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僕の知らないこと

ご意見ご感想お待ちしております。狂喜乱舞します。

 僕が彼女に出会ったのは、友人の結婚式の二次会でのことだった。

 新婦側の友人として訪れていた彼女に、酒の席の陽気な雰囲気も手伝って連絡先を教えたことがきっかけだったように覚えている。

 彼女からの連絡は僕がすっかり彼女のことを忘れてしまっていた二週間後の昼時で、僕はちょうど昼休みだったけれど、彼女の声を聞いて即座に思い出し、今晩飲みに行かないかと誘ったのだ。

 彼女は二つ返事で了承してくれた。


 二人きりでの初めての食事は存外悪いものではなかった。

 彼女は特別美人というわけではなかったけれど、一目見れば彼氏ぐらいはいるだろうと思うぐらいに顔は整っていた。それに物腰も柔らかくて、笑ったときにでる笑くぼが僕をどぎまぎさせるには十分だった。

 彼女はとにかく出来た女性だと思った。おじさまに好かれる女性と言えばいいのだろうか。

 少しばかり奥ゆかしい雰囲気が僕にはとても新鮮で、そしてとても好意的に映った。


 それからというものの、二度、三度とデートを繰り返すようになったものの、未だに交際相手として付き合う付き合わないという話を切り出したことはなかった。

 二度目の食事の時にそれとなく交際するつもりがあるのかないのかだけ聞いてみたのだが、彼女は「彼氏彼女という枠で縛られるのは嫌い」と言った。

 僕はてっきり束縛されるのが嫌なのかと尋ねたが、彼女は笑ってそれを否定して、「好きな男性が最後に私のところに戻ってきてくれればいい」と言った。

 思い返してみれば、僕はその言葉で惚れてしまったのかもしれない。


 だから彼女と知り合ってもう半年ほどになるものの、月に二度から三度は食事やデートに行っておきながら、未だに恋人と名乗れないでいる。

 けれども、僕はそれでもいいと思っている。彼女のいった「最後」というものが、つまりは結婚を意味しているのだとすれば、僕は彼女と親交を深めて、懇意になって、ゆくゆくは結婚を申し込もうと思えた。

 とどのつまり、今の僕と彼女は仲を深めるための期間を楽しんでいるという状況で、来年あたりには彼女にプロポーズしたいと考えているところなのだ。たとえそれが恋人ではないのだとしても。



 僕はすっかり柳原沙都子という女性に惚れ込んでしまっていた。







 彼女と知り合ってから一年ほどが過ぎたころだった。

 季節はちょうど冬に差し掛かった頃合いで、街は迫り来るクリスマスに向けて夜光色溢れる色彩を帯びていた。

 会社から出ようとしたところで、部下の女性社員から今晩一緒に食事をしないかと誘われたけれども、明日も仕事だし、今度にしようと断った。

 すると、彼女は「じゃあ、今度絶対ですよ」と言って引き下がった。


 ちょうど仕事終わりの午後六時頃、彼女からの着信があった。


「どうしたの? 珍しいね。沙都子さんの方から電話してくるだなんて」


 そう言ってみたが、彼女はまるで何かに脅えるように黙り込んでいた。ときおり聞こえてくる息遣いに不可解なものを感じて、僕は尋ねる。


「沙都子さん? どうしたの? なにかあった?」


 そう聞いて初めて彼女は口を開いたが、声はとても小さくて、夕暮れ時のオフィス街の喧騒の中では聞き取るのが難しいぐらいだった。


「康之さん……私、怖い」

「怖い? 何が?」


 僕は携帯電話に聴覚を集中させて彼女の言葉を一言一句聞き逃すまいと気を張り巡らせたが、彼女はしばらく間を置いて呼吸を整えるとこう言った。


「康之さん、今から時間ある?」

「あるにはあるよ。むしろ暇だから、話だったらいくらでも聞くよ」

「私の自宅の住所……覚えてる?」

「覚えてるけど……」

「お願い、来て」


 彼女の声はとても切羽詰まっていた。

 僕はとにかく何が起こっているのか知りたかったけれども、とりあえず彼女と会ってみないことには話にならないとすぐに了承して彼女の家へと向かうことにしたのだった。


 一度帰って車を取りに行こうか迷ったけれども、怖がっているからには何か急ぐべき事情があるのだろうと考えてタクシーに乗り込んだ。






 彼女の家の近くについて、タクシーを降りた。

 閑静な住宅地の一角にあるワンルームマンションに彼女は住んでいる。

 いつだったか、彼女を乗せてドライブに行った帰りに家まで送ったことがあるので住所は知っていたし、ちょっとお茶でも飲んでいってと言われて一度上がったこともあるので部屋まで知っている。

