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幼馴染が優先だと仰るので

作者: 歩人
掲載日:2026/10/15

 婚約指輪が毛糸に引っかかった。

 編みかけの手袋から、ひと目だけ大きく伸びる。わたくしが編み棒を止めたところへ、ラウル様の声が重なった。

「明日の墓参りだけど、別の日にしてくれないか」

 居間の戸口に立つ婚約者は、外套も脱いでいなかった。

 わたくしは左手を糸から抜いた。

「明日は母の命日です」

「分かっている。けれどコレットが熱を出してね」

 ラウル様の手には薄紅の封筒があった。コレット嬢の侍女が届ける封筒は、いつもその色だ。

「お医者様はいらっしゃるのでしょう?」

「ああ。でも僕に来てほしいそうだ。君は一人でも行けるだろう」

 膝の上で手袋がずれた。

 北へ送るものだから、手首は長めにしてある。母に教わったとおり、隙間ができたところへ編み棒を戻した。糸を引けば編み目は直せる。約束にも、そんな道具があればよかった。

「夕方にはお戻りになりますか。花を買ってくださると仰っていたので」

「ああ、花は君が買っておいてくれ。そのほうが好みも分かる」

「先週お渡ししたお金は」

「花代か。今は細かい金がないんだ。あとで渡すよ」

 そのお金も、母が好きだった花の話も、わたくしが先に渡したものだった。

 ラウル様は封筒を外套の内側へしまった。

「エミーリア。そんな顔をしないでくれ。幼馴染を優先するのは当然だろう」

「……わたくしが、お止めしましたか」

「君も大人になってくれってことだよ。病人に嫉妬するのはよくない」

 編み棒の先が手のひらに刺さった。

 痛い。たいした痛みではない。それでも、ようやく顔を上げられた。

「明日が、どんな日かは覚えていてくださいますか」

「さっき聞いたよ。君のお母上の命日だろう。だから、別の日にしようと言っている」

 母の命日。

 わたくしが伝えたその日を、彼は別の日でいいと言った。

 ラウル様は返事を待たずに踵を返した。扉が閉まり、外から馬車の車輪の音がした。

 わたくしは編みかけの手袋を膝から下ろした。

 最後に、お金を返してほしいと呼び止めたかった。花代のためではない。何かひとつくらい、わたくしとの約束を片づけてから行ってほしかった。

 でも、そのためにまた「大人になれ」と言われるのは、もう嫌だった。


 翌朝、花屋へ出る支度をしていると、玄関にコレット嬢が来た。

 薄桃色の外套に白い毛皮。頬にも同じような色がさしている。ラウル様のお母様が、彼女の肩へ手を添えていた。

「エミーリア。今日は一人で出かけるそうね。これを先に返しておこうと思って」

 子爵夫人はわたくしの手元に包みを押しつけた。

 中から出てきたのは、紺色の手袋だった。

 わたくしがラウル様に編んだものだ。彼が近衛になった年、夜の見張りは手が冷えると聞いて贈った。

「あの、昨日はラウル様をお借りしてごめんなさい」

 コレット嬢が困ったように笑った。

「熱はもう下がりましたの?」

「ええ。ラウル様が来てくださったら、すっかり。あの方がいると安心するんです」

 よかったですね、と言おうとした。口を開いたのに、声は出てこなかった。

 包みの手袋から甘い香油が匂う。

「これ、寒かったから貸してくださったの。少し引っかけてしまって。あなたならすぐ直せるって仰ったわ」

 左の親指に穴があった。わたくしは指先でそこを広げた。

 小さな穴だった。贈ったときは、夜を使ってでも直してあげたいと思ったはずだ。

 今はただ、返された手袋が冷たかった。

「新しいものを編んでもらうほうが早いかしらね」

 子爵夫人が言った。

「ラウルは忙しいもの。こういうことで責めないであげて」

「責めてはおりません。ただ、母の命日だったので」

「まあ、あなたのお母様なら病人のほうを大事にしてくださるでしょう」

 唇の裏を噛んだ。

 母の部屋には、薬を煮る苦い匂いがあった。最後に握った手は細く、布団から出すだけでも疲れるようだった。

 わたくしが泣くと、母は指を動かして手の甲を撫でた。

 あのときの母を、わたくしは今でも覚えている。

 ラウル様も病室に来ていた。花を持ってきて、来年も一緒にお参りしようと言った。父と決めた婚約者の言葉に、母は「娘をよろしく」と答えた。

 それを知っている人が、別の日でいいと言ったのだ。

「お母様のお考えを、わたくしの母のお考えにしないでください」

 言ってから、膝が少し震えた。

 子爵夫人の眉が上がる。

「何も、悪いことを言ったつもりはないわ。コレットは家族同然ですもの。結婚したら、あなたにも分かるわ」

「結婚してからも、わたくしとの約束はいつでも後にしてよいということですか」

「お互い様でしょう。ラウルは優しい人なのよ」

 コレット嬢が、子爵夫人の袖をそっと引いた。

「もう行きましょう。私のせいで揉めるのは嫌ですもの」

 二人が去ってから、わたくしは手袋を裏返した。

 内側には、赤い糸で縫ったラウル様の頭文字があった。

 渡した相手のために縫った印だった。その人が、誰へ渡してもよいと思うものになっていた。

