第三の男
閃きや発見は、誰にも邪魔されぬ、聖なる時を持つ事から始まる。幸か不幸か、そういう目で見れば。この世界は、可能性に満ちているではないか。
中世の様な身分制度も無ければ、検閲も無い。パソコンを開けば、そこには夥しい量の情報があり、しかも日に日に増えている。本屋に行けば、優れた名作を、求め易い価格で楽しむ事ができる。
これは、戦時中には不可能な行為であり、その昔には特権階級にしか許されていなかった贅沢である。
幸いな事に父の順次は商社の部長をしており、家は比較的裕福だ。儒教的な精神に憧れを持つオイラとしては。質素倹約を旨とし、主に小遣いを本の代金として使ってきた。後に必要なのは、それらを読み考察するための時間だ。
普通の学生になら潤沢に流れ、恐らくは持ち余しているであろう、その時間を。自分は享受できていない。何故か? 答えは彼女がいるからである。
「……ガルシア=マルケスなら、僕の気持ちを、分かってくれるかな……」
「? それって誰?」
「百年の孤独の著者だよ。ブエンディア一族が隆盛を極めながらも、やがて衰退する話」
「孤独って……マコちゃんには咲がいるから、寂しくないでしょ!」
恨めしい目で、チラリと咲を見て。長い溜息を吐く。
「……そ~いう事じゃねぇ」
掠れる声でボソッと呟く。
そもそも立っている場所が違うのか?と、最近僕は考えていた。彼女は女性で自分は男だ。
人間理解に自信があるという訳でも無いが、今までの少ない人生体験における女性像を総括してみると。女子ほど、常に誰かと一緒に居たがる。
例えばクラスでいつも一人だったとする。そうなると周りから、可哀想だとか、友達が居ないというレッテルを貼られる。これは一大事であろう。
学校という極めて特殊な生活共同体において、仲間外れは重大な危機として受け取られる。存在が認められないという事は、自分自身が、社会全体に否定されているという事に等しい。
生まれてこのかた、接しているコミュニティと言えば家族と学校しかないのだから、当然と言えばそうであろう。
人間は物事の反射によってしか、自己を判断する事が出来ない。自分の姿を見るのには鏡が必要な様に。
作品ならば他人に評価してもらって、初めて商業的価値も生まれる。ならば、学生時代において、自分の価値。社会的対場を確立するのには、どうすべきであろう?
それこそが常に誰かと一緒に居るという行為ではないだろうか?そしてそれは、自分に好意を寄せる第3者でなくてはならない。
同じ共同体である所の存在として、お互いを認め合い、存在を肯定し続けるという果てしない作業を。小学、中学、高校、大学と16年も続けねばならない。億劫な話である。
何故女性ほど、その傾向が強いのだろうか……思うに古代、夫が狩猟に出かけている時。家を守り、村を守るのは、妻の仕事であった事だろう。そこで妻同士、喧嘩でもされた日には、夫としてはオチオチ狩りにも行けない。そして住居とは、コロコロと替えられるものではない。必然的に、家に居る時間の長い女性同士としては、お互いに協調し合い、運命共同体として行動を共にするという習慣が付いたのではなかろうか。
自分はどうかと自問自答してみる。
確かに学校生活における友人との付き合いは、貴重な体験であろう。この点には同意する。様々な価値観を持つ者同士が集まり、時には反発しあいながら、お互いに人間理解を深め合うのは、若者の人格形成において素晴らしい成果を与える。
しかし、である。強い目的意識を持った者同士の団体ならいざ知らず、今のこの国の現状では、ただ場当たり的に学生を集め、教育を施しているに過ぎない。
そんな所で無理やり友人を作る必要があるか? いや、僕には無い。
松下村塾には高杉晋作や久坂玄瑞らがいたが、今の社会にそれらの朋友を求めるのは、無理であろう。故に学校生活の友人とは。その場凌ぎの友人となるのが殆だ。
その後の自分の人生に、多大なる影響を与えうる友を作るなど。余程の幸運が必要だ。
幸いな事に学力至上主義の現代において、自分の成績はそう悪くない。これなら教師以下、クラスメイトに馬鹿にされる心配も無いのだ。
であるからその場凌ぎの友情に時を費やすよりも、自分としては一冊でも多く本を読みたい。
古の聖賢にはなれずとも、その人生を追体験する事により、息吹を感じることが出来る。
良書はそれを可能とするのだ。友はいずれ付き合いが無くなったとしても、知識は自分のものである。一生の宝だ。
刹那的友人関係に駄弁を労すよりも。孤独を友とし、文学を愛する事で、自らの人生は確実に豊かになる。
兵を養う事千日、用いるは一朝にあり。
こうして己が能力を磨いていれば、いつか劉玄徳公の様な君主が現れて、三顧の礼の後に、自分を軍師にしてくれるに違いない! そう、諸葛先生の様に!
