1-3
金曜日の朝。
「いってきまーす」
声と共に、従妹の沙耶が元気よくリビングから飛び出していく。
まだ中学生である沙耶は、俺より家を出る時間が早い。
同じ学校に通っていた頃は一緒に登校していたのだが、今年からはその理由から別々の登校となった。まぁ、沙耶は俺の通う高校に来年から通うつもりでいるらしいから、来年になったらまた一緒に登校する事になるかもしれないが。
「はい」
俺の前に、母さんの手によって食後のコーヒーが出される。
これを飲まないと、低血圧気味の俺は朝うまく頭が覚めないのだ。
「ありがとう、母さん」
「あんたも、遅刻しないように出て行きなさいよ」
「分かってるって」
苦笑を返しながら、コーヒーに口をつける。
母さんと俺が呼ぶ人は、もちろん俺の産みの親ではない。正確には、叔母に当たる人だ。
俺がこの家に引き取られてから、もうすでに四年の月日が経とうとしている。
この家に来た当初は、引き取られたという意識が強く遠慮ばかりをしていたが、今では本当の親子とまではいかなくてもそれに近い関係になっているとは思う。少なくとも、俺の方はいい意味で大分気を遣うという事をしなくなった。
沙耶から遅れる事、二十分。
時刻は午前八時少し過ぎ。ようやく、俺が家を出る時間になる。
家を出る時間が八時を跨ぐか跨がないかは結構重要で、具体的には朝起きる時の気分が全然違う。
「いってきます」
沙耶とは違い大人しくリビングを出て、玄関を潜る。
今日行けば明日は休み。
そう思うと、なんだが今日一日が楽な物に感じられてくるから不思議だ。
「ん?」
少し歩くと、いつも舞方と別れる分かれ道の所にその舞方が立っていた。
今まで偶然会って一緒になる事はあっても、こうしてどちらかが待ち伏せしてまで一緒になる事はなかったので少し驚く。
「よっ」
片手を挙げて、舞方の方に寄って行く。
「昨日帰り際、私の叔母に会ったそうね」
開口一番、舞方はそんな事を俺に言った。
「ああ。なんか出て来る所を見たって」
「そう」
それだけを聞くと、舞方は先に歩いて行ってしまう。
なんだ、そんな事を聞くためにわざわざ待ち伏せしていたのか。……って、早く追いかけないと。舞方に置いていかれてしまう。
「ちょっと待てよ」
慌てて、その背中を追いかけて横に並ぶ。
「なんだよ。俺、なんか叔母さんにまずい事言ったか?」
「いいえ、別に」
「じゃあ、なんでそんな事聞くんだよ」
というか、そもそも家に俺を呼んだ事を叔母さんに知られたくなかったとか。しかし、あの時間帯に俺を招き入れたという事は、その可能性も当然舞方の頭には入っていたはずで……。
「何、話したの?」
「〝何〟って……。普通に挨拶して、舞方の学校での事聞かれたから適当に……」
「ふーん……」
〝ふーん〟って、俺の質問は?
「明日の予定は?」
「は?」
舞方の言っている意味が分からず、聞き返す。
「明日、あなたに予定はあるのって聞いてるの?」
「いや、特にないけど……」
戸惑いながら俺が答えると、舞方は何やら自分の鞄の中を探り始めた。どうやら、お目当ての物はクリアファイルの中にあったらしい。
「これを昨日香奈枝さんから渡されたんだけど、興味ある?」
そう言って差し出された物は、二枚のチケットだった。しかし、それは映画の物ではなく美術展の物。
「なくはないけど……。これを俺に?」
「あげるだけなら、明日の予定なんて聞かないわよ」
その言葉で、ようやく舞方が何を言いたいのか理解する。
なるほど、そういう事か。
「うん、確かに明日は暇だ。何も予定はない」
「じゃあ、一枚渡しておくから、持ってて」
「おう」
チケットを一枚受け取り、それを胸ポケットに入れる。
つまり、デートのお誘いって訳か。
という事は、わざわざ待ち伏せしていた理由というのは、叔母さんとの会話の事ではなくこっちの事だったのか。
「でも、なんで今なんだ? どうせ会うんだし、別に昼休みの時でも良かっただろう?」
「……面倒な事は早めに済ました方がいいでしょう」
なるほど、面倒な事は早くか。
舞方らしいと言えば舞方らしい考え方だな。
「で、待ち合わせはどうするんだ? お前の家に迎えに行けばいいのか?」
