天の八衢
ここは何処だろうか、ひどく頭が痛い。
意識が朦朧とする中で、薄目を開ける。辺りは一面、白の世界だ。僕は思った、夢を見ているのだろうと。
「……よ……とよ……きなさい」
誰だろうか、人の語りかける声がする。
「誠よ……起きなさい……」
その時爽やかな風が吹いた。その余りにリアルな感触に驚き、恐る恐る眼を開けてみる。
「おぉ、ようやくお目覚めか」
「ふむ、その様ですな」
涼やかな、二人の男性の声がする。
体を起こし、よく目を凝らして見ると。一方の男性は、白い頭巾を頭に被り、手には見事な白羽扇を持っている。もう一方の男性は、長い髪を頭の後ろで結わえ、口元には、見事な髭を蓄えている。
いずれも長身痩躯で、見るからに賢いといった顔付きだ。
「あっあなた方は、もしや、孔明先生に、孔子様ではないですか?」
「うむ、いかにも」
幻にしてもありえない。自らの思い付きを口にしてみただけだったのだが、あっさりと肯定されて、呆然と僕は立ち尽くした。
「うっうぉーーーーっつっ! 一念が三千世界に感応し、天国にも地獄にもなると天台宗は智者大師、智顗はおっしゃられたが、まさかこんな形で霊告があろうとは! お会いできて光栄です!」
暫く誠は感激していたのだが、その内あることに気付いた。
「あっでも、お二人が目の前にいらっしゃるという事は……そうか、僕は死んだのかな」
よくよく考えれば、おかしな話である。さっきまで自分は、咲と一緒に交差点に居たのだから。
そして車に轢かれそうになって――いや轢かれたのだろう。
思えばあっけない最後だった。辞世の句も言えなかった。
誠はやがて自らの履物を脱ぎ、真っ白な地面にひれ伏すと、恭しく言上した。
「恐れながら申し上げます、私、一宮誠は。その生涯において、志の一つも世に勤めを終えず、あたら身罷りし事、誠に慙愧に堪えません。ここに、心より陳謝致しますものなれば、宜しく神仏の皆様に御許しをとりなし下さいませ」
「はっはっはっ、そう急くでない。お主はまだ死にはせん。此度我らは、さるお方の使いで参ったのじゃ」
「左様。誠よ、よく聞きなさい。汝に引き合わせたき御仁があるのだ」
諸葛孔明と思しき男性が腕を振るうと、にわかに突風が吹きすさび、目も開けていられぬ程となる。
必死に耐えて、再び目を凝らすと。
信じ難い事に、そこには五つの頭を持った身の丈30メートルはあろうかという龍が、こちらを見据えていた。
「なっ! あっあなたはもしや、龍口山の五頭龍さん?」
たじろぐ僕を見て、五つの頭はそれぞれ語った。
「いかにも。あまり時間が無い。我が背に乗れ、少年よ」
「えっえええええええっ! いきなりそんな事言われても……って……うわっ!」
また孔明が手の白羽扇を振るうと、たちどころに誠の体は宙に浮き、龍の背の上に収まった。
「しっかり掴まっておれや、振り落とされると地獄まで落ちるぞ」
豊かな白髭を撫でながら、孔子様は物騒な事を言う。
「それでは五頭龍よ、後は良しなに」
「心得て御座る。いざ、参る!」
ふわりと、その巨体が浮かんだかと思うと。突然、猛スピードで空を駆けた。僕は必死にその鬣を掴み、振り落とされようまいと力を振り絞る。
「そんなぁ! まだお二人には、聞きたい事が山程あったのにぃ! って、五頭龍さんよ! もうちょっと、ゆっくり飛んでくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
誠の絶叫が辺りに響く中、使いの二人は、にこやかに彼を見送った。
あれから、どれくらい時間が経ったろうか。
気が付くと僕は、大きな鉄門の前に倒れていた。
そこにはもう五頭龍の姿は無い。穏やかな茜色の世界の中心に、その門はそびえていた。
「ここはどこだろう。まさか、地獄じゃないよね? はははっ、はっ……」
引きつった笑みを浮かべ、辺りを見渡すが、人影も無い。
どうしたものか思案していると、どこからか甘い、白檀のお香の香りが立ち込めて、暖かい気に全身が包まれた。そしてまた、自分を呼ぶ声がする。
「……誠よ……誠よ……良くぞ来た……」
門の前に現れた、目映き金色の光。
その閃光はやがて落着き、声の主の姿をありやかに現した。誠は驚き、目を瞠る。
「その手に組まれた印相。頭上に頂きし宝冠。光明を放てし、王者の御姿……間違い無い。あなた様こそは諸仏の王にして、真実の御仏。大日如来様でいらっしゃる」
自然と頭を垂れて、額ずく。涙が後から後から溢れ出る。歓喜の波が、心を満たすのを感じる。
