6-3
思えば、自分の部屋に紗耶以外の女子がいるという状況は小学校の時以来だ。
その事に今更ながら気がついたのは、舞方とテスト勉強を始めて一時間くらい経ったある時だった。
その事実に一度気がつくと、突然その事が無性に気になり始めてしまう。
別に舞方と二人きりになる事は珍しい事ではないし、彼女の部屋で二人きりになる事も今では普通の事なのに、なぜそれが自分の部屋となるとこうも緊張するのだろう。
まずい。
変な事を考え始めたせいで、集中力が切れてきた。とてもではないが、頭の中で計算式が成り立たない。
時計を見る。三時五分。
幼い頃、三時はおやつの時間だった。
今でこそ別に三時を意識してお菓子を食べるという意識はなくなったが、休憩がてら何かお菓子を摘むのにはちょうどいい時間かもしれない。
「なぁ、舞方」
「何?」
教科書に目を落としたまま、舞方が返答する。
「ちょっと休憩しないか?」
「もう?」
顔を上げて舞方が時計で時刻を確認する。
「まだ一時間しか経ってないじゃない」
「そうだけど、さ」
「……まぁ、いいわ。あまり根詰めても仕方ないしね」
このタイミングで休憩を入れる事にあまり乗り気ではない様子の舞方だったが、最終的には俺の提案を受け入れてくれた。
「じゃあ、俺、下行って何か持ってくるよ」
「あ、うん」
舞方を一人自室に残し、部屋を出る。
「何やってるんだろう、俺」
舞方は真剣にテスト勉強しているというのに、その足を引っ張るような真似をして。
やはり、舞方をウチに呼ぶのはテストが終わってからの方が良かったのかな。
舞方はそれ程気にしていない様子だが、俺はかなり初めて自分の部屋に舞方を入れたという事を気にしてしまっている。母さんの事も然り、妙な想像も然り。
俺が意識し過ぎなのかな。
階段を下り、リビングに入る。
「やっと降りてきた。何? 休憩?」
「まぁね」
台所に行って、冷蔵庫からジュースのペットボトルを取り出す。
「ねぇねぇ」
気持ちの悪いテンションで、二階に持っていく物を準備している俺の元に母さんが近づいてくる。
「彩音ちゃん、どんな様子?」
「どんな様子も何も普通だけど……」
後、いちいち呼び方を変えるな。面倒くさい。
「でも、今日の彩音ちゃん、テンション低めだったじゃない? あれって、緊張してるからじゃないの?」
「あれが素なんだよ」
母さんの前で妙に礼儀正しかったのは、確かに気になったけど。
「ふーん。そうなんだ……」
お盆の上に、ペットボトルとコップを二つと適当なお菓子を載せ、リビングを去る。
「……あれが素」
去り際に、そんな呟きが俺の耳に届いた。
お盆を手に、階段を登る。
両手が塞がっている状況で階段を登るのは、さすがに少し心許なかった。
片手と片足でお盆を支え、自室の扉を開ける。
「お帰り」
「……ただいま」
お盆をテーブル脇に置き、座布団に座る。
「オレンジジュースだけどいい?」
「えぇ」
二つのコップにジュースを注ぎ、一つを舞方に渡す。
「ありがとう。……あなたのお母さん、何か私の事言ってた?」
「え? ……あぁ、特には」
「そう」
「なんで、そんな事を?」
「別に……。なんとなく」
なんとなく、ね。……まぁ、分からなくもないけど。俺も香奈枝さんの評価は多少なりとも気になるし。
あぁ、またこの夢だ。
火事。
火事。
火事。
燃え盛る炎が、まるで生き物か何かのように揺らめく。
崩れ落ちる家は、まるでこの時の俺の心境のようだ。
夢だと分かっていながら、なぜ俺はこんなにもこの光景に恐怖を感じているのだろう。
そして、なぜ今回に限って俺はこの夢を見ながら、こんなにも冷静な思考をしているのだろう。
温かい。
熱いのではなく、温かい。
まるで母親に抱きしめられている時のような……。
目を覚ます。
ぼやけた視界に映るのは、見慣れた自室の光景。
ただその光景は少しおかしかった。
全てが横向きに傾いているのだ。
