幼馴染が優先だと仰るので
婚約指輪が毛糸に引っかかった。
編みかけの手袋から、ひと目だけ大きく伸びる。わたくしが編み棒を止めたところへ、ラウル様の声が重なった。
「明日の墓参りだけど、別の日にしてくれないか」
居間の戸口に立つ婚約者は、外套も脱いでいなかった。
わたくしは左手を糸から抜いた。
「明日は母の命日です」
「分かっている。けれどコレットが熱を出してね」
ラウル様の手には薄紅の封筒があった。コレット嬢の侍女が届ける封筒は、いつもその色だ。
「お医者様はいらっしゃるのでしょう?」
「ああ。でも僕に来てほしいそうだ。君は一人でも行けるだろう」
膝の上で手袋がずれた。
北へ送るものだから、手首は長めにしてある。母に教わったとおり、隙間ができたところへ編み棒を戻した。糸を引けば編み目は直せる。約束にも、そんな道具があればよかった。
「夕方にはお戻りになりますか。花を買ってくださると仰っていたので」
「ああ、花は君が買っておいてくれ。そのほうが好みも分かる」
「先週お渡ししたお金は」
「花代か。今は細かい金がないんだ。あとで渡すよ」
そのお金も、母が好きだった花の話も、わたくしが先に渡したものだった。
ラウル様は封筒を外套の内側へしまった。
「エミーリア。そんな顔をしないでくれ。幼馴染を優先するのは当然だろう」
「……わたくしが、お止めしましたか」
「君も大人になってくれってことだよ。病人に嫉妬するのはよくない」
編み棒の先が手のひらに刺さった。
痛い。たいした痛みではない。それでも、ようやく顔を上げられた。
「明日が、どんな日かは覚えていてくださいますか」
「さっき聞いたよ。君のお母上の命日だろう。だから、別の日にしようと言っている」
母の命日。
わたくしが伝えたその日を、彼は別の日でいいと言った。
ラウル様は返事を待たずに踵を返した。扉が閉まり、外から馬車の車輪の音がした。
わたくしは編みかけの手袋を膝から下ろした。
最後に、お金を返してほしいと呼び止めたかった。花代のためではない。何かひとつくらい、わたくしとの約束を片づけてから行ってほしかった。
でも、そのためにまた「大人になれ」と言われるのは、もう嫌だった。
翌朝、花屋へ出る支度をしていると、玄関にコレット嬢が来た。
薄桃色の外套に白い毛皮。頬にも同じような色がさしている。ラウル様のお母様が、彼女の肩へ手を添えていた。
「エミーリア。今日は一人で出かけるそうね。これを先に返しておこうと思って」
子爵夫人はわたくしの手元に包みを押しつけた。
中から出てきたのは、紺色の手袋だった。
わたくしがラウル様に編んだものだ。彼が近衛になった年、夜の見張りは手が冷えると聞いて贈った。
「あの、昨日はラウル様をお借りしてごめんなさい」
コレット嬢が困ったように笑った。
「熱はもう下がりましたの?」
「ええ。ラウル様が来てくださったら、すっかり。あの方がいると安心するんです」
よかったですね、と言おうとした。口を開いたのに、声は出てこなかった。
包みの手袋から甘い香油が匂う。
「これ、寒かったから貸してくださったの。少し引っかけてしまって。あなたならすぐ直せるって仰ったわ」
左の親指に穴があった。わたくしは指先でそこを広げた。
小さな穴だった。贈ったときは、夜を使ってでも直してあげたいと思ったはずだ。
今はただ、返された手袋が冷たかった。
「新しいものを編んでもらうほうが早いかしらね」
子爵夫人が言った。
「ラウルは忙しいもの。こういうことで責めないであげて」
「責めてはおりません。ただ、母の命日だったので」
「まあ、あなたのお母様なら病人のほうを大事にしてくださるでしょう」
唇の裏を噛んだ。
母の部屋には、薬を煮る苦い匂いがあった。最後に握った手は細く、布団から出すだけでも疲れるようだった。
わたくしが泣くと、母は指を動かして手の甲を撫でた。
あのときの母を、わたくしは今でも覚えている。
ラウル様も病室に来ていた。花を持ってきて、来年も一緒にお参りしようと言った。父と決めた婚約者の言葉に、母は「娘をよろしく」と答えた。
それを知っている人が、別の日でいいと言ったのだ。
「お母様のお考えを、わたくしの母のお考えにしないでください」
言ってから、膝が少し震えた。
子爵夫人の眉が上がる。
「何も、悪いことを言ったつもりはないわ。コレットは家族同然ですもの。結婚したら、あなたにも分かるわ」
「結婚してからも、わたくしとの約束はいつでも後にしてよいということですか」
「お互い様でしょう。ラウルは優しい人なのよ」
コレット嬢が、子爵夫人の袖をそっと引いた。
「もう行きましょう。私のせいで揉めるのは嫌ですもの」
二人が去ってから、わたくしは手袋を裏返した。
内側には、赤い糸で縫ったラウル様の頭文字があった。
渡した相手のために縫った印だった。その人が、誰へ渡してもよいと思うものになっていた。
