幼馴染
「お兄ちゃん、朝だよ」
一ノ瀬秀一は気持ち良い眠りから覚めさせられた。
「起きてよ。お兄ちゃん」
「はいはい……」
秀一は重たい瞼を開き、声をかける少女を視界の中心へ据える。
根津美奈子――それがその少女の名で渾名はネズミ。丸みを帯びた輪郭にクリっとした大きな黒い瞳、黒髪のショート、顔立ちはまさしくキュートの一言で人受けが良くウチの両親も美奈子を大層気に入っている。
「あのさ、起こしに来なくていいだろう。俺は一人で起きられるから」
「だって朝食をお世話になるんですもの。これくらいしないと」
彼女の両親は海外旅行に出かけていて、ウチの母親は美奈子の面倒を見ると約束をしている。
「ねえ、制服似合ってる?」
美奈子はくるりと一回転して腰に手を当て秀一に訊いてきた。彼女の入学式は昨日だったので制服姿を見るのは二回目、昨日も適当に褒めておいたのにまた感想を求める。
(だいたい入学式の次の日に旅行に出かけるなよ)
「可愛いよ、可愛い」
「ぜんぜん気持ちが入ってない」
「なんて言えばいいんだよ」
「綺麗とか、清楚とかあるでしょう」
「お前には当てはまらない」
「ひっどーい」
ホッペタをぷっくりと膨らませるその行動は高一にしては幼い。一人っ子で可愛いから甘やかされてきたのが自明だ。
「朝飯先に食ってこい。俺は着替えてから行く」
…………美奈子はベッドの脇を離れない。
「着替えるって言ってるだろ。部屋を出て行けよ」
「恥ずかしいんだ」
「あのな。お前と俺はどれだけの付き合いなんだよ。恥ずかしくなんかねえよ」
そうは言いつつ男の生理現象とは悲しく彼の愚息は朝立ちをしていた。
「ベッドは私が綺麗にしてあげる」
美奈子が勢い良く掛け布団を剥ぐと秀一のズボンの怒張が目に止まった。
「ご……ごめん」
固まった空気の中、彼女は顔を紅潮させそそくさと部屋から出て行く。
「こ、これはあくまで生理現象だからな」
美奈子の背中には届いたかもしれないが耳には入ってないかもしれない。秀一は気まずさを胸に引っ掛け、服に着替え食卓へと行くと美奈子は黙々と朝食を胃に入れている。もぐもぐと咀嚼する姿は渾名のとおりネズミのようで妙な可愛さがある。
向かいに座っている秀一が微笑ましく眺めていると目が合ってしまった。
「なに?」
「うん、いやなんでもないよ」
「遅刻しちゃうよ。お兄ちゃん早く食べなきゃ」
「秀一はもう少し早く起きたらどういいのにね」
母親の正論には言い返す言葉が浮かばない。
「はーい」
取り敢えず返事をしておく。
「ごちそうさまでした」
美奈子は先に食べ終わり食器を下げる。とろいやつなのに食べるのだけはなんとも早い。
「おばさんの料理はいつも最高です」
「あら、ありがとう」
母は満更でもなさそうだ。いや、簡単な朝食ですから、俺でもこれくらいは出来るから……秀一は口には出さずツッコミを入れた。でも美奈子には打算とか媚を売るとか出来ない天然少女だから本音なんだろう。
「いってきます」
「いってきますわ」
「いってらっしゃーい」
玄関をでると美奈子は腕を組んでくる。
「こら、ネズミ調子に乗るな」
「なんで? いままでそんな事言わなかったのに。急にどうしたの?」
「お前はもう高校生だろう」
「だから何?」
「俺とお前は奇しくも同じ学校な訳だ。俺とお前を見て他の同級生たちはなんと思う」
「恋人同士かな」
「分かっているのなら宜しい」
秀一は組んでいた手を離した。そしてそのままツカツカと早足で歩いて行くが美奈子は懸命についてくる。秀一は諦め
「腕組むのは禁止な」
と注意をして早足を止め美奈子と並んで登校することにした。新興住宅街に新設された学校は家から徒歩十五分の所にある。
「一ノ瀬、彼女と登校か?」
背後からの声に振り返ると中学時代からの悪友・島村隆が自転車を押している。
「違うよ。ネズミだよ」
「ネズミ?」
島村は美奈子の顔を覗き込むとパッと目を見開いた。
「美奈子ちゃん、久し振り。俺のこと覚えてる?」
美奈子は秀一の方に瞳を向ける。
(こいつ、忘れてるな)
秀一は美奈子が島村を忘れていることに気づき、思い出させるために二、三会話でもするかと考えた。
