食卓
「あの~っ……もしも~し……咲さ~ん?」
すると彼女は、チラリと布団から、顔だけを覗かせ。
「ご飯ができたら、起こしてね♡」
と、のたまいぬ。
「勉強するんじゃなかったのかよ! それに何でお前はいつも、人のベッドで寝たがるんだ!」
「だって、気持ち良いんだもん……マコちゃんの匂いがして。なんだか安心するの」
「あぁもう……勝手にしてくれ」
そう言って席を立とうとする誠を、咲は呼び止めた。
「あれ? 何処に行くですか?」
「いや、お休みになられるんでしょ?」
「ここにいて♡」
「はっ?」
「居るだけでいいからっ……ねっ♡」
すがる様な目で見る咲に。最早何も言えなくなった少年は。長い溜息の後、退室を諦めて机のパソコンへと向かった。
カチカチッとマウスのクリックする音だけが、室内に響く。年頃の男子にしては小奇麗な部屋である。本棚には、中国の歴史小説を始め、数々の哲学書、参考書が整然と並ぶ。同年代の男子とは異なり、部屋にアイドルのポスター等は無い。
心地よい陶酔感に浸った咲は、スヤスヤと眠りに付く。誠は静かに寝息を立てる少女を見やり、一人思案に暮れていた。もう外は夜である。
「ご飯出来たわよ~っ、二人とも降りてらっしゃ~い。」
やがて階下から母の声がする。ぐずる寝た子を起こし食卓へと着く。そこにはすでに、すき焼きの用意がしてあり、鍋がグツグツと音を立て、芳しい香りが辺り一面に広がっていた。
「今晩はっ、おじさん。わぁ! すごい!」
少女は感嘆の声を上げた。上座には、一家の主人たる誠の父。順次が座っている。
「うん、良く来たね咲ちゃん。さぁ座って、誠も。」
広げていた新聞紙を緩やかにたたみ、にこやかに笑う。
「いっ……一体こりゃあ……何事か?」
あまりの豪華な夕食に誠が面食らっていると、母が言う。
「ちょうど、人から良いお肉を頂いてね。咲ちゃんの為に、作ってみました」
「いや、作ってみたって……」
「あら、誠はいいのよ。嫌なら食べなくても」
「別に、嫌じゃないけど……」
呆れる誠を他所に、咲はしきりに感激していた。
「やったぁ! いつも家では、お母さんと二人だから。すき焼きなんてしないんです」
「ふふっ、良かった、喜んでもらえて。さっ、食べて食べて!」
「いっただっきま~す!」
喜色満面の笑みを浮かべ、弘恵から取り分けて貰った小皿から、良く火の通った牛肉を選び。割り下に玉子をからませて食べる。
「旨いかい?」
「はい、とっても! 口の中で、お肉がとろけちゃいます!」
「はははっ、そうか。遠慮しないで、もっと食べなさい」
順次に促され、咲は次々と箸を運ぶ。子供の頃から出入りしているだけあって、一宮家におけるその立場たるや、確固たるものがあった。
まんじりとした眼を、皆に向け。何か諦めた風な面差しで、誠は部屋から持って来た文庫本を読み出した。
「こらっ、誠! 食事中くらい、本を読むのは止めなさい!」
「……んーっ」
生返事を返すものの、その目は文章を追い続ける。今まで母親に何度も注意されてきたが、一向に直らない。
というのも誠の態度は、父の順次の真似から始まったからだ。羊頭を掲げて、狗肉を売る。実は彼もこっそりと、折りたたんだ新聞を、机の下で読んでいる。
「ほら、お父さんがそんなだから、誠が言うことを聞かないんでしょ!」
「……おおっ、そうか。誠、止めなさい……でもそれ、何の本だ?」
「ん? マルクス ・ アウレリウスの自省録だよ。皇帝でありながら、哲学者たりえた彼の、覚え書きだね」
「おぉっ! 懐かしいなぁ、良い本読んでるじゃないか。僕の若い頃にも、流行ったなぁ、それ」
「ちょっと、ネット友達に薦められてね。よかったら、貸すけど」
「そうか? じゃあ読み終わったら、頼む」
「合点承知の介」
「ちょっと、二人とも! もう、本当にうちの男共は、しょうがないんだから」
呆れて弘恵が溜息を吐く。だが咲はどこか楽しげだ。
「ごめんね、咲ちゃん。気の利かないのばっかりで。つまんないでしょ?」
「いえ、そんな事無いです……おじさんと、マコちゃんを見てると、親子って感じがして、良いなぁって思います」
咲は明るく話すが、その時、食卓に張り詰めた空気が漂った。
彼女の父、正治は。湘南に引っ越して来て2年目の夏に交通事故で亡くなっている。それ以来咲は、母の温子と二人で過ごして来た。
仕事で忙しい母を気遣い、不満も言わず、一人でいる事の多かった咲を、一宮家の皆は、今まで暖かく迎えてきたのだ。それこそ家族の様に。
「……ああっ、すいません! そんなつもりじゃなかったんです……お父さんの事は……もう、平気ですから!」
彼女の父が亡くなって暫くの間、咲は塞ぎこみ、ろくに食事も取らない時期があった。それから一宮家の人々は、意識的に正治の話を避ける様になったのである。
