2-1
「一緒にテスト勉強しましょう」
そう誘って来たのは、他の誰でもない舞方だった。
高校に入学して最初の中間テストを来週に控えた今、テスト勉強をする事自体になんらおかしなところはない。むしろ、しなければならない状況に俺たちはいる。
ただ、テスト勉強を誰かと一緒にするという考えがなかった俺にとって、舞方からの誘いは新鮮なものであり少し不思議なものでもあった。そもそも、誰かと一緒に勉強をする事にメリットはあるのだろうか。
……とはいえ、舞方と一緒にテスト勉強をする事が嫌かと言われるとそういうわけではなかったので、俺は二つ返事でそれを了承し、今に至る。
時間は放課後。
場所は学校の図書室。
室内には俺たちと同じように、二人組三人組で勉強をしているグループも幾つか見受けられ、一緒にテスト勉強をするという行為が然程珍しいものでない事を俺は知る。
他に誰もいない四人掛けのテーブルに、向かい合う形で俺と舞方は座っていた。
テーブルの上には教科書やノート・資料集などが並べられており、いかにも勉強していますという雰囲気がテーブルからは滲み出ている。
かれこれ、一時間近くテスト勉強を行っただろうか。
俺の方はさすがに少し集中力が切れ始めてきた。
人間の集中力の持続時間は五十分が限界、という話をどこかで聞いたような気がする。それを考えれば、俺の集中力が切れ始めたのも致し方ない事と言えなくもない。
――などと自分の行動に一応の正当性(言い訳とも言う)をつけながら、シャープペンをノートの上に置く。
「うーん……」
背伸びを一つして、舞方の方に目をやる。
ひたすら、教科書や資料集の重要ポイントをノートに写していく舞方。その手に淀みはなく、集中してその作業に取り組んでいる舞方からは、圧倒感のようなものすら感じる。
凄い集中力だ。
周りの事など一切眼中にないといった感じだ。これだけ集中して勉強できたら、そりゃ勉強もできるし成績も上がるわな。
……俺も勉強するか。
数分の休憩の後、再び勉強を開始する。
確かに、誰かと一緒にテスト勉強をするという行為にはメリットがあるようだ。
結局、会話したりふざけあったりで、誰かと一緒にテスト勉強しても効率が上がるわけがないと勝手に思い込んでいたが、相手が真面目に勉強している姿を見ると会話する気にもふざける気にも到底なれず、必然的に自分の勉強効率も上がるというわけだ。
ま、相手が真面目に勉強しないような奴だった場合はもちろん論外だが、少なくとも舞方にその心配はいらない。
多少休憩を入れたお陰か、手が滑らかに動く。
舞方の真面目さに触発されたというのもあるだろう。頭にもスムーズに単語やその意味が入ってくる。自分でもびっくりする程の集中ぶりだった。
それから一時間半後。
「そろそろ帰りましょうか」
舞方が久しぶりに口を開いた。
時計を見ると、もう最終下校時間近く。
それを見て、かなりの時間勉強をやり続けた事を改めて実感する。
日頃では考えられない勉強時間だ。
一人で勉強をする場合、どうしても一時間毎に十分十五分の休憩をいれたくなってしまい、その結果、休憩時間を含めて二時間程の勉強時間で勉強をした気になり、そこで満足をしてしまう。俺の悪い癖だ。
しかし、今日は舞方が目の前に絶えずいたため、勉強をしなければという気持ちになり、また集中もできた。勉強時間はいつもより長いが、今日はそれ程疲れずに勉強ができたという感じだ。
テーブルの上を片付け、舞方と共に図書室を後にする。
窓の外はすっかり日が暮れており、赤い光が廊下中を包み込んでいた。その様子は少し神秘的にも見える。
「今日は家の前まで送るよ」
「そう」
あれから、あの告白を受けた日から、もう一週間が経とうとしていた。
俺は未だその答えを舞方には告げておらず、舞方の方も特にその事を気に留めている様子もない。もちろん、このまま答えなくてもいいという事はないだろうが、もう少し答えを先延ばしにしていたい心境ではあった。
答えを告げればどのような答えを告げようとも、どうしても俺と舞方の関係性は変わってきてしまうだろうし、何より俺自身まだ自分の舞方への思いを整理しかねているのだ。こんな状況では、どうしても答えは先延ばしにせざるを得なかった。
一度それぞれの下駄箱で靴を履き替え、昇降口で再度合流する。時間が時間のため、図書室を出てからここまで他の人とは会わなかった。
「ごめんなさいね。こんな時間まで付き合わせちゃって」
「俺の方も勉強捗ったし、別に付き合わされたとは思ってないよ」
むしろ、誘ってくれた事に感謝したいぐらいだ。
「そう言ってもらえると、私も助かるわ」
舞方が微笑する。
あれから、わずかながら舞方に変化が見られた。
