人はこれを愛と呼ぶのだろうか
ハヤシライスの出来を確かめた時、アパートの玄関の鍵が開く音が聞こえた。やっぱり、来ると思っていた。今日は、新卒の押しの強い子に昼休みつきまとわれていたと、姉がメールしてきたから。
丁寧に鍵をかけ直したその人は、ゆったりとした足取りで部屋の明かりの下へと姿を現す。すらりとした長身にまとうスーツは、今日も一日働いたあとだというのに、清廉な気配を漂わせている。
「お疲れさまです、和希さん」
「ああ、ありがとう、菜穂ちゃん」
「ハヤシライスありますよ」
「お、やった」
好物の名前を聞いた和希は、それはそれは嬉しそうに顔をほころばせる。きっと大変な一日を過ごして来たであろう彼への、菜穂の労りの気持ちだ。和希は、菜穂の作るハヤシライスを、とても幸せそうに食べる。安心する味がする、と言いながら。
菜穂と和希の出会いは、未だ和希が大学生だった頃、二人とも巻き込まれた合コンだった。大学生になったからには彼氏を作らねば、と燃える友人を見て、そんなものなのか、とついでに参加した合コン。その会場で、菜穂と同じくらい愛想笑いを振りまいていたのが、蓮沼和希だった。何となく話をして、何となく盛り上がって、そのあとも連絡を取るようになって、そして恋人同士になった。女子大に進んだ菜穂の姉が、和希と同じ会社に就職したのは、ちょっぴり驚きの偶然。それから姉は、今日のように、妹の彼氏の様子をこまめにメールしてくる。
「うーん、今日も美味しいなあ、菜穂ちゃんのハヤシライス」
「それは良かったです」
「安心する味がするよ」
そう言って、恋人は穏やかに笑った。
サークルの一つ上の先輩に呼び出されて、のこのことファミレスに出向いてから、菜穂は失敗したかなあと心の中でぼやいた。ファミレスで待ち構えていたのは、三人ほどの女性だったからだ。呼び出した先輩はいないけれど、その先輩と仲のよかった、もう一つ上の先輩がいる。たしか、和希と同じ会社に就職した先輩だった。あとの二人は、知らない人だ。
「ええと、お待たせしました」
「久しぶりね、菜穂ちゃん」
先輩は、美しく化粧をした顔を笑みの形に歪めて、菜穂に着席を促した。目が笑っていません先輩、とは言わない方が良さそうだ。
菜穂には何となく目的がわかっていた。きっと、知らない二人の女性も、先輩と同じ会社の人なんだろう。今日は和希は休日出勤だと言っていたけれど、この人たちは休日を謳歌できているらしい。要領のいい和希は、ただでさえ若手でこき使われる上、要領がいいくせに周囲の面倒ごとを請け負ってしまうから、休日出勤はザラにある。根本的に、人がいいのだ、たぶん。
「菜穂ちゃん、わたしの会社の蓮沼先輩とつき合ってるって聞いたけど、本当?」
ドリンクバーのアイスティーをちびりちびりと飲みながら、今のサークルはどうだとか、そんなような世間話をしたあと、先輩は本題を切り出した。同席した二人も、顔を引き締める。来た、と菜穂は心の中で呟いて、唾を飲み込んだ。
「……はい、おつき合いしてます」
「いつから?」
「わたしが、大学一年の時から」
ああほら、やっぱり。視界の端に、女の人が顔を歪めるのが見えた。
「長いのね」
「ええと、そうなんでしょうか」
「そうよ。どうしてつき合うことになったの?」
「合コンでお会いして、話が合ったので」
「……ふうん」
先輩は、あまり納得していなさそうな相槌を打つと、少し言葉を切った。それから、菜穂を上から下までじっと見つめる。見定めるような目だ。それから、ほんの少し、ほんの少しだけ、その目に嘲笑の色を浮かべた。
「ずいぶん、蓮沼先輩とは違う雰囲気よね、菜穂ちゃん」
「——そうですね」
言われることはだいたい予想がついていたから、菜穂は静かに頷くだけにした。面白くなさそうな先輩たちは、そのあと二三、ささやかな嫌味のようなことを言うと、伝票を持って出て行った。奢ってくれるだけ、いい人たちなんだろう。あるいは、サークルの先輩後輩のよしみだろうか。菜穂は、もう溶けた氷でずいぶん薄くなってきたアイスティーをすすりながら、窓の外をぼんやりと見た。
