新たな問題
夏休みも終わり。彼女との間に、新しい関係が始まった。
僕の両親には、お互いに受験だからとか何とか言って、状況を説明した。二人はあからさまに、がっかりとしたけれど。週末、咲が家に遊びに来れば相好を崩し、毎回暖かく迎えた。
彼女が遊びに来ても、僕の部屋で勉強をしたりする分には、以前となんら変わる所が無い。しかしあれから咲は、妙な事を覚えてしまった様で、非常に始末が悪い。
「にゃ~~~~っ」
さっきまで、普通に勉強していたかと思えば。オイラの背後から、いきなり抱きついてくる。こうしたスキンシップ? は、ここの所頻繁になっている。
「だ~~も~~止めなさい! ちゃんと、勉強しなさい! 勉強を!」
「だってぇ~久しぶりに会ったんだから、ちょっと位甘えても、イイでしょ?」
「良くない! あ~~も~~っ、は~な~れ~ろ~っ!」
体を左右に揺すっても、ぴったりとくっついたまま離れようとしない。子供の頃ならいざ知らず、もう高校三年生ともなると、その体つきは、大人のそれと大差ない。
その胸の膨らみが背中に当たる度に、いかに君子の道を歩まんとする某としてみても、何か間違いが起こらないとも限らない。
そして襲い来る、あの目眩。
故に僕はその度に、富士山登拝の六根清浄とか川崎大師の、南無大師遍照金剛。あるいはまた顔回の四勿。すなわち。
礼にあらざれば、視ること勿れ
礼にあらざれば、聴くこと勿れ
礼にあらざれば、言こと勿れ
礼にあらざれば、動くこと勿れ
等を、ブツブツと言って。必死に煩悩の誘惑に耐えていた。
そんなオイラの涙ぐましい苦労も、彼女には関係ない事の様だ。現に今も注意しているにも関わらず、離れようとしない。相も変わらず、胃と頭の痛い日々が続いていた。
「……どうしても、離れて欲しい?」
「お願いします」
「じゃあ、はい」
おもむろに瞳を閉じて口付けをせがむ、最近の彼女の常套手段だ。その度に二人は言い合いになる。
「咲、僕らは恋人同士じゃないんだぞ。節度を守りたまえ!」
「欧米では、当たり前の挨拶だよ?」
「ここは、アメリカじゃねぇ! そしてヨーロッパでも無い! 慎みと謙譲が美徳の豊葦原中國、日本だ! わきまえぃ!」
「……じゃあ、おじさんおばさんに、マコちゃんが咲の下着盗んだの、言うから!」
これも最近の、ヤツの切り札だった。
「だから! あれは、謝ったろうが! 鬼の首を取ったかの様に、何時までもグチグチ言うんじゃねぇ!」
「もう! そんなに怒らないでよ! 大きな声出さないで! ……一週間に、一回しか会えないんだから……もっと、優しくしてよ!」
結局、最後は彼女が泣き出して、僕が慰める、いつものパターンとなってしまう。毎度毎度、よくこんな事で泣けるなぁと感服してしまう。
これまた、いつも思うのだが。相手に先に泣かれてしまうと、こちらはもう、泣くに泣けないのだ。ある人が言うには、バカとの喧嘩は、よりバカな方が勝つとの事だが。要するに、いかなる話し合いや交渉においても、結局、冷静で現実的な方が譲歩せざるを得ないのだ。
なんという、この世の不条理。
正義は最後に勝つ! なんて言うが。裏を返せば、それまでは負け続けるという事だ。
孔子様曰く、女性は扱いにくい。優しくすれば、つけあがるし。遠ざけると、恨まれる。というのは、本当だな等と、ウンザリとした面持ちで、僕は悲嘆に暮れていた。
そんな時、あの天の声。
「二人とも~っ、喧嘩してないで、降りてらっしゃーい。今日は、ハンバーグよーっ!」
おのれ、咲が来た時だけ腕によりをかけよって! と、苦々しく思う反面。ご馳走にありつけるのは、ありがたい事でもある。
「おい、行くぞ。腹がへっては、戦が出来ぬ。」
立ち上がり、居間に行こうとすると、腕を掴まれる。
「んっ!」
咲は、そのか細い顎を前へと押しやり、再び口付けを請うた。見ると、今にも泣き出しそうであり、意地になっている様だ。