わたくしは手袋を机の隅へ置き、花代を入れた財布を取りに戻った。
墓地へ続く坂は、日陰に雪が残っていた。
白い花を包んだ紙が、指へかさかさと擦れる。店主は、温室から出したばかりだから風に当てないようにと言った。
母は生前も、その店で花を買っていた。
家の食卓にはいつも花瓶があった。花が傷むと、まだ元気なものだけを小さな器へ移す。もったいないわね、と笑う母の手は、土を触るときも毛糸を持つときも忙しかった。
今日は何を話そう。
婚約者が来られなかったと言うのは、やめておこうか。
考えながら門をくぐり、わたくしは足を止めた。
母の墓前にはもう、白い花が供えてあった。
その横に背の高い男性が立っている。暗い外套の肩には、旅の埃が残っていた。
「エミーリア」
低い声が、子どものころの呼び方でわたくしを呼んだ。
「……オルトヴィン様?」
「昨日着いた。返事が間に合わなくてすまない」
帰京するとは聞いていた。
北方の砦を守った騎士たちの叙勲があるから、王都へ向かう。先月届いた手紙にはそうあった。着く日は天候次第だとも。
それでも、まさかここで会うとは思わなかった。
「今日だろう。お母上の命日」
「覚えていてくださったのですか」
「手紙に書いてあった」
「でも、三年も前のことです」
「だから忘れていいとは思わなかった」
わたくしは花を抱えたまま、下を向いた。
ひとりでも来られる。
そのとおりだ。歩けるし、花を買えるし、祈ることもできる。
けれど、いっしょに来る人がいてくれたら嬉しい。たったそれだけのことを、言ってはいけない気がしていた。
「隣で祈ってもいいか」
「はい。母も喜びます」
花の包みを解くと、オルトヴィン様がしゃがんで紙を押さえた。
大きな手に、古びた紺色の毛糸が触れた。
外套の内側から、小さな手袋が覗いている。
「それ、まだお持ちなんですか」
「分かるのか」
「わたくしが編んだのですもの。左右の大きさが違っているところまで、よく覚えています」
十二歳の冬、彼は父君と北へ赴任した。
冷たいところへ行くと聞いて、母に手伝ってもらいながら手袋を編んだ。片方を仕上げるころには慣れてしまい、もう片方だけ少しきれいにできた。
荷馬車の前で渡すと、彼は両手にはめて何度も指を動かしていた。
「あのときは、ずいぶん緩かった」
「言わないでくださったらよかったのに」
「いや。父が、来年も使えるなと言ったんだ」
「来年までしか使えなかったでしょう」
「その次の年も使った。ほころびは縫った」
差し出された手袋には、色の違う糸が渡っている。
子どものころの手袋だ。今の彼の手には、もうはまらない。それを外套の内側に入れて王都まで来たのだ。
「新しいものを贈ればよかったですね」
「これがよかった」
まっすぐ言われて、わたくしは包み紙を畳み損ねた。
風に煽られた端を、彼がもう一度押さえる。
「あとで、編み方を教えてくれ。直し方が間違っているかもしれない」
「全部ほどいて編み直したほうが、早いです」
「それは困る」
「では、大事にしまっておいてください。お見せするのも恥ずかしい手袋ですから」
「俺は恥ずかしくない」
子どものころは、もっと話が続かない人だった。
今も短い返事ばかりだが、不思議と急いで答えなくていい。
わたくしは母へ花を供え、彼と並んで祈った。
最後に、心の中だけで母へ話しかけた。
今日は、ひとりではなかったよ。
坂を下りたところで、オルトヴィン様が歩調を緩めた。
「馬車は」
「下で待ってもらっています。帰りに、毛糸を買おうと思って」
「歩いてもいいか」
「お疲れでは?」
「君のほうは」
「……少しなら」
うなずくと、彼は道の雪が多いほうを歩いた。わたくしが石畳を踏めるように。
市場の屋根から、雪解けの水が落ちていた。
リボン売りの店の前に、見覚えのある横顔があった。
ラウル様だった。
腕を取るコレット嬢が、薄紅のリボンを自分の髪へ当てている。
「昨日の花の代わりに、これがいいわ。花ってすぐ枯れてしまうもの」
「似合うよ。ではそっちにしよう」
ラウル様が財布を出した。
昨日、わたくしには返せなかった花代。そのことを確かめに行けば、また細かい金がないと言うのかもしれない。
コレット嬢が通りのほうを見た。わたくしと目が合い、リボンをそっと下ろす。
顔色だけで昨日の熱がなかったとは言えない。そんなことは分かっている。
それでも、母の墓へは行かずにここへ来る。その選択まで、病気のせいにしなくてよかった。
ラウル様がこちらへ顔を向けるより早く、わたくしは毛糸屋の看板へ足を向けた。
「今日は、帰ります」
オルトヴィン様は彼らを見た。何も尋ねずに、わたくしの横へ戻る。
「馬車まで送る」
「理由をお聞きにならないのですか」
「話したいか」
喉に溜まったものが、少しずつほどけた。
「今は、話したくありません」
「分かった」
彼の歩幅が小さくなる。
婚約者に追いつくために、わたくしが裾を持ち上げて歩く必要はなかった。
