従姉
緑の絨毯の丘に腰をおろし宏遠な海と地平線を眺める。空の蒼と海の青、心を打たれる色はいつも青か緑色で穏やかな日差しを浴びて髪と肌は輝き、気分は晴れ晴れとし、頭が透き通るように気持ちがいい。
緩やかな眠気が陽光に触発され、瞼は重くなり抵抗する気もさらさらない僕はまどろみに落ちる。涼やかな風が頬をなで、緑の絨毯に横たわった僕を包みこむ。
幾時間、まどろみに身を任せていたのだろうか? 真上を見ても空はやっぱり蒼く、僕の視界に映るのは混じりけのない自然色の世界。
どこまでも軽い身体はこのままどこかへ飛んでいきそうで……そうなってもそれはそれで構わないけど。どこにでもある田舎の自然の一部に溶け込んだ僕の視界に一羽の鳥が入り込む。
「君は一人でなにしてるの?」
声には出さずテレパシーを彼に送る。恥ずかしがりやなのかな? 彼は遠くへ行ってしまった。
また一人ぼっちになった僕は口笛を吹き音と戯れる。耳障りの良いメロディーに感化されるように刹那に強い風が吹き僕の前髪をサラサラと靡かせる。ユートピア……どこにもない世界。でも僕が今存在するこの空間は心地良く何時までも浸っていたい神聖で侵さざるべきもの。
僕は目を瞑り、三十秒数える。
目を開けると何十羽ものカモメが空を滑空していた。恥ずかしがり屋の彼は友だちを連れて戻ってきたのだ。
「お帰りなさい」
僕は上半身を起こし空にむかって叫ぶとそれに答える如くカモメが鳴き声を上げ自慢気に羽を広げる。
「秀ちゃん」
不意に背後から声がかかる。僕のよく知っているその人の名は三原明子。歳は僕よりも十歳年上の近所に住む母方の従姉。よく可愛がってくれて、世話を焼いてくれて優しくて綺麗で清楚で……とにかく僕はこのお姉さんが好きで好きでたまらない。
「お姉ちゃん!」
「こら、鬼ごっこはどうしたの?」
僕と明子姉ちゃんは追いかけっこをしていた。ジャンケンで負けた僕が鬼になって明子姉ちゃんを追いかけていた。だけど僕の足は重たくて足かせに囚われるているかのように上手く足を捌くことが出来ずに、明子姉ちゃんは見えない所まで逃げてしまった。諦めた僕は丘の草原に居たという訳だ。
明子姉ちゃんは僕の右隣に腰を下ろすと結んでいた髪をほどいた。
「疲れちゃったの?」
「うん。足が上手く動かないんだ」
「そう、いたずらで私を置いて帰ったと思って探したのよ」
「ごめんなさい」
「許さない」
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
僕は明子姉ちゃんにだけは嫌われたくないので必死に涙ぐんで謝る。
「何泣いているの?」
「だってお姉ちゃんが許さないっていうから」
「冗談に決まってるでしょ」
「僕はお姉ちゃんだけには嫌われたくないんだ」
「うふふ、そんなに私のことが好きなの」
「うん、大好きだよ。世界で一番好きだよ」
風が吹き、明子姉ちゃんの髪が僕の鼻先に触れる。どの花よりも芳しく魅力的な香りが僕の嗅覚を刺激する。
「お姉ちゃんは十歳も年上なんだよ」
「歳なんて関係ないよ。好きなんだもの」
「秀ちゃんは子どもだからそういえるんだけどね。大人になったら考えが変わるわよ」
言葉とは裏腹に明子姉ちゃんは嬉しそうに僕の瞳を見つめている。
「カモメが随分飛んでるね」
戻ってきたカモメたちは空で会話を交わしている。鳥のように自由に空を飛べたらいいなと彼らに羨望のまなざしを向けた。
「僕が呼んだんだよ」
「どうやって呼んだの?」
「テレパシーを送ったんだ」
「秀ちゃん凄いねえ。よし、じゃあお姉ちゃんがいまから秀ちゃんにテレパシーを送るから受け取ってね」
「うん」
………………
「さあ、届いたかな?」
「……届かないよ」
「もう一度送るね」
………………
「ちゃんと送ってくれてるの?」
「お姉ちゃんには難しいかな」
「なんて送ったのか僕に教えて」
僕が訊くと明子姉ちゃんは突然に僕に覆い被さってきた。
「重いよお姉ちゃん」
「男の子なら我慢しなさい。おしゃべりを出来ないようにしてあげる」
そう言うと明子姉ちゃんは僕の唇に自分の唇を押し当ててきた。
キス、接吻、口付け…………僕にとってのファーストキス。明子姉ちゃんの柔らかな感触に背中に電流が走った。
「これで秀ちゃんはお姉ちゃんのものだからね」
ニッコリと微笑む明子姉ちゃんは女神だった。
――――――――
重たい……。
瞼を少しずつ開いていくと秀一の身体に馬乗りになっている人が見える。
また美奈子のいたずらかと思っていたがスタイルが違うし顎の輪郭が違う。秀一がまじまじと確認すると三原明子だった。
(夢? 僕は夢を見ていた?)
