1-1
「……」
目を覚ますと、ぼやけた視界いっぱいに空が映った。
青いキャンバスに、白と時より黒が混じる。
……俺はなぜ、外で寝ていたのだろう。
変な夢を見たせいで、まだうまく思考が現実へシフト出来ずにいた。
青く澄み渡る空を眺めながら、ぼんやりと考える。
……そうか。自習の時間に、昼寝する場所を探して俺は屋上に来たんだった。
寝ていたベンチの上に体を起こし、腰掛ける。
体がひどく重かった。少し汗もかいているようだ。出来る事なら、シャワーを浴びて服を着替えたいところだが、ここは学校、今の俺にそんな事が出来るはずもなく……。
「はぁー」
悪夢から醒めた安堵感か、中途半端な睡眠を取ったせいか、俺の口から知らず知らずの内に溜息が零れ落ちていた。
変な所で寝たせいだろうか。最近見なくなっていたあの夢を見たのは。
ふと視線を上げる。
「……」
視界の真ん中に、少し向こう側に立つ女生徒の姿が映った。
女生徒もそんな俺の様子に気付いたらしく、それまで握っていた転落防止用のフェンスから手を放し、ゆったりとした動作でこちらを見る。
「お目覚め?」
「ああ……。悪いな、ベンチを占領しちまって」
「別に構わないわ。あなたの苦痛に歪む寝顔も見れた事だし」
「……」
一瞬、背筋に寒気が走った。
おそらく、寝汗のせいだろう。うん。きっと、そうだ。
「冗談よ」
冗談だったらしい。真顔で言うものだから本当に怒っていると思い、本気で念仏――もとい、謝罪の言葉を考えるところだった。
「舞方、お前はただでさえ表情の変化に乏しいんだから、冗談言う時は前以て〝冗談言います〟って宣言してから言えよ」
「嫌」
本気で言った事ではなかったが、あまりの短さと即答ぶりに少し凹む。
「それより、そこ座りたいから少し隅に寄りなさいよ」
「ヤ」
俺はお返しとばかりに短い言葉で即答した。
「はぁー」
そんな幼稚な態度に、舞方は明らかに呆れた風な溜息を俺に見せつけるように吐く。
ガキのようだと思われたかもしれない。実際、俺がやっている事は子供のそれと変わりないと自分でも思う。
どうやら、寝起きのせいで思考が退行してしまっているようだ。昔から、寝起きと朝は俺の苦手とするところだった。
「分かったわ。さっき撮ったあなたの寝顔を、私の携帯の待ち受けにしてあげるから、それで手を打ちましょう」
「今すぐ退くんで、それだけは勘弁して下さい」
舞方の言葉に、色々な意味で目が醒めた。
待ち受けに設定される前に、素早く一人分のスペースを作る。
「そう。うまく撮れたのに残念ね」
どこまで本気だったのか、舞方の手にはすでにスカートのポケットから取り出した携帯電話が握られていた。
出来れば、その撮った写真も消して欲しいが、言ったところで無駄だろうから、敢えて何も言うまい。
「笠井君はいつからここにいるの?」
舞方がゆっくりとこちらに寄ってきて、俺の隣に腰を下ろす。
腰まで伸びた長い黒髪がふわりと大きく広がり、再び綺麗に収まる。その一連の動作は非常に優雅で、不覚にも少し見惚れてしまった。
「笠井君?」
「ああ……」
怪訝そうな舞方の声で我に返る。
「二時間目が終わってすぐだよ。三時間目が自習になって、昼寝出来る場所を探してここに来たんだ。……というか、今何時?」
起きたばかりで時間感覚も何もあったものじゃない。ま、自分の携帯で確認すれば済む話ではあるが。ズボンのポケットから取り出すというただそれだけの行為すら今は億劫だった。
「十二時十五分」
手に持ったままだった携帯を見て舞方が言う。
「って事は、四時間目は丸々サボっちまったわけか。後で誰かにノート借りなきゃな」
そこでふいに気付く。
「そういえば舞方。お前、飯は?」
「まだよ。あなたを探しに教室まで行き、いなかったものだからメールを送ったというのにその返信がなく、仕方なくあなたがいそうな所をしらみ潰しに探し、さっきようやくここであなたを見つけたんだから」
「なら、起こしてくれれば良かったのに。正直、腹減っただろ?」
「私はそこまで卑しくないし、人の眠りを妨げるなんて野暮な真似出来るはずないじゃない」
野暮? 寝ている人を起こすのは野暮なのか?
