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始まりの季節

「青は藍より出でて、藍より青し――意味の分かる者、一宮はどうだ?」


「はい」 


 簡素に答え、少年は立ち上がる。


「弟子が努力して師匠を越える事です。そしてそれは、恥ずべきことでなく望ましいという事でもあります。出典は荀子(じゅんし)勧学(かんがく)でして、彼の人となりは性悪説からも知られるように……」 


 勢いこんで話し出すと、授業終了のベルが鳴る。


「おっとそこまでだ。ご高説は、またの機会に賜ろう。では号令を」


 起立の声にクラスの皆も立ち上がる。苦笑する学友達を余所に、彼少し物足りげな風だ。

 

 ホームルームもそこそこに本日の授業は終わりを告げた。部活動に向かう者、予備校へと急ぐ者、各人様々にその場を去り行く。


「まったく、お前も相変わらずだな。誠」


 悪友にそう言われても彼は、真顔で返す。


「これからが良い所だったのに、何なら続きを聞きたいか?」


「うおっ! マジかよ、カンベンしてくれって! じゃあな! 彼女にヨロシク!」


 一目散に逃げ出す友人の背をぼんやりと見送り、自身も教室を出る。


 七月のある日。依然として暑い日が続き、高く晴れ上がった空に西日が眩しい。


 湘南も今は夏だった。うだるような暑さの中校庭を歩く。ただ、前に進み行く足元を見つめる。やがて校門に近づく頃に寄り添った一つの影。

 

「マコちゃん、お疲れっ!」


 彼は何も言わず、黙ったまま頷く。


「今日はこれから、どうしよっか。良かったら家に来る? お母さんが昨日、ロールケーキ買ってきてくれたんだ!」


「……咲はどうしたい?」


 俯いたまま、聞いてみる。

 

「ええっとぉ、マコちゃんが決めて下さい!」


「そうか」





 予想した答えに、再び僕は沈黙した。傍から見れば仲の良い恋人同士に見えるのだろう、そんな事を思いながら、苦く笑った。彼女は隣で取り留めのない話をしてくるが、自分はあいまいな頷きを繰り返すだけだ。まるで耳に入ってはいない。


 微かに吹き付ける風が心地良い。僕はズボンのポケットに両手を入れたまま歩き続ける。


「ねぇ、聞いてる? マコちゃん、マコちゃんってば!」


 困った顔で自分を見つめる少女に向って、僕ゆっくりと立ち止まり、できるだけ柔和な微笑を投げかけた。

 

「まず本屋に行こうか。それから家に来いよ。俺のところにも有るから、ロールケーキ」


「えぇ? そうなの? 偶然だね!」


「そうじゃねぇよ、おばさんが家にも持って来てくれたの」


「なんだ、そうだったんだ。お母さんも言ってくれれば良いのに」


 言い終わると咲は駆け出した。そして振り返り明るく手招きする。


「早く行こっ!ねっ、ほらっ!」




 誠は、まるで老人のような眼差しで彼女を見て、浅く溜息を吐いた。呆れているかと思いきや、突如として猛然と駆け出し。あっという間に、咲を追い越してしまう。


「ああっ! もう! ちょっと待って!」


 あわてて彼女も走り出す。二人はもう、ずっと以前からこんな調子だ。幼馴染というよりもむしろ、兄弟に近い。それ故、明確に男女として付き合っているという訳では無い。


 これからも二人は一緒だと、彼女の方は思っている。いつまで二人は一緒なのかと、彼の方は考えていた。

 

「はぁ、はぁっ、痛っ!」


 急に立ち止まった彼女を、そのままにもしておけず。誠は来た道を戻る。


「大丈夫か?」


「うん、ちょっと足首をひねっただけだから」


「そっか、なら心配ないな」


 ふと見ると、しゃがみこんだ咲が両手を広げている。おんぶしてくれ、という事らしい。

 

「はぁ……」


 二度目の溜息を吐き、おもむろに彼女の鞄だけを持ってやる。

 

「ほら、行くぞ」


「え~っ、子供の頃はいつもしてくれたのに」


 思わず辺りを見渡し、人気が無いのに彼は安堵した。


「一体、君は何歳になったんだ。一人で歩きなさい」


 彼女の右手を取り、立つのを助けてやる。渋々咲はそれに従った。


「あ~あっ昔は良かったな~っ、頼めばいつでもおんぶしてくれたのに」


「ダイエットに失敗した人は重いので、背負いたくありません」


「あ~っそんなこと言うんだ! ひどいよ! 今度こそ成功するんだから!」


「その今度こそっていうのを、何回も聞いてるんだが」


「そ、そんなに何回も言ったっけ」


 情けなく言い訳をする咲。


「もう、ダイエットするの止めたら?」


「何で? 今のままで十分可愛いから?」


「違う、ムダだから」


 容赦の無い一言に、彼女のボルテージは一気に上がる。

 