……と、いうのは冗談だとしても、何事か、この先の展望は開けるに違いない。
昨今は大学受験に勤しんでいるが。その先には、就職が待っている。学校は、問題の解き方を教えてくれたが、終ぞ人生の歩み方を教えてはくれなかった。ならば自分で模索するしかあるまいよ。
学校教育というものは散々、実社会に必要の無い問題を解かせておいて、肝心の進路については自分で考えろと来る。一体どういう了見なんだろうか?
だがはっきり言えば良い大学を出ねば、一流企業や、官公庁に勤めるのは不可能なのだ。ならば大学受験である程度、この先の人生が決まってしまうのは言うまでも無い。
自分の選択肢を広げる為にこそ、良い大学に行く。今の自分にはそれくらいの意思しか持ち合わせていない。
そもそもオギャーと生まれて17や18では将来の事など、明確に選べる訳が無いのが普通だと思う。
いずれは選択せざるを得ないにせよ、本当に決断が迫られるその日まで。可能性は出来るだけ多いに越した事は無い。他の学生も多くは似たようなものだろう。
「……? また、いろいろ考えてるの?」
不思議そうに自分を見つめる咲の瞳に。僕は、最初の疑問を思い出した。
何で彼女は自分に纏わり付いて来るのか? である。
咲は、こう言うのも何だが美人だと思うし、頭も悪くない。気も利く。普通、友人関係とは、お互いに似た者同士がくっつくものだ。芸能人で言えば、アイドル同士だったり、俳優同士だったりと。
ついこの間も、お笑い芸人とアイドルが結婚した様だが、それだって似たようなものだ。
間違ってもアイドルと経済学者は結婚しないだろう。共有する世界が違い過ぎる。
では自分と咲の共通点は何だろうか?と、首を捻る。
彼女は歴史なんかは好きでは無い。自信満々に戦国史の話をすると、一応は聞いてくれるが、あまり良い顔はしない。
反対に、咲の好きなファッションやコスメなんかには、自分はとんと興味が無い。
最近は男でも化粧したりするらしいが、ボロ家に住み続け、清貧の末に亜聖とまで言われるようになった顔回や、一枚の服を三十年も着ていたという斉の名宰相、晏嬰を尊敬している身としては、今年の流行とか言われてもサッパリだ。
余りにも無関心過ぎて、以前に咲と母とが共謀し、町へ服を買い出しに連行された程だ。
音楽の趣味も違う。自分がクラシックやジャズを聴くのに対し。咲は、流行のJポップなんかが好きだ。
ますます訳が分からなくなって来た。普通の幼馴染とかだと子供の頃仲が良くても。成長するにつれ、自然と付き合いは減るものだ。
未だにこうして腐れ縁を続けているのは、何がそうさせるのだろう? 特に共通の趣味がある訳でも無い。おかしな話だ。
そして思い返せばろくな思い出が無い。例えば、かつて自分も他の女の子に恋愛感情を抱いた事があった。そんな時に、悉くそれをブチ壊してきたのが咲だ。
教えもしないのに、どこからかデートの予定を聞きつけ。勝手に参加してきたり。一番最悪だったのは、本人に面と向かって。 「マコちゃんと、○○さんは、合わないと思う。」 とか、ぬかしやがったりした事だ。
余りに腹が立って、その時、本気で怒ったら。 「だって……マコちゃんが、いけないんだよ!」 なんて叫んで、大泣きされるし……いやぁ、あの時は大変だった。
泣き声が学校中に響き渡って。職員室にまで呼び出されるわ。変な噂も流れるわ。挙句の果てには、自分の部屋に引き篭もって出てこない始末だ。
それでもって天の岩戸に閉じ篭った天照咲姫のおかげで、普段は陽気な温子おばさんも困り果て。被害者は僕なのに親からも責められるし。本当にもう、参ってしまった。
