試練
「いやいや、こいつにはね。桜井咲っていう、もう長~い間付き合っている彼女がいるんだよ!」
「そうそう、そうなんだ!」
「ふ~ん」
彼女は意味ありげに呟いた。この話には最初から乗り気では無かったけど、ここに来て、抜群に嫌な予感がして来る。
それでとにかく、黙って食事を続ける事とした。千葉と林は、一生懸命に話し掛けているが、彼女にうまくいなされている。やがて話題も尽き、魔女は再び聞いてきた。
「ねぇ一宮君と桜井さんって、どこまでいってるの?」
コーヒーを飲んでいたところだったので、僕は咽込んでしまった。今まで、ろくに話しても来なかったのに、いきなり、なんちゅう事を聞いて来るんだ、この娘は。
どんな育ち方をすれば、こうなるんだか知らないが、無礼千万だ。まぁでも、千葉と林の顔を潰す訳にもいかないし、適当に答えておこう。
「ぼっ、僕と咲は、まだそんな感じじゃないんだ。その、友達の延長みたいな感じ。かなぁ」
「でも、もうずっと、二人で一緒に居るんでしょ?」
「う、うん」
「すご~い! プラトニックなんだぁ。なんだかそういうのって、憧れちゃうなぁ」
マズイ。彼女の目的が何かは、まだ分からぬが。標的は僕の様だ。さっきから心臓が早鐘の様に鳴って、やかましい。しだいに頭痛がしてきた。
「ねぇじゃあ今度、家に来て勉強教えてよ。桜井さんには、秘密にしておいてあげるから。いいでしょ?」
ぐっと前に身を乗り出して、正面に座っている自分に対して、豊かな胸元を強調して見せる。千葉も林も覗き込んで来る程に魅惑的な行為だが、当の僕は頭痛に加え、遂には目眩もして来た。全く予想外の展開だ。
これ以上具合が悪くなる前に、何とかこの場を切り抜けなければ、耐え切れそうに無い。備えあれば憂い無し。やおら愛用の頭痛薬を取り出すと、手元のコーヒーで一気にそれを飲み込み、立ち上がった。
「ごめん、急用を思い出した。悪いけど、先に帰るわ」
テーブルの上に飲食代を力なく置くと、病人の様な足取りで一路、出口を目差した。
「あっ! ちょっと待って! 私も!」
誠を追いかけようと立ち上がる、みなみの手を。千葉は即座に捉えた。
「栗山さん。俺達、君に大事な話があるんだ」
ふらふらと重い足取りで外に出た僕は、倒れ込んでも騒がれない様な所を探して植物園を抜け、岩屋近くまでやって来た。しかし、ここまでが限界だ。林の茂みに一人隠れると。頭を抱えて横になる。
最近の頭痛の中で一番重いし、目も回る。幸いなのは吐き気が無いので、気を失っても、吐瀉物が喉に痞える心配が無い事だ。等と、大脳が破裂しそうな激痛に悶え苦しみながらも、自分でそう冷静に分析する。
いっそ気を失った方が楽なんじゃないかとも思うが、痛みはそれを許さない。
普段の僕は、神仏とは信じるもので、頼るものに非ずと思っている。
しかしこんな時は一意専心に咒を上げて、その加護を求めるしかない。
光明真言を唱える。
オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン
この真言は、密教において宇宙そのものであり、至高の仏様。大日如来に祈願し、根源より来たる光明を呼び込む、ありがたいマントラだ。
道元禅師がおっしゃった、回光返照を実現させる。
即ち、外に解き放たれてお留守になった、心の首座を、己が心中に取り戻す。
光は巡り照り返し、自らが光明となる。
一心に声明する。小声でブツブツと。真言の三密。即ち、身口意。行動と言葉と心を誠にし、自らの内に宿る、仏性を顕現させる。瞼の裏に、大日如来をありありと描き。それに向かって、切々と訴えた。
「胎蔵界、金剛界の根源仏にして、如来、菩薩、明王、天部の全てに化身し。抜苦救済、心願成就、即身成仏を導き給う偉大なる諸仏の王よ。大日如来よ……あぁ、かつてのあなたの子。弘法大師空海上人が、己が身一つで真言宗を立ち上げ、満濃池を改修し、平安の御世を守り導いた困難程で無きにしろ。我が身に降りかかる、試練の石に、心の玉をば磨かせ給い……誠にありがとうございます……艱難辛苦をへて、君子の道を歩ませ給い。誠にありがとうございます」
