明子再び
明子……だった。どうして彼女はいつも俺の心の隙間を埋めるかのようにその存在を……。
息苦しい。この名前を見るだけで秀一はあの日の情事を思い出す。
「はあ……」
リラックスのためのため息のあと明子に携帯を掛ける。
「もしもし秀ちゃん」
身体を重ねる前と変わらない明るい声が耳に届く。
(所詮あれはお遊びだったのか)
軽微な期待は綿毛のごとく知らぬ彼方へと旅立つ。
「明子姉ちゃん、どうかしたの?」
「うーんとね、秀ちゃんの声が聞きたくなっちゃった」
やめてくれ。俺の心を弄ばないでくれ。秀一は強く瞼を閉じる。
「もしもーし、秀ちゃん聞いてるの?」
「聞いてるよ」
「ああ、この間のこと思いだしてるんでしょエッチねえ」
「悪いかよ」
「図星だったのね」
「うん」
「正直でよろしい」
隠したってしょうがない。
「ねえ、もう一度私を抱きたい?」
「なっ、何言ってるんだよ。これ以上旦那さんを裏切る真似はできないよ」
「いつからそんなに物分りの良いひとになったのかしら」
「昔からだよ」
「そう。でもね、もう気にしなくていいのよ」
「えっ、どういうこと?」
「別れたのよ。わたしたち。はいさようならってね」
「ちょっ」
あっけらかんとしている明子にこっちが面食らう。
「離婚届を出すまでは夫婦だよ」
「そんなものとっくに出したわ。あのひとはやっぱり若い女の子がいいんですって。ばかよねえ、その子だってすぐにおばさんになってしまうのに……。そしたらまた別れたりしてね」
「姉ちゃん今は何処に住んでいるの?」
「もう実家に戻っているわ。いつまでも引きずっていたくないもの」
「なんで?」
「なんで? どうしたの」
「そんなにすぐ愛した人を忘れられるものなの?」
青臭いことを口に出す。
「私が心が離れたあの人を戻す術があるのかしら。ないわよね。それなら忘れたほうが精神衛生上楽じゃない」
「強いんだね。姉ちゃんは強いよ。本当に」
胸が押されたかのように語尾がかすれてきた。秀一のほうが神経を圧迫されている。秀一は明子に対してだけは感情を抑えられない。
「かわいくないのかな。こんな時は泣いたらいいの? どうしたらいいのかな?」
(違う、姉ちゃんも傷ついているんだ)
秀一は明子のかすかな変調を感じ取った。そうだ、ホントになんともないのなら年下の俺なんかに連絡なんてしてくるわけないじゃないか俺は馬鹿だ。秀一の脳内で自分をメッタ打ちにする。
「泣きたいなら泣けばいいと思うよ」
電話越しに見えるわけもない笑顔で明るく言ってあげる。
「そう……」
しばしの沈黙が訪れた。
「なーんてね。私がなくとでも思った」
明らかに涙声で精一杯に明るく明子は沈黙を破った。
「騙されないよ」
秀一は騙されたふりをする。
「さて、秀ちゃんも元気そうだしお風呂にでも入ってくるかな」
「明子姉ちゃんも元気そうで何よりだよ」
「じゃあねー」
明子から電話を切った。風呂に入るのは涙を流すためかもしれない。秀一の頭に明子の家に行くという選択肢が現れた。そこには傷ついている姉ちゃんを会って慰めてやりたいという思いと今なら付け入る隙があるという人間の嫌な計算の部分が入り交じっている。
しかし、秀一はそれを思いとどまった。自分がとてつもなき卑怯な男に見えたからだ。恋愛にルールなどないのだからどんな手を使っても良さそうなものだが秀一は妙なところが潔癖でフェアを好みすぎるきらいがある。
もう一度だけだと沙月に電話をかけた。