和希は、ずいぶん麗しい見目をしている。背は高いが威圧感があるほどではなく、趣味のランニングのおかげで引き締まった体のおかげで、すらりと高い、という表現がぴったり来る。目が少し大きいベビーフェイスで、鼻が高くて、甘い顔のイケメンといったところか。そこに、持ち前の人の良さが加われば、怖いもの無しだ。はっきりと聞いたことはないが、学生時代はどうやら告白され続けていたらしいというのは話の端々からうかがえるし、姉のメールから、就職してからも会社の女性の視線を集めているらしいのもわかっている。実のところ、こうして菜穂が呼び出しを受けるのは、今日に始まったことではなかった。イケメンの彼女が呼び出しをくらうなんて、漫画の中だけの話かと思っていたのに、違うらしい。
対する菜穂は、あまり特筆することのない顔をしている。中肉中背、ちょっと丸顔で、ベビーフェイスというよりは子供っぽい顔立ちをしている。派手な装いも好まないし、華やかさに欠ける人間であるのは、十分自覚している。菜穂を呼び出した女性は、大抵、菜穂を品定めしたあと、似合わない、だとか、釣り合わない、みたいなことを吐き捨てて去っていく。最早、テンプレート化した恒例行事だ。
見た目の華やかさに差のある二人が、裏で文句を言われてもそれでもつき合っているのは、二人がよく似ているからだ。見た目ではなく、人に対する気持ちの持ちようが。
人間不信というほどではないんだ、と彼は困ったように笑った。周りが全部敵だ、なんていうヒステリーではもちろんないし、相手の言うことが信じられないとか、そういうこともない。ただ、相手の言葉が、いつ翻っても不思議じゃないものとしか捉えられないのだと。今日友情を告げた人が、明日憎しみを吐きかけてきても、ああ、気持ちが変わってしまったのだな、としか思えないのだと。別に、相手が嫌いなわけではない。こちらからの好意が変わらずあっても、相手の気持ちが変化していくことに対して、悲しみこそすれ、何も苦しみを感じることができない。
その気持ちが、菜穂には痛いほどわかった。だって、当然だ。人の心は移ろいゆくもの。友人だと思っていた人がひどい言葉を吐きかけてきても、何かしてしまっただろうかと思いこそすれ、裏切りなどとは少しも思わないだろう。だって、その人は、菜穂への友情を失ってしまっただけなのだ。移ろいゆく心が、変化してしまっただけなのだ。友情を永遠のものだと思う方が間違っている。そして、それは当然、愛情にも当てはまる。永遠の愛だなんて、夢物語の産物でしかない。結果的に永遠に続く愛情があったとしても、それは結果論だ。永遠の愛があるわけじゃない。愛情がたまたま終わらなかっただけのこと。
菜穂がそう考えるようになったことに、ドラマチックな原因があるわけじゃない。例えば、親に愛されなかったとか、友達の手ひどい裏切りといじめにあったとか、そんな事情はこれっぽっちもない。菜穂の両親は姉のことも菜穂のことも可愛がってくれているし、友人とも良好な関係を築いている。ただ、強いて言うなら、両親の夫婦仲は悪かった。幼いころは違ったのではないかと思うが、夫婦仲が悪化したのがいつだったのか、菜穂はもう覚えていない。
交際していたころの両親を知る人は、それはそれは熱烈なカップルだったのだと、口を揃えて言う。菜穂も、いつだったか覚えていないほど小さいころは、いちゃつく両親を見て「わたしがパパのお嫁さんになるの!」と憤慨した記憶がある。だから、昔は仲が良かったというのは、本当なのだろう。ただ、二人はもう、相手を愛する気持ちを失ってしまっただけなのだ。どこにもない、永遠の愛なんてものを、信じてしまったのかもしれない。
父は寡黙な人だ。母は多弁な人だ。母は、黙って新聞を読みふける父を見ながら、「わけの分からない人だ」と言う。父は、ぷりぷりと怒る母をちらりと見て、「母さんの考えていることがわからない」とぼやく。会話はほとんど事務的な連絡だけ、たまに世間話が始まっても、どことなく冷気が漂う。たぶん、長年連れ添った情はあるのだろう、二人は今も夫婦のままだ。でも、帰省した菜穂が父に甘えると、母は敵のような目で見てくる。母の肩を持てば、父は悲しそうな顔でうつむく。今のところ、二人とも、菜穂のことを愛してくれているのだ。愛してくれているから、自分の味方についてくれないことを悲しむ。両親に嫌われるのは悲しいから、菜穂はもうずいぶんと、父と母、両方の顔色をうかがいながらふわふわと生きてきた。