帰宅してすぐ、父の書斎へ行った。
机の端には、叙勲式への招待状が置いてあった。伯爵家にも、北へ送る品を集めてきた婦人会の家にも、招待が届いている。
「ラウルとの婚約を解消したいのか」
「はい」
父の問いにうなずくと、背中に張りついていた緊張が急に分かった。
いいから座れ、と言われて椅子を引いた。指先が冷たかった。
「理由を聞かせてほしい。母さんの墓へ来なかったことだけか」
「それも、理由です。けれど、それだけではありません」
祝いの日に来なかったこと。婦人会の集まりで迎えを待っていたこと。こちらが用意した贈り物を、別の人が使っていたこと。
そのたびに、大人になれと言われたこと。
父は話を遮らなかった。わたくしが机の端へ置いた手袋にも触らなかった。
「どうして今まで言わなかった」
「お父様が決めてくださったお相手です。わたくしが少し我慢すれば済むと思っていました」
「私が決めたから、私が話をつけよう。それでいいか」
「わたくしも、理由を書きます。わたくしが嫌だと言ったことは伝えてください」
父はしばらくわたくしを見て、引き出しから便箋を出した。
「分かった。向こうにも署名を求める。あちらがすぐに承諾するかは分からない」
「はい」
「王城にはどうする。無理に出なくていい」
オルトヴィン様に帰宅の挨拶をするとき、聞かれたのだ。
叙勲式で、誰と出るのか、と。
婚約者は当日、陛下の警護に立つ。だから父と行くつもりだった。そう答えると、彼は「俺が迎えに行ってもいいか」と言った。
断るべきだと思った。
それなのに、断りたくなかった。
「オルトヴィン様にお願いしたいです。ご本人には、父に相談してからお返事すると伝えました」
「昔、母さんにひっついていたあの子か。大きくなったな」
「本当に。もう、うちの台所で菓子をねだるようなお年ではありません」
「私からも礼を言いたい。今日は母さんのところへ来てくれたそうだな」
「ご存じだったのですか」
「墓地で会った。先に帰ったが、迎えがいるならよかった」
父は招待状をわたくしへ寄せた。
「同伴者を変えるとラウルにも通知しておく。返事待ちの間に、余計な騒ぎにならないようにな」
「ありがとうございます」
便箋に向き直り、わたくしは理由を書き始めた。
父が決めた。母が望んだ。そんな主語を借りるのはやめた。
わたくしは、婚約を解消したい。
最初の一文はそれにした。
書簡を使いに渡してから、自室で机の引き出しを開けた。
白い毛糸が残っている。
自分の夜会用に編もうと思いながら、後回しにしていたものだ。
ラウル様の手袋は直さずに、紙へ包み直した。
わたくしは指輪を外した。箱に入れた小さな輪が、かつんと鳴った。
糸を持つ指の腹に、冷たい金属はもう触れなかった。
叙勲式までの間に、オルトヴィン様の滞在先を訪ねた。
婦人会が預かっていた、北方軍からの受領書を返すためだった。
冬前に手袋を送ると、届いた品を兵站の係が確かめて書面を送ってくる。婦人会の会長が父へ届けたものを、王都へ来た軍の方へ渡すように言われていた。
「ご迷惑ではありませんでしたか」
出迎えた彼が真顔で問い返す。
「どうして」
「同伴をお願いしたことです。婚約解消の話までお伝えして、気を遣わせてしまったかと」
「俺から頼んだ」
「そうでした。けれど、今は事情が違いますから」
「君が嫌になったのなら、言ってくれ」
「嫌ではありません」
急いで答えてしまった。彼の背後で、副官が咳払いをした。
外から来たばかりで、喉が乾いたのだろう。そう思いたい咳払いだった。
「それでは、受領書をこちらへ。閣下、礼服の仮縫いは半刻後です。忘れませんように」
「忘れていない」
「前に一度、こちらが迎えに来るまで忘れておられましたので」
副官は書面を受け取ると、戸口のほうへ去った。
わたくしは笑いそうになった口を、手で隠した。
「ご存じだったのに忘れたのですか」
「別のことを考えていた」
「もっと大事なこと?」
「そうだ」
それ以上聞くと、目を逸らされそうだった。わたくしは部屋の椅子へ腰を下ろした。
机に木箱が置いてあった。蓋の角が擦れて、よく持ち歩くものだと分かる。
オルトヴィン様がその箱を開けた。
見覚えのある便箋が、紐でまとめられていた。
「……わたくしの手紙?」
「返事に書き忘れたことがあった。会えたら言おうと思って、持ってきた」
「こんなに、全部ですか」
「捨てるものがなかった」
わたくしは箱の縁へ触れた。磨いた木が指に滑らかだった。
北へ赴任してから、月に一度ほど手紙を書いていた。届くのに時間がかかり、雪で返事が遅れることもあった。
彼の返事は短かった。
無事だ。父は元気だ。毛糸の色は任せる。
それだけの日もあった。わたくしばかり長く書きすぎたかと、次の手紙を短くしたこともある。
「邪魔ではなかったのですね」
「邪魔?」
「お忙しいでしょう。返事をするのも大変だろうと」
