4-2
「ただいま」
玄関を開け、家の中に聞こえるように声を上げる。
「おかえり」
その声を聞きつけ、リビングの方から紗耶が顔を出した。
その姿はもう帰ってきてから大分時間が経っているだろうに、未だ制服姿。
その姿を見るに、母さんは今家にいないらしい。そして、当分帰ってくる予定もないのだろう。そうでなければ、紗耶がいつまでもこんな格好をしているわけがない。
母さんが家にいない事は紗耶にとってだけではなく、俺にとっても好都合だった。
「あ、やっぱり裕君傘持たずに家出たんだ。ダメだよ、梅雨時、なん、だか、ら……」
紗耶の言葉の最後の方が途切れ途切れになったのは、言葉を全て言い終える前に俺の背後に誰かがいる事を見つけたからだろう。その証拠に、紗耶の視線が途中から俺から俺の背後へと動いたのが分かった。
「悪い。こいつに何か着替え貸してやってくれるか?」
「うん。いいけど……」
少し戸惑ったように舞方の事を見た紗耶だったが、結局何も言わず小走りで二階へと上がっていた。
「というわけで、後で紗耶に着替え持っていかせるから、舞方はシャワー浴びてこいよ」
「……うん」
俺が先に立って風呂場まで舞方を案内する。
「ここな。シャンプーとかは適当に使っていいから」
「……ありがとう」
舞方が風呂場に入るのを見届け、俺はその足で自室へと向かう。
部屋に入ると、濡れた制服を脱ぎ、それを机の上に畳んで置く。後でクリーニングに出すためだ。
ある程度濡れても良さそうな私服に着替え、自室を後にする。
階段を降りようとしたところで、ちょうど自分の部屋から出て来た紗耶と鉢合わせた。その手にはTシャツとジーパンが抱えられている。
「後で説明してもらうからね」
そう俺に言い放つと紗耶は俺の横を擦り抜け、小走りで階段を降りていった。
俺もその後を追うように階段を降り、階段の下で紗耶が風呂場から出て来るのを待つ。手ぶらの紗耶が俺の前に現れたのはそれから数分後の事だった。
「さて、説明してもらいましょうか?」
笑顔だが微妙に笑顔ではない紗耶に、俺はこうなった経緯を掻い摘んで話した。
「ふーん……。それは災難だったね」
「だろ?」
「で、結局のところ、裕君と舞方さんの関係はなんなの?」
「なんなのと言われても……」
「……別に答えづらいなら答えなくてもいいんだけどさ」
そう言われてしまうと、特に答えられない理由があるわけでもないので答えざるを得なくなる。
「恋人かな、一応」
「一応?」
俺が言葉尻に言った単語に、紗耶が怪訝そうな表情を見せる。
「いや……その、はっきり確認したわけじゃないんだけど、雰囲気というか成り行きというか……」
「へぇー。そうなんだ」
「でも、なんでそんな事を?」
「ん? やっぱり、気になるじゃない? 裕君の付き合ってる相手の事が、家族の一員としては」
よく分からないけど、そういうものなのだろうか。
「ほらっ、裕君だって、もし私が誰か男の人と付き合っていたら、その相手の事気になるでしょ?」
「……紗耶は誰かと付き合ってるのか?」
「ヤダ。もしもの話って言ったでしょ。私は今も昔も誰とも付き合ってないし、これからも当分付き合う気はないって」
「そうか……」
紗耶の言葉を聞き、なぜか安堵する自分がいた。
「だから安心して、お兄ちゃん」
「なっ!?」
その呼び方をされるのは数年ぶりだった。
まだ紗耶が小学校に通っていた頃、そしてまだ俺の両親が生きていて紗耶と俺とが別々に暮らしていた頃。その時以来だった、その呼び方をされるのは。
「あれ? この呼び方の方が嬉しかったりする? だったら、今日からこの呼び方に戻してあげようか?」
「ばか、何言って」
「ははは。冗談だよ。冗談。とりあえず、私は自分の部屋にいるから何かあったら呼んで」
階段の一番下の段に足を掛けた紗耶は振り返り、
「じゃあね、裕君」
わざわざ〝裕君〟の部分を強調して言い、階段を登っていた。
