2-3
「笠井君」
放課後、教室に俺を呼びに来た舞方と共に図書室を目指す。
藤田曰く、クラスメイトの間では俺と舞方は付き合っている事になっているらしい。あんなに人嫌いだった舞方が他人と一緒にいるのはおかしいという見解から生まれた推測であり、クラスメイトにとってはすでに事実として認識されている事柄――のようだ。
……。
当たらずとも遠からずといったところだろうか。
事実、俺と舞方は付き合ってはいないが、そういう関係に近いとも言えなくもない。また、舞方は俺に告白をし、答えこそ返していないが俺の方もその気持ちを受け入れている。そして、更に言えばそのクラスメイトの噂を否定する気持ちも俺にはない。
そもそも、恋人と友人の境はどこにあるのだろう。肉体的接触の有無か、それともお互い相手をそう認識しているかいないかの違いか。
もしかしたら、俺が舞方からされた告白の答えを保留にしている理由は、そこら辺にあるのかもしれない。
「くだらない事を考えてるわね」
「分かるのか?」
「そういう顔をしてるもの」
今度から考え事をする時は気をつける事にしよう。ま、気をつけたところでどうにかなるものでもないとは思うが。
「で、何を考えてたの?」
「くだらない事だよ」
舞方の言うように俺の考えていた事は本当にくだらない内容で、正直に言うわけにもいかずお茶を濁す。
「ふーん」
舞方はそれ以上、しつこく聞き出そうとはしなかった。そんな事をしても、どうせ俺がまともに話すわけがないと判断したのだろう。
その代わりにと言ってはなんだが、
「笠井君は叔母さんの事、母さんって呼ぶのよね」
舞方は全く関係のない事を俺に言ってきた。
「なんだよ。藪から棒に」
「笠井君が昨日そう呼んでるのを聞いて、ちょっと気になっちゃって……。いつからそう呼んでるの?」
いつから……いつからだろう。
考え、思い出す。
「一緒に住み始めて一年も経たない頃だと思うけど……」
その辺の記憶は不確かで、決して正確ではない。それに、わざわざ覚えておくような事でもないだろう。
「最初呼ぶ時、抵抗はなかったの?」
「そりゃ、もちろんあったよ。だけど、最初だけだったかな。でも、なんで?」
急にそんな事を聞くのだろう?
「私はとてもじゃないけど、香奈枝さんをお母さんとは呼べないなぁって……」
なるほど、そういう事か。
「ま、舞方と俺じゃそもそも立場が違うしな」
「どういう事?」
「俺の場合、俺があの家に行く前から母さんは母さんで、俺はそこに後から加わったに過ぎないって事だよ」
「?」
どうやら俺の言い回しが回りくど過ぎて、舞方には俺の言いたい事がうまく伝わらなかったようだ。
「つまり、俺があそこに行く前から母さんは紗耶の母親で、母さんの事をお母さんって呼ぶ人がすでにあの家にはいたって事だよ」
「あぁ、そういう事ね」
今度はうまく伝わったらしい。
言いたい事が難しいだけに、言い回しも同等に難しい。
「俺と舞方じゃ立場が違う。だから、あまり気にするな」
「別に、気にしてるわけじゃないわよ。ただ、少し気になっただけ」
その言葉に嘘はないと思う。ただ、本当の事を言っていないだけだ。その事に舞方自身が気づいているかいないかはまた別の問題として。
図書室に着くと、昨日と同じように誰も座っていないテーブルを探し、そこに二人で向かい合って座った。
「じゃあ、始めましょうか」
舞方がテーブルの上に数学の教材を並べだしたので、俺もそれに倣って自分の教材をテーブルの上に出す。
「笠井君が数学で特に苦手なのはどの辺りなの?」
舞方に言われ、参考書の中で特に自分が苦手そうな問題を指で差し示す。
そこから舞方先生による授業が始まった。
舞方の教え方はとても分かりやすく、教師の話を聞いただけでは分からなかった問題の解き方や公式の使い方が今までの苦労が嘘のようにあっさり理解できた。それこそ、なぜ今までそれが理解できなかったのか自分自身疑問に思うぐらいに。本当に頭のいい人間は教え方もうまいと言うが、どうやらそれは本当らしい。