「さはさりながら、この激痛に悶え、目眩がしろくに歩けもしないという、窮状から。どうぞ、私めをお救い下さい、お助け下さい、我、畢竟凡夫の身なりといえども。この後、事上練磨の日々を送り。必ずや一株の大樹となりて、皆の涼しき木陰ともなり。また伝教大師の御教え。世の一隅を照らす、国宝とも成らんと、神仏の御前に発願致します」
「そして産土の神に坐す、江の島神社の大神よ。吉祥如意天女様。役の行者より始まり数多の聖人、為政者の尊崇を集めてきた、地元湘南の守護神よ。文芸、歌舞に導きを与え、商売繁盛を司るあなた様の専門では無きにしろ、どうぞ五頭龍様やご眷属の皆様にも、悪鬼退散にお力をお貸し頂けます様、宜しく取り成し給え。我を守り給え、幸はえ給え。皆も守り給え、幸はえ給え」
「困った時の神頼みで、すみません。マメに来る様にしますので、どうか宜しくお願いします……」
普段、経を上げても祈ったりはしないのだが、神座す神域だからなのか、どうなのか。苦痛に喘ぎながらも、祈りの言葉が口を付いて出て来た。
そうこうしている内に、ようやく苦痛も和らいで来る。もう日暮れも近い。明るい内に家に帰りたいものだが、まだ立ち上がれはしない。
右手を、こめかみにやり目を閉じる。そういえば千葉と林はあの後、どうなったのだろうか。途中でいなくなって、悪い事をしたなぁと思わないでもなかったが。今までの人生の中でも最大級の目眩と頭痛に襲われては、どうしようもない。
かのフロイトも、父との葛藤のトラウマから、大きな広場に出ると、目眩がするようになったという。
その体験から、外傷は無くても精神が傷つく事によって、引き起こされる病を発見し、精神病理学の発展となったのだが。
彼は父が死ぬ事によって、自分の中の障害と支えが、二つとも無くなるのを感じたという。かたや僕のストレスは、おじさんが死んだ、あの日から始まったと言える。咲に関わるあらゆる局面で、突発的にそれは発症し。多くの場合、頭痛と目眩が心身を苛むのだ。
咲がいなくなれば、僕の疾患は良くなるかもしれない。彼女を守らねばという思いが、今や脅迫観念となり、自分自身を苦しめているのだから。
フロイトの研究の成果は、患者が自らの気持ちを再確認し。良い面も悪い面も認めてこそ、ストレスから解き放たれるという事にある。
あの夏。咲に本心を告白した真意は、そこにもあった。そのかいあってか、日増しに強まっていた目眩も、頭痛も、次第に弱まっていったのだ。それでここ最近すっかり油断していた。
ここまで酷い状態になったのは、理由があるはずだ。咲以外の女性と、親密になるのを、潜在意識が拒絶したのか。単純に節操の無い、栗山みなみに対する、嫌悪感なのか。他にも原因があるのかも知れないが、なんにせよ気を付けなければならぬ。
「克己復礼。己に克ちて、礼に復れか。仁に志せば、即ち仁に在りと言うけれど、まだまだ道は遠いな」
まだぼんやりとする頭を巡らせて、そう呟くと。足元の方から、なにやら人の気配がする。
鬱蒼とした林の間を縫い。岩戸から、すわ光明神、天照大御神がお出ましになったか、とも一瞬思ったが。
「……マコちゃん、大丈夫?」
何の事は無い、咲である。
「よぉ、ははっ……一瞬、僕が死んで。弁天様が迎えに来たのかと思ったぜい」
「もぉ、心配したんだからぁ」
泣きながら彼女は、横たわる僕の胸に顔を埋めた。昨日会ったばかりなのに、随分久しぶりに会う気がする。
「しかし、やっぱり後を付けて来てたんだな。予想通りだけど」
「それは、その、ゴメンなさい」
「いや責めてるんじゃない。むしろお前が嫉妬深くて、猜疑心の強い女で、助かった。起きるの手伝ってくれ」
「うん、分かった。なんだか複雑だけど」
咲は彼の上半身を抱え起こし、歩くのを支えてやった。辺りを見渡すとベンチが見えたので、そこで休む事にする。誠の体力は幾許か回復したものの、歩いて帰るには至らない。
「何か欲しい物、ある?」
自分が弱っているから、そう見えるのかも知れないが。今日の彼女は、やたらと愛らしい。
「あ~っ、じゃあ水買って来て下さい」