 わたくしは手袋を机の隅へ置き、花代を入れた財布を取りに戻った。




 墓地へ続く坂は、日陰に雪が残っていた。

 白い花を包んだ紙が、指へかさかさと擦れる。店主は、温室から出したばかりだから風に当てないようにと言った。

 母は生前も、その店で花を買っていた。

 家の食卓にはいつも花瓶があった。花が傷むと、まだ元気なものだけを小さな器へ移す。もったいないわね、と笑う母の手は、土を触るときも毛糸を持つときも忙しかった。

 今日は何を話そう。

 婚約者が来られなかったと言うのは、やめておこうか。

 考えながら門をくぐり、わたくしは足を止めた。

 母の墓前にはもう、白い花が供えてあった。

 その横に背の高い男性が立っている。暗い外套の肩には、旅の埃が残っていた。

「エミーリア」

 低い声が、子どものころの呼び方でわたくしを呼んだ。

「……オルトヴィン様?」

「昨日着いた。返事が間に合わなくてすまない」

 帰京するとは聞いていた。

 北方の砦を守った騎士たちの叙勲があるから、王都へ向かう。先月届いた手紙にはそうあった。着く日は天候次第だとも。

 それでも、まさかここで会うとは思わなかった。

「今日だろう。お母上の命日」

「覚えていてくださったのですか」

「手紙に書いてあった」

「でも、三年も前のことです」

「だから忘れていいとは思わなかった」

 わたくしは花を抱えたまま、下を向いた。

 ひとりでも来られる。

 そのとおりだ。歩けるし、花を買えるし、祈ることもできる。

 けれど、いっしょに来る人がいてくれたら嬉しい。たったそれだけのことを、言ってはいけない気がしていた。

「隣で祈ってもいいか」

「はい。母も喜びます」

 花の包みを解くと、オルトヴィン様がしゃがんで紙を押さえた。

 大きな手に、古びた紺色の毛糸が触れた。

 外套の内側から、小さな手袋が覗いている。

「それ、まだお持ちなんですか」

「分かるのか」

「わたくしが編んだのですもの。左右の大きさが違っているところまで、よく覚えています」

 十二歳の冬、彼は父君と北へ赴任した。

 冷たいところへ行くと聞いて、母に手伝ってもらいながら手袋を編んだ。片方を仕上げるころには慣れてしまい、もう片方だけ少しきれいにできた。

 荷馬車の前で渡すと、彼は両手にはめて何度も指を動かしていた。

「あのときは、ずいぶん緩かった」

「言わないでくださったらよかったのに」

「いや。父が、来年も使えるなと言ったんだ」

「来年までしか使えなかったでしょう」

「その次の年も使った。ほころびは縫った」

 差し出された手袋には、色の違う糸が渡っている。

 子どものころの手袋だ。今の彼の手には、もうはまらない。それを外套の内側に入れて王都まで来たのだ。

「新しいものを贈ればよかったですね」

「これがよかった」

 まっすぐ言われて、わたくしは包み紙を畳み損ねた。

 風に煽られた端を、彼がもう一度押さえる。

「あとで、編み方を教えてくれ。直し方が間違っているかもしれない」

「全部ほどいて編み直したほうが、早いです」

「それは困る」

「では、大事にしまっておいてください。お見せするのも恥ずかしい手袋ですから」

「俺は恥ずかしくない」

 子どものころは、もっと話が続かない人だった。

 今も短い返事ばかりだが、不思議と急いで答えなくていい。

 わたくしは母へ花を供え、彼と並んで祈った。

 最後に、心の中だけで母へ話しかけた。

 今日は、ひとりではなかったよ。


 坂を下りたところで、オルトヴィン様が歩調を緩めた。

「馬車は」

「下で待ってもらっています。帰りに、毛糸を買おうと思って」

「歩いてもいいか」

「お疲れでは?」

「君のほうは」

「……少しなら」

 うなずくと、彼は道の雪が多いほうを歩いた。わたくしが石畳を踏めるように。

 市場の屋根から、雪解けの水が落ちていた。

 リボン売りの店の前に、見覚えのある横顔があった。

 ラウル様だった。

 腕を取るコレット嬢が、薄紅のリボンを自分の髪へ当てている。

「昨日の花の代わりに、これがいいわ。花ってすぐ枯れてしまうもの」

「似合うよ。ではそっちにしよう」

 ラウル様が財布を出した。

 昨日、わたくしには返せなかった花代。そのことを確かめに行けば、また細かい金がないと言うのかもしれない。

 コレット嬢が通りのほうを見た。わたくしと目が合い、リボンをそっと下ろす。

 顔色だけで昨日の熱がなかったとは言えない。そんなことは分かっている。

 それでも、母の墓へは行かずにここへ来る。その選択まで、病気のせいにしなくてよかった。

 ラウル様がこちらへ顔を向けるより早く、わたくしは毛糸屋の看板へ足を向けた。

「今日は、帰ります」

 オルトヴィン様は彼らを見た。何も尋ねずに、わたくしの横へ戻る。

「馬車まで送る」

「理由をお聞きにならないのですか」

「話したいか」

 喉に溜まったものが、少しずつほどけた。

「今は、話したくありません」

「分かった」

 彼の歩幅が小さくなる。

 婚約者に追いつくために、わたくしが裾を持ち上げて歩く必要はなかった。




