ん……っ」
傷口を吸った。信じられないほど、強く。
「……っ!? ちょ、ちょっと!?」
されるがままに接吻を受けていたローザが、余りの痛みに我に返る。ローザは慌てて優乃の肩をつかんだ。だが華奢な外見に似合わず、どんなに力を込めてもびくともしない……いや、違う。力が入らないのだ。まるで身体が、『優乃を拒絶すること』を拒絶しているかのように。
その間にも、優乃の唇は順に傷口を探り、吸ってゆく。交互に訪れる快感と痛みに、ローザは為す術もなく立ち尽くし……やがて静かに唇を離すと、優乃はローザを見上げ、
「これで大丈夫です……後でちゃんと手当てして下さいね」
何事もなかったかのように微笑んだ。
ローザはしばらくの間、ぼうっとした瞳で優乃を見つめていたが、やがて唐突に自分たちの行為に気づき、慌てて身体を離した。急いで辺りを見回し、誰もこちらを気にかけていないことを確認して、ホッと胸を撫で下ろす。
優乃は少し驚いた様子で目を瞬いていたが、
「……ローザさん」
またも詰め寄り、ローザの手を取って握り締めた。
「私が昼間あんなことを言ったばかりに、貴女を危険なことに巻き込んでしまって……」
「こ、これっくらい、たいしたことないわよ」
戸惑い、しどろもどろになりながらも笑って言うと、優乃はゆっくりと首を横に振り、強い意志を秘めた口調で言った。
「お願いです。ローザさんはこの事件から手を引いて下さい。勝手だと思われるでしょうが……これは、私達の問題なんです」
「私達の? それってどういうこと?」
ローザは面喰らった。自分の身を心配してくれているのはわかるが、それが何故『私達の問題』とやらに結びつくのか。
ローザは返答を待った。が、返ってはこなかった。
美しい瞳に哀しげな色をたたえ、思いを振り切るようにローザに背を向けると、優乃は駆け足で馬車に乗り込んだ。
「あっ……ちょっと、ユーノ!? 待ってよ、さっぱり話がわからないわ!」
慌てて呼び止めるが、彼女は振り返らない。
「トーマス、お願い」
「はっ」
主の意に従い、御者がムチを振り上げる。夜の街角に鋭い音が響き、馬車は、去った。
静寂と共に、風が戻った。
茫然と馬車が消えた闇を見つめていたローザは、急激な冷え込みを感じてブルッと肩を震わせ、ふと先程までの熱が嘘のようにおさまっていることに気がついた。
全身の汗がひき、意識がシャンとしている。視界は安定し、聴覚も正常だ。記憶を探るうち、それが優乃の口づけを受けた後からだということに思い当たったのだが。
「まさか……ね」
今も胸の奥に残る甘い疼きに、自分が本当に体調を崩していたのか、それとも只の錯覚だったのか、ローザはよくわからなくなってしまった。