「嬉しかった。返事をどう書けばいいか、考えているうちに次が来た」
彼が取り出した便箋は、端に小さな花を描いたものだった。
「これは、庭の小鳥が巣を作った話です」
「卵を見に行くのを我慢したんだろう」
「母に、何度も覗くと親鳥が怖がると言われたので」
「それを読んだとき、こっちにはまだ雪があった。王都は春なんだと思った」
彼はその下から、別の便箋を取った。
「ここ。婦人会で手袋の手首を長くしてみた、と書いてある」
「北から、袖口が寒いとお返事をいただいたからです」
「役に立っている。兵たちは替えも持てるようになった。濡れたものをそのまま使わずに済む」
「では、今度も長くしますね」
「軍医も喜んでいた。交代を短くして、濡れた衣服を替えるようにしているんだ。君たちの手袋は、そのときに渡せる」
どこか遠い国の物語だった北が、急に近くなった。
わたくしの編むものは、見えない誰かの手を包んでいる。袖口のひと目を直すと、その誰かが少し温かくなるのかもしれない。
それを知っている人が、目の前にいた。
「数を増やすために、慣れない方にも手伝っていただいたのです。形が揃わなくて、嫌ではなかったでしょうか」
「兵の手も揃っていない」
そう言われると、おかしくて笑った。
「そうですね。皆様にそう伝えます」
「君のは見つけられる」
「刺繍を見たら、という意味ですか」
「ああ。見つけると、自分が使いたくなった」
わたくしは受領書の控えへ目を落とした。
見る必要はなかった。顔を見られたくなかっただけだ。
「足りていない方の分を取り上げてはいけませんよ」
「分かっている」
「では、ご自分の分は後で。お待ちいただけますか」
「待つ」
彼はすぐに答えた。
少し前までは、待っていてくれとばかり言われていた。自分のために誰かを待たせるなんて、どうしたらよいか分からない。
でも、指が動き始めていた。
この人の今の手に合う手袋を、編みたかった。
帰り支度をしていると、副官が扉を開けた。
「馬車を回しました。閣下、お見送りのあとで仮縫いです」
「分かっている」
「箱はお持ちしませんか。ようやく中身をお見せできたようなので」
オルトヴィン様の手が、蓋を押さえた。
「君は、支度をしてくれ」
「はい。北を出るときも、その箱だけは自分で持つと仰いましたね。壊れ物でも入っているのかと思っていました」
副官が笑うと、オルトヴィン様はほんの少し顔を赤くした。
わたくしは、そこでようやく思い当たった。
仮縫いを忘れたとき、何を考えていたのか。
けれど確かめるのは、もう少し先にした。わたくしまで照れて、階段を踏み外しそうだったから。
夜会の日、白い手袋をはめると、左の薬指だけが少し緩かった。
指輪に合わせて、きつく編まないようにしていたのだ。
わたくしはそこを引き上げ、鏡の前で腕を下ろした。
玄関で待っていたオルトヴィン様が、ふっと姿勢を変える。
「どこか変ですか」
「いや」
「では、ひとことだけで結構です。似合うと仰ってください」
「よく似合う」
頼んでから聞く褒め言葉なのに、耳が熱くなった。
「ありがとうございます。あなたの礼服も、とてもお似合いです」
「慣れない」
「いつもの外套のほうが落ち着きますか」
「君が見ているから」
その返事はずるいと思った。
わたくしは返せなくなり、差し出された腕へ手を載せた。
王城の東回廊には、蝋燭が並んでいた。
招待客が列を作り、奥へ順に進んでいく。回廊の端には、手当てに使う布を用意した係も控えていた。
近衛騎士の声が響いた。
「急患があれば、そちらの係へ知らせるように。配置を離れる前には、必ず交代の許可を取れ」
「はっ」
入口の確認を終えたわたくしたちへ、銀の飾り緒をつけた騎士が近づいてきた。
ラウル様だった。
「エミーリア。伯爵からの手紙は読んだが、ずいぶん急じゃないか」
わたくしはオルトヴィン様の腕から手を下ろさなかった。
「理由も、わたくしの手紙に書きました」
「それは家で話せばいい。婚約者を差し置いて、他の男と来ることはないだろう」
「わたくしの幼馴染です」
「そんなのは知っている」
「幼馴染を優先するのは当然だと、仰ったのはあなたです」
ラウル様の口が開いたまま止まった。
オルトヴィン様は黙っている。わたくしの返事を代わりにしてくれなかった。それがありがたかった。
「君は、仕返しのためにこんなことを?」
「わたくしが、一緒に来たい方へお願いしたのです。お父様からも通知を差し上げました」
「僕の立場も考えてくれ」
「今日の警護は、大事なお仕事なのでしょう。持ち場へ戻られたらいかがですか」
彼が視線を投げた先で、近衛の上官が手を上げていた。
「ラウル。配置の確認だ」
「……あとで話そう」
ラウル様は低い声で言って、奥へ歩いていった。
わたくしは息を吐いた。
ひどいことを言った気がした。けれど、大人になれとは言わなかった。嫉妬は見苦しいとも言わなかった。