 帰宅してすぐ、父の書斎へ行った。

 机の端には、叙勲式への招待状が置いてあった。伯爵家にも、北へ送る品を集めてきた婦人会の家にも、招待が届いている。

「ラウルとの婚約を解消したいのか」

「はい」

 父の問いにうなずくと、背中に張りついていた緊張が急に分かった。

 いいから座れ、と言われて椅子を引いた。指先が冷たかった。

「理由を聞かせてほしい。母さんの墓へ来なかったことだけか」

「それも、理由です。けれど、それだけではありません」

 祝いの日に来なかったこと。婦人会の集まりで迎えを待っていたこと。こちらが用意した贈り物を、別の人が使っていたこと。

 そのたびに、大人になれと言われたこと。

 父は話を遮らなかった。わたくしが机の端へ置いた手袋にも触らなかった。

「どうして今まで言わなかった」

「お父様が決めてくださったお相手です。わたくしが少し我慢すれば済むと思っていました」

「私が決めたから、私が話をつけよう。それでいいか」

「わたくしも、理由を書きます。わたくしが嫌だと言ったことは伝えてください」

 父はしばらくわたくしを見て、引き出しから便箋を出した。

「分かった。向こうにも署名を求める。あちらがすぐに承諾するかは分からない」

「はい」

「王城にはどうする。無理に出なくていい」

 オルトヴィン様に帰宅の挨拶をするとき、聞かれたのだ。

 叙勲式で、誰と出るのか、と。

 婚約者は当日、陛下の警護に立つ。だから父と行くつもりだった。そう答えると、彼は「俺が迎えに行ってもいいか」と言った。

 断るべきだと思った。

 それなのに、断りたくなかった。

「オルトヴィン様にお願いしたいです。ご本人には、父に相談してからお返事すると伝えました」

「昔、母さんにひっついていたあの子か。大きくなったな」

「本当に。もう、うちの台所で菓子をねだるようなお年ではありません」

「私からも礼を言いたい。今日は母さんのところへ来てくれたそうだな」

「ご存じだったのですか」

「墓地で会った。先に帰ったが、迎えがいるならよかった」

 父は招待状をわたくしへ寄せた。

「同伴者を変えるとラウルにも通知しておく。返事待ちの間に、余計な騒ぎにならないようにな」

「ありがとうございます」

 便箋に向き直り、わたくしは理由を書き始めた。

 父が決めた。母が望んだ。そんな主語を借りるのはやめた。

 わたくしは、婚約を解消したい。

 最初の一文はそれにした。


 書簡を使いに渡してから、自室で机の引き出しを開けた。

 白い毛糸が残っている。

 自分の夜会用に編もうと思いながら、後回しにしていたものだ。

 ラウル様の手袋は直さずに、紙へ包み直した。

 わたくしは指輪を外した。箱に入れた小さな輪が、かつんと鳴った。

 糸を持つ指の腹に、冷たい金属はもう触れなかった。




 叙勲式までの間に、オルトヴィン様の滞在先を訪ねた。

 婦人会が預かっていた、北方軍からの受領書を返すためだった。

 冬前に手袋を送ると、届いた品を兵站の係が確かめて書面を送ってくる。婦人会の会長が父へ届けたものを、王都へ来た軍の方へ渡すように言われていた。

「ご迷惑ではありませんでしたか」

 出迎えた彼が真顔で問い返す。

「どうして」

「同伴をお願いしたことです。婚約解消の話までお伝えして、気を遣わせてしまったかと」

「俺から頼んだ」

「そうでした。けれど、今は事情が違いますから」

「君が嫌になったのなら、言ってくれ」

「嫌ではありません」

 急いで答えてしまった。彼の背後で、副官が咳払いをした。

 外から来たばかりで、喉が乾いたのだろう。そう思いたい咳払いだった。

「それでは、受領書をこちらへ。閣下、礼服の仮縫いは半刻後です。忘れませんように」

「忘れていない」

「前に一度、こちらが迎えに来るまで忘れておられましたので」

 副官は書面を受け取ると、戸口のほうへ去った。

 わたくしは笑いそうになった口を、手で隠した。

「ご存じだったのに忘れたのですか」

「別のことを考えていた」

「もっと大事なこと?」

「そうだ」

 それ以上聞くと、目を逸らされそうだった。わたくしは部屋の椅子へ腰を下ろした。

 机に木箱が置いてあった。蓋の角が擦れて、よく持ち歩くものだと分かる。

 オルトヴィン様がその箱を開けた。

 見覚えのある便箋が、紐でまとめられていた。

「……わたくしの手紙?」

「返事に書き忘れたことがあった。会えたら言おうと思って、持ってきた」

「こんなに、全部ですか」

「捨てるものがなかった」

 わたくしは箱の縁へ触れた。磨いた木が指に滑らかだった。

 北へ赴任してから、月に一度ほど手紙を書いていた。届くのに時間がかかり、雪で返事が遅れることもあった。

 彼の返事は短かった。

 無事だ。父は元気だ。毛糸の色は任せる。

 それだけの日もあった。わたくしばかり長く書きすぎたかと、次の手紙を短くしたこともある。

「邪魔ではなかったのですね」

「邪魔?」

「お忙しいでしょう。返事をするのも大変だろうと」

「嬉しかった。返事をどう書けばいいか、考えているうちに次が来た」

 彼が取り出した便箋は、端に小さな花を描いたものだった。