「それだとあなたの家から遠回りになるでしょう? 待ち合わせは駅前の公園にしましょう。時間は十時くらいでいいかしら?」
「ああ」
どうせ明日は本当に暇だし、久しぶりに美術館のあの独特の雰囲気を味わうのも悪くない。それに何より休日を舞方と過ごすというのも、新鮮味があって面白そうだ。
翌日。俺は駅前の公園――と呼ぶにはあまりにも小さな広場にいた。
そこにある噴水は広場のどこから見てもその姿が見え、その周辺は待ち合わせ場所としてよく使われている。現に、今も何人かの男女が時間を気にしながら、誰かを待つ素振りを見せている所だ。かく言う俺も、その一人なのだが……。
広場に舞方の姿はまだない。
さすがに、少し早く来過ぎてしまったようだ。
只今の時刻は午前九時三十五分。約束の時間まで、まだ二十五分もの余裕がある。
……さて、どうしたものか。
とりあえず、ベンチに座って、ぼんやりと噴水の辺りを眺めて考える。
それこそ、本や何かを持ち歩いていれば、こういう時適当に暇を潰せるのだろうけど、残念な事に俺にはそういう物を持ち歩く趣味はない。他には携帯で暇を潰すという手段もある事はあるが、待ち合わせ相手が来た時、携帯を触って待っている姿というのはあまりいい物ではないと俺個人としては思うので却下。そうなると、後は大人しくこうしてただただぼっーと待っているしかないという事になる。
――というようなどうでもいい思考を巡らせる事、十分。ようやく待ち人が来る。
思ったよりも早めの到着だった。
「よっ。早いな」
「それは嫌味かしら。その様子だと、大分前から待ってたみたいだけど」
ベンチに座る俺を見下ろすように、舞方が言う。
「よく分かるな。タバコの吸殻が転がっているわけでもないのに」
「座ってる雰囲気を見れば、大体分かるわよ」
とはいえ、まだ約束の時間の十五分前なのだから、舞方の登場も充分早い方だと言える。
「絶対、私の方が早く着いたと思ったのに」
舞方が不満げに呟く。
「別にどっちが先でもいいだろ?」
「私、人を待たせるのって嫌いなのよ。今度あなたと待ち合わせする時は、三十分前には確実に待ち合わせの場所にいる事にするわ」
「俺だって、いつもこんなに早い時間から来てるわけじゃないって。今日はたまたまだから」
「そう。私と初めての待ち合わせに緊張した笠井君は、思わずいつもより早めに家を出てしまったと」
大筋間違ってはないが、本人にそう言われると少し複雑な物がある。
「……それより、舞方って普段はそういう服着るんだな」
今日の舞方の格好は、白のワンピースに淡い水色のカーディガンを羽織るといった全体的に明るめの組み合わせとなっている。
この格好では街で偶然会う事が会ったとしても、おそらく舞方だと気づくのに若干時間が掛かるだろう。
「なんか、舞方は黒系着てるイメージを俺は勝手に持ってたんだけど」
「この服は叔母の趣味なの。笠井君と会うならこれ着てきなさいって。普段は笠井君のイメージ通り、黒を着てる事が多いわ」
へぇー。あの叔母さんが……。
そして、それを聞き、思いつく。
「もしかしてあのチケットも、元々俺を誘うように渡されてたのか」
「えぇ」
という事は、今日のこれも完全な舞方の意志ではないという事か。
そう考えると、少しショックだな。
「……そんなにこの格好、変かしら」
「え? 全然そんな事ないけど」
どうやら舞方は、俺が軽く凹んでいる姿を見て何か勘違いしたらしい。
「確かに舞方のイメージとは少し違うけど、それがまたいいって言うか。うん、大丈夫。とてもよく似合ってる」
「……ならいいけど」
そう言う舞方の口元は、微かに緩んでいる。
やはり、舞方も自分の格好を褒められて悪い気はしないらしい。当然といえば当然か。褒められて嬉しくない者はいない。
「じゃあ、予定より少し早いけど行きましょうか」
照れ隠しか、舞方が慌てたようにそう言う。
「そうだな」
ベンチから立ち上がり、舞方と共に公園を出る。
今日も空は青く、雲は白い。
この様子では今日一日、天気は崩れそうにない。外をのんびり歩くには、もってこいの天気になりそうだ。
駅から十分程歩いた場所に、美術館はあった。
白い西洋風の立派な建物が、どこか日常から隔離された様子を思わせる。