自分がしたいことを伝えただけだった。
「手が痛いか」
オルトヴィン様に聞かれて、腕をつかみすぎていたと気づいた。
「ごめんなさい。そちらが痛かったですね」
「いや。離さなくていい」
温かい腕へ、握っていた指を開いて載せ直した。
席へ案内される直前、後ろから呼び声がした。
「ラウル様、来て。コレット様がお倒れになりました」
わたくしは足を止めた。
回廊の長椅子に、白い裾が見えた。ラウル様が担当する通路からは、入口を隔てて少し離れている。
救護の係が先に駆け寄った。
「医師を呼びます。お席をこちらへ」
「ラウル様は。ラウル様がいないと、私……」
コレット嬢の声が細く途切れた。
人の間から、彼女が左手を伸ばすのが見えた。
ラウル様は、自分の位置から一歩動いた。
「騎士殿。こちらで看ます。上官にお知らせください」
「僕が連れていく。コレット、立てるか」
救護の係へそう返すと、彼は入口を越えた。
同じ近衛が「交代は」と声をかける。
「すぐ戻る。ほんの少しだ」
返事はわたくしの知っている軽さだった。
約束の席を離れるときと同じ。あとのことは、誰かが片づけてくれると思っている声だった。
交代を頼まれなかった近衛が、こちらを見た。そのまま自分の配置から手を上げ、上官を呼ぶ。
わたくしはその動きを見届けて、案内された席へ向かった。
今度は、わたくしが待つ席ではなかった。
椅子の肘掛けは、白い手袋越しでも冷たかった。
玉座の間の右側には、陛下が通られるための細い通路がある。そこに立っていたラウル様の姿は、もうなかった。
代わりに別の近衛が、剣の柄へ手を置いていた。
近衛団長はその横に立ち、薄い帳面へ指を置いていた。
奥の扉が開く。ラウル様とコレット嬢が、救護の係に伴われて戻ってきた。
「配置を離れた理由を聞く」
団長の声に、すぐ近くの招待客たちが振り返った。
「幼馴染が倒れました。放ってはおけません」
「救護係は、そばにいたな」
「しかし、彼女は僕を呼んでいたので」
「交代を頼んだか」
「すぐ戻るつもりでした」
団長は帳面を閉じた。
「頼んでいないのだな」
ラウル様の目が、わたくしの座るあたりを探した。
救護の係が一歩前へ出た。
「私から医師を呼ぶとお伝えしました。お嬢様は、騎士殿と行くと仰って」
「今、医師は診ているのか」
「はい。侍医がお越しです」
白髪の侍医がコレット嬢へ椅子を勧めた。彼女は座らず、ラウル様の袖へしがみついた。
「そんなに大げさにしなくても。もう気分はよくなりましたから」
「よくなっても、倒れたのであればお話を伺います。こちらへ」
侍医はただ、静かに繰り返した。
コレット嬢は椅子を見た。それから団長と招待客の顔を見た。
案内された椅子は、わたくしの席のすぐ斜め前にあった。まだ陛下はお越しになっていない。話す声がやんだ広間で、彼女の靴音だけが響いた。
「この方が来てくださったらよくなるんです。それだけですから」
「医師に話をしてくれ、コレット」
ラウル様が彼女の手を外した。
コレット嬢は椅子へ腰を下ろしかけ、また立った。ラウル様の背へ回り、上着の裾を引く。
「あとでね。二人のときにお話しするわ」
今度は、そばにいたわたくしに辛うじて聞こえる声だった。
救護の係が侍医へ向き直った。
「お嬢様は東回廊の長椅子へご自分で横になられました。倒れる瞬間は見ておりません。駆け寄ったときには、お連れの方が騎士殿を呼びに行かれまして」
コレット嬢の手が止まった。
ラウル様が後ろを向く。
「自分で横になったのか。僕が来たときは、気を失っていたはずだろう」
「その話はあとでと言っているでしょう」
「今、答えてくれ。僕は団長に説明しなければならない」
彼はもう、彼女の腰を支えていなかった。
コレット嬢が顔を寄せる。彼女の唇が動いたが、言葉は聞き取れなかった。
ラウル様が一歩退いた。
「なら、なぜ医師に任せなかった。君からちゃんと話してくれ」
「もういいでしょう。あなたは戻ってきたんだから」
「よくない。僕が警護を外れることになったら、君はどうしてくれる」
その声に、コレット嬢が顔を上げた。
「……そんなこと、私に言うの?」
ラウル様は団長を見た。彼女へ返事をしなかった。
コレット嬢が、外されたほうの袖をつかみ直す。
「倒れたふりをしたのは悪かったわ。謝るわよ。でも、私が呼んだら来てくれるって約束したのはあなたでしょう!」
声が広間へ届いた。
ラウル様の唇が、かすかに動く。コレット、と呼んだのが聞こえた。
近くの婦人が座り直し、椅子の脚が床へ擦れた。
コレット嬢はそこで周りを見回した。握った袖から、ゆっくり指を離す。
侍医は彼女を笑わなかった。
「こちらへ。体に無理がなかったかは確かめましょう」
救護の係が椅子を引くと、彼女は俯いたまま腰を下ろした。
団長はラウル様へ向き直った。
「先ほどの彼女の言葉は、後で改めて聞く。お前はどう判断して動いた」
