協定
「自分を粗末に扱うのは、止めなさい」
冷静に僕は咲に言い聞かせた。
沈黙が辺りにたち込める。
彼女は暫く何があったのか分からず、じっとしていたが。やがてその目から、涙がとめどなく落ちてくる。
「じゃあ、どうすれば、いいの」
ぼそりと少女は呟く。次の瞬間、その両手で誠の胸倉を掴み、激しく揺り動かす。
「じゃあ、どうすればいいの? じゃあ、どうすればいいの? マコちゃんに嫌われた咲は、どうしたらいいの? 教えてよ! ……教えて!」
あらん限りの力と声を振り絞り、発狂する咲を。誠は戸惑いながらも、何とかなだめようとする。
「落ち着け! 落ち着けって! ……コラっ!」
最早、何を言っても効果なく、彼女の心に響かない。
益々荒れ狂う咲を制止する為に、その両手を掴み。今度は僕が、咲の上に馬乗りとなった。
しかし力で押さえ付けてみても、華奢な体の、どこにこんな怪力が秘められているのか知らないが。一向に治まる気配が無い。
ええぃままよ! と覚悟を決めた僕は、おもむろに眼鏡を外し、泣き叫ぶ少女に口付けした。
清水の舞台から飛び降りたつもりで、最後の手段を取ったのだ。
その甲斐あってか、みるみる彼女は大人しくなっていく。
「……あっ……」
短い嬌声が、咲の口から漏れる。自分からする始めてのキスだったので、かなりぎこちないものだったが、それでも彼女の行動をして、落ち着かしむるに成功したのだ。
出来るだけ優しくするつもりだったが、慣れない所作の為、最初に軽くお互いの歯がぶつかった。しかし、それを気にするどころの話でなかったので。僕は、そのままキスを続けた。
ゆるゆると少女の体から力が抜ける。その首筋に優しく口付けた時、そっと少年は囁いた。
「大丈夫だよ咲。今、僕は此処に居る……とにかく、まずはゆっくり話さないか?」
少女は黙って瞳を伏せ。静かな歓喜の内に、二度頷いた。それを確かめて、いたわる様に彼女の体を抱き起こし。その右手で、泣きはらした目元の涙を、丹念に拭ってあげた。
自然と咲の口から笑みが漏れる。
「うん、やっぱり咲には、笑顔が似合うよ。世界に美人は多いけど、今の君には、及ばんさ」
乱れた髪を直してやり、両手の平を彼女の頬に添えて、お互いの額を親しげにくっつける。
後になって思うに、よくもまぁあんな歯の浮くような台詞が、この口から出たものだなと赤面を通り越して、感心する所となったのだが。要するに、それだけ追い込まれていたのだ。
兎にも角にも、やっと僕は彼女と交渉のテーブルに着く事が出来た。
外を見やればもう日も暮れ、街灯に夏虫が群れている。ふとカーテンを開きっぱなしだった事に気付き、慌てて閉め直す。
それから僕は咲に着替えるように促し、自分は下のリビングで待っている旨を伝えた。
幸いと言うか、何と言うか。温子おばさんは、今日は遅く帰って来るらしい。普段の落ち着きを取り戻した咲は、素直に言う事を聞いてくれた。
一階に降り、薄暗いリビングに照明を点ける。壁掛け時計の秒針だけが、僅かに音を立てていた。
テーブルの椅子に座り、瞑目して考えを巡らせる。
二人にとって最良の選択とは何か? お互いの幸せの形とは? また、それを阻害するものは何か? じっくりと、答えを探し出す。
直ぐにやって来るだろうと思われた、咲だったが。何に時間を掛けているのか知らないが、なかなか訪れない。
それはそれで、自分でも考えを纏める時間が必要だった訳で、好都合だったのだが。もう30分近くともなると、少し不安になって来る。
様子を見に行ってこようかと席を立った瞬間に、二階でドアの閉まる音を聞いたので。慌てて、元の場所に戻った。
「お待たせしました」
照れくさそうに僅かに頭を下げ、入室して来た彼女を見て、あっ……と思った。
上品なピンクのスカートに、白のカーディガン。整えられたロングヘアーは軽やかにカールしており、控えめな付け睫毛に、薄化粧。口元はピンクのグロスで彩られており、全身から気品が感じられた。