 そこでいわゆる男女の仲になったわけではない。

 僕は女性にがっつくほどの年齢でもないし、もしかしたら彼女は性的な衝動を抱いていたのかもしれないが、少なくとも僕は誠意を見せたつもりだ。断られるのが怖かったといえば正直なところだけれども、彼女が信頼して家にあげてくれたのに、それを裏切るような行為はしたくなかった。それにそういう愛を深めるための行為は結婚してからすればいいと思った。

 そんなに焦る必要もないし、焦るほどの性欲が滾っているほどの年齢でもない。


 マンションの前まで歩き、彼女の部屋番号を押して応答を待った。

 オートロックだから安心して暮らせると彼女が今の部屋を気に入っているように言っていたことを思い出す。

 訪ねる側からすると至極面倒だけれども、住んでいる側からすれば、昨今安心できる設備だということだろう。


「沙都子さん? 康之です。開けてください」

「……せ、生年月日は?」


 僕は思わず首を傾げたが、不思議に思いつつも自分の生年月日を言った。すると、スピーカーの向こうからあからさまにホッとしたようなため息が聞こえてきた。


「康之さん、ごめんなさい。わけは後で話すから、とりあえず部屋に来て」

「ああ、わかったよ」


 オートロックの扉が開いて、彼女の部屋まで階段を上っていく。

 部屋の前までたどり着き、チャイムを鳴らすと、ややあってチェーンが外される音が聞こえてすぐに扉が開かれた。


 目の前に現れた彼女はとてもげっそりとしていて、目には涙を溜めていた。

 彼女は僕の顔を見るなり安心したのか、どっと堰を切ったように泣き出して僕の胸に抱きついてきた。

 思わず倒れ込みそうになったのをなんとか堪えて彼女を抱きとめる。

 どうしたのか、何かあったのか聞こうと思ったけれども、彼女を抱きとめつつも部屋の方に視線が向いた瞬間に言葉を失った。


 部屋は荒れ放題だった。箪笥は全て物色されたように開け放たれて、床には下着から上着まで様々な衣服が散らばっていて、本棚に陳列されていたであろう本や雑誌がその上に乱雑に放り出されていた。

 どう見ても、泥棒が入った後としか言いようがなかった。


「まさか……沙都子さん、泥棒が入ったの?」


 そう尋ねたが彼女は首を横に振った。聞けば、金目のものは何も取られていないそうだ。

 机の引き出しに入れてあった通帳も、印鑑も、そして様々な支払いのために置いていた現金も手をつけられていなかった。

 僕は彼女を宥めすかしながらとりあえず中に入ろうと部屋の中央にまで彼女の手を引いて入っていった。


「警察には?」


 またも彼女は首を振る。


「どうして?」


 そう聞くと、彼女は何かを一瞬言い淀んで、しばらく迷っているようだったが、机の上から一通の便箋を持ってきて僕に見せた。



『僕は君を一番愛している。世界中の誰よりも君を愛している。

 誓って僕は君を裏切らないし、君に愛してもらえたらもう死んだっていい。

 でも君は交際するのが嫌だと言うからずっとそばで見守っていたのに、君は僕を裏切った。

 どこの馬の骨ともわからない男とデートに行って楽しそうに笑っている。

 挙句家にまで上げてしまった。

 君は僕を裏切った。僕の愛を裏切ったんだ。

 許せない。許せない。許さない。

 あの男がいる限り君は絶対に幸せになんかなれない。いいや、僕が君を幸せにはしてやらない。

 邪魔してやる。

 君は僕と一緒にいるべきなんだ。僕と一緒にいればなんでも上手くいく。

 僕といれば君は幸せになれるんだ。

 世界中で一番の幸せ者になれるんだ。


 これが最後のチャンスだよ。

 僕は君のことを許せないでいる。でも、僕はあえて君を許そうと思う。

 水に流しはしない。でも、あえて目を瞑ろうと思う。

 誰にだって間違いはあるものだから。

 君もちょっとだけ選択を間違えてしまっただけ、そうだろう?