「……早いものね、あれから、8年になるなんて」
軽く順次が咳払いをする、バツが悪そうに、縮こまる弘恵。雰囲気を察し、せっかくの夕食会が、自分のせいで台無しになると思った少女は、慌てて取り繕う。
「……あのっ……えとっ……すっすき焼き、とっても美味しいです! もっと食べても、良いですか?」
「遠慮する事ないわよ! どんどん食べなさい!」
「わっ、ありがとうございます! じゃんじゃん食べちゃうぞう!」
一宮の人々に心配を掛けまいとして、明るく振舞う咲。そんな健気な姿に、順次や弘恵は救われた思いがした。
少女は鍋の中で踊る良く煮えた霜降り肉を取ろうと、自らの箸を伸ばす。しかし、その刹那。無常にも誠の箸が全ての肉を絡め取り。瞬く間に、自らの胃袋の奥深く食い納めたのだった。
「……あっ……あ~~~っ! ! ! それ、私のお肉なのに!」
「少年老い易く、肉、有り難し。一寸の光陰、軽んずべからず……月日のたつのは早く、肉がいつまでもあるとは限らない。一瞬の隙でも作るべきではないのだよ。今日の良き日の教訓としたまえ」
「コラッ! 誠! あんたなんて事を!」
「いや、だってコイツは、ダイエットするって言ってたからね」
「も~っ、だからそれは、あ・し・た・か・ら!」
悔しがる咲を見て、誠は満足げである。
「ほら見ろ、そこに白滝があるじゃないか。コンニャクはいいぞ、カロリーが低いからな!」
「もう、そんな意地悪言わないの、この子は! 咲ちゃんは、全然ダイエットなんてする必要ないわよ、ねぇ?」
弘恵は横に座っている順次に目配せをした。
「うん、まぁ咲ちゃんには、確かに必要ないけど。お前さんには、必要かもな」
「ちょっと! それ、どういう意味! お父さん!」
しれっと畳んでいた新聞を広げて、また読み始める順次。再び、一宮家の食卓には明るさが戻った。
しかし明くる日。この件を根に持った彼女の為に、誠はアイスを買わされる羽目に合うのだが、この時はまだ知る由も無い。
やがて7月20日、終業式の日となった。多くの学生達は、ようやくの待ちに待った夏休みに、朝から浮かれているが。誠や咲達3年生は、試練の夏となる。
すでにクラスメイト達は。大手予備校の夏合宿に参加する者や、苦手科目の克服の為に休日を充てる者など、様々だ。
「お早う、一宮君!」
「……おぅ、カッシー! お早っ!」
朝の登校で後ろから声を掛けて来たこの爽やかな青年は柏原孝といい、当校の秀才である。頭脳の優秀さもさる事ながら。品行方正な人柄と、母性本能をくすぐるルックスに定評があり、学校の外にもファンがいるほどだ。
2年生の時に一度誠と同じクラスになり、席も近くだった事から、自然と仲が良くなった。3年生となり、前ほど話す機会は無くなってしまったが、変わり者の彼の周辺において、貴重な友人の一人と言えよう。女性に人気があるにも関わらず、何故かまだ恋人はいない様で、その辺の硬派な所も誠は秘かに気に入っていた。
「……実はね、一宮君に頼みがあるんだ……放課後、どこかで話せないかな?」
久しぶりに会ったと思ったら、彼は神妙な面持ちで誠に囁いた。
「? 別にいいけど、何で?」
そうこうしていると、煙に巻いたはずの、咲がやって来る。
「マコちゃん、ひどいよ! 置いてかないで! ……あっ……柏原君だ、お早う!」
「うん……おっお早う……じゃあ、後で電話するから!」
そう言い残して、好青年は足早に去って行った。その後ろ姿を見送りつつ、誠は溜息を吐く。
「頼むから、たまには一人にしてくれよ」
「嫌です」
「何故だ!」
「だって、もう高校生活は一年を切ってるんだよ! 残り少ない青春を。大事に大事に、していきたいんです!」
「今まで十分、一緒だったじゃないか……」
こいつは一体、どういうつもりなんだろうか。僕にとって、一人でいることは、全く苦痛ではない。孤独はむしろ、心の世界を押し広げ、古今の名作、古典を読めば、ロマンは宇宙を駆け巡る。思考は論理を産み、自論の発展、もしくは証左のために、また本を読む。これぞ書生の幸福だ。そんな時咲の存在は、時々疎ましく思えた。
現代は共同体の崩壊が叫ばれて久しく、隣は何をする人ぞ。いわゆる非干渉社会を作り上げた。
命の危機が無いのなら、ある程度人は一人で生きていけるのが現実だ。批判する向きも有ろうが、それを近代化の生んだ可能性の一つとして、大いに活用すべきだと、僕は思う。
古来孤独の中から、芸術や科学は生まれた。宗教だってそうであろう。
第一、始終隣に誰かが居たなら、気になって思考など出来たものではない。カントが早起きをして勉学に勤しんだのも、朝の時間が誰にも邪魔されぬ、黄金の時である事を知っていたからである。