「本当に倒れたと思ったのです」
「ではなぜ医師へ任せず、交代も呼ばなかった」
「彼女が僕を頼ったので……」
「お前が救護をすべて引き受ける必要はなかった。分かるか」
ラウル様は喉を動かした。
「幼馴染なので、僕がそばにいるほうが」
わたくしが立ち上がると、オルトヴィン様も横へ立った。
ラウル様が縋るようにこちらを見た。
「エミーリア。君なら分かるだろう」
いつもは、その言葉の先を聞かなかった。
分かる人になろうとした。邪魔をしない人になろうとした。そのために母の花を一人で買い、帰ってきた人へ笑っていた。
「ラウル様」
手袋に包んだ指を、前で揃えた。
「幼馴染を優先するのは当然と、わたくしに教えてくださったのはあなたです」
「そうだ。だから——」
「けれどここでも当然かどうかを決めるのは、わたくしではありません」
団長が一歩進んだ。
「本日の任務を停止する。剣と飾り緒を預かる。離脱の経緯は、査問でお前自身から聞く」
「団長。今までの働きもお考えください。たった一度です」
「今まで働いたお前なら、持ち場の意味は分かるはずだ」
ラウル様の肩から飾り緒が外される。
剣を受け取る近衛の手は揺れなかった。
ラウル様は自分の肩を触った。指が、布の上を空しく滑った。
母の命日にも握られなかった手だった。彼がこんなに頼りなく見えるとは、思わなかった。
「エミーリア、待ってくれ。あとで君の家へ——」
「家へいらっしゃる前に、返しておきます」
わたくしは持参した包みを取り出した。
紺色の手袋には親指の穴があり、内側には赤い印が残っていた。
どれも、ラウル様はすぐに分かったようだった。
「これは、もう直してくれたのか」
「いいえ。直しませんでした」
彼の開いた手の上へ、包みを載せる。
掌に残っていた赤い糸の感触が消えた。わたくしは空いた手で、自分の白い手袋の裾を引いた。
「わたくしが、あなたのために編んだものです。次に誰へお貸しになるとしても、わたくしに直させる約束はなさらないでください」
ラウル様が包みを握った。
その後ろで、コレット嬢が侍医の質問に答えていた。彼女はこちらを見なかった。
「式のあとに、改めて話を」
「両家の話し合いは父を通してください。わたくしの希望は変わりません」
わたくしは席へ戻った。
膝の上に手を載せてから、少し震えていると分かった。
オルトヴィン様が隣へ腰を下ろした。
「外へ出るか」
「いいえ。あなたの叙勲を見るために来たのです」
彼がうなずいた。手を重ねる前に、わたくしの顔を確かめる。
今度はわたくしから指を差し出した。
手袋越しに触れた彼の手は、温かかった。
警護の配置を確かめ終えた団長が、扉の側へ合図を送った。
陛下が入られると、招待客が立ち上がった。叙勲は滞りなく始まった。
先ほどの騒ぎを見た人も、飾り緒のないラウル様を振り返らなかった。
オルトヴィン様が呼ばれて、わたくしの隣から立つ。
幼馴染は、正しい場所で膝をついた。
北の砦を守った働きが読み上げられ、陛下が剣を授ける。
礼を述べた彼は、次に婦人会の席へ顔を向けた。
「陛下。お許しいただいたとおり、王都の婦人会への礼を申し上げます」
会長の夫人が、わたくしの前で背筋を伸ばした。
招待されたとき、納品した品へのお礼もあるとは聞いていた。こんなふうに、叙勲の場で名を呼ばれるとは思っていなかった。
「冬前に届けていただいた手袋は、替えを持てなかった兵にも渡りました。寒さの中で濡れたものを取り替えられたのは、皆様が編んでくださったからです」
その後ろで、副官が布をほどいた。
載っていたのは、大きさも色も少しずつ違う手袋だった。
会長が隣の夫人の腕へ触れた。
「あれ、あなたのよ」
「分かるの?」
「親指が長いじゃない。わたくしが、直したほうがいいと言ったもの」
わたくしは笑わないように口元を押さえた。
まだ場は厳かだった。けれど前の席で揺れる婦人たちの肩を見ると、冬前に編み棒を並べた居間に戻ったようだった。
「今回は、兵が使ったものを持参しました。まだ修繕が必要なものもあります。届けて終わりでなく、使い方まで尋ねてくださったことに感謝します」
オルトヴィン様は、灰色の手袋をひとつ受け取った。
内側へ返したところに、小さな刺繍があった。
「こちらはエミーリア嬢のものです。手首の長さを変えようと、仲間へ呼びかけてくださった」
隣の夫人がわたくしの肩を押した。
立つと、膝がまた頼りなくなった。先ほどの震えとは違っていた。
オルトヴィン様の横へ、若い兵が進み出た。手袋の指へ、自分の指を重ねる。
弓を引く指のあたりは毛糸が薄くなっていた。長く編んだ手首は、ところどころ糸を継ぎながら形を保っている。
「内側のEが見えると、王都のエミーリア様だって皆で話していたんです。姉と同じ名前なので、すぐに覚えました」
「……お役に立てましたか」
「はい。来年も使います。ほつれは、自分で直せるようになりましたから」
