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追憶

「わーっ見て見て! 昔はもっと校舎も大きく見えたんだけどなぁ」


「確かに今見ると、そうでもない」

 

裏に回りグラウンドの隅に目をやると、今でもそこには鉄棒があった。


「あっあれ見て! 二人でよくやったよね、逆上がりの練習!」


「二人じゃない。お前が出来なかったから、放課後の練習に無理やりつき合わされただけだ」

 

「まぁ、そんな事もあった……かな? はははははっ」

 

美化された幼少期の思い出に、一人少女は苦笑う。


「よし! それじゃあ次、行ってみよぅ!」

 

「はぁ? 何処まで行くんだよ」

 

「いいから、いいから! ほら! 早く!」


 その後も僕は咲に連れられて、思い出巡りのフルコースに付き合わされた。一つ一つの場所は、どうと言う事の無い、街角や店、路地だったりするのだが、それらをつぶさに回って見ている咲は、とても楽しそうだ。


 彼女の真意はさだかでは無いが、一先ずは事の成り行きを見守る事とした。

 

「最後にもう一度、行きたい所があるんだ」


「おう」

 


 そして僕等は海に出た。


 あの日以来お互いに話題を避け、近寄らなかった、あの場所に来たのだ。


 遠い昔親の目を盗んでは、二人で花火を見ていた場所であり。過ぎ去りし夏に、自分が別れを告げた場所である。


 獣道を分け入ってその先に出てみれば、今も昔も変わらぬ雄大な相模湾の眺望が、そこに横たわっていた。

 

「ふむ、これは一体どういうつもりだ?」

 

 二人は黙って冬の海を見ていたが、おもむろに僕の方から口火を切った。

 

「うん、そうだね。今日は付き合ってくれて、ありがとう。ねぇマコちゃん」

 

「ん?」


 冷たい海風が、二人の距離を縮める。互いの吐息を感じられる程、近い距離に居て、互いに一語一句を噛み締める。

 

「私達、もう一度、最初から始められないかな? まずは、その、友達から……」

 

 沈黙が流れる。少女は愛しい少年の眼を、じっと見つめたまま、そのままだ。


「……ぷっ、ははっ、ははははははっ!」

 

 するといきなり誠は笑い出し、一向に治まる気配がない。それを見た彼女は、真っ赤な顔で怒り出す。

 

「ちょっ、ちょっとヒドくない? 咲は真面目に言ってるんだから!」

 

「いやぁ悪い悪い、っくっ! ははははははははっ!!」

 

「もう! こらっ! 笑うな! コノヤロゥ! えい!」


 なおも笑いの止まらぬ彼に対し、咲は実力行使に打って出た。狙いすました右ストレートが唸りを上げて少年の脇腹に突き刺さる。だが誠は苦痛に顔を歪めながらも、笑い続けた。

 

「はははっ、す、スマン。悪気は無いんだが……はははははっ!」


「まだ笑うかぁ! これなら、どうだぁ!」


 渾身の体当たりで誠を一気に組み伏せる。

 

「うおっ! そっ、それは止めろ! おわっ!」


 彼女はアメリカン・フットボール選手も真っ青になる程の、見事なタックルを決め。体勢を崩した二人は、砂浜に寝転んだ。

 

「ふふふふっ、あははははははっ!」

 

「はっははははっはははっ!」

 

 妙に何だか可笑しくて。お互いに、気が済むまで笑いあった。

 

「全く、いい年して何やってんだか。子供じゃあるまいに」

 

「マコちゃんが悪いんだからね!」


 二人仲良く空を見上げる。幸いオフシーズンな事もあり、周囲に人影は無い。

 

「お前受験の間、そんな事考えてたんだな」

 

「うん」


「僕はてっきり、結婚してくれとか言うんだと思ってたよ」

 

「まぁそれも考えてみましたけどね」

 

「考えたのか」

 

「うん」


 雲の切れ間から優しい光が降り注ぐ。彼女は身を乗り出し、僕の顔を見た。

 

「無理にね、咲の事、好きにならなくて、いいよ。それじゃあ今までと、一緒だから。これからゆっくり時間をかけて、本当に、マコちゃんが咲の事を好きになってくれるまで、待つ事にしたんだ」

 

「そっか」

 

「うん」

 

 穏やかな潮騒の音を聞きながら、確信する。


 僕はついに長年に渡って欲してきた、心の平安を手に入れた様な気がした。


 だがそれは完全なものでは無い。自分にはまだ、向き合わなければならない事があるのだから。

 


「じゃあ今度は、僕の願いを聞いてくれるか? 行きたい所があるんだ」

 

 一瞬、少女は不思議そうな顔をして、言葉の意味を考えたが、すぐに察しが付いた。今までお互いに頑なに避け、拒否して来たあの場所に、あえて行こうというのだろう。

 

「うん……いいよ、お花、買って行こ」


「あぁそうだな」

 