 僕はとても心が広いんだ。

 君のおかした間違いだって広い心で目を瞑ることができる。


 だから、あの男とは金輪際付き合わないで、僕と結婚しよう。

 同封していた写真を見てくれればわかるだろうけど、君は美しい。

 可憐で、聡明で、この世でただ一つの美的存在だ。

 あの男には勿体無いし、あんな男には君を幸せにする能力も権利も何一つありはしないんだ。


 もし君が今の状況を悔い改めてくれるというのなら、本当の君に戻ってくれればそれだけでいい。

 僕はいつも君を見ているから、君が他の男に連絡を取らなくなってもすぐにわかるし、僕と結婚しようと思ってくれただけですぐにその気持ちに気づくことができるんだ。

 そうなったら、僕は君の前にもう一度姿をあらわすよ。


 いいかい?

 一度目の失敗は誰にだってあることだから、気にしないでいいんだ。

 でもね、二度目の失敗は本当に許さない。

 二度も失敗をするなんて信じられないし、それはきっと相手の男に唆されているだけなんだ。

 だからもし君がまた間違いをおかすようなら、僕がその男を君の世界から排除してあげるね。

 僕と君との間にそんな邪魔者は必要ない。そうだろう?


 待っているよ。君が僕と再会してくれるその日まで』




 僕は目の前が真っ暗になりそうだった。

 正直、気持ち悪いと思った。


「これは?」

「机の上にあったの……」


 机の上に目を向けると、そこには便箋が入っていたであろう封筒と、同封されていたであろう写真が大量にあった。


 写真はおおよそ三十枚ほどで、どれもが彼女にピントが合っていた。


「これって……盗撮?」

「たぶん……」


 彼女は泣きそうな顔で頷いた。

 会社から出てきたところ、部屋で着替えているのを外から撮ったところ、電車に乗って携帯を弄っているところ、はたまた友人とランチをしているところ、様々な写真があった。


「撮られた覚えは?」


 そう尋ねると彼女は首を横に振った。目がカメラに向いてないことを考えれば、これは明らかに盗撮だろう。ときどき物陰から撮っているのもわかった。


「写真が抜かれてたの……」

「写真?」


 彼女は床に落ちたアルバムを指差して言った。

 そのアルバムを見ると、所狭しと並べられた写真のうち、数枚が綺麗に抜き取られていた。


「いったい何の写真?」

「……康之さんと一緒に写った写真だけ」


 僕は背筋が凍るような気分になった。

 この部屋に入った何某かは、部屋を物色し、手紙と写真を置いて、そしてアルバムから僕が写った写真だけを抜き取って帰ったようだった。僕が邪魔者だからなのだろうか。

 いよいよもって僕はこの何某かに殺されるのではないかと不安になった。


「康之さん、しばらく会わないでおいた方がいいのかな……」


 僕はその言葉にはっとして顔を上げた。彼女の不安そうな表情が目に入り、僕はいたたまれない気持ちになった。


「私、こんなんだし、ストーカーなんかいるし、康之さんにも迷惑かけちゃうから……」


 そう言ったきり泣きそうに顔を歪めて言葉が出なくなった彼女を、僕はひしと抱きしめた。

 今まで手を握る程度のスキンシップしかしてこなかったけれども、ここに至ってまで彼女を安心させられないのは男としてどうかと思ったし、純粋に抱きしめてあげたいと思ったからだ。