わたくしは、思わず少し前へ出た。
「きつく縫いすぎないでくださいね。指が動かせるくらいに」
「はい。軍医にもそう言われました」
会長の夫人が立ち上がり、陛下へ礼をした。
「次の冬も、皆で編ませていただきます」
「頼む。兵たちの礼を、その手で受け取ってくれ」
拍手が起こった。
わたくしは白い手袋の内側で指を握った。
編んだものを、よく知らない場所へ送っていた。そこには顔があり、声があり、こんなに大きな手があった。
母へ話したいことが、また増えた。
庭の雪が溶けきるころ、父の書斎へ呼ばれた。
ラウル様の家から婚約解消への返書が届き、近衛団からも査問の結果が通知されていた。
「当番台帳と救護の係、それから近衛の証言を照合したそうだ。ラウルにも弁明の機会があった」
父が紙を置く。
わたくしは、書かれた結果へ目を落とした。
近衛からの除籍。王城警護への再任を認めない。
爵位を失うわけでも、家を追われるわけでもない。けれど彼が自慢していた銀の飾り緒は、もう肩に戻らない。
「コレット嬢は、どうなりましたか」
「両親が事情を確認して、伯爵家へ謝罪を送ってきた。王城では、当面は保護者なしでの出席を認めないそうだ」
わたくしはうなずいた。
昨日までの病気を全部嘘と決めるつもりはなかった。それを証明しなくても、婚約を解消する理由はあった。
父が、別の封筒を渡した。
中には、先日渡した花代が入っていた。
「これを返すときに、直接会いたいと言ってきた。断っても構わない。どうする」
わたくしは封筒を机に置いた。
「会います。最後に、わたくしから言いたいことがあります」
居間へ入ってきたラウル様は、近衛の制服を着ていなかった。
子爵夫人は一緒だったが、父が入り口で止めた。
「二人が話す。私たちはここで聞こう」
扉は開いたままになった。
ラウル様が、わたくしの前の椅子へ座る。
「コレットとは、もう会わない」
「そうですか」
「僕も、いろいろ考えた。君をないがしろにしたと思われても、仕方がなかった」
わたくしは膝の上で指を重ねた。
今日は、指輪も編みかけの手袋もなかった。
「そう思われただけですか。それとも、そうなさったのですか」
ラウル様は少し黙った。
「悪かった。だから、婚約解消は考え直してくれないか」
「書類には署名をいただきました」
「ああ。親に言われて署名したが、まだ間に合うだろう。彼女とは会わない。今度は、君を一番にする」
窓の外で、荷車の音がした。婦人会へ返す手袋の箱を運び出しているのだ。
ラウル様はその音に振り向いてから、声を落とした。
「君までいなくなったら、僕はどうなる。近衛も失って、皆が僕を避けている」
「わたくしがいれば、それを取り戻せるのですか」
ラウル様の目が、扉の外の父へ向いた。
「君の父上から、団長へ口添えしてもらえたら」
そこで彼は、言葉を止めた。
わたくしは机に置いた封筒を取った。
「お金は、確かに返していただきました」
「そうだよ。君の言ったとおり、ちゃんと返した」
「母の命日は、返していただけません」
ラウル様の顔が強張った。
「花は別の日にも買えるでしょう。お墓へも行けます。でもわたくしが今年の命日に待っていた人は、来ませんでした」
「それは、来年——」
「来年は、あなたを待ちません」
指輪の箱を、彼の前へ置いた。
ラウル様はそれを開き、銀の輪を取り出した。指に挟んだまま、わたくしの左手へ差し出す。
「もう一度だけ、はめてみてくれないか」
わたくしは左手を引いた。
「その指輪がないときのほうが、糸が引っかからないんです」
彼の指が止まった。
わたくしが箱を寄せると、彼は指輪をそこへ落とした。
わたくしは自分の指を開き、彼へ差し出した箱の蓋を閉じた。
それを受け取ってくれればいい。それだけを思って、手を引いた。
「君は病人に勝って、満足なのか」
扉の外で、父が足を動かした。
わたくしは父へ首を振った。
「コレット嬢に勝ちたかったのではありません。わたくしとの約束も、守ってほしかったのです」
「だから、これからは」
「もう、あなたと約束しません」
今度は、声が震えなかった。
子爵夫人が扉の端から顔を出した。
「エミーリア。こんなに弱っているときくらい、優しくしてあげられないの」
わたくしは立ち上がった。
「はい。できません」
子爵夫人が息を吸った。
わたくしはその続きを待たずに、扉へ歩いた。
「お父様。婦人会へ行ってまいります。直すものが、まだ残っていますから」
父がわたくしへ道を空けた。
ラウル様の手は、指輪の箱を握ったままだった。
婦人会の机には、戻ってきた手袋が並んでいた。
受け取った若い兵の手紙も置いてある。王都で習ったことを帰って仲間へ教えると書いてあった。
「あなた、叙勲の場で直し方を教え始めるから驚いたわ」
会長の夫人が、灰色の親指へ糸を通した。
「わたくしも後で驚きました。陛下の前でしたのに」