 こうして二人は、海岸を後にした。目的地へ向け歩き出す。


 最初の内は、最近見たテレビの話や、家族の話等、暫く会っていなかった分、話題には事欠かなかったのだが、やがて自然とそれも尽き、ただ無言で歩を進めていく。


 近所の花屋でお供え用の花を買い、また歩く。


 咲の父、正治が亡くなって以来、僕はあの場所に近寄らない様にしていた。それは咲も同じだろう。一歩、また一歩と踏みしめる度、段々と動悸が激しくなる。僕は平静を装って歩いていたが、それも限界の様だ。

 

「ねぇマコちゃん、大丈夫?」

 

 とうとう例の目眩が襲って来たのだ。同時に感じる激しい耳鳴り、悪寒、頭痛。ヨロヨロと、近くの電信柱にもたれては、頭を抱え、しゃがみ込んでしまった。心配そうに咲が覗き込む。


 「グッっつっ、わ悪いな。ちょっと、動けそうに、無い……」

 

 息も絶え絶えで苦しみながら、それだけ言う。咲は側に寄り添い、そっと僕を抱きしめてくれた。

 

「大丈夫、大丈夫だよ。咲が付いてるから、心配無いよ。マコちゃん、今日は帰ろっ、また今度でいいよ、ねっ?」


 今までに聞いた中で一番、落ち着いた優しい声だと感じた。その途端、目眩が止んだ。親しげに彼女が頭をよこしてくると、今度は頭痛が治まった。背中や首に回された腕が心地良く、あらゆる苦痛を押し流してくれる。


 まるで自分の中にわだかまる全ての悪因縁が、彼女によって清められ、吸い取られていくかの様だった。

 


「いや、もう行こう。今行かないと、二度と行けない様な気がする」

 

「でもマコちゃん、頭が痛いんでしょ?」

 

「大丈夫、平気だ。手、繋いでくれ」

 

 僕は青い顔をして、ふらふらと立ち上がると、そっと右手を出した。咲はしっかりその手を握ってくれる。

 

「うん、これで良い。先に行こう」

 

「はい」

 

 また僕等は歩き出した、目差す場所はもうすぐそこだ。


 その先の路地を入れば、忘れようにも忘れえぬ、あの場所である。

 

 辿り着いてみて、改めて二人で辺りを見渡した。


 何の変哲も無い、住宅街の国道だった。


 人気の無い交差点に、進めの信号が寒々しい。


 何もかもが、昔のままという訳では無かった。むしろ本当にこの場所が、あの惨事の現場だったのかどうかすら、記憶が薄れ、揺らいでいる。

 


「あれ? ここって、こんな感じだったっけ」


「……うん。咲もあんまり来ない様にしてたけど。確かに、間違いないよ」


 そう言って彼女は、近くの植え込み側に座り込んだ。花を供えて、手を合わせ、拝む。

 

「ここが、そうなのか」

 

「そうだよ。お父さん、この辺で倒れてた」

 

 僕は今まで何度も繰り返し見た悪夢を、ありありと思い出す。


 夢の中に出てくる風景は、もっと禍々しいものだった。街路樹は不気味に佇み。信号は血に染まったかの様に、真っ赤だ。


 そこには幼い自分と、倒れている咲の父、正治以外に誰も居ない。それに比べてこの景色はどうだ。

 

「なっ何だ、こんなもんだったのか」

 

 あまりに平凡で、平和な光景。僕はぼそりと呟いた。何故か両目から、涙が溢れて止まらない。


「咲、咲、ごめんな。今まで、僕は」

 

「もういいよマコちゃん」

 

 何かを感じ取り、彼女は自らその身を彼の胸へと預けた。

 

「何も言わなくて、いいよ。もう全部、終わったんだから」

 

「そっか。終わったのか」

 

 そういえばこの場所に来てからというもの、目眩も頭痛もしない。


 精神分析的に言えば、再び事件の地を訪れた事により、過去の悪夢に打ち勝ったからだとか、自己の内面に潜む暗部を肯定し、それに立ち向かったからとか言うのかも知れないが。そんな理屈を超えた所で、遥かに納得するものがある。

 

 今まで自分を襲って来た症状。即ち悪夢に頭痛、目眩等は、無意識に自分で自分を裁いていたからなのだろう。


 咲の父、正治を見殺しにしておいて、あまつさえ、その娘と付き合うなど、許し難いと。誰よりも自分自身が、一番強く思っていたのだ。


 だがもうそれも、終わりにせねばならぬ様だ。

 

 時は未来へと刻々と進んでいる。僕はここに至り、もっとも単純な思考に行き着いた。

 

 正治小父さんはもう故人だが、咲は生きている。自分も生きている。これからも生ある者は、生き貫かねばならぬ。


 故に残された選択肢は、過去を引きずり、不幸に生きるか。過去の出来事を素直に認め、過ちを宣り直し、明るく幸せに生きるかの、二つに一つしかないではないか。


 それならば答えは簡単だ。


「なぁ僕は。僕等は、幸せになっても、いいんだろうか?」


 思わず聞いてしまった。聞かずには、いられなかった。


 

「うん大丈夫。お父さんもきっと、応援してくれるよ」

 