美術館。体育館。図書館。
館の付く建物はその特殊の用途故か、どれもどこか独自の雰囲気を漂わせている気がする。美術館はその代表格だ。
前を通りかかる事はしょっちゅうだったが、こうして中に入るのは本当に久しぶりだった。
特別美術に興味のない俺にとって、ここは縁遠い場所。誰かに誘われでもしなければ、決して訪れようともしない場所だ。
購買の前を通り、チケット売り場を素通りして受付の方へ足を向かわす。売り場にはそれなりに人が並んでおり、美術館の盛況ぶりが伺えた。
俺の中で美術館という場所は、物静かであまり人気のない場所というイメージがあったのだが、目の前の光景を見る限りそれは俺の勝手な思い違いだったようだ。それこそ、老若男女問わず様々な人の姿があちらこちらで見受けられた。
受付で、係りの女性にチケットを渡す。
「結構、客がいるんだな」
チケットの半券を受け取りながら、小声で舞方に言う。
「展覧会とかイベント事がある時は、大体こんなものよ」
「へぇー。そうなんだ……」
口振りから察するに、舞方はそれなりに美術館について詳しいようだった。
慣れた様子で館内を進んでいく舞方の後に続き、俺も絵を眺めていく。
絵の知識は全くと言っていい程ないので本当にただ眺めているだけだが、それでも絵の上手さや美しさというものは素人の俺にもなんとなく伝わってきた。本当に素晴らしい物は見る者を選ばないと言うが、その言葉に嘘はないようだ。
「舞方は結構美術館に来たりするのか?」
五分程、口を閉じたまま黙って舞方に付いて歩いていた俺だったが、一人で来ているならまだしも二人で来ているというのに全く会話がないという状態に早くも痺れを切らし、昨日から気になっていた事を舞方に尋ねた。
「二週間に一回、下手すれば三週間に一回といった所かしら。私も、別に絵に詳しいわけじゃないから、ただ館内の雰囲気を楽しみに来てるって感じだけど」
絵からは目を離さず、前を向いたまま舞方が俺の質問に答える。
「ふーん」
三週間に一回。
それでも数年に一度来るか来ないかという俺からしてみれば、かなりの頻度だ。
俺が前に美術館を訪れたのはいつの事だったか。少なくとも、中学に上がってからは一度も来た記憶がない。もしかしたら、プライベードで美術館を訪れるのは今日が初めてかもしれない。
「何か、通い始めたきっかけみたいなものってあったのか?」
「父が、好きだったの」
いきなり出た父親という言葉に少し戸惑う。
舞方は小学三年の時に母親を病気で亡くし、それからは父親に男手一つで育てられてきたらしい。その父親が死んでから二年以上経っているとはいえ、その手の話題を舞方自身はどう思うのだろうか。
「それって美術館を、って事か?」
しかし、ここで話題を変えるわけにもいかず、少し言葉を選びながらも会話を続ける。
「えぇ。それこそ毎週ってくらい、幼かった私を連れてお父さんは近所の美術館を訪れていたわ。中学にあがってさすがに私を連れては行かなかったけど、それでも一人で美術館に足を運び続けていたみたい。今思えば、もう少し付き合ってあげれば良かったって思うわ」
そう言って、舞方は遠い目をした。
その頃の事を、思い出しているのかもしれない。
「最初は、お父さんと思い出の場所だったから、中学の時一緒に行ってあげなかったからっていう感傷的な理由だった。でも、今では違うわ。一人で通ってる内に私自身好きになってしまったのよ、この雰囲気が」
なるほど、その気持ちはよく分かる。
小学生の頃訪れた時はなんて退屈な場所なのだろうと思ったが、高校生になった今改めて訪れてみると美術館という場所は独特の雰囲気を醸し出していて、正直居心地は悪くない。むしろ、自分がなぜ今までここを避けて通って来たのか分からないくらいだ。
「俺も嫌いじゃないな、この雰囲気は」
思わず、独り言のようにそんな言葉が口を出た。
舞方の話を聞いたからだろうか、こんな気分になったのは。
「……そう」
舞方が言い放ったその言葉はいつも以上に愛想のないものだったが、その言葉を言い放った舞方の横顔はどこか綻んでいるように見えた。そして、その表情は自分の宝物を褒められた時に幼い子供が見せる満足げな顔にも少し似ていた。