「仕方ないわね。使い方が気になってしまったのでしょう」
「はい。でも、あの方はご自分で直してくださるそうです」
「では、わたくしたちは新しいものを編みましょう」
隣の夫人が籠から毛糸を取り出す。
わたくしも席について、編み棒を持った。
誰かが茶を淹れ、誰かが焼き菓子を取った。母も好きだった居間の賑やかさだった。
席を空けておいてくれた人たちと、また来る冬の話をした。
家へ帰ると、庭でオルトヴィン様が待っていた。
父から、今日来ると聞いていた。持っていた小さな袋を握り直す。
「遅くなりました」
「こちらこそ。まだ少し早かった」
「では、お待たせしたのは同じです。……お茶にしますか」
「その前に、話していいか」
彼は外套の内側から、あの古い手袋を出した。
「その手袋、もうほどきませんから。そんなに大事に守らなくても」
「いや。これを見せたいと思った」
わたくしが黙ると、彼は手袋へ目を落とした。
「北に来た最初の冬、帰りたいと思っていた。知っている顔がなかった。父のそばにいると、弱音も言いにくかった」
「お手紙には、そんなこと」
「書けなかった。君に、贈ってもらった手袋を見せた。みんな、変な形だと言った」
「まあ。そうですけれど」
「どうしてそうなったのか、話したんだ。それで、笑って話せる相手ができた」
わたくしは小さな袋を胸の前へ持った。
手袋にそんな役目があったなんて、知らなかった。
「今でも、うまく話せない」
「昔より、お話しになっていますよ」
「君に聞いてほしいからだ」
彼が顔を上げた。
「母君の命日に、来年も一緒に来たい。君がいいなら」
小さくうなずく。
それだけでよかったはずなのに、目が潤んだ。
「その次も。来年だけの約束にはしたくない」
「オルトヴィン様」
「俺と結婚してくれないか」
彼の声が最後で少し掠れた。
わたくしは袋を開き、編み上がった手袋を取り出した。
北の冬に合うように手首を長くして、彼の手に合うように編んだものだった。
「その前に、申し上げておきたいことがあります」
彼の肩が強張る。
「いつでも、わたくしを一番にすると仰らないでください。お仕事も北の方々も、大切になさってほしいです」
「分かっている」
「そのうえで、わたくしとも約束してください。来られなくなったら、来られないとお知らせください。別の日にできないことを、わたくしが言ったら聞いてください」
彼は手袋を持つわたくしの手へ触れた。
「聞く。君も、我慢せずに言ってくれ」
「言います。たぶん、思っていらっしゃるよりうるさいですよ」
「知っている」
「今のところは、知らないふりをなさって」
笑ったら涙が落ちた。
彼が指を動かしかけて、止める。
わたくしが手袋の口を広げると、彼は指を揃えた。無理に押し込まず、わたくしが毛糸を引き上げるのを待っている。
親指が収まり、手首まで引いたところで、わたくしはその手に頬へ触れてもらった。
毛糸は、指に馴染む。
ひと目ずつ編んだものが、ぴたりと相手の手を包む。その嬉しさを、久しぶりに思い出した。
「お返事は、はいです」
オルトヴィン様が、わたくしの手へ口づけた。
もう片方の手袋は、二人で手首まで引き上げた。
「内側を見てください」
彼が袖口を返す。
わたくしは恥ずかしくなって、自分の手袋を引き上げ直した。
赤い糸で彼の頭文字を縫った。誰のために編んだのか、今度もそうして残したかった。
「ありがとう」
「どうぞ、大事に使ってください。ほころびは、今度は一緒に直しましょう」
彼はうなずき、わたくしの手を取った。
外套の内側には、左右の大きさが違う小さな手袋が、また大事にしまわれていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回、エミーリアが最初に贈った手袋は、左右の大きさが違っています。編んでいるうちに慣れて、後から作った片方だけ上手になった。その失敗を、オルトヴィンは直しながら持っていました。
北へ送る手袋も、婦人会のみんなで編んだものです。そろわない形が兵の手に合う、というやり取りは、書いていて楽しかったところでした。きれいにできたものだけが大切にされるのではないと、二人の会話から伝われば嬉しいです。
また、エミーリアは「いつでも一番にしてほしい」とは頼みません。守れない約束を黙って破るのではなく、話を聞き合える人と暮らしたい。最後の求婚には、そんな彼女の願いを込めました。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
理不尽な扱いを受けた令嬢たちが、自分の居場所を選び直す一話完結の短編集です。各話は独立しています。
▼ 公開中
「お前は道具だった」と笑った婚約者が、5年後に物乞いになって戻ってきた件
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