「これは、庭の小鳥が巣を作った話です」

「卵を見に行くのを我慢したんだろう」

「母に、何度も覗くと親鳥が怖がると言われたので」

「それを読んだとき、こっちにはまだ雪があった。王都は春なんだと思った」

 彼はその下から、別の便箋を取った。

「ここ。婦人会で手袋の手首を長くしてみた、と書いてある」

「北から、袖口が寒いとお返事をいただいたからです」

「役に立っている。兵たちは替えも持てるようになった。濡れたものをそのまま使わずに済む」

「では、今度も長くしますね」

「軍医も喜んでいた。交代を短くして、濡れた衣服を替えるようにしているんだ。君たちの手袋は、そのときに渡せる」

 どこか遠い国の物語だった北が、急に近くなった。

 わたくしの編むものは、見えない誰かの手を包んでいる。袖口のひと目を直すと、その誰かが少し温かくなるのかもしれない。

 それを知っている人が、目の前にいた。

「数を増やすために、慣れない方にも手伝っていただいたのです。形が揃わなくて、嫌ではなかったでしょうか」

「兵の手も揃っていない」

 そう言われると、おかしくて笑った。

「そうですね。皆様にそう伝えます」

「君のは見つけられる」

「刺繍を見たら、という意味ですか」

「ああ。見つけると、自分が使いたくなった」

 わたくしは受領書の控えへ目を落とした。

 見る必要はなかった。顔を見られたくなかっただけだ。

「足りていない方の分を取り上げてはいけませんよ」

「分かっている」

「では、ご自分の分は後で。お待ちいただけますか」

「待つ」

 彼はすぐに答えた。

 少し前までは、待っていてくれとばかり言われていた。自分のために誰かを待たせるなんて、どうしたらよいか分からない。

 でも、指が動き始めていた。

 この人の今の手に合う手袋を、編みたかった。


 帰り支度をしていると、副官が扉を開けた。

「馬車を回しました。閣下、お見送りのあとで仮縫いです」

「分かっている」

「箱はお持ちしませんか。ようやく中身をお見せできたようなので」

 オルトヴィン様の手が、蓋を押さえた。

「君は、支度をしてくれ」

「はい。北を出るときも、その箱だけは自分で持つと仰いましたね。壊れ物でも入っているのかと思っていました」

 副官が笑うと、オルトヴィン様はほんの少し顔を赤くした。

 わたくしは、そこでようやく思い当たった。

 仮縫いを忘れたとき、何を考えていたのか。

 けれど確かめるのは、もう少し先にした。わたくしまで照れて、階段を踏み外しそうだったから。




 夜会の日、白い手袋をはめると、左の薬指だけが少し緩かった。

 指輪に合わせて、きつく編まないようにしていたのだ。

 わたくしはそこを引き上げ、鏡の前で腕を下ろした。

 玄関で待っていたオルトヴィン様が、ふっと姿勢を変える。

「どこか変ですか」

「いや」

「では、ひとことだけで結構です。似合うと仰ってください」

「よく似合う」

 頼んでから聞く褒め言葉なのに、耳が熱くなった。

「ありがとうございます。あなたの礼服も、とてもお似合いです」

「慣れない」

「いつもの外套のほうが落ち着きますか」

「君が見ているから」

 その返事はずるいと思った。

 わたくしは返せなくなり、差し出された腕へ手を載せた。


 王城の東回廊には、蝋燭が並んでいた。

 招待客が列を作り、奥へ順に進んでいく。回廊の端には、手当てに使う布を用意した係も控えていた。

 近衛騎士の声が響いた。

「急患があれば、そちらの係へ知らせるように。配置を離れる前には、必ず交代の許可を取れ」

「はっ」

 入口の確認を終えたわたくしたちへ、銀の飾り緒をつけた騎士が近づいてきた。

 ラウル様だった。

「エミーリア。伯爵からの手紙は読んだが、ずいぶん急じゃないか」

 わたくしはオルトヴィン様の腕から手を下ろさなかった。

「理由も、わたくしの手紙に書きました」

「それは家で話せばいい。婚約者を差し置いて、他の男と来ることはないだろう」

「わたくしの幼馴染です」

「そんなのは知っている」

「幼馴染を優先するのは当然だと、仰ったのはあなたです」

 ラウル様の口が開いたまま止まった。

 オルトヴィン様は黙っている。わたくしの返事を代わりにしてくれなかった。それがありがたかった。

「君は、仕返しのためにこんなことを?」

「わたくしが、一緒に来たい方へお願いしたのです。お父様からも通知を差し上げました」

「僕の立場も考えてくれ」

「今日の警護は、大事なお仕事なのでしょう。持ち場へ戻られたらいかがですか」

 彼が視線を投げた先で、近衛の上官が手を上げていた。

「ラウル。配置の確認だ」

「……あとで話そう」

 ラウル様は低い声で言って、奥へ歩いていった。

 わたくしは息を吐いた。

 ひどいことを言った気がした。けれど、大人になれとは言わなかった。嫉妬は見苦しいとも言わなかった。

 自分がしたいことを伝えただけだった。

「手が痛いか」

 オルトヴィン様に聞かれて、腕をつかみすぎていたと気づいた。

「ごめんなさい。そちらが痛かったですね」

「いや。離さなくていい」