いや、部屋が横向きに傾いているわけではない。俺の体の方が横向きになっているのだ。
優しく、頭が撫でられる。
懐かしい。
そして、温かいその手の動き。
「お目覚め?」
頭上から声が降る。
舞方彩音、俺の彼女の声。
「俺、いつの間に……」
頭の下に、妙に柔らかく肉質的な感触が……。
膝枕。
またこのパターンか。
「なんで、膝枕?」
「寝苦しそうにしてたから」
舞方の話に寄ると、俺は最初テーブルにうつ伏せて寝ていたが、途中からうなされるようになったため、舞方が自分の膝へと移したという。
「こんな所、母さんに見られでもしたらまずいな」
と言いつつも、舞方の膝の上から頭を退かそうとはしない俺。
「それは大丈夫。お母さんなら三十分程前にどこかに出かけていったから。六時頃まで戻らないそうよ」
「へぇー……」
気を利かせたつもりかな。
「また、あの夢を見たんだ」
「……そう」
「でも、いつもとは違った。途中から冷静な思考が出来るようになり、気づいたんだ」
「何に?」
「夢の中で感じる恐怖の正体に」
今まで俺は、夢の中で感じる感情は、全てあの時の自分が感じた感情の焼き回しだと思っていた。でも、本当はそうではなかったのだ。
「俺はさ。両親を失った恐怖を忘れる事を恐れたんだ」
恐怖を忘れる事を恐れる。
我ながら、妙な感情だと思う。
「あの恐怖を忘れてしまったら、昔両親がいたという事実を実感できなくなり、いつしか忘れてしまうと思った」
だから、恐怖を忘れたくなかった。
「夢を見る事で両親が存在して事実を繋ぎとめようとした。実際俺は夢を見る度に、あの時の恐怖を思い出し、また両親の存在も思い出した」
自ら心の傷を抉り、その痛みで傷を受けて時の事を思い出す。
なんて、愚かしい行動。なんて、惨めなやり方。
「……過去に捕らわれるな、か。俺は君になんて偉そうな物言いをしたんだろう」
自分の事を棚に上げて。
「あなたはこうも言ったわ。両親がいた昔も好きだけど、今もそれなりに好きだって。私も今では同じ気持ちだわ。香奈枝さんがいて、あなたの家族がいて、あなたがいる、今を結構気に入ってるの。大体、過去を引き摺る事がそんなに悪い事なの? 引き摺っていても、前向きに行きようとするその姿勢が大事なんじゃないの? 私はあなたの言葉をそう解釈したけど」
引き摺っていても、前向きに、か。
「それに、少しくらい私にもあなたの弱い所見せてよ。私ばかりが弱い所見せてたら、逆に不安になるわ」
舞方は、ぎゅっと俺の頭を抱きしめるようにして言った。
「嫌な事があったら、怖い事があったら、いつでも私に話してよ。あなたを慰めるのも、あなたに慰められるのも、私の義務であり権利なんだから」
「うん。今度からはそうするよ」
俺はどこかで、舞方に自分の弱みを見せてはいけないと強がっていたのかもしれない。
確かに昔の舞方はひどく弱く脆い存在だったかもしれない。
でも、今の舞方は違う。
彼女は今こんなにも強く、そして美しくなった。
手を伸ばす。
舞方の顔の輪郭をなぞるように撫でる。
「何?」
「いや……ありがとう」
舞方の膝から頭を退かし、立ち上がる。
「うーん……」
両腕を上に上げ、大きく体を伸ばす。
俺に倣って舞方も立ち上がろうとするが、
「あ」
完全に足が伸びきらない内に俺の方に倒れ込んでくる。
「ごめんなさい。足が痺れちゃって」
「あぁ……」
そのまま、舞方の痺れが取れるまでじっーと待つ。
「ん?」
「どうかした?」
「いや、何か忘れてるような」
俺が何かを忘れている事に気づいたその時、
「ただいま」
という声が下から聞こえてきた。
あぁ、そうか。
もう紗耶が学校から帰って来る時間だったのか。
「あれ? お母さんいないの?」
という紗耶の声の後に、階段を登る音が俺の耳に聞こえてきたが、動けない今の俺たちにはどうしようもなかった。
そして、俺の部屋の扉が開く――