だけど、変な話だ。いくら夫婦といっても、所詮は他人同士。育った環境も違えば、価値観だって違うはずだ。そんな人たちが、ちゃんと気持ちを確かめ合うこともせずに、お互いをわかった気になるなんて間違っている。両親は、ちゃんと確かめ合えば良かったのだ。折に触れて、相手が自分のことを愛しているのか、自分が相手のことを愛しているのかを。人の気持ちは変わっていくのだから。それもしないまま、気持ちのすれ違いを相手のせいにして、冷戦状態に陥った両親を、菜穂はかわいそうな人たちだと思う。かわいそうな人たちだと思いながら、顔色をうかがう。父は、母は、今も自分を愛してくれているのだろうかとうかがいながら、ふわふわと生きている。
和希が菜穂と同じような考え方をするようになったきっかけを、菜穂は知らない。和希のところの両親も、仲が悪かったのかもしれない。あるいは、それこそ、友人に手ひどい裏切りを受けただとか、そんな原因があるのかもしれない。もしかしたら、何のきっかけもなかったのかもしれない。そのあたりの事情を、菜穂は聞こうとも思わない。だって、知ったところで、菜穂が和希に向ける感情には何も変化がないだろうから。今のところ、菜穂は和希のことを好意的に思っている。恋人という枠組みの中に、共にいてもいいと思っている。和希と二人で過ごす時間は、とても居心地がいい。それだけで、十分だ。
休日出勤を終えた和希は、いつも菜穂のアパートにやってくる。それは、休日を共に過ごすのがいつものパターンだからだ。平日は、和希の残業や、菜穂の予定があったりするから、会うかどうかはその時々に合わせるということで、具体的には決めていない。その代わり、休日は二人で過ごすことにしている。特に取り決めがあったわけではないけれど、何となく習慣化した、暗黙の了解みたいなものだ。たぶん、どちらかが破ったところで、お互い文句はいわないだろう。ああ、相手の気持ちが変化したのだろうな、と思うだけ。
「そういえば、姉は元気ですか」
「ああうん、なんかいきいきしてるね。何かあったの?」
「この間、物静かな男性と知り合ったそうで。趣味が合うらしくて、とうとう来たかと騒いでました」
「ふうん、そうか」
同じ親の元で育ったのに、姉は菜穂とはまったく逆の方向に成長した。つまり、彼女は、永遠の愛を探しているのだ。菜穂より三つ年上な分、両親の仲が良かったころの記憶が鮮明なのかもしれない。感情に永遠はない、と割り切った妹とは違って、姉は必死に「自分をずっと愛してくれる人」を探している。そして、自分もその人を愛そうとしている。
自分が永遠の愛を信じていないからといって、姉の努力を無駄だと鼻で嗤うつもりはない。むしろ、菜穂が信じることを諦めてしまったものを、未だ信じて実現に向けて努力するその胆力は、驚嘆に値すべきものだと思っている。
「菜穂ちゃんとうまくいってるか、しつこく聞かれたよ」
「……面倒な姉ですいません」
「いやいや。妹思いの、いいお姉さんだよね」
「そう言っていただけると、嬉しいです」
姉は、菜穂が永遠の愛を信じていないことを知っている。それでも、価値観の違う妹を猫可愛がりしてくれている。そして、未だに見つけられていない永遠の愛が、妹とその彼氏との間にあればいいとも思っているらしく、和希に下世話な話を振ったり、菜穂に和希の様子をメールしたりとせわしない。素直に妹たちの幸せを願っているらしいその行動には、嫌みな感じがないから、和希も菜穂も素直に受け取ることにしている。
「今度は、うまくいくといいね」
「そうですね、本当に」
姉が菜穂の幸せを願ってくれるのと同じくらい、菜穂も姉に幸せになってほしいと思う。永遠の愛とやらも、もしあるのなら姉の下に生まれてくれればいい。
静かに頷いた菜穂を見ていた和希が、ふと口を開いた。
「そういえば、菜穂ちゃん、疲れてる?」
「そう見えますか?」
「うん、ちょっとね」
「ちょっと人と会ってたので、そのせいですかね」
「人?」
「サークルの先輩です。去年卒業された方」
「ふうん」
呼び出しを何度も受けているからといって、嫌味をいわれたり罵られたりすることに慣れるわけじゃない。和希と釣り合わない、と言われることはどうでもいいけれど、冴えない、とか、子供っぽい、とかは、菜穂が密かに気にしていることだったりするから、指摘されればやっぱり傷つく。
和希は、素直に頷いた菜穂を、しばらくじっと見ていた。それから、ゆっくりと、菜穂の頬に手を伸ばす。あ、と菜穂は心の中で呟いた。