最終的には咲の部屋の前で何とか必死に説得して、また元の生活に戻った訳だけど。
あんな事があってから咲の前では、惚れた腫れたの類を禁句とした。いつ地雷を踏むやも分からない。何かあれば非難されるのは、いつも僕だ。
少女が泣いている。そこに男が立っている。もうそれだけでそいつは、市中引き回しの上、磔、獄門。十三階段から首吊り台へという訳だ。阿Q正伝を書いた魯迅も真っ青な昨今だ。
とかく男の住みにくい世の中となったもんだ。女無しでは夜も明けぬとは、この事か。
縄文の昔から近代に至るまで。我々の先祖が女性をないがしろにしてきた罰だなこりゃ。その咎を現代の男性諸氏が、引っ被っているに相違無い。
このまま行くと近い未来には、男は見せ物となるな。
何とかの惑星なんて映画があったが、こっちは女の惑星だ。男は檻の中に入れられて、良い様に飼いならされるだろう。
もとい、冷静になれ。結論を出そうじゃないか、誠君。
なんで咲は自分にこだわるのか。それは……ずばり彼女のお父さんである、正治おじさんの影響であろう。
咲は引っ越して来たばかりの頃、おじさんにべったりだった。その時分は、僕ともロクに話さなかったのに……
その後おじさんが事故に合って、帰らぬ人となってから。急に二人一緒に居るようになった。うむ、答えは簡単だ。要するに僕はおじさんの替わりなのだ。
そう考えれば全ての現象に説明が付く。やたらと甘えてきたり、ヤキモチを焼いてみたり。少女が父に対して向ける感情そのものだ。
かくいう僕も、意識的に咲の父親代わりを演じてきた。
父の死にショックを受けていた咲の為にも、それが一番良いと思ったのだ。思えばあれからズルズルと、おかしな関係が続いている。
その弊害か、完全に咲の事を。娘や妹の様な感覚でしか見れなくなった。
「……お前は、好きな人とか、いないのか?」
長い沈黙の後、何の気なしに僕は咲に聞いてみる。しかし、その後直ぐに後悔した。
やっちまった、うかつな事を聞いた! 冷戦時における平和を享受していたが。自らデッドラインを踏み越えるとは、何と愚かな!
……きっと咲は、露骨に機嫌が悪くなるに違いない。恐る恐る、彼女の方を見ると、意外にも。
「いないよっ。」
からりとした返事、特に怒っても無い様である。ほっと胸を撫で下ろしたが今まで感じた事の無い、違和感を覚えた。少し先を歩くその後姿が、なんだか、大人びて見える。
時間というものは確かに訪れて、密かに人を成長させているのかもしれない。
もう呉下の阿蒙に非ず、という訳か?それならそれで、結構な事だと思う。
「さっき話してた人って、柏原君だよね。人気あるよね」
「まぁ、そうだろうな。学業優秀にして、芸能人張りの容姿に加え。嫌味の無い性格から、爽やカッシーと、呼ばれている位だからね」
「そうなの?」
「呼んでるのは、僕だけだけど。」
「ほら~っ、も~っ……」
その後はたわいも無い話をして、僕らは終業式を迎えた。退屈な通過儀礼が過ぎて行く。空は青く晴れ渡り、蝉はここぞとばかり鳴く。世は押並べて事も無し。平穏無事な日々である。しかし僕はこう思っていた。好事魔多しと言うが、本当の所は、平時魔多しでは無かろうか。
将たる者、平時に嵐を思うものだ。と先哲は語る。孔子様も固定概念を恐れ、そわそわする程だ。平安を享受している時にこそ、崩壊はすでに始まっているものである。国家にせよ、人にせよ、うつろわぬものなど、何も無いのだから。
歴史は全てを物語る。
放課後、案の定、僕は待ち伏せていた咲と合流した。
(あれ? そう言えば、カッシーが朝、何か言ってたな……) 夏の熱風に、良い様にしてやられた頭で、ぼんやりと今朝の事を思い出していると、ちょうど携帯電話が鳴る。