かたや自分はと言うと、Tシャツにジーンズ、サンダルで来たので、裸足という有様だ。
なんちゅうか本中華。余りの急変ぶりに、呆気に取られて見つめていると。
「マコちゃんは、コーヒーでいいでしょ? ブラックだよね」
「ああ、うん。ありがとう」
何事もなかったかの様に彼女は立ち振る舞い、やがて席に着く。何と言って話を切り出そうか思案していたのだが、以外にも、咲の方から話し始めた。
「あれからね、考えたの。これから、どうすればいいのか……どうしたいのか」
「うん。それで?」
「……」
暫く彼女は押し黙った。口に運ぶティーカップが、僅かに揺れている。
一呼吸、気持ちを整えて。改めてその決意を述べる。
「やっぱり、咲には。マコちゃんを諦める事が、出来ません……それだけは、どうしても、無理。です」
自らの決意をはっきりと主張したが、また否定されるのが怖くて、俯いてしまう。
対照的に誠は何かに思いを巡らす様に、じっと、天井を見つめた。
まぁ、そうだろうなと、僕は心の内で思っていた。問題はここからだ。
「なぁ咲。今でも世界には、領土問題や、宗教対立とかが、国対国であったりするよな?」
「……? う、うん」
突然の質問の意図が分からずに、少女は困惑している。彼はさらに、話を続けた。
「彼等は歴史認識の相違や、お互いの利権の主張なんかで、長年の対立が政治問題になったら、どうするか分かるか?」
「……?」
やはり彼女には、誠の言わんとする所の意味が見えない。
「要するにこうだ、問題を棚上げしてしまうのさ。良い解決策が見えない場合、暫くその事について、お互いに触れないでおく。その内に、経済協力や文化交流等によって、相互利益を得る。これがある意味、当面の間唯一の妥協策だ……言っている意味が分かるか?」
にわかに少女の顔に、赤みが差した。何かに打たれたかの如く、食い入る様に誠の顔を見る。
「僕は、結論を急ぎ過ぎたのかも知れない。お前に本心を話すにしても、急だったしな」
じっと、誠の言葉に耳を澄ます。一言も聞き逃すまいと、身構える。
「でも僕も、折れるつもりは無いよ」
瞬間、咲の体が強張った。しかし、彼の事を信じて、成り行きを見守る。
「しっかし、そうは言っても、このままじゃお前が壊れちまうな」
誠はスッと手を伸ばし、彼女の白い手を取った。手の甲の側は、何の異状も見当たらないが。その裏の、内側を見てみると。幾多の真新しい引っかき傷が、蚯蚓腫れとなって痛々しい。
「だから、ここで提案だ。暫くの間……そうだな、大学受験が終わるまで。この問題は、棚上げにしないか?」
「つまり、どうなるの?」
「うん、そこだ。この期間の間、お互いの妥協案に基づいて生活しよう。このままだと受験にも失敗するし、いい事なんて何も無いからな。戦略的互恵関係ってやつだ。何か……ペンと紙はないか?」
咲の用意した紙に、僕は停戦講和条約をしたため始めた。
それから、二人は冷静に話し合った。まず問題としたのは面会の頻度だ。僕は月に一回の会見を希望したのだが、少な過ぎると咲に猛烈に反対され。見直しを余儀なくされたのだ。
曰く、今まで毎日の様に誠の家に顔を出していたのに。急に、姿を見せなくなると、誠の両親も心配する事。
何より寂びしくて自分自身、どうなるのか分からなくなってしまう事を、切々と嘆願されてしまった。それで結局。週に一回は、必ず会う事となるに至る。
他にも、電話やメールは自由だが、度を越さない事。学校には必ず行き、周囲の人達に迷惑をかけない事等の細目が決められ。二人の今後において、重要な法案が今、可決されたのだ。執行は明日からとなる。
とりあえずの前向きな方針が決まった事で、どっと疲れを感じた僕は、そろそろ帰宅する事とした。名残惜しそうに玄関先まで、咲は見送りに来る。
「じゃあ、次に会うのは一週間後だ……大丈夫だよな」
無言で頷く咲。