「菜穂ちゃん、いい?」
菜穂は静かに頷いた。和希の整った顔が、ゆっくりと近づいてくる。ふわりと目を閉じれば、唇に熱いものが押し当てられた。
ああ、今日も、心に変化はなかったみたいだ。和希は、菜穂を求めてくる。菜穂も、和希に応えようと思う。
「水島さん!」
キャンパスで呼び止められて、菜穂が振り返ると、駆け寄ってきたのは見知った顔だった。サークルで一緒の人だ。学部は違うし、サークルでも菜穂は積極的に人と絡むタイプではなかったから、あまりたくさん喋ったことはないけれど、穏やかそうな好青年だと思っていた。
「どうしたの?」
「ああ、うん、たまたま見かけたから。水島さん、このあと時間あったりする?」
「うん、まあ」
「ちょっと話してもいいかな」
「いいけど」
彼に促されるまま、のんびりと近況を話しながら歩く。もうサークルは引退してしまっているから、そんなに会うことは多くない。専門の講義が忙しいだとか、もう少しすると始まる就活が憂鬱だとか。目についたコーヒーショップに入ってからも、話はのんびりと続いた。彼はなかなか話し上手な人だったようで、他愛もない日常をおもしろおかしく聞かせてくれる。
話が一段落したところで、ふと窓の外を見た菜穂は、小さく、あ、と声を上げた。
「水島さん?」
つられたように、彼も窓の外、菜穂の視線の先を見る。
忙しく人の行き交う道路、人ごみの中に、和希がいた。今日もびしりとスーツが決まっている。その腕に絡み付くようにして、女の人が立っていた。その頬は紅潮していて、遠巻きに見ても恋心が見て取れる。和希は静かに微笑んで話を聞いているようだった。ただ、それだけ。
「……彼氏さん?」
和希を眺めたまま、ぼうっとしていたらしい。呼びかけられて我に返った菜穂は、目の前に座る同級生に目を向けた。彼の瞳は、菜穂を探るようにじっと向けられている。菜穂は問いかけに小さく頷いた。
「女の人と、いたけど」
「そうみたいね」
「知ってる人?」
「ううん、知らないけど。会社の同僚とかかな」
腹は立っていなかった。よくある恋愛小説のように、嫉妬に襲われることもなかった。浮気なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。こればっかりは、和希に言ってもらうしかない。菜穂には、推察のしようがない。ただ、浮気でも仕方ないかもしれないな、としか思わなかった。和希に、菜穂よりも一緒にいたいと思う人が現れただけのことだ。ただ、もし別れるなら、今までのように会うことはできないだろうな、ということは悲しかった。和希が心変わりしてもしなくても、菜穂が和希との時間を好んでいることは、今のところ変わっていないから。
目の前の青年は、静かにコーヒーを口にする菜穂を、じっと見つめていた。その唇が、ぎゅっとこわばって、それから開かれる。
「水島さんは、それでいいの?」
「……え?」
思わぬきつい声音に、菜穂は間抜けな声を返すのが精一杯だった。いつの間にか、目の前の彼は、眉を吊り上げてこちらをにらんでいる。
「彼氏に浮気されて、それでもいいの?」
「いや、浮気と決まったわけじゃないけど」
「女の人と腕を組んで歩いてたら、アウトじゃないの」
「そうなのかな」
「そうでしょ」
「そっか」
そうか、やはり浮気なのか。菜穂には浮気という概念が今ひとつわからない。確かに、同時にたくさんの人に愛を囁く人というのは、理解できない存在だけれど。つき合っている相手が心変わりして、他の人を好きになってしまうというのは、そんなにとがめられることなのだろうか。だって、移ろう心を止めることなんて、誰にもできない。今回は和希の浮気らしき現場を見てしまったわけだけれど、もしかしたら、菜穂が先に心変わりをする未来もあったかもしれないのだ。その気持ちの移ろいをとがめるのは、今ひとつ納得できないことだ。
菜穂はそう思うのだけれど、目の前の青年はそうではないらしい。憤慨した様子で、荒々しく言葉を続けている。
「水島さん、どうするの」
「どうするって」
「別れるの?」
「どうだろ、そうかも」
和希が、菜穂との別れを望むなら、別れるだろう。和希が、菜穂との時間を優先したいと思うなら、そのままだ。別に、菜穂本人としては、和希との別れを望むわけじゃない。菜穂は、和希に愛されたくてつき合っているわけではなくて、和希と過ごす時間が好ましいからつき合っているのだから。