 温かい腕へ、握っていた指を開いて載せ直した。


 席へ案内される直前、後ろから呼び声がした。

「ラウル様、来て。コレット様がお倒れになりました」

 わたくしは足を止めた。

 回廊の長椅子に、白い裾が見えた。ラウル様が担当する通路からは、入口を隔てて少し離れている。

 救護の係が先に駆け寄った。

「医師を呼びます。お席をこちらへ」

「ラウル様は。ラウル様がいないと、私……」

 コレット嬢の声が細く途切れた。

 人の間から、彼女が左手を伸ばすのが見えた。

 ラウル様は、自分の位置から一歩動いた。

「騎士殿。こちらで看ます。上官にお知らせください」

「僕が連れていく。コレット、立てるか」

 救護の係へそう返すと、彼は入口を越えた。

 同じ近衛が「交代は」と声をかける。

「すぐ戻る。ほんの少しだ」

 返事はわたくしの知っている軽さだった。

 約束の席を離れるときと同じ。あとのことは、誰かが片づけてくれると思っている声だった。

 交代を頼まれなかった近衛が、こちらを見た。そのまま自分の配置から手を上げ、上官を呼ぶ。

 わたくしはその動きを見届けて、案内された席へ向かった。

 今度は、わたくしが待つ席ではなかった。




 椅子の肘掛けは、白い手袋越しでも冷たかった。

 玉座の間の右側には、陛下が通られるための細い通路がある。そこに立っていたラウル様の姿は、もうなかった。

 代わりに別の近衛が、剣の柄へ手を置いていた。

 近衛団長はその横に立ち、薄い帳面へ指を置いていた。

 奥の扉が開く。ラウル様とコレット嬢が、救護の係に伴われて戻ってきた。

「配置を離れた理由を聞く」

 団長の声に、すぐ近くの招待客たちが振り返った。

「幼馴染が倒れました。放ってはおけません」

「救護係は、そばにいたな」

「しかし、彼女は僕を呼んでいたので」

「交代を頼んだか」

「すぐ戻るつもりでした」

 団長は帳面を閉じた。

「頼んでいないのだな」

 ラウル様の目が、わたくしの座るあたりを探した。

 救護の係が一歩前へ出た。

「私から医師を呼ぶとお伝えしました。お嬢様は、騎士殿と行くと仰って」

「今、医師は診ているのか」

「はい。侍医がお越しです」

 白髪の侍医がコレット嬢へ椅子を勧めた。彼女は座らず、ラウル様の袖へしがみついた。

「そんなに大げさにしなくても。もう気分はよくなりましたから」

「よくなっても、倒れたのであればお話を伺います。こちらへ」

 侍医はただ、静かに繰り返した。

 コレット嬢は椅子を見た。それから団長と招待客の顔を見た。

 案内された椅子は、わたくしの席のすぐ斜め前にあった。まだ陛下はお越しになっていない。話す声がやんだ広間で、彼女の靴音だけが響いた。

「この方が来てくださったらよくなるんです。それだけですから」

「医師に話をしてくれ、コレット」

 ラウル様が彼女の手を外した。

 コレット嬢は椅子へ腰を下ろしかけ、また立った。ラウル様の背へ回り、上着の裾を引く。

「あとでね。二人のときにお話しするわ」

 今度は、そばにいたわたくしに辛うじて聞こえる声だった。

 救護の係が侍医へ向き直った。

「お嬢様は東回廊の長椅子へご自分で横になられました。倒れる瞬間は見ておりません。駆け寄ったときには、お連れの方が騎士殿を呼びに行かれまして」

 コレット嬢の手が止まった。

 ラウル様が後ろを向く。

「自分で横になったのか。僕が来たときは、気を失っていたはずだろう」

「その話はあとでと言っているでしょう」

「今、答えてくれ。僕は団長に説明しなければならない」

 彼はもう、彼女の腰を支えていなかった。

 コレット嬢が顔を寄せる。彼女の唇が動いたが、言葉は聞き取れなかった。

 ラウル様が一歩退いた。

「なら、なぜ医師に任せなかった。君からちゃんと話してくれ」

「もういいでしょう。あなたは戻ってきたんだから」

「よくない。僕が警護を外れることになったら、君はどうしてくれる」

 その声に、コレット嬢が顔を上げた。

「……そんなこと、私に言うの?」

 ラウル様は団長を見た。彼女へ返事をしなかった。

 コレット嬢が、外されたほうの袖をつかみ直す。

「倒れたふりをしたのは悪かったわ。謝るわよ。でも、私が呼んだら来てくれるって約束したのはあなたでしょう!」

 声が広間へ届いた。

 ラウル様の唇が、かすかに動く。コレット、と呼んだのが聞こえた。

 近くの婦人が座り直し、椅子の脚が床へ擦れた。

 コレット嬢はそこで周りを見回した。握った袖から、ゆっくり指を離す。

 侍医は彼女を笑わなかった。

「こちらへ。体に無理がなかったかは確かめましょう」

 救護の係が椅子を引くと、彼女は俯いたまま腰を下ろした。

 団長はラウル様へ向き直った。

「先ほどの彼女の言葉は、後で改めて聞く。お前はどう判断して動いた」

「本当に倒れたと思ったのです」

「ではなぜ医師へ任せず、交代も呼ばなかった」

「彼女が僕を頼ったので……」

「お前が救護をすべて引き受ける必要はなかった。分かるか」

 ラウル様は喉を動かした。

「幼馴染なので、僕がそばにいるほうが」

 わたくしが立ち上がると、オルトヴィン様も横へ立った。