中学生の従妹にからかわれる高校男子。
傍から見たら、ひどく格好の悪い遣り取りだった。
三十分して舞方は紗耶の渡した格好で、俺のいるリビングにやってきた。
「笠井君」
「あぁ」
ソファーから立ち上がり、見ていたテレビをリモコンで消す。
「家まで送ってくけど、その前に何か飲んでくか?」
「ううん。いい。色々としないといけない事もあるし」
「そうか。じゃあ、行こうか」
二階の紗耶に階段の下から大声で出かける事を告げ、舞方と家を後にする。
外に出ると、当然のようにまだ雨が降っていた。
傘を並べて家の敷地を出る。
「そういえば舞方、制服は?」
「ビニール袋に入れてこの中に」
言って、舞方が自分の持つ鞄をぽんぽんと叩く。
「あ、そうだ。その服、返すのはいつでもいいからって紗耶が」
「そう。……可愛い子だったわね」
一瞬、頭に一昔前の口説き文句を彷彿させる台詞が浮かんだが、さすがに口には出さなかった。
「まぁ、可愛くなくはないわな」
「それに、とてもいい子だった」
「紗耶と何かあったのか?」
「少し、風呂場の曇りガラス越しに話しただけよ」
「何を話したんだ?」
「……大体想像はつくでしょ」
二人は初対面。そんな二人の共通の話題といったら俺の事くらいか。
「裕君の事、お願いしますだって」
「……」
紗耶の奴、そんな事を舞方に言ったのか。
「あの子、きっとあなたの事好きよ」
「は? 何を根拠にそんな事を?」
「話しててそう思ったの。声がね、そんな感じだった」
紗耶が昔の呼び方で俺の事を呼んだのは、もしかして舞方との遣り取りがあったからなのだろうか。舞方の言う事が正しければ、あれは紗耶なりのけじめだったのかもしれない。
「私のせいね。あの紗耶って子の思いが叶わなかったのは」
「お前、何を言って……」
「だって、そうでしょ? あの子にとってみれば、私は急にあなたの前に現れ、そしてあなたを奪っていった相手。恨まれても仕方ないわ」
「恨みはしないよ」
「そうかしら?」
「お前だって言っただろ? あいつはとことんいい奴なんだ。そんな事で人を恨んだりはしない。それに、俺が自分の意思でお前の隣にいるって決めたんだ。だから、舞方がそんな事を気にする必要は全くない」
自分でも安い慰めだという自覚はあった。しかし、他に掛ける言葉が思い浮かばなかったのだ。
「雨」
ふと舞方がそう呟いた。
「え?」
その言葉の意味が分からず、俺は聞き返す。
「雨、止んだみたい」
舞方が傘を下ろした。
それに倣って俺も傘を下ろす。
舞方の言う通り、もう空から雨粒は落ちてきてはいない。
雲の切れ間から太陽の光が差し込む。
「「あ」」
それを見つけた時、俺たちは同時に声を上げていた。
「きれい」
舞方が呟く。
その視線は空に掛かった虹へと注がれている。
「……」
意識が虹に集中して少し呆けている舞方の横顔を見て、俺の心にはある種悪戯心にも似た一つの考えが浮かんでいた。幸いにも、俺の方にある舞方の手は空いている。
俺は意を決すると、その手に自分の手を伸ばした。
「――!」
俺の手が触れた時、舞方の体は傍から見ても分かるぐらいに震えた。意識が他に集中していた分、余計に驚いたのだろう。
舞方の視線が虹から繋がれた手へと移り、そして最後に俺の顔へと固定された。
「笠井君?」
「とっと行こうぜ」
何かを尋ねられるよりも先に、舞方の手を引いて歩き出す。
本当は、繋いだ手からその鼓動が伝わらないか心配になる程、体内で心臓が暴れまわっているのだが、なんとかそれを顔に出さないように表情を固めた。
逆に不自然さが際立ってしまうかもしれないが、動揺がそのまま顔に出るよりはマシだ。
「……」
舞方は何か言いたげな視線をずっと俺に向け続けていたが、結局何も言わずやがて視線も俺の顔から外した。
「……ま、いいか」
そんな呟きが、住宅街に溢れる色々な音に混じって聞こえた気がした。