秀一は真実に気付く。
「重たいよ姉ちゃん」
夢の中と似たセリフを吐く。
「やっと起きたか。昔から変わらないね」
明子は秀一の身体を降りてベッドの側面に立つ。背が高くスレンダーなのに出るところは出ている所は以前と全く変わりはない。しかし残念だが明子は人妻だ。二年前に結婚して隣町に移っている。
「日曜日くらいいいじゃないか」
「デートの約束一つもないのかな」
「余計なお世話です。それよりなんでここにいるの?」
明子は照れ笑いを浮かべる。ただの里帰りではなさそうだ。
「大きくなったね秀ちゃん」
今し方まで見ていた夢の記憶がまだ残っている秀一は、明子の唇の自然と目が行く。化粧はしていないがピンクの唇は艶かしい。もっとも明子自身、自分の美貌に自信があるからこそすっぴんでいられるのだろう。いや、近所だから手抜きしているだけなのか。
「旦那さんとケンカでもしたの?」
「そ、そんなことないわよ。里帰りしに来ただけだから」
明子のイントネーションで秀一は図星をついたことに気づいた。
「浮気でもされたんだ」
「違うわよ。私よりいい女なんていないでしょ」
「妻と愛人は別腹だっていうらしいよ」
いつもは強気の明子にここぞとばかりに攻撃を加える。秀一の心に、この夫婦が不仲になることを喜ぶ感情が芽生えている。
「だいたい俺を起こしに来た理由は何?」
「理由?」
しばらく待ったが明子は秀一の質問に的確な返答を出来ない。
「わかった! 俺に会いたかったんだ。一刻でも早く」
「…………」
軽いジョークのつもりが雰囲気を悪くしてしまったようだ。本当に旦那さんと上手くいっていないのかと秀一は勘ぐる。
「どうしてわかちゃったのかなあ」
誰が見てもそうだと分かる作り笑い。
「俺はいい男に成長したかな?」
「主人と比べるとイマイチかな」
「俺は愛人でも構わないよ」
「男の言うセリフじゃないでしょ」
少し表情が持ち直してきたみたいだ。
「秀ちゃんはまだ私のこと好きなのかな?」
「好き? 俺が姉ちゃんを好きかって?」
「まさかあの日のことを忘れたの? そんなことはないわよね」
秀一は明子に告白をした過去がある。しかしその頃には明子は既に婚約をしていて秀一の初めての告白は失敗に終わっている。秀一が女性に対してそれほど強い感情を持たなくなったのは明子から振られた日からだ。記憶の底に錘をつけて沈めてしまいたい過去。
「覚えてるよ勿論」
「秀ちゃんはいまでもフリーなのかな?」
「そんな事聞いてどうするの? 俺はおばさんには興味がないよ」
「ちょっと興味本位で聞いただけよ」
「彼女はいるよ。年下の」
「男って若い女が好きなのね」
「いやいや、俺はまだ高校生だし姉ちゃんの旦那さんと比較はできないだろ。そういえば父さんと母さんは?」
「夫婦で出かけて行ったわよ。仲良く手をつないでね。つまり私と秀ちゃんは今、二人きりってわけ」
『二人きり』この言葉が秀一の耳に残る。男と女が一つ屋根の下で二人きりというのはいくら昔からの知り合いでも意識するなというのは無理だ。しかも相手は初恋の女性。
「間違いってこういう時に起こるのかしらね」
明子は含みのある言葉を口にする。
「悪いけど彼女は裏切れないよ」
「心はそうかも知れないけど身体はそうとは言い切れるのかしらね」
明子が艶冶な表情になり秀一に身を寄せるようにベッドに座ってきた。人妻になって色香は何倍にも増し、年上の女性独特の包容力を醸し出している。
秀一の鼓動は狂おしいほどに脈打ちだして心臓が爆発してしましそうになる。
「秀ちゃんなら私を寂しくさせないわよね」
明子は徐々に顔を寄せてくる。秀一が金縛りにあったように微動だにせずにいるとやがて唇が触れ合い、彼女の舌が秀一の舌に絡みついてきた。
「妻と愛人が別腹なら、主人と愛人も別腹でしょ」
大人のキスを施したあと明子はそういう。秀一は明子の誘惑から逃れるすべを見つける意識すら脳から排除していた。