 ラウル様が縋るようにこちらを見た。

「エミーリア。君なら分かるだろう」

 いつもは、その言葉の先を聞かなかった。

 分かる人になろうとした。邪魔をしない人になろうとした。そのために母の花を一人で買い、帰ってきた人へ笑っていた。

「ラウル様」

 手袋に包んだ指を、前で揃えた。

「幼馴染を優先するのは当然と、わたくしに教えてくださったのはあなたです」

「そうだ。だから——」

「けれどここでも当然かどうかを決めるのは、わたくしではありません」

 団長が一歩進んだ。

「本日の任務を停止する。剣と飾り緒を預かる。離脱の経緯は、査問でお前自身から聞く」

「団長。今までの働きもお考えください。たった一度です」

「今まで働いたお前なら、持ち場の意味は分かるはずだ」

 ラウル様の肩から飾り緒が外される。

 剣を受け取る近衛の手は揺れなかった。

 ラウル様は自分の肩を触った。指が、布の上を空しく滑った。

 母の命日にも握られなかった手だった。彼がこんなに頼りなく見えるとは、思わなかった。

「エミーリア、待ってくれ。あとで君の家へ——」

「家へいらっしゃる前に、返しておきます」

 わたくしは持参した包みを取り出した。

 紺色の手袋には親指の穴があり、内側には赤い印が残っていた。

 どれも、ラウル様はすぐに分かったようだった。

「これは、もう直してくれたのか」

「いいえ。直しませんでした」

 彼の開いた手の上へ、包みを載せる。

 掌に残っていた赤い糸の感触が消えた。わたくしは空いた手で、自分の白い手袋の裾を引いた。

「わたくしが、あなたのために編んだものです。次に誰へお貸しになるとしても、わたくしに直させる約束はなさらないでください」

 ラウル様が包みを握った。

 その後ろで、コレット嬢が侍医の質問に答えていた。彼女はこちらを見なかった。

「式のあとに、改めて話を」

「両家の話し合いは父を通してください。わたくしの希望は変わりません」

 わたくしは席へ戻った。

 膝の上に手を載せてから、少し震えていると分かった。

 オルトヴィン様が隣へ腰を下ろした。

「外へ出るか」

「いいえ。あなたの叙勲を見るために来たのです」

 彼がうなずいた。手を重ねる前に、わたくしの顔を確かめる。

 今度はわたくしから指を差し出した。

 手袋越しに触れた彼の手は、温かかった。


 警護の配置を確かめ終えた団長が、扉の側へ合図を送った。

 陛下が入られると、招待客が立ち上がった。叙勲は滞りなく始まった。

 先ほどの騒ぎを見た人も、飾り緒のないラウル様を振り返らなかった。

 オルトヴィン様が呼ばれて、わたくしの隣から立つ。

 幼馴染は、正しい場所で膝をついた。

 北の砦を守った働きが読み上げられ、陛下が剣を授ける。

 礼を述べた彼は、次に婦人会の席へ顔を向けた。

「陛下。お許しいただいたとおり、王都の婦人会への礼を申し上げます」

 会長の夫人が、わたくしの前で背筋を伸ばした。

 招待されたとき、納品した品へのお礼もあるとは聞いていた。こんなふうに、叙勲の場で名を呼ばれるとは思っていなかった。

「冬前に届けていただいた手袋は、替えを持てなかった兵にも渡りました。寒さの中で濡れたものを取り替えられたのは、皆様が編んでくださったからです」

 その後ろで、副官が布をほどいた。

 載っていたのは、大きさも色も少しずつ違う手袋だった。

 会長が隣の夫人の腕へ触れた。

「あれ、あなたのよ」

「分かるの?」

「親指が長いじゃない。わたくしが、直したほうがいいと言ったもの」

 わたくしは笑わないように口元を押さえた。

 まだ場は厳かだった。けれど前の席で揺れる婦人たちの肩を見ると、冬前に編み棒を並べた居間に戻ったようだった。

「今回は、兵が使ったものを持参しました。まだ修繕が必要なものもあります。届けて終わりでなく、使い方まで尋ねてくださったことに感謝します」

 オルトヴィン様は、灰色の手袋をひとつ受け取った。

 内側へ返したところに、小さな刺繍があった。

「こちらはエミーリア嬢のものです。手首の長さを変えようと、仲間へ呼びかけてくださった」

 隣の夫人がわたくしの肩を押した。

 立つと、膝がまた頼りなくなった。先ほどの震えとは違っていた。

 オルトヴィン様の横へ、若い兵が進み出た。手袋の指へ、自分の指を重ねる。

 弓を引く指のあたりは毛糸が薄くなっていた。長く編んだ手首は、ところどころ糸を継ぎながら形を保っている。

「内側のEが見えると、王都のエミーリア様だって皆で話していたんです。姉と同じ名前なので、すぐに覚えました」

「……お役に立てましたか」

「はい。来年も使います。ほつれは、自分で直せるようになりましたから」

 わたくしは、思わず少し前へ出た。

「きつく縫いすぎないでくださいね。指が動かせるくらいに」

「はい。軍医にもそう言われました」

 会長の夫人が立ち上がり、陛下へ礼をした。

「次の冬も、皆で編ませていただきます」

「頼む。兵たちの礼を、その手で受け取ってくれ」

 拍手が起こった。

 わたくしは白い手袋の内側で指を握った。