それは本当に微妙な変化で、もしかしたら俺の思い過ごしかもしれないといった感じの事なのだが、表情が柔らかくなった気がするのだ。それが叔母さんとの和解によるものなのかなんなのかは分からないが、いい傾向にあると俺は思う。
「叔母さん、もう帰ってるかな?」
「こんな時間だもの、多分ね」
出来れば顔を合わせずに帰りたい。顔を合わせたら最後、強引に引き止められてしまう気がするのだ。
最近毎朝舞方が俺の事を待っている駐車場を通り過ぎ、道を少し行った所を角に曲がる。すると、視界の先に舞方の住むアパート――深早荘が見えてきた。
「じゃあ、俺はこれで」
「また明日」
深早荘前で舞方と別れる。
舞方が一○五号室に入ったのを見届け、踵を返す――
「あらっ」
と目の前に人がいた。
そして、俺の予感は見事に的中する。
「うん。そう。友達のウチ。夕食に誘われちゃってさ。彼女? 違うって。うん。分かった。はい。じゃあね」
通話を終え、一○五号室に再び戻る。
電話の相手は母さんで、内容は今日夕食がいらなくなったというものだった。あの様子では家に帰ってからも要らない詮索を受けそうだ。
「どうだった?」
部屋に入ると、待ち構えていた舞方に首尾を聞かれる。俺の電話が終わるのをずっとこうして待っていたのだろうか。
「別に問題なし」
「そう」
そのまま、二人でリビングに向かう。
舞方と別れた後、帰りがけに香奈枝さんと遭遇した俺は案の定、部屋に上がる事を勧められた。そして、部屋に上がるなり夕食にも誘われ……。
「悪いわね」
「何が?」
「香奈枝さんに強引に引き止められたんでしょ?」
「……まぁ、ね」
強引にというか、やんわり退路を塞がれたというか。実際、断ろうと思えば断れたのだが、俺の中の良心が俺にそれをさせなかったのだ。
俺が帰ろうとした時、香奈枝さんはちょうど買い物から帰って来たところだったらしい。そこに運悪く……もとい、タイミング良く俺が居合わせたわけで、それこそ、あのタイミングしかないというタイミングで俺はあそこを去ろうとしていたのだった。
リビングのテーブルに着き、夕食が出来るのを待つ。台所からは夕食を作る音に混ざり、香奈枝さんの楽しげな鼻歌が聞こえてくる。
舞方は最初、帰ったはずの俺が、自分の家のリビングに入ってきたのに多少驚いた様子だったが、すぐに状況を把握し、特にその事について何も言わなかった。俺同様、俺と香奈枝さんが顔を合わせたらこうなるという事を、少なからず予想していたのかもしれない。
「香奈枝さん、前々から一度笠井君に夕食をご馳走したいって言ってたから」
真向かいの席に腰を下ろしながら、舞方が言う。
その口調には諦めや俺に対する申し訳なさと同時に、何か香奈枝さんに対する温かな感情のようなものが入り混ざっているようだった。
「へぇー。そうなんだ」
「なんか、笠井君の事妙に気に入っちゃったみたいで……」
「へぇー……」
自分ではどこに気に入られる要素があったかは分からないが、それは何よりだ。人には嫌われるより気に入られる方がいいに決まっている。
「彩音ちゃん、ちょっと手伝ってくれる?」
台所から香奈枝さんの声が舞方の事を呼ぶ。
「はーい」
ちょっと行ってくるわねと言い残し、舞方が台所へと消える。
二人並んで料理をするその姿はまさに親子のようで、二人の仲の良さがそこからは見て取れた。
うまくいっているようだ。
余計な世話を焼いた身としては、その姿は非常に嬉しい光景だった。
それから十五分程して、テーブルの上に料理が並ぶ。
トンカツにシュウマイ、海鮮サラダ……そのどれもがおいしそうなものばかりだったが、ただ少し料理の種類が多い気がする。
他人の家の食卓事情はあまり詳しく知らないのだが、これが普通なのだろうか。
「いつもこんな感じなのか?」
小声で舞方に尋ねる。
「まさか。今日は笠井君がいるから特別よ。香奈枝さん、妙に張り切っちゃって」
やはり、そうだったか。
「じゃあ、頂きましょうか」
香奈枝さんの掛け声を合図に、それぞれ食事を始める。
「味はどう?」
「はい。おいしいです」
香奈枝さんに聞かれ、味の感想を正直に答える。
「そう? 良かった。ほらっ、ウチって男性がいないでしょ? そうやってぱくぱく食べてもらえると、やっぱり作りがいがあるわ」
「悪かったわね。作りがいがなくて」
拗ねたような、それでいて抑揚のない声で舞方が言う。
「もう、そういう意味じゃないわよ。嫌ねぇ」
その二人の遣り取りを見て、思わず俺の顔に笑みが零れる。
「何?」
俺の顔を見て、舞方が聞く。
「いや、紗耶と母さんも家で似たような遣り取りしてた事があったから」
「そう」
「まあ」
俺の言葉を聞いた二人が同時に、嬉しそうなそれでいてどこか恥ずかしそうな表情をしたのを俺は見逃さなかった。