今日も図書室での勉強会は最終下校時間近くまで続き、その後、舞方を家まで送っていった俺が、帰宅の途に着いたのはもう少しで七時になろうかという時刻だった。
「ただいま」
玄関で誰にともなくそう言うと、階段を上り、そのまま自室に直行する。
「はぁ……」
気の抜けた溜息を吐きながら、ベッドに倒れ込む。
今日はひたすら疲れた。
体育による肉体的疲労と二時間半に及ぶ勉強による精神的疲労が見事に混ざり合って、非常に強い睡魔が俺を襲う。
せめて晩飯を食べてからと思うのだが、瞼が言う事を聞かない。
今さっきまで、視界を埋め尽くしていた数学の記号が頭の中を巡る。巡る記号。襲う睡魔。勝手に落ちる瞼。意識はすでに俺の管轄化を離れていた。
まどろみと表現すればいいのだろうか。
まだ意識はある。
意識はあるのだが、それだけだ。決してその意識は俺の言う通りにはならない。ベッドから起きようにも体の動かし方が分からない。
眠い。
ダメだ、このまま眠ってしまっては。
晩飯が……。
そこは真っ白な世界だった。
その世界に少年は一人、何かから自分を守るように丸くなって座っていた。
少年の他に物はなく、少年の他に人は誰もいなかった。
なぜなら、そこは少年の世界だから。
そこには少年の望んだ物しかなく、少年の望んだ者しかいなかった。
少年は一人を望んだ。
そう、自ら望んだのだ。
なのに、少年は一人を嫌った。
一人は嫌だ。
一人は怖い。
けど、他人はもっと怖い。
そんな時、少年の世界に声が届いた。
優しく温かい声。
その声は最初小さく、ともすれば聞き逃してしまいそうなものだったが、次第に声は大きさを増し、はっきりと少年の元へ届いた。
「――裕君」
誰かが自分を呼ぶ声。
他人ではない誰かが。
少年はその声のする方に手を伸ばした。
救いを求め、助けを求め。
伸ばした手に何かが触れる。それは温かく柔らかい少女の手だった。
「……」
妙な夢を見た。訳のわからない、妙な夢を。
眠っていた時間は数分といったところだろうが、夢の中の体感時間はもっと長く、数時間はそうしていた気分だ。
ベッドの上に体を起こす。
夢の中で何かを掴みかけた気がした。だが、その何かは夢から醒めると共に、俺の思考の彼方へと消えていってしまった。
靄のかかる思考。
働かない頭。
その中で、微かにチラつくさっきまで見ていた夢の残像。
「……」
ダメだ、思い出せない。
幾ら思考を働かせようとも、何十にも重なるフィルターの向こうに行ってしまった何かを、自力で取り戻す事は到底出来そうになかった。
それこそ、奇跡的にふと思い出すような事がない限り……。
コンコンと二度のノック音。その後に声が続く。
「裕君、ご飯だよ」
従妹の紗耶の声だった。
時間になっても俺が降りてこないものだから、呼びに来てくれたらしい。
時計を見る。
七時五分。確かに、晩飯の時間を若干過ぎていた。
「分かった」
扉の向こうに声を返し、立ち上がる。
考えてみれば、俺はまだ着替えすらしていなかったのだ。
まだはっきりしない思考のまま、制服から私服へと着替えを済ます。もちろん、制服は皺にならないようにハンガーに掛けた。
今更だとは思うが、やらないよりは幾分かマシだろう。
扉を開けて、外に出る。
「おっ、出てきた。もしかして寝てた?」
なぜか扉の外で待っていた紗耶と一緒に階段を降りる。それ程広い階段ではないので、並んでではなく、前に紗耶・後ろに俺という並びではあるが。
「もしかしなくても、寝てた」
「昨日と今日と二日続けて居残りで勉強。高校生は大変だね」
「人ごとじゃないはずだぞ、受験生」
どう考えても俺以上に紗耶の方が大変なはずだ。
「ま、私は言ってもまだ日にちがあるから」
「呑気だな」
「今から焦っても仕方ないから」
全くもってその通りなのだが、紗耶のあまりの余裕ぶりと能天気さに一抹の不安を覚える俺だった。