 編んだものを、よく知らない場所へ送っていた。そこには顔があり、声があり、こんなに大きな手があった。

 母へ話したいことが、また増えた。




 庭の雪が溶けきるころ、父の書斎へ呼ばれた。

 ラウル様の家から婚約解消への返書が届き、近衛団からも査問の結果が通知されていた。

「当番台帳と救護の係、それから近衛の証言を照合したそうだ。ラウルにも弁明の機会があった」

 父が紙を置く。

 わたくしは、書かれた結果へ目を落とした。

 近衛からの除籍。王城警護への再任を認めない。

 爵位を失うわけでも、家を追われるわけでもない。けれど彼が自慢していた銀の飾り緒は、もう肩に戻らない。

「コレット嬢は、どうなりましたか」

「両親が事情を確認して、伯爵家へ謝罪を送ってきた。王城では、当面は保護者なしでの出席を認めないそうだ」

 わたくしはうなずいた。

 昨日までの病気を全部嘘と決めるつもりはなかった。それを証明しなくても、婚約を解消する理由はあった。

 父が、別の封筒を渡した。

 中には、先日渡した花代が入っていた。

「これを返すときに、直接会いたいと言ってきた。断っても構わない。どうする」

 わたくしは封筒を机に置いた。

「会います。最後に、わたくしから言いたいことがあります」


 居間へ入ってきたラウル様は、近衛の制服を着ていなかった。

 子爵夫人は一緒だったが、父が入り口で止めた。

「二人が話す。私たちはここで聞こう」

 扉は開いたままになった。

 ラウル様が、わたくしの前の椅子へ座る。

「コレットとは、もう会わない」

「そうですか」

「僕も、いろいろ考えた。君をないがしろにしたと思われても、仕方がなかった」

 わたくしは膝の上で指を重ねた。

 今日は、指輪も編みかけの手袋もなかった。

「そう思われただけですか。それとも、そうなさったのですか」

 ラウル様は少し黙った。

「悪かった。だから、婚約解消は考え直してくれないか」

「書類には署名をいただきました」

「ああ。親に言われて署名したが、まだ間に合うだろう。彼女とは会わない。今度は、君を一番にする」

 窓の外で、荷車の音がした。婦人会へ返す手袋の箱を運び出しているのだ。

 ラウル様はその音に振り向いてから、声を落とした。

「君までいなくなったら、僕はどうなる。近衛も失って、皆が僕を避けている」

「わたくしがいれば、それを取り戻せるのですか」

 ラウル様の目が、扉の外の父へ向いた。

「君の父上から、団長へ口添えしてもらえたら」

 そこで彼は、言葉を止めた。

 わたくしは机に置いた封筒を取った。

「お金は、確かに返していただきました」

「そうだよ。君の言ったとおり、ちゃんと返した」

「母の命日は、返していただけません」

 ラウル様の顔が強張った。

「花は別の日にも買えるでしょう。お墓へも行けます。でもわたくしが今年の命日に待っていた人は、来ませんでした」

「それは、来年——」

「来年は、あなたを待ちません」

 指輪の箱を、彼の前へ置いた。

 ラウル様はそれを開き、銀の輪を取り出した。指に挟んだまま、わたくしの左手へ差し出す。

「もう一度だけ、はめてみてくれないか」

 わたくしは左手を引いた。

「その指輪がないときのほうが、糸が引っかからないんです」

 彼の指が止まった。

 わたくしが箱を寄せると、彼は指輪をそこへ落とした。

 わたくしは自分の指を開き、彼へ差し出した箱の蓋を閉じた。

 それを受け取ってくれればいい。それだけを思って、手を引いた。

「君は病人に勝って、満足なのか」

 扉の外で、父が足を動かした。

 わたくしは父へ首を振った。

「コレット嬢に勝ちたかったのではありません。わたくしとの約束も、守ってほしかったのです」

「だから、これからは」

「もう、あなたと約束しません」

 今度は、声が震えなかった。

 子爵夫人が扉の端から顔を出した。

「エミーリア。こんなに弱っているときくらい、優しくしてあげられないの」

 わたくしは立ち上がった。

「はい。できません」

 子爵夫人が息を吸った。

 わたくしはその続きを待たずに、扉へ歩いた。

「お父様。婦人会へ行ってまいります。直すものが、まだ残っていますから」

 父がわたくしへ道を空けた。

 ラウル様の手は、指輪の箱を握ったままだった。




 婦人会の机には、戻ってきた手袋が並んでいた。

 受け取った若い兵の手紙も置いてある。王都で習ったことを帰って仲間へ教えると書いてあった。

「あなた、叙勲の場で直し方を教え始めるから驚いたわ」

 会長の夫人が、灰色の親指へ糸を通した。

「わたくしも後で驚きました。陛下の前でしたのに」

「仕方ないわね。使い方が気になってしまったのでしょう」

「はい。でも、あの方はご自分で直してくださるそうです」

「では、わたくしたちは新しいものを編みましょう」

 隣の夫人が籠から毛糸を取り出す。

 わたくしも席について、編み棒を持った。

 誰かが茶を淹れ、誰かが焼き菓子を取った。母も好きだった居間の賑やかさだった。

 席を空けておいてくれた人たちと、また来る冬の話をした。


 家へ帰ると、庭でオルトヴィン様が待っていた。