「沙都子さん、君は僕が絶対に守るから」

「康之さん……」


 それきり彼女はまた泣き出してしまったが、さっきまでの困惑と動揺による涙ではなく、安心と喜びの涙であることは僕には明白だった。


 彼女が落ち着いてしばらくして、部屋を片付け出そうとした彼女に僕は「ちょっと待って」と切り出した。


「警察に一度相談してからにしよう。部屋にストーカーが入っている以上は不法侵入にあたるはずだから、警察も取り合ってくれるはずだ」

「警察を呼ぶの?」

「うん」


 しかし、彼女はどこか不安そうだった。


「でも、ストーカーが怒って康之さんに怖いことしたりしないかな?」


 そう言われるとそんな気もしてきたけれど、僕は首を横に振った。


「もしそうだとしても、この手紙は犯行予告みたいなものだから、僕に何かあったとしても犯人はすぐに逮捕できるし、目処がつくよね」

「やだ! 嫌だよ、康之さん! 私、あなたに何かあったら……」


 それでも僕は彼女に警察に連絡するように強く勧めた。

 しばらく同じようなやり取りが続いたが、彼女はしっかりと納得してくれて、警察に連絡することになった。

 警察が来るまでの間、ストーカーが再度来るのではないかと不安になったが、そんなことはなかった。


 警察は十五分少々で交番勤務の警察官が来てくれて、その後鑑識らしき人と刑事の人が来てくれて、色々と物色していった。

 僕と彼女は事情聴取をされたが、一通りの説明をしたあたりで刑事の人も納得してくれた。

 物取りでもなく、写真だけを抜かれて、手紙も置かれていたことから、沙都子さんをストーキングしている人の犯行であることは間違いないという結論にはなったが、犯人の心当たりが彼女にはないので、彼女が覚えている限りで交際を申し込んできた人物を挙げ連ねた。

 その数は実に十数名にもなった。比較的年齢の高い人が多かった。


 写真の技術が高いことからカメラに精通している人かと思われたが、そういう関係者はおらず、刑事は思わず「ここまでの写真を撮れるのはもはや興信所ぐらいのレベルだ」と言っていた。

 彼女の覚えている範囲から漏れた人にそういう人がいるかもしれないと考えると途端に恐ろしくなった。


 しばらくマンションの駐車場で待機していたが、鑑識の方々が出て行くときに彼女にいくつか質問をした。

 その中でも印象的だったのは、「ドアや箪笥の取っ手を拭き取ったりしてませんか?」という質問だった。彼女はもちろんそんなことはしていないと言った。しかし、鑑識の人は首を傾げていた。

 僕が指紋が出なかったってことですかと尋ねると、彼は「いや、指紋は出たんですが……」と濁らせた。どれも拭き取った様な形跡もなく、手袋をして触ったような形跡も残っていなかったらしい。相当に注意して入り込めばなんとか形跡を残さずに入り込めるかもしれないが、限られて時間ではどうしても焦りが出るはずだと言われた。

 鑑識の人はとにかく署に持ち帰って調べれば犯人の指紋が出るかもしれないので、ちょっと不可解だっただけだと言った。

 最後に僕と沙都子さんの指紋をとって彼らは帰って行った。


「片付け、しようか」

「うん」


 警察が帰ってから二時間ほど部屋を整理した。

 便箋も写真も警察に押収されたので手元にはないが、なんだかこの部屋がストーカーに監視されているようで、僕たちはとても恐ろしい気分で片付けをする羽目になった。


「沙都子さん、僕の家に来ないか?」

「え?」


 僕が切り出すと彼女は心底意外そうに顔を上げた。


「だって、こんな状況でこの部屋に住み続けるのは怖いだろう?」

「そうだけど……」

「別に下心があるわけじゃなくて、君に何かあってからじゃ遅いと思うし、僕は君を守ると言った手前、できれば側にいて欲しいと思う」

「うん……」

「もし、沙都子さんがいいのなら、今晩のうちに必要なものだけ持って僕の家に行こう。とりあえず一月ぐらいは様子を見てみよう」


 彼女はしばらく考え込んでいたが、それでも「しばらくお邪魔します」と頷いてくれた。


 その後、彼女は衣類を十日分ほど旅行用鞄に詰め込んでいた。とりあえずしばらくはこれだけで済むだろうと言っていた。もし足りなくなったり必要になればまた取りに来ればいいし、大家さんは明日の朝早々に鍵を変えてくれると言っていたので、ストーカーもさすがに今日は来ることもないだろうと結論付けた。