まだ諦めてなかったのか、コイツはと、恨めしく思ったが。腹もへったし、さっさとこの場を切り抜ける事にした。
「お願いだから、キ! んっっ!」
もう、ああだこうだと言うのは面倒だったので、自ら咲を抱き寄せ、唇を奪ってやった。それも後で文句を言われないよう、なるだけ情熱的にだ。
すると、さっきまでの剣幕は何処へやら。トロンとした目つきになり、言う事には。
「マコちゃん大好き」
だそうだ。全くもって世話の焼ける事この上ないし、他人から見ると100%誤解されるであろう行為だが。こうでもしないと、納得してもらえない限りは、仕方無い。
あれ以来、僕達の関係は益々おかしなものとなっている。
それから二人は食卓に着き、いつもの様に夕飯を取る。たわいの無いおしゃべりと、普段よりちょっと豪華な夕飯。それは咲が遊びに来た時の、よくある光景だったが、先程の刺激が強すぎたのか、食事中の彼女は、ぽわっとしていた。
「もう遅いから、咲ちゃんを送って行きなさい」
食後に母は、面倒な事を言い出した。
「いやっ、でも。すぐそこだよ? コイツの家は!」
反論も空しく、いいから送ってきなさいと言われ、渋々、二人で家を出た。でも、それで正解だった様だ。依然として彼女は放心しているからだ。
「……き……咲!」
「あっ、え?ごめんなさい、何か言った?」
「どうしたんだよ、さっきからボーっとして。母ちゃんが心配してたぞ」
「それは、だって……マコちゃんが大胆な事、するから」
みるみる内に顔が紅潮し、耳まで真っ赤になっていく。
「あなたが、そうせいとおっしゃったんでしょうが!」
「まぁ、そうなんですけど」
少女はそう言って俯いた。ふと訪れる、短い沈黙。二人の靴音だけが、辺りに響く。
「あの」
「あのさぁ」
二人同時に話し掛けて、二人同時に譲り合う。
「……どうぞどうぞ」
「いや、そちらこそ、どうぞ」
再び訪れる沈黙。埒が明かないので、誠から話を切り出した。
「一つ聞きたいんだが、いいか?」
「うん」
「もし仮に、咲と僕がこの先恋人同士になったとしてもだ。僕の中にある、罪悪感は消えないし、一生罪の意識に苛まれるだろう。お前と居れば、どうしても、おじさんの事を思い出すしな。それでも……僕と一緒に居たいと思うのか?」
「……うん」
「その結果、僕が苦しむ事になるとしても、か?」
「うん」
「そうか」
誠は夜空を見上げた。満点の星空が、秋の夜長に美しい。
「ごめんなさい。マコちゃんが時々苦しそうにしてるのは、咲のせいだって、知ってるの。でも、ごめんなさい」
「……いいんだ、分かってる」
「悪いのは、僕だ。僕が咲に本心を告げないで、黙っていれば。こんなに悲しませる事も無かったのに、あの時どうしても黙っていられなかった。傷つけてしまう事は、分かっていたのにな。謝るのは、僕の方だ。僕は、弱い人間だ」
「そんな事無い!」
突然大声を出す咲に、驚く誠。
「咲はね! マコちゃんの本当の気持ちが聞けて、嬉しかったよ! 最初は、とっても落ち込んだけれど、今は良かったと思ってる! 咲の方こそ今まで、何も知らないで。マコちゃんを困らせてばかりで、ごめんなさい」
後半、涙声で語る彼女を、思わず誠は抱きしめて。優しく語り掛ける。
「いいんだ、済んだ事は。もう、気にしなくていいよ」
「マコちゃん」
「んっ?」
「何でもするから、いい子になるから、お願いだから……咲の事、嫌いにならないで。一人にしないで」
すすり泣く少女の嘆願に、僕は抱きしめる事でしか、応えてやれなかった。
暫くして後に落ち着いた彼女を、自宅の玄関先まで送ってあげる。
「次に会うのは、一週間後だね」
名残惜しそうな彼女に、今度は自分の方から進んで、お別れのキスをした。満足げな表情を浮かべ、にこやかに微笑む咲。
「今日は、ありがと……おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
