5-3
「ごめんなさい」
今日一日で、すでに何回この言葉を舞方の口から聞いただろうか。
風邪で気持ちが弱くなっているせいもあるかもしれないが、そもそも人に甘えるという行為に舞方が慣れていないのだろう。
「別にいいって」
舞方の願い。それは、寝かしつけて欲しいというものだった。
寝かしつける。そう聞くと、どうしても子供のそれを思い出すのだか、この場合その表現はおそらく決して間違いではない。
今、俺は舞方の部屋のベッドの横にいる。
舞方の部屋に入る機会は今日まで何度もあったが、相手がベッドの中にいるという状況はどうも居心地が悪い。
「昔は眠れない時、よくこうしてお母さんに寝かしつけてもらったわ」
「俺も、かな」
あまりはっきりした記憶はないが、ぼんやりとそういう映像が頭に浮かぶ。
「他に何かして欲しい事は?」
ここまで来たら、なんでも言ってくれという感じだ。
「その、お腹の辺りを……」
言いづらそうに、恥ずかしそうに、舞方が言う。
「こういう事?」
ぽんぽんとリズムを刻むように、布団の上を軽く叩く。
紗耶に頼まれて何度かしてやった事があったので、舞方が何を望んでいるのか雰囲気で分かった。
「そう。そんな感じ……」
ようやく眠気が出始めたのか、舞方の瞼がゆっくりと下がり始める。
「笠井君は昔どんな子だったの?」
目を閉じながら、舞方が聞く。
「どんなって、普通の子だったよ。特に目立たない、普通の」
本人が覚えてないくらいの。
「……私は臆病で引っ込み思案だった。友達がいないとまではいかなかったけど、それでも家に帰ればお母さんにべったりで、甘えてばかりだった」
「本当にお母さんが好きだったんだな」
「えぇ。だから、お母さんが死んだ時は本当に悲しかった。いえ、悲しいという気持ちより空虚感といった方がいいのかしら。何か、心の中の大切な物が失われてしまったみたいな」
その気持ちは俺も分かる。
「そして、お父さんも死んだ。私は何をしていいのか分からなくなった。何もしたくなかった。でも、周りの時間は流れ、立ち止まる事さえ私には許されなかった。誰もが内心私を見下し、同情し、優越感に浸っていると感じた」
俺にもそういう時はあった。
「見下されるくらいなら、興味を示さなくていいと思った。同情されるくらいなら、話しかけてこなくていいと思った。優越感に浸られるくらいなら……」
そうやって孤独に自分を追い込んだ。
「このまま一人で生きていこうと決めた。だから、皆を遠ざけ、香奈枝さんにすら自分を見せなかった。でも、そんな時にあなたに会ってしまった」
舞方のその表現に、思わず苦笑する。
会って、しまった。あまり言われた当人としては嬉しくない言い方だ。
「人目見て他の人とは違うと思った。他の人にはない違和感を覚えた。そこから私の決意に思いに綻びが出始めた。そして、私はあなたに興味を持ち、あなたと接点を持とうとした」
持とうとして、俺に手紙を出した。
「あなたに会って、話して、同じ時間を過ごして、私はひどく弱くなったと思う。心の奥に押し込めて置いた恐怖がどんどん出てきてしまった。私はあなたに甘えてる。それは分かってる。分かってるけど……」
布団の上の手が舞方の手によって力強く握られる。
「ごめんなさい……」
その声はもう寝言だったのかもしれない。
舞方の胸が一定のリズムで上下する。寝息も聞こえ始めた。
俺は握られていない方の手の指先で、舞方の目頭が流れ落ちる涙を拭う。なぜかとても優しい気持ちになった。
この子を守りたい。そう思った。
出来れば、一生。
「……」
さて、後はこの手をどうするかだ。
舞方を起こさずにこの手を抜く方法は、今のところ思いつきそうにない。最悪、朝までこのままかな。
……それも、今日は有りかもしれない。
そこは真っ黒な世界だった。
その世界に少女は一人でいた。
少女の他に物はなく、少女の他に人は誰もいなかった。
なぜなら、そこは少女が作った世界だから。
少女は自分以外のものを自分の作った世界にいれる気など全くなく、孤独を求めた。
そう、自分で求めたのだ。
なのに、少女は孤独を嫌った。
一人は嫌だ。
一人は怖い。
そんな時、少女は出会った。自分と似た境遇を生きる少年と。
少年は人と関っていた
少年は人前で笑っていた。
少年は今を生きていた。
決して過去に捉えられず、しかし決して過去を無くさずに。
少女は少年が羨ましかった。
あんな風になりたいと思った。
だから、声を掛けた。
彼から何かを学ぶために。
彼から何かを得るために。
最初少女はそう思っていたはずだ。少なくとも表面上は。
でも、少年と関わり、話し、一緒にいる間にその気持ちは変化していった。
少年の隣にいたい。
少年に自分を知って欲しい。
少年に……。
そして、少女の世界は破綻した。
かつて少年の白い世界が一人の少女によって崩壊したように……。
「……」
目を覚ますと、そこは舞方の部屋だった。
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
手はすでに自由になっていた。
ベッドに手をついて立ち上がる。
その時、少しベッドが揺れた。
今の振動で舞方が目覚めてしまわないか心配になったが、幸いな事にそうはならなかったようだ。
ほっと胸を撫で下ろす。
ここで起こしてしまったら、看病するために残ったというのに元も子もない。
ベッドの上の舞方に目をやる。
寝顔を見る限り、うなされている気配はない。
一晩寝て熱も下がればいいのだが。
押入れから毛布を一枚借りる。それを手に俺はリビングへと向かった。もちろん、部屋を出る時、電気は消す事も忘れない。
リビングの掛け時計で時刻を確認する。
九時二十分。睡眠時間は約二時間といった所か。
……少し寝過ぎた。
電気を消すと、俺はそのままソファーへと倒れ込んだ。
眠気というよりダルさが体中を支配している。
やはり、中途半端な眠りは体に毒だ。
「ごめんなさい、か」
ソファーに寝転び、舞方の言葉を口の中で反芻する。
今日一日の事……ではないよな。もっと根本的な、俺と舞方の関係に関するような事に対する謝罪。
謝られるような事などないはずだけど……。
舞方に俺の思いはすでに伝えてある。そして、それは舞方にもしっかりと伝わったはずだ。なのに、謝罪。
全く意味が分からない。とはいえ、無視するわけにもいかないだろう。
寝る間際に出たあの謝罪の言葉が舞方の本音だとしたら、どうしても一度じっくりとその事について話してみる必要がある。
まぁ、それも全て明日になってから、舞方の体調が戻ってからだけど……。