 僕の家に向かうためにタクシーに乗った。

 彼女は道中でくすりと笑った。


「なんか変なの」

「なにが?」

「だって、こんなことにならなければ、私が康之さんの家に厄介になることなんてもっとずっと先のことだったかもしれないから」

「ストーカーに感謝って?」

「ううん。さすがにそこまでは言えないけどね。でも、ちょっと感動したの」

「何に」

「うーん。康之さんのセリフに、かな」


 微笑む彼女の笑顔はとても眩しくて、同時に僕は自分が吐いたセリフを思い出して急に気恥ずかしくなった。

 けれど、それで照れていては男が廃ると思ったので、僕は「守ってみせるさ、絶対」と前を向いたまま言い切ったのだった。






 それから一週間ほどが経過したが、僕と沙都子さんはとくに問題のない生活をしていた。

 警察から連絡も来たが、犯人と思しき指紋は出なかったらしい。

 一応捜査は続けるが、何か犯人からコンタクトがあればすぐに連絡するように言われた。

 僕と沙都子さんは犯人が早く特定されることを願ってはいたが、同時にこのまま犯人から忘れ去られればそれでもいいような気がした。


 仕事が終わってオフィスを出る。

 駅に向かって歩いて行くと、道行く人はどことなくいつもより足早に思えた。


 今日はクリスマスイブなのだ。

 みながみなキリスト教徒ではないのだろうけれど、クリスマスにかこつけてイベントを楽しんでもバチは当たらないだろう。

 かくいう僕も今日は沙都子さんと二人だけのホームパーティをする予定だ。

 残業がある日は一緒にいれないこともあるし、彼女も仕事をしているので家事を頼むのも憚られた。同棲しているとはいっても、一月様子を見るためなのだから、僕が全てこなせばいいだけのことだった。二人分料理するぐらいは別に構わないし、彼女は自分の洗濯物だけしてくれればそれでいい。