「うん! 待っててね、すぐ行ってくるから!」
「急がなくていいよ」
そう付け加えたものの、咲はあっという間に走り去って行く。その後ろ姿を見送ると、僕は思索に耽った。
今日も大変な一日だった。二人の関係に改善の兆しが見えて来たかと思えば、これだ。君子危うきに近寄らずと言うが、やはり美人は危険だ。避けるに越した事はない。振り回されるのは、咲一人で十分だ。
そういえばソクラテスは。
若者よ大いに結婚したまえ。それが良き妻なら、君は幸せになれるだろう。それが悪い妻なら、君は哲学者になれるだろう。なんて言ってたな。
思うにあれは、悪妻を迎えば思い通りにならず葛藤する。現状を打破しようと、もがくエネルギーは昇華され、学問が成就できる。という事なのだろう。
ソクラテス自身はもとより、孔子様もそうだし、有名なのは、諸葛孔明先生や、我が国では、真田幸村、徳川吉宗なんかが、妻に醜女を選んでいる。
実際はどうだったのかなんて、分かる筈も無いが。こういう類の話があるのは、それだけ古代から、美人は危険だと、賢人には警戒されていたのだ。
咲に、君は美し過ぎるから、僕の学問の妨げとなってしまう。だから会わないようにしよう。とか言ってみたらば、どう反応するだろうか? 面白い、今度聞いてみよう。ん? 待てよ、悪妻を娶ると言う事は、栗山みなみの様な女性と、結婚した方が、かえって良いという事か? ……あれ? う~ん、何だか分からなくなって来た。
その時、生暖かい一陣の風が吹いた。遠くに人影が見える。
「おぉ! 早かったなって。あれ?」
僕が呼びかけた先に居るのは、咲ではなく。なんと、栗山みなみ、その人だった! 何とも気まずい空気が流れる中。彼女は近づいてくる。
「ここ、座っても良い?」
「う、うん」
断る理由も無いので、そう返事をしたが。内心相当焦っていた。こんな所を咲に見られたら、どうなる事か。想像するだに恐ろしい。ピンチはまだ続くのだ。
「さっき桜井さん、居たでしょ?」
うっ! それを知りながら、何故側に来たんだ、コイツは! 僕が何も応えずにいると、肌が触れ合う距離まで近づいて来る。
「あの娘の事は、ほっといて。みなみと楽しい事しない?」
おもむろに彼女は僕の右手を取ると、自らの胸へと押し当てた。
「ふふっ、一宮君の好きにしていいんだよ?」
かつて釈尊が悟りを開くために、菩提樹の下で座っていた時。それを妨げんと、煩悩の化身、マーラが現れた。
その天魔は手始めに、美しく扇情的な娘を差し向け、釈迦を誘惑させたのであるが。その境地は揺るがず、遂にはマーラ諸共、退けるに至り。明けの明星に導かれ、忽然と大悟したのだ。その人智を越えた雄叫びが、かの有名な。
天上天下唯我独尊である。
即ち、無私無欲なるが故の全知全能。天地人、宇宙の全てと繋がった私は、尊くも素晴らしい。
今まさに、我、仏祖と同じ法難に合うに当たりて。潔く決定し。降魔調伏致すべし。
僕は鋭くその手を引き抜くと、就金剛神の如く睨みつけ、言い放った。
「見損なうな! その辺の男とは、訳が違うんだ!」
「……彼女がいるからって気兼ねしてるの? 皆そう言うよ? ベットの中でもね」
「一体、何人の男と関係したのか知らないが。そんな事では、今に痛い目に合うぞ」
その時、地面に何かが落ちる音がした。
「……何してるの? マコちゃん」
買ってきたペットボトルを手から落とし。亡霊の様に佇む咲が、そこに居た。
「違うんだ咲! 落ち着け! これは」
言いかけた言葉を、唇で奪われる。怒りで忘れていた頭痛がぶり返し、意識が遠のく。
「遅かったね、桜井さん。ぐずぐずしてる方が悪いんだよ? あはっ!」
悪魔の如く彼女は笑った。抵抗しようにも、悪寒が自分の全身を貫き抗えぬ。
「咲、咲、違うんだ……」
意識が遠のく中、荒い息を弾ませて、懸命に説得を試みる。
「分かってるよ、大丈夫。マコちゃんは、悪くない」
少女は持っていた肩がけのポシェットから、果物ナイフを取り出すと。鞘を捨て、両手で柄を握った。
その切っ先は、まっすぐ栗山みなみへと向いている。