「別れた方がいいよ、あんな人」
「どうして」
「浮気されたんだよ? そんな人、一緒にいても幸せになれないよ」
「そうなのかな」
「あんな浮気性の人、やめた方がいい」
「うーん」
煮え切らない返事ばかりの菜穂に、青年はしびれを切らしたらしかった。
「俺なら、もっと水島さんのこと大切にするのに」
「え」
「あんな男とは別れなよ。もっと幸せにしてあげるから」
叩き付けるように言いたいことを言って、青年は席を立ってしまった。一拍遅れて、これは告白されたんだろうか、とぼんやり思う。好意を持ってくれているなんて、これっぽっちも気づかなかった。そりゃ、友人としてお互いに嫌ってはいなかったと思うけれど。
もっと幸せにしてあげる、という言い回しが、ひどく気になって仕方なかった。
「今日、和希さんのこと見ました」
菜穂のアパートを訪れた和希と、夕食をつついている時、菜穂は呟くように話し始めた。
「どこで?」
「夕方、駅前のコーヒーショップのあたりで」
「……ああ」
思案した和希にも、心当たりがあったのだろう。少し考えたあと、あの時か、というように頷く。菜穂は、どことなくふわふわした気持ちのまま、言葉を続けた。ふわふわ、和希の気持ちをうかがうように。
「女の人とくっついてるように見えたんですが」
和希が、菜穂を見た。菜穂と同じように、ふわふわとうかがう目をして。
「後輩と歩いてたんだけど、迫られたんだ。接近されるのはもう常態化してるし、あまりきつく言って泣かせるのも面倒だから、放っておいたんだけど」
言外に、いやだったかと尋ねられたのがわかった。あの女性のことはなんとも思っていない、でも、菜穂がいやだと言うなら、これからはさわられないように徹底的に拒絶するよ、と。
「そうですか」
たぶん本当なのだと、思った。菜穂に嘘を見抜く力があるわけではない。お互いに心変わりを受け入れる人間同士、もしも気持ちが移ってしまったら、それを隠す必要がないからだ。和希なら、躊躇いなく己の心変わりを告げるはずだ。それはもちろん、菜穂も同じなのだけれど。だから、頷くだけにした。わかりましたと、そのままで構いませんと、言外に告げて。
食事を終えて、洗い物も終えて。二人でテレビを見ながらくつろいでいる時、ふと思い立って、菜穂は和希に近寄った。普段、指先がふれあうくらいの距離にいるのに、肩を密着させるほど近づいてみる。和希は、ほんの少し、眉を上げると、腕を菜穂の肩に回した。そのまま、ぎゅっと抱き寄せてくる。
「菜穂ちゃん」
呼びかけに顔を上げて応えれば、ゆっくりと顔が近づいてきた。菜穂は、静かに目を閉じて、口づけを受け入れる。
和希は、菜穂がそばに寄ることを受け入れた。そして、菜穂は和希の口づけを受け入れた。今日も、心に変化はなくて、二人の時間は心地いい。それでいい、と思う。それで、十分幸せだ。
さっき告白してくれた彼が言っていた、「もっと幸せにする」というのは、いったいどういう意味なのだろう。和希と菜穂の間に、情熱的な気持ちはない。けれど、菜穂は和希と過ごす時間が好きだし、一緒にいれば幸せだと思う。その気持ちは、和希が情熱的な愛を囁いてきたとしても、逆に和希が他に恋人を見つけて離れていっても、関係なく菜穂の中に存在している。その気持ちが終わるのは、菜穂が心変わりをする時だけだ。逆に言えば、菜穂が心変わりをしなければ、今のままで菜穂は幸せなのだ。
幸せにする、と言ってくれた彼は、何をするつもりだったのだろう。愛を囁いてくれるのだろうか、それとも抱きしめてくれるのだろうか。それは、今のところ菜穂の幸せには繋がっていない。幸せというのは、してもらうものではなく、なるものだと、菜穂は思う。菜穂は幸せになりたい、だから、菜穂の今の幸せに繋がっているものを選ぶだけだ。それは、同級生の情熱的な愛の囁きではなくて、居心地のいい和希との時間なのだ。たとえ和希が菜穂以外の人を求めるようになっても、今のところ、菜穂の心に変化する予定はない。
和希は、今日も菜穂を求めてくれる。菜穂は、和希と過ごす時間が幸せだと思う。物語のような情熱は、どこにもない。それでも、もしかしたら人は、これを愛と呼ぶのだろうか。