 それでも彼女は手料理を作ってくれる。彼女が来て二日目の夜に彼女は手料理を作って待ってくれていたのだ。僕は食材費を渡そうとしたが、彼女は受け取ってくれなかった。


 彼女曰く、まだ一月様子を見るだけだからとのことだった。結婚する仲だとわかっていればよかったのだろうか。

 どちらにせよ、彼女は家賃を払っているわけでもないし、世話になっているのだから夕飯の食材ぐらい

は払うといって引き下がらなかったのだ。


「ああ、今終わったよ。今から電車に乗るから」


 僕は沙都子さんに電話する。彼女の声の端々に楽しみにしている雰囲気が感じられてとても嬉しい気持ちになった。

 駅のホームで電車を待っている間、コートのポケットに入れた小さなプレゼントを掴んでつい顔が綻んだ。

 触り心地のいいその箱は先日買ったばかりの品だ。給料三ヶ月分とは行かないが、最近の不況の中で結構頑張って大枚を叩いた品物だ。


 彼女は喜んでくれるだろうか。

 あんなことがあった矢先にプロポーズをしても断られるだろうか。

 いや、やはり僕が沙都子さんを守ると言って、彼女はそれを喜んでくれていたように思える。

 大丈夫だ。きっと彼女は僕のプロポーズを受けてくれる。

 降車駅の出口近くの花屋にはもう花束も予約してあるのだ。

 準備に抜かりはない。

 本当は以前食事を約束した女性と食事をする日程が今日の予定だったけれども、僕はもう沙都子さんと結婚することを決意してしまったので、申し訳ないが断ってしまった。



 外のレストランを予約しようとしていたのだが、予約しようとしたときにちょうど沙都子さんから「クリスマスイブは家で食べましょう。私、料理頑張るから」と言われたのだ。

 僕はさすがに家でプロポーズもどうかと迷ったが、彼女が張り切っているのに水を差すのも悪いと思ってそれを了承した。


 電車が来るまでは残り五分ほどだろうか。

 じっと待っていると、横から声がかけられた。


「あれ? 佐々木だよな?」


 怪訝に顔を向けると、そこには大学時代の友人がいた。

 草臥れたスーツにコートを着ている。彼もサラリーマンなのだ。


「ああ、濱田か。久しぶりだな!」


 学生時代には濱田と一緒に居酒屋に入り浸ったものだ。

 アルバイトをしては酒を飲み、タバコを吸い、そんな堕落した日常を送ったものだ。


「なんだ、お前今日はまっすぐ帰るのか?」


 近況報告は割としているので、仕事の話などはしない。お互いにわかりきったことを再度聞くことなどはない。


「ああ、ちょっとな」

「なんだよ、これか?」


 そう言って彼は小指を立てた。少し古いなと思って思わず笑みが出た。


「まあ遠からずってところだな」

「なんだよ、はっきりしねえやつだな、おい」


 不愉快そうな口調だが、濱田は笑っていた。

 しばらく懐かしい話に花を咲かせていると、濱田はしみじみと言った。


「しかし、お前もついにそういう相手ができたんだな。結婚とか考えてるのか?」

「まあな。今日はちょっと大事な日でな」

「なんだよ、プロポーズかよ!」

「やめろよ、恥ずかしい」


 濱田はけらけらと笑った。どういう経緯で知り合ったのかと尋ねられて、ざっくりと彼女との出会いから一緒に住むまでの経緯を話して聞かせると、彼は神妙に頷いた。


「おいおい、大丈夫かよ。しかし、お前もその彼女さんも大変だったな」

「本当だよな。まさか俺も自分が好きな女性がストーカーされるなんて思いもしなかったからな」

「まあ、お前もしっかりしろよ。守ってやるんだろ?」

「当たり前だ」


 僕と濱田は三十路を過ぎた男の寂れた笑いで肩を叩き合った。


「あ、ストーカーと言えば」

「ん?」


 濱田は何かを思い出そうとして手を顎に当てて考え込んでいた。ややあって、未だに思い出せていないようだったが、先に口を開いた。


「確か俺の会社の先輩が変なストーカー女と出会ったって聞いたんだよ」

「ストーカー女? やっぱり女でもストーカーっているんだな」

「まあそりゃあ男だけとは限らねえだろうよ」


 彼はふふんと笑って仕切り直した。


「そのストーカー女ってのがすごいやつでさ。自分がストーカーされてるように自作自演してるんだと」

「は? なんでまた」

「なんか構って欲しいんだってさ」

「いや、さすがにストーカーされたからって心配にはなるだろうけど、普段から親しくしてればそれほどのことはないんじゃないか?」


 濱田は少し唸って首を振った。


「まあ、俺にも詳しい話は知らねえんだけどな。でも、先輩が言うには、一緒に住み始めてからその女が全てを何故か把握するようになってて怖くなって別れたって言ってたな。まあ、結局その女が自作自演だったかどうかはわからねえんだけど、先輩が言うには怪しい点が多かったらしいぜ」