 父から、今日来ると聞いていた。持っていた小さな袋を握り直す。

「遅くなりました」

「こちらこそ。まだ少し早かった」

「では、お待たせしたのは同じです。……お茶にしますか」

「その前に、話していいか」

 彼は外套の内側から、あの古い手袋を出した。

「その手袋、もうほどきませんから。そんなに大事に守らなくても」

「いや。これを見せたいと思った」

 わたくしが黙ると、彼は手袋へ目を落とした。

「北に来た最初の冬、帰りたいと思っていた。知っている顔がなかった。父のそばにいると、弱音も言いにくかった」

「お手紙には、そんなこと」

「書けなかった。君に、贈ってもらった手袋を見せた。みんな、変な形だと言った」

「まあ。そうですけれど」

「どうしてそうなったのか、話したんだ。それで、笑って話せる相手ができた」

 わたくしは小さな袋を胸の前へ持った。

 手袋にそんな役目があったなんて、知らなかった。

「今でも、うまく話せない」

「昔より、お話しになっていますよ」

「君に聞いてほしいからだ」

 彼が顔を上げた。

「母君の命日に、来年も一緒に来たい。君がいいなら」

 小さくうなずく。

 それだけでよかったはずなのに、目が潤んだ。

「その次も。来年だけの約束にはしたくない」

「オルトヴィン様」

「俺と結婚してくれないか」

 彼の声が最後で少し掠れた。

 わたくしは袋を開き、編み上がった手袋を取り出した。

 北の冬に合うように手首を長くして、彼の手に合うように編んだものだった。

「その前に、申し上げておきたいことがあります」

 彼の肩が強張る。

「いつでも、わたくしを一番にすると仰らないでください。お仕事も北の方々も、大切になさってほしいです」

「分かっている」

「そのうえで、わたくしとも約束してください。来られなくなったら、来られないとお知らせください。別の日にできないことを、わたくしが言ったら聞いてください」

 彼は手袋を持つわたくしの手へ触れた。

「聞く。君も、我慢せずに言ってくれ」

「言います。たぶん、思っていらっしゃるよりうるさいですよ」

「知っている」

「今のところは、知らないふりをなさって」

 笑ったら涙が落ちた。

 彼が指を動かしかけて、止める。

 わたくしが手袋の口を広げると、彼は指を揃えた。無理に押し込まず、わたくしが毛糸を引き上げるのを待っている。

 親指が収まり、手首まで引いたところで、わたくしはその手に頬へ触れてもらった。

 毛糸は、指に馴染む。

 ひと目ずつ編んだものが、ぴたりと相手の手を包む。その嬉しさを、久しぶりに思い出した。

「お返事は、はいです」

 オルトヴィン様が、わたくしの手へ口づけた。

 もう片方の手袋は、二人で手首まで引き上げた。

「内側を見てください」

 彼が袖口を返す。

 わたくしは恥ずかしくなって、自分の手袋を引き上げ直した。

 赤い糸で彼の頭文字を縫った。誰のために編んだのか、今度もそうして残したかった。

「ありがとう」

「どうぞ、大事に使ってください。ほころびは、今度は一緒に直しましょう」

 彼はうなずき、わたくしの手を取った。

 外套の内側には、左右の大きさが違う小さな手袋が、また大事にしまわれていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


今回、エミーリアが最初に贈った手袋は、左右の大きさが違っています。編んでいるうちに慣れて、後から作った片方だけ上手になった。その失敗を、オルトヴィンは直しながら持っていました。


北へ送る手袋も、婦人会のみんなで編んだものです。そろわない形が兵の手に合う、というやり取りは、書いていて楽しかったところでした。きれいにできたものだけが大切にされるのではないと、二人の会話から伝われば嬉しいです。


また、エミーリアは「いつでも一番にしてほしい」とは頼みません。守れない約束を黙って破るのではなく、話を聞き合える人と暮らしたい。最後の求婚には、そんな彼女の願いを込めました。


◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇


理不尽な扱いを受けた令嬢たちが、自分の居場所を選び直す一話完結の短編集です。各話は独立しています。


▼ 公開中

「お前は道具だった」と笑った婚約者が、5年後に物乞いになって戻ってきた件

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ラウル母の子爵夫人が、一番の敵でしたから、幼馴染がいなくとも、結婚したら辛い目に遭っていましたね。コレットと子爵夫人は似た者同士で波長が合ったのかもですね。 暑いうちにはできなかった編み物(初心者)を…
子爵夫人が無礼すぎて驚きました。あの母親にしてはラウルは未だ真面に育った方なのかもしれない。少しラウルに同情してしまいました。ラウルが気付かなければ、その内、子爵夫人によって家もなくなりそうですね。
ラウル母が息子優先のヤナ姑臭がするからその一事だけでも破談で正解。
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