「そうか。そうだと……いいな」



 暫く二人は抱き合った。冬の日の入りは早い。


 閑静な住宅街を茜色に染めて、夕日はゆっくり沈もうとしている。そのうち近所の子供達だろうか、幼い声が聞こえてきて、慌てて距離を取った。


 二人の脇を、学校帰りの小学生達が楽しそうに駆け抜けて行く。

 

「……家に帰ろうか」

 

「うん。マコちゃん、今日はありがとう」

 

「それは僕の台詞だ、ありがとうな、咲」


 涙ぐむ彼女の手を取り、僕等は歩き出した。


 全ての答えがここで解決したとは思わないが、二人の関係において、今日は記念すべき日となった。


 リンカーン風に言えば、僕達の、僕達による、僕達の為の人生を、これから二人で歩むのだ。


 南北戦争終結によるゲティスバーグ演説では、奴隷解放宣言が成されたが、今僕達もこの場所に立ち、新しい自由の誕生と開放を、心から喜び、噛み締めていた。


 そこには何の気負いも、へつらいも無い。これからの二人は、ごく自然に付き合える筈だ。


「お~い! 待ってよーっ!」


 帰路に着いた二人の横を、一人の少年が駆け抜けて行った。友達を追いかけている様だ。

 

「なにやってたんだよーっ、おっせーぞーっ!」


 先に進んでいた友人達は歩みを止め、後ろを振り返った。別段、変わった光景でも無いが、目にするそんな些細なやり取りですら、今の二人には、微笑ましく映る。

 

 先の交差点で、子供達はその友達が追い着くのを待っていた。赤信号が、彼等の間を隔てている。待ちくたびれたのか、その内の一人の男の子が、手に持っていたサッカーボールで遊び始めた。そこに遅れて、咲と誠も加わり。並んで青信号を待つ。


 今、僕は思う。


 まだ咲と出会って間も無い頃、二人は普通の幼馴染で、友達だった。


 その先の将来の事など考えもせず、無邪気に遊ぶだけだった。


 あの頃へ戻ろう。


 時間は掛かったが、やり直すのに遅すぎると言う事は無い。過ちを改むるに、憚る事なかれだ。

 


 易経にある君子は豹変す、とは。世間で言われている様に、良い人が突然恐ろしく、態度を変えると言う意味ではない。


 むしろその逆で、豹が美しくその姿を変えるように、君子は自ら過ちを速やかに認め、善に立ち返るという潔さを称えたものだ。

 

 僕は君子には程遠いが、古今の名著や歴史から数々の薫陶を受けている。


 ああ瞬よ、天の定めはまさに君にある。まことによくその中を取れ。


 自分の帝位を禅譲する際に、堯が次期天帝、瞬に送った言葉だ。


 中とは、程々に当たり障り無く対処するという事ではない。


 激しい時は激しく。穏やかな時は穏やかに。淀み無く流れる時の中にあって、自分を見失わず、その時々で最も優れた行動を取る。それが、中に当たるという意味だ。


 今にして思えば、僕は偏っていたのだろう。


 自分の尺度で咲の幸せを考え、それを押し付けていたのだ。


 結果として彼女を傷つけ、周囲を巻き込んでしまった。


 自分が良いと思った事が、必ずしも万人に良い訳ではないという、当たり前の事実を見落としていたのだ。


 いや、自分の中にある罪悪感から、再考の余地を自ら放棄したとも言える。


 あまりに近すぎて、今まで真剣に向き合う事が無かったが、もっと二人の未来について、よく話し合うべきだったのだ。


 それは、これからの課題でもある。


 認めよう。彼女には僕が必要なんだ。


 そして今、僕にも咲が必要だ。


「また色々考えてるの?」


 隣で少女は、にっこり笑う。つられて僕も、微笑みを返す。


 もしかしたら将来、お互いに結婚する相手は違うかも知れないし、結婚したとしても、すぐ離婚するかもしれない。


 この関係が何処まで続くか分からないが、君はどう思う? 一瞬、そんな意地の悪い事を聞こうとしたが。


「いや、大した事じゃ無いよ」


 などと言って誤魔化した。可憐に咲いた笑顔の華を、いたずらに散らすには惜しく思えて。


 二人は寄り添って笑った。もうじき、赤信号も青になる。



「あっ……!」



 その時、信号待ちしていた向かい側から、幼い少年の驚く声が聞こえた。


 持て余していたサッカーボールが、その手を離れ。車道へと転がっていったのだ。


 深い考えも無く次の瞬間には、ボールを追って、その子は赤信号の横断歩道へと駆け出した。


「危ない!」


 叫ぶと同時に体が動いていた。


 ボールを拾った少年は、眼前に迫り来る車に怯え、立ち尽くしている。


 前に見た光景だと僕は思った。


 幼い頃の自分はあの時、何も出来なかったが。今度は違う。


 全てがスローモーションの様に感じられ、俊敏に動く事ができた。



 呆然とする少年を突き飛ばすと、けたたましいクラクションが、耳を刺す。


 すぐそこまで、車は迫っていた。



 僅かに余った時間で僕は、咲の方へ向き直ると、微かに笑った。


 しかしその笑顔も、後に続く鋭いブレーキ音に掻き消されてしまう。




 全てを見届けた後、彼女は叫んだ。




「マコちゃん!」


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