「へえ、そんなもんか」

「まあ、お前の将来の嫁さんはそんなことないだろうけど」

「当たり前だろ、馬鹿野郎」


 僕はちょっと怒ってみせる。すると彼は悪い悪いと頭をペコペコ下げたものの、まったく悪びれてはいなかった。


「あー、確か……いや、なんだったっけな? その女の名前……」

「いや、別に名前とかまではいいよ」

「思い出せそうで思い出せないんだよな。えっと確か……あっ!そうそう!」


 濱田を手を打って一人納得していた。

 その時、ポケットに入れた携帯電話が震えた。


「あ、すまん。ちょっと電話だ」

「なんだよ、これからか?」


 そう言って彼はまた小指を立てた。

 僕は今時そんなジェスチャーは使わないと言いながら携帯を取り出して画面を見る

 相手は濱田の言った通り沙都子さんだった。


「どうしたの? 何かあった?」

『ううん。そろそろ電車乗ったかなって』

「ああ、電車は35分だからあと1分ぐらいかな」

『あ、そうだった。ごめんなさい』

「いや、全然構わないよ。でも、電車に乗ったら電話に出れないから、メールにしてくれたらよかったのに」

『そうだね。そうだった。つい康之さんが早く帰ってこないかなって楽しみで、忘れちゃってた』


 彼女はとても申し訳なさそうに言っていたが、その台詞で僕はとても嬉しくなった。


「そうそう。今学生時代の友人と再会してね。ちょっと話し込んでたんだ。また電車を降りた時に僕から電話するよ」

『え? 昔の友達?』

「うん。そうだよ」

『その人も呼ぶ?』

「いやまさか。呼ぶわけないよ。それに乗る電車も違うからね」


 隣で濱田が「行ってやってもいいぜ」と笑っていたが、僕は彼の脇腹を突いて黙らせた。

 そうこうしているうちに電車が来たので、僕は「ちょうど電車が来たからまた後で」と言って電話を切った。


「それじゃあ、濱田。また今度な」

「おう。まあ、暇があれば飲もうぜ」

「そうだな。でも、そん時は俺も妻子もちかもしれん」

「けっ! うるせえよ、この幸せもん!」

「ははっ、ごめんごめん。それじゃ、またな」

「おう、またな」


 そう言って軽く手を振って、僕は電車に乗り込んだ。

 僕は急行に乗るが、彼は各駅停車に乗るのだ。もう一本後の電車だ。

 彼とはまた別の機会に話せばいい。今日は大事な日なのだから、沙都子さんと二人きりで過ごすのだ。


 僕は浮かれる気持ちをなんとか押さえ込んでつり革を握っていた。






 降車駅の近くの花屋で花束を受け取り自宅に向かって歩き出すと、ものの10分程度で帰り着く。

 沙都子さんは今か今かと待ってくれていたようで、家の扉の鍵を開けている音を聞きつけたのか、扉を開けた途端、彼女は目の前に立っていて少し驚いた。


「おかえりなさい! 康之さん!」

「あ、うん。ただいま。びっくりしたー」

「うふふ。首を長くして待っていたから」

「ごめんね、待たせちゃって」

「ううん。今日は私お休みだったし大丈夫。気にしないで」


 彼女はそう言って微笑んだ。彼女は土日が休みというわけではなく、シフトで管理されている職場なので割と時間の都合がつく方だ。


「あ、沙都子さん。これ」

「え?」


 僕は彼女に花束を差し出した。本当は指輪を渡すときに見せたかったけれど、どうせ目に入るのだから今のうちに渡してしまった方がいい。


「気の利いたプレゼントじゃないかもしれないし、定番かもしれないけれど、純粋に沙都子さんの雰囲気に合う花を選んでもらったんだ」

「綺麗……すごく嬉しい!」


 沙都子さんは花束を受け取るなり、しばらく花を一輪一輪見つめて、鼻を近づけて匂いを嗅いでみて、最後に思い出したように喜んだ。


「でも、ちょうどよかったかも」

「ちょうどよかった?」


 彼女は頷いた。

 靴を脱いでダイニングに向かうと、テーブルの上には色とりどりの豪勢な手料理が並べられていて、その脇には割と大きなガラスの花瓶があった。

 ガラス細工の装飾が細かくて綺麗な代物だった。


「康之さんの家って大人っぽくてかっこよくて素敵だけど、花を飾ったらもっといいかなって思って今日買い物のときに買って帰ったの」

「へえ、綺麗な花瓶だね」

「ね! ちょうどいいでしょ?」

「確かに。そっか。花瓶のことは考えてなかった。ごめんね」

「ううん。結果オーライだったね」


 彼女はそう言って笑った。


「ほらほら、お腹空いたでしょう? 早く着替えてきて」

「ああ、わかったよ。すぐに着替えてくるから」

「あ、先にお風呂入る?」

「んー、いや、今日は後でいいかな」

「わかった。じゃあ、ビール出して待ってるね」

「ありがとう」


 僕はいつもは家で酒を飲まない。けれど、今日は彼女が用意しておいてくれたらしい。気の利く女性だと思う。


 部屋で着替えてダイニングに戻ると、彼女は椅子に座ってそわそわとしていた。

 彼女に促されて席に座ると、彼女は僕にグラスを差し出してきた。手元には僕の好きな銘柄のビールがあった。


「あ、それ。僕が好きなやつだね」

「え? そうなの?」

「うん。話したことあったっけ?」

「ううん。たぶん偶然だと思う。でも、よかった!」

「うん、そうだね。僕も嬉しいよ」


 本当に彼女とは気が合うし、彼女の気遣いはすべて良い方向に向かって働く。

 僕は彼女と一緒にいればなんでも上手くいくような気がしている。

 小気味いい音を立てて缶をあけ、グラスにビールを注いでくれた。

 僕も彼女のグラスにビールを注いであげると、彼女は少しだけ恥ずかしそうに笑った。とても可愛らしくて本当に守ってあげたいと思った。


「じゃあ、乾杯」

「乾杯」


 そういってカツンとグラスを軽くぶつけて口をつけた。

 今日一日疲れ切った体にビールが染み込んでいく。単純に美味い。

 でも、今日はなるべく飲まないようにしておかなければならない。

 なにせ、今日は大事な日なのだから。


「たくさん食べてね」


 彼女の言葉に僕は大きく頷いた。

 どれも美味しそうだ。

 とりあえず彼女の手料理を食べてから、落ち着いたところで僕はプロポーズをしようと思う。

 彼女の楽しそうな笑顔を見ていると僕はとても自分が幸せだと思えた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 最後までもやもやが取れないこの感じ… 素直にいい感じのお話でしたわぁ~とは言えないこの感じ… いやはや沙都子さん…真実はどうなのよ。 題名から察するにやっぱり彼女は…? (;´Д`) そうい…
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