それだけ言うと、僕は夜道を一人で帰った。今日は満月である。散歩するにも良い日だ。頭も痛く無い。手にした頭痛薬の箱を、シャカシャカとやり。ブラブラ寄り道してから、ゆっくり帰る事にした。
それから月日は過ぎて、学園祭のシーズンが到来した。とは言っても、進学校の三年生なので、模擬店や出し物等には参加しない。それよりやはり、勉強である。
受験生にとっては、ここからが本番。伸るか反るかの、剣が峰だ。誠や咲も、復習や過去問を解くのに忙殺されていた。
「お~い、一宮!」
遠くから間延びした声がすると思ったら、クラスメイトの千葉だ。廊下の向こうから、小走りでやってくる。
「何だ、千葉か。どうした? ピーナッツでも、分けてくれるのか?」
「だから苗字は千葉でも、出身地じゃねえって、何度言えば分かるんだ!あと、いつまでこのネタを引っ張るんだ!」
「うるさいなぁ、静かにしたまえ……それで? 何か用か? まぁ、お前の事だから、どうでもいい様な事なんだろうけど」
「いいから! ちょっと、耳を貸せって」
悪友の誘いに、渋々応え。廊下の隅で密談する。
「ほら、ろくでもない。何考えてんだお前は! 勉強しろ!」
「まぁ、そう言うなって! 頼むから、協力してくれよ!」
「断る! 何故僕が、そんな事に付き合わなきゃならんのだ!」
話の内容はこうだ。どうやら千葉は、別のクラスの栗山みなみ、という女子の事が好きらしい。自分としてみれば、はぁそうですか、としか思わないのだが。なんと、彼女をデートに誘うから、僕に付き添って欲しいとの事だ。アホか。
「大きな声を出すなよ!」
「お前、今の時期が受験生にとって。どういう意味を持つのか、分かってんのか!」
「分かってる! 分かってるから、あえて言うんだよ!」
さらに彼は言う。要するにまぁ、カッシーのケースと同じだ。彼女に告白して立場をハッキリさせないと、勉強するにも身が入らず、なんともやりきれないとの事だ。
「ほう、なるほど。若者よ大いに告白したまえ。僕を巻き込まずにだ!」
「ままっ! そこを何とか! どうしても、お前の力が必要なんだって!」
「そうだぞ! 一宮!」
途中から話に割り込んできた、この優男は同じく、クラスメイトの林だ。
「何だ、お前まで。さては」
「その通り! 俺と千葉は、同盟を組んでいる。一宮君! 君にも是非、作戦に加わってもらいたい!」
クスクスと、失笑があちこちから聞こえる。マズイ、ここままでは自分まで変なヤツだと思われる! いや諸子百家が好きで、論語を諳んじてる時点で、もう変人か。ハッ、ハハハハハッ……いや! もとい! むしろ、古の狂(理想主義者)と呼んで頂きたい!
一人心中で葛藤する誠。そんな彼を他所に千葉と林は、なにやらヒソヒソと密談している。
「とにかくここじゃあ、場所が悪いな」
「あぁ、他所へ行くとしよう」
二人は、やおら誠の両腕を掴んだかと思うと、疾風の如く連れ去った。
休み時間の校舎裏。そこには幸い誰も居ない。
「お、お前ら。こんな所に僕を連れて来て、何のつもりだ?」
何時に無く真剣な二人の様子に、嫌な気配が漂う。
「ふっふっふ……一宮ああああぁぁぁぁっ!」
千葉はやおら叫ぶと、次の瞬間誠の足元に跪き、額を地面に擦り付けた。
「頼む! 俺達に力を貸してくれ!」
続いて、林も土下座する。
「一日でいいんだ! デートに付いて来てくれ!」
余りの急な展開に唖然としていると、林が説明した。
「栗山さんが、お前を一緒に連れてくるなら。俺達とデートしても良いって言ってるんだ!」
「そういう事だ! 全ては、お前にかかってるんだよ!」
彼等の好きな、その栗山みなみという女性は。この学年において最大のアイドル的存在と言っていい……そうだ。
故に彼女にアプローチする者も多いが、悉く玉砕か、付き合っても長くは持たないらしい。その小悪魔的な性格と、可愛らしい容姿。なによりEカップ(千葉談)の持ち主で、えらく愛想も良い。嘘か誠か、芸能界からスカウトされた、なんて話もあるとの事だ。