「隆、お前ネズミとどれくらい会ってないっけ?」
「三年は会ってないな。お前の家によく行くのに不思議だな」
「一緒にプールに行ったよな。あれ以来か」
一瞬だけ美奈子に目を送る。思い出して……なさそうだ。
「おい、あそこにいるのは進藤さんじゃないか」
秀一は話題を逸らすことにした。島村はいま進藤恭子に狙いを定めている。彼女は今日も一人で登校だ。ストレートのロングの黒髪は美しく肌は透けるような色白で切れ長の目は赤い縁の眼鏡で直射日光を避けている。その清楚な知的さは大人びた雰囲気を帯びており近寄り難さを秀一は感じている。秀一が知っているだけでも六人の男が彼女に告白をして撃沈している。近々島村が七人目の男になるだろう。
「あっ、ほんとだ。秀一お先に」
島村は自転車を漕ぎ進藤の元に行って何やら話しかけている。笑顔の島村とは反対に進藤は無表情にぽつりぽつりと短い言葉を返している。
「ネズミ、思い出せないか? 島村隆だよ」
「思い出した! 飛び込みの人だ」
「そうだ」
三人でプールに行った日、島村は美奈子にいいところを見せようと高さ十メートルの飛び込み台から飛び降りたが恐怖心からカエルみたいなガニ股でお腹から飛び込んでしまい上がってきたときにはお腹が真っ赤に変色していた。それを見て秀一と美奈子は爆笑し、かっこ良いいところを見せるつもりだった隆は引きつった笑いを浮かべた。
「なんか変わったね。大人っぽい」
「あれは三年前だからな」
「ねえ、私はどう? 三年で大人っぽくなったかな?」
「変わらないな」
毎日顔を合わせると変化に疎くなるもんだ。写真で見比べて見れば美奈子も大人っぽくは成っているとは思うのだろうが。
「じゃあ私、可愛い?」
「可愛い、可愛い」
これは昔からのお約束のやり取りだ。秀一がある有名な音楽家の子供の頃の口癖が『ねえ、僕の事好き』だったと美奈子に薀蓄をたれたとき美奈子は冗談めかして『私可愛い?』と訊いてきた。秀一はそれにのって『可愛い、可愛い』と答え、以後それが二人のお約束となった。
「お兄ちゃん、一つお願いがあるんだけど」
「なに?」
「私のことネズミって言うのやめてよ。私は『ず』じゃなくて『づ』だから」
今さらそこかよと思いつつ確かに女子高生にネズミはないなとは思う。
「そうだな。なんて呼ぶのがいい?」
「そう言われると……」
学校はもう目の前に迫っていた。
「帰りまでに考えとくから、それとお前は先輩と呼ぶようにしろよ」
校門をくぐると目の前には白い四階建て校舎がそびえ立ち三年生の靴箱は正面で一年生の靴箱は回ったところにある。I字型の校舎が主に教室で、渡り廊下で繋がっているL字型の校舎に職員室や図書室、音楽室、視聴覚室などがある。
「じゃあ、帰りに教室に来るね」
「一緒に帰るのか?」
「えっ、帰らないの?」
(まだ一緒に下校する友人は出来ていないか。実質今日が初登校だもんな)
「部活には入らないのか? 入学式の日、部活紹介有っただろ」
「興味があるのがなかったの」
「そうか、お前は何組だっけ」
「10組だよ」
「それなら二階だな。俺は3組だから三階だ」
「うん、先に終わったほうが来るんだね」
秀一と美奈子はその約束を交わしてから別れた。
教室に入ると秀一の机の横で隆が左手を机上について右手を腰に当て待っていたとばかりにこっちに目を向けてくる。
「隆、進藤さんはどうだった」
「駄目、脈なし……」
「進藤さんは男嫌いなのかな。誰とも付き合ってないよな」
二人して最前列の左から二番目の席に座り文庫本を読む耽っている進藤に視線をやる。陽光浴びた髪はやや茶色がかりツヤツヤと輝いている。
「秀一は進藤さんのことどう想ってるんだ?」
「いや、なんとも。綺麗だとは思うが俺の趣味じゃない」
「秀一には美奈子ちゃんがいるからな」
「あんなネズミ異性とは見れないよ。妹だよ妹」
「ふーん、そうなのか」
島村は右手で顎をさすり視線を床に向けなにやら思い巡らせている。
「……なあ秀一、美奈子ちゃんと俺の仲を取り持ってくれないか?」
「なっ? お前、まじか? あいつと付き合いたいのか?」
「美奈子ちゃんは普通に可愛いだろ」
(美奈子が男と付き合う?)
