そっと
何度コールしたことだろう。しかし沙月は一向に出てはくれない。喧嘩したばかりで都合がよいとはいえ、仲直りのチャンスくらいは欲しいものだ。
右四間飛車で2局矢倉を破壊したあと、もう一度掛けてみたが声を聞くことは出来なかった。
「私にデートすら誘ってくれなかった」
この沙月の言が脳裏をかすめる。
彼女を傷つけたのは自分のほうだ。同じ事をされたらいい気はしないだろう。
「危険は勝利への代償」
意味のわからないことをつぶやき家を出て沙月の家へと向かう。
いつ見ても立派な門構えの沙月の家につくと何を迷うことがあろうかとインターホンを押す。
「どちら様でしょうか」
この声はお手伝いさんの声だ。名前は確か松本さんだった。
「こんにちは。一ノ瀬です」
「あら。一ノ瀬くん、どうしたの?」
「沙月ちゃんに話がありまして、取り次いでいただけますか」
「はいわかりました」
数十秒の間があって
「どうぞおはいりください」という松本さんの声とともに重厚な門が開く。
「お邪魔します」
手前に見える玄関へと歩を進める。
ガチャリ
ちょうど秀一が玄関へと着く頃に松本さんが玄関を開けてくれた。
「こんにちは」
「珍しいですね」
玄関までおじゃましたのは初めてだ。
「沙月ちゃんはどこですか?」
と聞き終わるすんでに階段から沙月が降りてくる。
「一ノ瀬さん。どうしたんですか?」
「沙月ちゃんに謝ろうと思ってね」
「喧嘩でもなさったの」
松本さんが訊いてくる。
「いや、けんかというかなんというか」
歯切れが悪い。
「今日はお父様もお母様もおでかけしておりますの」
そういえば秀一は沙月の両親と顔を合わせたことがない。
「いらしたことは内緒のしておきますね」
ヒソヒソと松本さんが囁く。秀一は苦笑する。
思い立ったが吉日とばかりに来てしまったが両親がいたら気まずいのは確かだ。後ろめたいことはしていないのだがそういうものである。
「わたくしの部屋に案内いたしますわ」
秀一は靴を脱ぎ沙月の先導で彼女の部屋へと階段を上がって行った。
沙月の部屋はピンクを基調とした女の子らしい部屋で流石というか綺麗に整理整頓されている。
「これ、使ってください」
沙月は猫のキャラクターのデザインされたクッションを秀一に手渡す。
「ほい」
と秀一はそこに座る。円台に向かい合う格好だ。
「お飲み物はなんにします?」
口調で機嫌がよさそうなのがよく分かる。やはり来て良かった。
「お茶がいいかな」
「はい。ご主人様」
「おっとそれにはおよびませんわ」
タイミングよく松本さんがお茶を持ってきてくれた。
おいおい、そういえばこの状況はまずいんじゃないか?
いまさらながら秀一はそこに気付く。令嬢と密室で二人きりは常識面からいささか疑問符がつく。
「沙月ちゃん、ごめんね」
秀一には駆け引きとか打算とかはない。謝りに来たので単刀直入に頭を下げた。
「私の方こそ子どもみたいに拗ねて反省しておりますの」
「いやいや、今回の事については俺が一方的に悪いよ」
「よかった」
「よかった?」
「ナイトは素直でいいひとだなあって」
「俺は腹は出てないけど腹黒いよ」
「ん?」
「すべったね」
「はい」
いい雰囲気で秀一は安堵した。
「ですけどね」その一言を言うと沙月の表情が寂しげになった。
「なに? 俺なんか他に失礼なことしたっけ」
「いいえ」
「でも……姫は悲しそうだよ」
「悲しいです」
「なにが?」
「私達お別れしなくてはならないのです」
「俺のこと嫌いになった?」
「違います。引越しです」
「引越し?」
「なんで? 姫はここに残ることは出来ないの」
「できません」
「どうして?」
沙月の瞼からひらひらと涙がこぼれ落ちた。
「わたくし結婚しますの」
「結婚!!」
まさかいきなり結婚という言葉が沙月の口から発せられるとは思いもよらなかった。
「どういうこと」
「両家の間で話は済んでますの」
「話はすんでるって、姫は相手のこと知ってるの」
「いいえ、顔も存じあげておりません」
「おかしいよ、そんなことおかしいよ」
「所詮、わたくしは籠の中の鳥ですの」
はっとした。そうだよな。沙月は令嬢なんだ俺とは身分が違う。表向きに人は平等とはいっても人間そんな単純に生きていない。何かを基準として人は区別をするものだ。むしろいままで付き合えただけでも充分なことだったんだ。
「わたくしナイトのことほんとに愛しておりました」
刺のように突き刺さる。
「ナイト。最期に我儘聞いてもらえる?」
「俺にできることなら……」
「キスをして」
「お安い御用です」
秀一はそっと優しく沙月にくちづけをした。