一年の頃から周りの男子が騒いでるのは僕も知っていたが、咲への対応で日々頭が一杯な自分にとっては、どうでもよい事だった。
「あれ?でも彼女って、カッシーの事が好きだとか、聞いたけど? ……お前から」
「いや、それはもう違う! 実は最近、栗山さんがカッシーにフラれたらしいんだ! これは確かな筋からの情報で間違いない!」
「今彼女は傷付いている! こんな俺達でもその隙を突けば、お近づきになれるかも知れないじゃないか!」
「そこでデートに誘ったところ、僕が行くなら彼女も行くと?」
「そう! その通り!」
「やっと分かってくれたか!」
「はっはっはっはっは……断る」
「何故だ!」
興奮している二人は僕に食ってかかる。それを冷静に、諭すように言って聞かせる。
「まぁ、落ち着きたまえ。思うに、彼女は君達の手に負える相手じゃないよ。察するに、今まで蝶よ花よと育てられ、何一つ不自由なく来たんだろ? いくら魅力的だと言っても、近づけば怪我をするに違いないね。君子の三戒が第一に、若い時は血気がまだ定まっていないから、女色について戒めよとある。その有り余るエネルギーを、勉学へと注がれるが宜しかろう。では御免。」
自分としては至極全うな事を、彼等の事を思って言ってあげたつもりだが。なにやら、雲行きが怪しくなってくる。
「おっお前に、言われたくな~~~~~いっ!!!」
「そうだぞ! 一宮! お前はいいさ! 桜井咲という美少女が、彼女なんだからなぁ!」
「全く! 高校三年間の長きに渡り、散々見せつけやがって~~~っ!」
意外な展開に、驚きを通り越して呆れてしまう。人の気も知らないで、今までそんな事を思っていたのか、こいつ等は。まぁ、隣の芝生は青く見えるというか、知らぬが仏というか。無ければ無い苦しみ、有れば有る苦しみがあるのだなと、今。しみじみ思う。
「だから一宮! お前には、我々を助ける義務がある!」
「そうだ! 孟子も、義を見てせざるは、勇無きなりと、言っているじゃないか!」
「何ぃ! 一体、君等の何処に、義があるんだ! あるのは、下心だろ!」
「うっ! 確かに!」
誠にその心の内を喝破されると、二人の学友は悶え苦しんだ。
「どうせ二人共すぐに、こっぴどく振られるか、捨てられるか、するだろうさ」
「むむっ! そ、そうかも」
「何もむざむざ、虎の口に飛び込む事も無かろう。各々ご自愛なされよ、久立珍重」
踵を返し去り行こうとする僕に、なおも彼等は追いすがる。
「だからと言って、このまま終わるのは嫌なんだ!」
「そうだ! 何もせずに後悔するより、やって駄目だった方が、ずっとマシだ! 頼む! 一宮!」
「頼むよ!」
余りに彼らが必死に懇願するので、ついに誠はその足を止め、ぼそりと呟いた。
「医者は自らの肘を折る経験をして、始めて、ちゃんと患者の病気を診察できる。と、春秋左氏伝にあったな」
天を仰いで、嘆息する誠に。千葉と林は畳み掛ける。
「高校三年間、栗山さんを追っかけてきて。これが、最初で最後のチャンスなんだ!」
「一回でいいんだ! 俺達に力を貸してくれ!」
「……今回だけだぞ。こんな事に、付き合うのは」
「おおおっ、協力してくれるのか!」
「ありがとう! 心の友よ!」
「!止めろ! 抱きつくな! 気持ち悪い!」
こうして賑やかな昼休みが明け、少年はまた一つ、厄介事を抱え込んでしまったのだ。
「で、何時行くんだ?その、デートは」
「はっ! 閣下! 今週の、日曜日であります!」
「……日曜……か……」
毎週日曜日といえば、咲と会う日だ。しかし、こうなっては正直に事情を話し、土曜日にずらしてもらうしかあるまい。
僕の事となると、忍者の様に気が利く彼女の事だ。ヘタに言い逃れをすれば、余計にいらぬ誤解を生むだろう。
僕は教室へと戻る道すがら。ずっと彼女に言って聞かす術を考えていた。