秀一は胸がむずむずとしてきた。これまでそんなこと一度も想像したことはないが美奈子とて高校生だ彼氏がいても驚くことでもない。
「取り持つって、俺はどうすればいいんだよ。美奈子はお前知ってるしお前が直接告白すればいい」
「こう、なんというか。俺の魅力というか、そんなところを美奈子ちゃんに伝えといてくれれば俺の印象が良くなるだろう」
「さっきプールの時のこと言ってたぞ」
「あれは、まずった」
島村にとっては黒歴史だ。痛いわ、笑われるわ散々だった記憶が鮮明によみがえる。
「告白するのは構わないんだな」
「なんで俺が気にする必要がある?」
「そうなら別にいいや。近いうちに告白するからそん時は助けになってくれるよな」
「勿論さ」
島村は自分の教室へと帰っていく。どうせ休み時間にはまた来る。秀一は何の気なしに艷めいていた進藤の髪を見ようと彼女に視線を送ると彼女と目が合った。
「!!」
秀一はパッと目を逸らす。
(進藤が自分を見ていた。そんなハズはないたまたまだたまたま……ん? 俺動揺している? なんでだ?)
数秒、窓の外を眺め進藤をちらりと見ると彼女は文字を目で追っていた。秀一は意識しすぎていた自分が気恥ずかしくなる。ほんのかすかにへこんでいると始業ベルが鳴り先生が教室に入ってきた。
六時限目、掃除、ホームルームと来て今日も学校から解放された。さっさと教室を出ると美奈子が既に待っていた。
「お兄ちゃん、帰ろう」
「先輩と呼べよ」
「そうだったね」
はにかんだ笑顔を秀一に見せる。クラスメートは秀一と美奈子を恋人同士だと思っているかのようにちらりとだけ見て靴箱や部活へと向かう。
「一ノ瀬君、さようなら」
その中で唯一、この二人に声をかけてきたのは意外なことに進藤恭子だった。いつもは挨拶すら交わすことはないのに珍しいことがあるものだ。
「進藤さん、さよなら」
「一ノ瀬君、彼女いたんだ」
「彼女じゃなくて、幼馴染の子なんだ。新一年生」
「可愛いわね。私は進藤恭子といいますよろしくね」
「進藤先輩ですね。私は根津美奈子です。こちらこそよろしくお願いします」
美奈子は頭を下げる。進藤が話しかけてくるなんて滅多にない事だ。一年生の頃から同じクラスであったのだが会話をした記憶はさほどない。
「根津さんは一ノ瀬君のことお兄ちゃんと呼んでるの?」
「先輩と呼ぶように今日の朝注意しておいたんだけどね」
「いいじゃない、好きな呼び方で呼ばせてあげなさいよ。慣れた呼び方が一番よ」
「でも、学校でお兄ちゃんは恥ずかしいよ」
「そうかな?」
笑みをたたえる進藤はやはり別格の美しさだ。秀一の好みではないがもてるのは理解できる。
「根津さんの意見を聞きたいわ」
「私はお兄ちゃんが言いやすいです」
「ほら、お兄ちゃんがいいですって」
「分かったよ。お兄ちゃんでいいよ」
「じゃあ、私は生徒会がありますから失礼しますね」
進藤は向き直って生徒会室に足を進める。何をしたかったのだか。進藤の目的を読むことが出来ない。
「お兄ちゃん嬉しそうだね」
ギクリ。
「そんなことはない。進藤さんは俺の好みじゃないよ」
「やけに表情が緩んでたよ」
「気のせいだよ」
「進藤さんの言うことはあっさりと聞くんだ」
胸が針で突いたようにチクチクとする。
(俺はもしかして進藤のこと好きなのかな?)
しかし、そうとは思えない。適当な表現が見つけられず、もどかしい心のしこりが残る。
「帰ろうか?」
「うん」
二人は三年ぶりに並んで帰途につく。ちなみに美奈子の新しい呼び方はなんの捻りなく『美奈子ちゃん』にした。今さら苗字で呼ぶのは余所余所しすぎるし彼氏でもないのに呼び捨てはまずいだろうと。
『ネズミ』は確かに酷過ぎるネーミングだったと秀一は反省している。