「その通りだ善男子よ。恐れる事は無い、さぁ、その門をくぐられよ」
御仏が、たおやかにその手を指し示すと。数十メートルはあろうかという門が、音も無く開いた。
そこからは淡い光が漏れてきて、何故かとても懐かしい感じがした。
「この先は、一体どこに?」
僕は顔を上げ、如来に尋ねたが、すでにその姿は消えていた。
「行けば分かるかな」
不思議と恐怖や不安は感じなかった。
白い霧の中を、一歩ずつ足を進めて行く。そのうちに大きな真白い光に包まれ、あまりの眩しさに目が眩み、その場に立ち尽くした。
「おーいっ! こっちこっち!」
子供達の騒ぐ声がして、はっとなり目を開く。
先ほどまでの異次元空間は姿を変え、僕は近所の公園で立ち尽くしていた。
「あれぇ、どこに行っちゃったのかな?」
目の前に、小学校低学年位の一人の少女が立っていた。
どこかで見た事があると思った。冷や汗が背中を伝う。
「ねぇ、誰を探しているの?」
しゃがみこんで、その少女に聞くと。彼女は応えた。
「あのね、マコちゃんを探しているの」
やはり間違いない。この子は昔の咲だ。
この服も覚えているし、それに髪型だ。子供の頃は、いつもツインテールだった。
「これは、どういう事なんだ……」
ぐらりと地面が揺らいだ。自分が自分であるという事すら、疑わしくなる。
「やぁ、ここに居たんだね。誠君なら、あそこだよ。一緒に遊んでおいで」
「うん、お父さん、行ってきます!」
……お父さん? 瞬間、僕は頭を上げた。まじまじと、その人の顔を見る。
「久しぶりだね、大きくなったね、誠君」
「おじさん! 正治おじさん!」
僕は叫んだ。近寄ろうとしたその時、またしても白い光に包まれて、世界はその姿を変えた。
気が付くと、モダンな白くて広いリビングの中に、自分は立っていた。
大きな窓からは、朝の光が燦燦と降り注ぎ、何とも清々しい。
外には、エメラルドグリーンの海が見える。潮騒が耳に心地いい。
その窓辺に立つ、中年の男性が居る。見覚えのある後姿。恐る恐る声を掛けた。
「おじさん、あの……すみませんでした」
ゆっくりと、正治は振り向いた。その口元には笑みを湛えている。
「君が謝る事なんて、何も無いよ。むしろ、それは私の台詞だ。あの日の事が、今まで君を苦しめてしまったね。とても悪かったと思っているんだ」
頭を下げて、静かに謝る姿に、思わず誠は泣き崩れる。正治はそんな彼の肩を、優しく抱きしめた。
「咲の面倒を見てくれて、ありがとう。君が居なかったら、きっとあの子はショックから立ち直れなかったろう。本当に、ありがとう」
僕は声を上げて泣いた。
こんなに泣いたのは、いつ以来だろうか。
いや記憶にある限りでは、これが最初であろう。長い間、心にわだかまっていた、しこりが。音も無く解けてゆくのを感じた。
暫くして、二人は外に出た。
乾いた砂浜の上を歩く。空は何処までも青い。目にする全てのものが、清らかで、美しい。
「誠君に、幾つか話しておきたい事があるんだ」
「……はい、聞きます」
「うん、ありがとう誠君。突然だけどね。人間は何によって死ぬのだと思う?」
いきなりの質問に、僕は戸惑った。とりあえず、思いつく限りの事を言ってみる。
「えぇっとそれは、病気だったり、怪我だったり。時代によれば、戦争なんかだったりすると思います。あと事故も……そうだと思います」
「うん、そうだね。でも本当の所は、そうじゃない」
「えっ? どういう事ですか?」
「僕もこっちに来てから、神様に聞いたんだけどね。人間が死ぬのは、全ては寿命なんだそうだよ。それが、どんなに悲劇的でもね。自殺を除いては、そうなんだ」
「……そうなんですか」
「うん。実はね、僕も魂の部分では分かっていたんだ。あの時、もう長く生きられないだろうってね」
「………………」
「でも、後に残す妻と娘の事。特に、咲の事が心配だったんだ。運命の赤い糸って、知ってるかい?」
「あの、人には誰でも運命の相手がいて、小指から見えない赤い糸が伸びて、その相手と繋がっている……とかって話ですか?」
「そうそう、その通り。でも本当のところは、赤い糸はひとつじゃないんだ。その相手とは、前世で親子だったり、兄弟だったり、ごく親しい友人だったりして、何本もあるんだ。まぁ運命の相手と一緒になれるかは、その人の努力による所が、大きいんだけれど」
「という事は、つまり」
「うん。咲にとっても、君にとっても、お互いがその運命の相手。特に極太の赤い糸な訳だ。誠君達と会う前に、僕の寿命は尽きていたからね。何とかしようと、必死だったよ」