「はい、もしもし……カッシー? ……」
誠と柏原の会話を、横で気にする咲。電話嫌いの誠は、めったに使わないし、故にかかっても来ない。だがこの電話は妙に長い。おまけに楽しそうだ。
「うん、いいよ……はいはい、じゃあ、また~っ」
やがて会話も終わると、彼女は聞かずにいられない。
「? 柏原君から? 何だって?」
「う~ん、どうやら相談事らしいけど……ちょっと、これから会いに行くんで、一人で帰ってもらっていいかな?」
うん、いいよ! じゃあ、またね! ……と、快く返事をして、僕を送り出してくれるものと期待していたが。一体何が気に入らないのか、急に雲行きが怪しくなって来た。
「何で? どうして咲を置いて、柏原君の所に行くの?」
冷静さを保っている風でも、彼女の声質がいつもと違う。その微妙な変化を、僕は見逃さなかった。第六感が、危機の到来を告げる。
「いや……今朝約束してたんだよ……その……お前に言うのは、忘れちゃってたんだけどさ……」
「……どうしても、行かなきゃ駄目なの?」
「そっ……そら、約束だからねぇ……」
淡々と会話が進むが。しだいに咲の語尾が震えてきた。これはマズイ。反射的に人気の無い路地へと、彼女を誘導する。
実はこんな事もあろうかと。以前、学校の辺りを下見しておいたのだ。足早に海の見える緑地帯へと彼女を誘うと、本格的な説得に入った。
「ちょっと会って、話をして来るだけだって!」
「……ヤダ、今日は行かないで。」
うぉーーーーーっっっっっ! 始まった! 心の中で、僕は叫んだ。これは、ヘタをすれば長引くなと思い。チラリと腕時計を見る。うまく行って30分。長くかかれば2~3時間も説得には時間がかかる。今朝の雰囲気からすると、機嫌は悪くなかった筈だが、どうやら読み違えたらしい。
焦るな! 落ち着け! 自分自身に言って聞かせる。今まで何度も、危機を乗り越えて来たじゃないか、自信を持つんだ!必死に自らを鼓舞し、僕は柔らかに話し始める。
「いいか? 咲。今日僕は。君と何の約束もしていないよね?」
「……ウン」
「じゃあ何故、行っちゃあ駄目なのか。理由を教えてくれるかな?」
「……」
沈黙する咲。重たい空気が立ち込めて、遠くから運ばれるねっとりとした浜風が、居心地の悪さに拍車を掛ける。
やがて沈み出そうとする夕日が。二人の影を、いたずらに伸ばす。
彼女は黙ったままだ。埒が明かない。そうしている内にも、刻一刻と時間は過ぎて行く。ファミレスで待っているカッシーの為にも。早めにこの場を切り抜けねばならない。
「明日! ……そう、明日、どこかに遊びに行こうよ! なっ、ドコでも好きな所に、付き合うからさ。今日は、このまま行かせてくれ! 頼む!」
もうこうなったら、ひたすらご機嫌を伺い、お願いするしかない。両手を合わせ、腰低く頼み込む。しかる後、脱兎の如くにその場から立ち去ろうとすると、さっと、右手を掴まれる。
「……行かないで……」
もう彼女は、それしか言わなかった。再度理由を問い正してみても、要領を得ない。
しだいにその大きな瞳に、涙を湛える様になる。優しく、掴まれた手を振り解こうとするが。咲はその手を離さない。もうこうなってしまうと、始末に終えなくなってしまう。
そして聞こえて来る耳鳴り、目眩と頭痛。以前から彼女と揉める度に感じていた不快感が、今再び僕を苦しめていた。
過去には何度もこういう事があった。その昔、小学生の時は、もうしょっちゅうこんな感じだ。
理由を聞いても話さない。ひたすら黙って、しだいには泣き出してしまうのであった。