「いや、別に用事があったなら仕方ないし、何より見るからにうなされてたんだったら逆に起こしてくれよ」
「だって、笠井君がそういう趣味の人なら、逆の逆に失礼でしょ」
「そんな趣味、俺にはねーよ!」
思わず、寝起きのテンションで叫んでしまう。
「笠井君」
「何だよ?」
「冗談よ」
「……だから、お前の冗談は分かりにくいんだって……」
あー。頭くらくらする。
やはり、寝起きでいきなり大声を出すものではないな。
「笠井君の頭が完全に覚醒したところで、そろそろ学食に向かいましょう。時間も大分過ぎてしまってる事だし、少し急いだ方がいいわ」
「……ああ」
やばい。なんか、どっと疲れた気がする。
学食は出遅れたせいで予想通り混んでいたが、ちょうど入れ違いに帰るグループがあり、どうにか二人分の席を確保する事が出来た。
他の高校の学食の事は知らないが、ウチの学校の学食は結構大きい方だと思う。
二百人は優に入る敷地の広さと席数。
しかし、それだけの敷地と席数を有していても、学食の前で引き返す生徒は後を絶たず、その姿を見ると自分の通う高校の生徒数の多さを改めて実感する。
「不公平だなって思った事はない?」
スプーンにすくったカレーを口に運びながら、舞方がふとそんな事を言った。
ちなみに、俺の目の前には天ぷらうどんが置かれている。
天ぷらうどんと言っても、うどんの上に小さなかきあげが一つ乗っているだけの質素な物だ。料金の安さから考えれば仕方のない事だが、せめて商品名をかきあげうどん辺りに改名して欲しいと思わないでもない。
――と、そんな事はどうでもいいとして。
「なんだよ、急に」
「例の夢を見てたんでしょ?」
「……」
今日みたいな事が以前にも一度だけあり、その時にさっき見た夢の内容を、俺はその場の流れと寝起きの働かない思考のまま舞方に話してしまっていた。
「今この学食にいる大半の人が、普通の家庭に産まれ、普通の生活を送ってる。なのに、なんで自分だけ……」
そう思った事はあった。でも、今は違う。
それに――
「止めろよ。飯時にする会話じゃない」
「私とあなたの境遇は微妙に違うわ。どっちが上か下かは分からない。でも、共通してる事がある」
「それは、普通の家庭で過ごしてない事って言いたいんだろう?」
「そう。今が不幸かどうかは置いといて、今過ごしてる家庭が普通の家庭ではない事は確か……」
「舞方、お前……」
「人生をやり直したいとか、そういう事を言うつもりはないの。でも、そういう感傷に浸るくらいはいいでしょ?」
自由。確かに、感傷に浸るのは舞方の自由だ。
しかし――
「舞方。お前、放課後暇か?」
「暇だけど。そっちこそ何よ、急に」
「お前が辛気臭い話するから、こっちまで気持ちが沈んじまった。だから、気晴らしに付き合えって事だよ」
こちらの意図が伝わらないように、わざと少しぶっきらぼうな感じで言い放つ。
「笠井君、あなたって」
「なんだよ」
「本当に気の遣い方が下手ね」
「なっ」
思わぬ言葉に思考が止まる。
しかも、こちらの意図は完全に舞方に勘付かれていた。
「でも、まぁ、いいわ。あなたの気晴らしに付き合ってあげる。あなたの気持ちが沈んだのは、私のせいだものね」
「ああ。だから、これは義務だ。それと……あんまりそういう事自分の中に溜め込むなよ。俺で良ければ、いくらでもお前の話聞くし」
「笠井君、あなたって本当に」
「気の遣い方が下手ってか。それは、今さっき聞いたっての」
「――バカね」
「ひどっ」
こんなに気を遣っている人間に対してバカだと、よくそんなひどい事が言えるものだ。
「最初から溜め込むつもりなんてないわよ。その証拠に今こうしてあなたに話してるでしょ? 大体、こんな話あなた以外誰に聞かすって言うの? 私、こう見えても、人に弱み見せるのって嫌いなのよね」
「……」
この場合、見たまんまだと突っ込むのと素直に嬉しく思っておくのとでは、どちらが正解なのだろうか。
とりあえず俺は――
「なんでやねん」
一番初めに頭に浮かんだ選択肢である、突っ込みを入れておく事にした。
「笠井君、あなたって……本当にバカね」
「二回目!?」
それが正解だったかどうかは知らないが、しめっぽくなった空気を換えるという意味では間違いではなかったと思う。