「えっ?」
「会社の都合で湘南に引っ越して来たけれど、実はそうじゃない。咲を任せられる人を探してたんだ。まぁ生きてる時は、分からなかったけどね。そういう事なんだ。だからあの時、ああいう形で事故に会ったのも、偶然のように見えても、そうじゃない。全ては必然だったのさ。」
「でもね誠君。だからといって、絶対君と咲が付き合うべきだとか、結婚すべきだと言うんじゃないよ。生まれもっての定め。例えば、何時の時代の何処の国に生まれるとか、男女のどちらで、どんな才能を元々持っているとか。これらは宿命といって、変えられないものなんだ。でも運命は違う。命を運ぶと書くよね。その文字の通り、これからの未来は君達しだいなんだよ。運命の赤い糸とは、そういう意味さ」
「おじさん」
「なんだい?」
誠は歩みを止め。正治に向かって、姿勢を正した。
「娘さんを、僕に下さい」
使い古された台詞を言って、深々と頭を下げる。
「もう無理はしなくて、いいんだよ?」
「はい。それは分かってます。ただ純粋に僕を想ってくれる、ちょっと我侭な女の子が、好きなだけです」
「あの子は、なかなか気難しい所があって、これからも苦労するだろうけど。どうぞ、宜しくお願いします」
おじさんもまた、深々と頭を下げた。
僕の脳裏に過去の思い出が甦る。
そう、あの事故のあった日。幼い自分はおじさんから、咲の事を頼むと言われたのに、何も言えなかった事を思い出したのだ。
その時はただ照れ臭くて、返事が出来なかったのだが。それが永遠の別れになるとは、知る由も無かった。今まさに、あの時成しえなかった返答を。雄雄しく、自信を持って言う事が出来たのだ。
これまで色んな事があったが、二人は悉くそれを乗り越えてきた。その体験と足跡が、自分の確信を支えてくれる。この世界で、一番咲の事を僕は知っている。故に、この世界で一番咲の事を幸せにできる筈だ。
爽やかな思いが、お互いの心を満たす。
迦葉破顔 拈華微笑
(かしょうはがん ねんげみしょう)
その昔、釈迦がお弟子達の前に現れ、黙って蓮の花を差し出したところ、ただ一人、迦葉尊者だけが、にっこりと笑って、それを押し頂いたという故事がある。
この一事をもって世尊の正法眼蔵は、高弟へと受け継がれた。以心伝心。通じ合う心。おじさんと僕の間にも、今正に幽契が結ばれたのだ。
「ありがとう誠君。これでもう、何も思い残す事は無いよ。温子と咲には、私の事は気にせずに、幸せになって欲しいって伝えてくれるかな?」
「はい、分かりました」
その時、伽羅の香りが立ち込めて、俄かに琵琶の音が聞こえて来た。軽やかな雅楽に乗せて、ゆるゆると天から女神が降りて来る。そは誰あろう。
「あ、あなたはまさか、江の島弁才天様!」
僕がそう言うと、にこやかに笑って仏は袖を振った。するとどうだろう、ふわりふわりと自分の体が宙に浮き始めた。
「誠君、これでお別れだ」
自分の意思と関係無く、みるみる大地から遠ざかる。よく聞こえるように、僕は叫んだ。
「僕達は、これからも二人で頑張ります! おじさんも、お元気で!」
離れ行く僕を、おじさんは笑顔で見送ってくれた。
しだいに体は、大気を突き抜けて宇宙に出る。
母なる地球を見下ろして、その美しさに見とれていると、今度は急転直下に降り始めた。ジェットコースターの何倍ものスリルが、全身を駆け抜ける。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
歯を食いしばって堪えていると、今度はその耳に、また懐かしい潮騒を聞いた。驚いて辺りを見渡して見ると、自分は空に浮かんでおり、遠くに江の島が見えた。そして足元には雄大な大海原が広がる。
「ここは、相模湾か? 戻って来たんだ」
大空に浮かびながら感慨に耽っていると、突如として弁財天が現れた。
「べっ弁天様! こっこの度は、格別の御高配を賜り、心より感謝しております! お陰を持ちまして、長い間の心の支えが取れました。このご恩に報いるには、いかにすれば宜しいでしょうか」
畏まって誠が頭を垂れると、やおら女神は微笑んだ。
「ほほほほっ近頃珍しく、敬神の情厚き子よ。神の御心は愛なれば、見返りを期待するものでは、ありませんよ。しかし、人に願いがある様に、神にも願いがあるものです」
少年が意外そうに面を上げた。
「それは、どういった事でありましょう?」
涼しい声で、女神は告げる。
「ふふふっ……それはね……」