「何かあったら、電話してくれ。それからもう、ダイエットとかいいから。ちゃんとご飯を食べなさい。おばさんも心配してる」
今度も、無言で頷く。
「よし、じゃあ今日の所は帰るわ。またな」
靴を履き別れの挨拶を終え、家を出ようとすると、不意に左手を掴まれた。
振り返って見ると、今まで我慢していた咲だったが。その目に大粒の涙を湛え。去り行く彼に追いすがっていた。
これ以上迷惑はかけてはいけないと、頭では分かっているのだが。考えるよりも先に、体が動いている。それでも必死に未練を口にする事は堪え、涙を拭う。
誠はそんな彼女を、愛おしく思い。そっと抱きしめた。
およそ不安に震える子供を諭す母親の様に、その恐れを取り除いてやる。しだいに震えは治まり、嗚咽も聞こえなくなった。優しくその背中を擦りながら、言い聞かせる。
「大丈夫だ、大丈夫。きっと全部、うまく行く。心配無いんだ。ただちょっと、お互いに、将来の事を考える時間が必要なだけだ。僕達には、余裕がある。ゆっくり行こう……大丈夫だよ」
すっかり落ち着きを取り戻した彼女は、自ら、誠の元から離れた。そして、いつかせがんだ様に、また静かに瞳を伏せた。
お別れのキスをしてくれ、という事だろう。
普段の自分ならば断固として拒否するのだが、今の僕は、咲のために出来る事ならば、なるべくしてあげようと思っていた。
彼女とする三度目の接吻は、あっさりとして落ち着いたものであり、すぐに期待に答えたのが功を奏したのか、その後、すんなりと家を出るに至った。
最後にドアを閉める瞬間、彼女は満面の笑顔で手を振ってくれた。
夜風が気持ち良い。大きな事を成し遂げた達成感と、充足感とが、少年の胸に去来する。
なんだか直ぐに家に帰る気にもなれずに一人、近所をそぞろ歩く。
だが少しほっとしたら、途端に例の頭痛に苛まれた。幸いにして、足取りには影響無い。この先の公園へと急ぐと、水を買い。愛用の、良く効く頭痛薬を取り出し、飲み込んだ。
ベンチに腰掛けると、次第に動悸は治まり、痛みも解けていく。
ふと携帯電話を取り出すと、そこには早速、咲からのメールがあった。
マコちゃんへ
今日は、ありがとう。心配して来てくれて。とっても嬉しかったです。
これからどうすればいいのか、まだ分からないけど。
咲はマコちゃんを、信じます。
どうしても、これだけは今日の内に伝えたくて……
ここまで読んだ僕は天を仰ぎ、短く嘆息した。色んな感情が渦巻いて、この心を騒がせたのだが。実は、このメールには、まだ続きがあったのだ。
再び画面に目をやると、そこには、驚愕の内容が綴られていた!
PS あと……とっても恥ずかしいけど……マコちゃんが欲しいなら……それ、あげます。
謎の文面に、首を傾げる誠。
「ん? 恥ずかしい? あげる? 何を言っとるんだ? この子は……」
ここまで口走って、ハッと気付くものがあった! みるみる顔が、青ざめる。
「まっ、まさか……そんなはずは」
慌ててジーンズのポケットをまさぐると、指先に感じる、やわらかい感触。恐る恐るそれを、取り出してみると……
「うっ……うおおおおおおおおおおおおおおおおーーーーっ! ! ! !」
狼男も、かくやと思わせる、絶叫が。小さい公園内に響き渡る。
何と彼女の部屋で発見した、あのショーツが。今この手の中に、あるではないか!
なんという、失態! 聖人君子ぶって、高説を述べても。これでは只の変態の言い訳にしか過ぎぬ!
「くぅおおおおおおおっ! やっちまったぁーーーーーっつ!」
思わず、大声で叫んでしまう。しかし、こんな所を人に見られる訳には行かない! 慌てて周囲を見渡した後、仕方無しに、ブツをまたポケットに戻した。そして襲ってくる、激しい後悔。
「はぁ~~~~~っ」
長い溜息の後、それを持ち主に返すべく。僕は今来た道を、トボトボと歩き始めた。
こうして冴えない思い出を最後に残し、過酷な夏は終わって行く。