「お~ぃ! ちょっと、そんな事言う? 年頃の女子に向かって! ホントにもうっ! あ~も~こーなったら、本気でダイエットしてやる! 絶対、見返してやるっ!」


「はいはい」


 気の無い返事を返して、誠は再び歩き出す。小学校の頃、咲が隣の家に引っ越して来てからの腐れ縁だ。彼女は当初極度の人見知りだったが、ある時からこうしていつも二人、一緒に居るようになった。



 ヒグラシの鳴く声がする。薄いピンクに染まる空、生ぬるい風が、忘れようにも忘れえぬ。過去の記憶をふいに甦らせる。


「そういえばこんな日だったか、あの時も」



「何が、こんななの?」


 ふいに落日で紅に染まった咲が、誠の顔を覗きこむ。慌てて彼は取り繕った。


「いや、あれだ、その。なんでも無い!」


 再び全速力で駆け出した少年を、遅れて彼女も追う。


「待ってよぉ! もう勝手なんだから!」


 急いで坂を駆け下る二つの影は。若い息を弾ませ、疲れ切るまで走った。






「いらっしゃい、咲ちゃん。はい、どうぞ」


 自宅に帰ると。ノックも無しに突然、誠の部屋に入ってきた母は、盆の上にジュースとロールケーキを、二つずつ乗せて、二人の座るテーブルの上に置いた。


「わぁおばさん、ありがとうございます!」


「ノックぐらいしてくれ」


「はいはい」


 本屋で買ってきた真新しい参考書を見ながら彼は、お決まりの文句を言った。小学生の時から言い続けているのだが、一向に守られた例しが無い。

 

「その辺で一休みしたら?受験は来年でしょ?」


「何をおっしゃる兎さん。高3の夏こそ勝負の夏。天下分け目の関が原。うかうかは、しとられんのですよ」


「はいはい、そうですか。勉強に熱心なのはいいけれど、二人とも、程々にね。咲ちゃん、夕飯も用意してるからね」


「あぁいえ、家にはお母さんが」


「あら、今日は温子さん、残業なんでしょ? 昨日ケーキ頂いた時に聞いたの。だから、一緒に食べてきなさい。お母さんには、言ってあるし。材料も買ってきてあるしね」


「は、はい。じゃあ、お言葉に甘えます」


 かしこまる少女に、誠の母、弘恵は笑う。


「あらやだ、咲ちゃんはもう家の子みたいなものなんだから、遠慮しないでいいのよ。じゃあ、ご飯ができるまで、頑張ってね」

 

 にこやかな笑顔を残し。弘恵は部屋を出て行く。階段を下りてゆく足音を聞きながら、彼女はガックリと項垂れた。


「お、お母さん、どうでもいい話は沢山するのに。どうしてこう、肝心な話は忘れちゃうんだろう」 

 

 その様子を横目で見つつ、咲の分のロールケーキを、誠は徐々に、自分の方へと引き寄せる。とっさに、彼女はその手を掴んだ。

 

「ち、ちょっと、お兄さん。何をしていらっしゃるんですか?」


「いえね、ケーキを食べて、夕飯も食べるんなら、さぞや、ダイエットには悪かろうと思いましてね。何、ほんの人助けですよ」


 聞き捨てならぬ一言に。 咲は反論する。

 

「だってこれは、私のお母さんが買ってきたケーキだよ!」


「本気でダイエットしてやる! 絶対、見返してやるっ! って、さっき言ってたろ」


 痛い所を突かれ返事に窮した咲は、空いた方の手でケーキを鷲掴みにすると、大口を開けてほうばった。曰く。

 

「ダイエットは、明日からにします」


 リスの様に頬を膨らませケーキを食べる咲に、呆れる誠。

 


「君ねぇ。そういうのを、羊頭を掲げて、狗肉を売るって言うんだよ」


「また始まった」


 咲はそう言うと、恨めしそうに誠を見て。ジュースを啜った。


「昔、古代中国は、斉の霊公の頃。町の女性の間で男装が流行った事があってね、霊公はこれを止めさせたいと思い、禁令を出す訳だ。しかし、元々この流行は霊公の妃から始まったんだな。霊公は相変わらず妃には男装を許していたので、皆は言う事を聞かない。そこで臣下の晏嬰は (君のやっている事は牛の頭を看板に使って馬の肉を売っているようなものです。宮廷で禁止すればすぐに流行は終わります) と諫言してね、その通りにすると流行は収まったんだ」



「つまりだ。君のやっているのは、これと同じで。言っている事と、やっている事が、まるであべこべなのだよ。わかるかね?」


「また三国志のお話? マコちゃんも、ホントに好きだよね」


 咲にそう言われて、誠は悶絶する。


「違う! これは、三国志じゃない! それより、ずっと前の斉だ! 春秋戦国時代の話だ! 晏子に謝れ!」


「狗肉って犬の事だよね。馬肉じゃないじゃん」


「いやまぁそらそうだけど、んな細かい事は気にすんな! それはきっと、あれだよ」


「あれって、何?」


「いや、その、あの、もとい! 話をすり替えるんじゃない! 君はだなぁ!」


「ふぁ~~っなんだか、ちょっと眠くなったので寝ます」



 生欠伸を噛み殺すと、いそいそと、咲は誠の部屋のベッドに潜り込んだ。


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