君の胆嚢が欲しい(笑)
「AIでは駄目なのですか?」
言ってから、もう少し柔らかい表現にすればよかったかもしれない、と佳奈子は思った。
目の前で、コロナウス系宇宙人の巨体がぶるぶると震えている。怒っているのか、考えているのか、それとも単に呼吸に相当する運動をしているだけなのかは分からない。人間の二倍近い高さまで伸びた半透明の肉体は、乱暴に言ってしまえば巨大なナメクジを縦に立てたような形をしており、その上には地球製の茶色いハンチング帽がちょこんと載っていた。
「だめだ!AIでは面白味も何もない! 本当の人間が弾かないと!」
腹部に装着された音声端末から、やけに滑舌のいい中年男性の声が響く。
佳奈子は表情を動かさなかった。
電子音声が中年男性だからといって、雄とは限らない。そもそもコロナウス系には、人間がいうところの性別がない。繁殖期になると任意の三個体がそれぞれ必要な生殖器官を形成するという話を聞いたことがあったが、別に詳しく知りたくはなかった。
「承知しました。では、生演奏で手配いたします。」
「最初からそうしてくれればいいのだ。私は本物にこだわっている。作品には魂が必要だからな。」
「おっしゃる通りです。」
魂。
地球を攻め、人類の九割近くを葬り去った生物が、最近やたらと好んで使う日本語だった。
佳奈子が八歳だった頃、地球にはまだ百を超える国家があった。国境があり、軍隊があり、戦争があり、国家間でミサイルの数を競ったり、核兵器を何発持っているかで威嚇し合ったりしていたらしい。今となっては随分かわいらしい話に思える。
宇宙から最初の船団が到達した日、人類はあれを侵略だとは理解していなかった。
船団という呼び方も、後世の人類が便宜的につけた名称にすぎない。宇宙人たちが移動に使っていたものは、人間の感覚における宇宙船とはかなり違っていた。質量そのものを空間座標間で再配置する巨大な構造体であり、地球側の観測機器には、ある瞬間突然、月軌道上に直径数百キロメートルの物体が出現したようにしか見えなかった。
最初の七十二時間で主要な軍事衛星が消え、一週間で世界各国の航空戦力が事実上消滅し、一か月後には人間が宇宙人に組織的な抵抗を行う能力そのものがなくなった。
それでも抵抗を続けた結果が、後に《暗黒の九十日》と呼ばれる期間だった。
九十日目に、人類は無条件服従を宣言した。
人口は十分の一近くになっていた。
別に宇宙人たちが残虐だったわけではない、と現在の歴史教科書には書いてある。あちらの記録を調べても、少なくとも人類の絶滅を積極的に目的としていた形跡はないらしい。
単に、重要ではなかったのだ。
巣を作る予定の土地に蟻がいた。払った。機械に虫が入った。焼いた。抵抗してきた。駆除した。
その程度だったのだろう。
人間が庭に巣を作った虫を駆除するとき、その虫の文明や家族構成までいちいち考えないのと同じだった。
だからこそ、恐ろしかった。
人間は憎まれてすらいなかった。
価値がなかった。
毒虫以下だった。
その扱いが少しずつ変わり始めたのは、戦争が終わって数年ほど経ってからだった。
宇宙人にも様々な種族がいて、様々な思想があった。人類を「十分な知性を有する在来生物」として保護すべきだと主張する者たちが現れ、他種族の政治組織や活動家まで巻き込み、地球人類に対する扱いが問題視されるようになった。
佳奈子には、宇宙人にも活動家がいるという事実の方が少し不思議だった。
おかげで人間は、少しずつ復権した。
以前は理由なく殺しても何の問題もなかったものが、今では理由なく殺すと罰則が科される。
約十年前には人類保護条約も締結された。
大変な進歩である。
昔は毒虫だったものが、現在では保護対象の珍獣くらいになった。
それでも、佳奈子は目の前の宇宙人を怒らせたいとは思わない。
条約があるから安全だなどというのは、力のない側の願望でしかない。
目の前のコロナウス系が本気になれば、佳奈子一人の存在を消すことなど簡単だろう。
後で罰金を払うかもしれない。
だから何だというのだ。
「では、すぐに奏者を手配いたします。十分ほどお待ちいただけますか。」
「七分だ。制作が三日も遅れている。」
佳奈子は一瞬だけ黙った。
三日遅れている理由のうち、二日半ほどは、このナメクジが五日前に絵コンテの半分以上をひっくり返したからである。
言わない。
「努力いたします。」
断言もしない。
宇宙人との仕事で生き残るコツは、ひたすら謝ることでも、強気に出ることでもない。
必要以上に頑なになってはいけない。
卑屈になって媚びすぎてもいけない。
相手によっては、価値がないと判断された瞬間、文字通り始末される可能性がある。
だから、怒らせすぎず、煽てすぎず、できない約束もせず、拒絶したとも思わせない。
適度に。
中庸が大切なのだ。
中庸。
佳奈子は一旦無心になった。
自尊心など、とうの昔に捨てている。
約二十年前に人類全体の価値が毒虫以下になったのだ。今更、毒虫一匹の意思を重要視する高等生物などいない。
怒りの震えで落ちたハンチング帽を、コロナウス監督が触手で拾い、もう一度頭らしき部分へ載せた。
「では、すぐに最高級の演奏家を手配して参ります。」
「うむ。」
佳奈子は壁際にいた音響担当の青年を呼び、声を落とした。
「演奏院。バイオリン一人。今から七分以内にスタジオへ来られる子で、一番上手い子を呼んで。」
「七分ですか。」
「六分半で。」
「は、はい。」
青年の頬が僅かに引きつった。
まだ二十二歳だったはずだ。
あいつはいつまでもつだろう。弱そうだ。
前任者は二年で自律神経を壊して療養区へ移った。その前は半年で失踪した。死んではいない。少なくとも行政記録上は。
誰しもが長く続けられる仕事ではない。
もっとも、現在の地球に長く続けたい仕事がどれだけ残っているのかは知らないが。
宇宙人が地球上の人間の大半を葬り去ってから数年後、奇妙なことが起きた。
地球文化が、宇宙人の間で流行したのである。
発端については諸説ある。破壊された美術館から持ち出された絵画だったとも、戦時中に宇宙人の兵士が拾った音楽端末だったとも、保存サーバーに残っていた昔の映画だったとも言われている。
いずれにせよ、一部の宇宙人が、人類の芸術を面白がった。
彼らからすれば、人間の文明は恐ろしく非効率だった。
絵を描くために手を使う。
音楽を作るために何年も楽器を練習する。
俳優という人間を用意し、衣装を着せ、照明を当て、台詞を覚えさせて映像を撮る。
映像一つ作るために何百人という人間が働き、数か月、時には数年を費やす。
星間文明の多くでは、目的となる映像や音響を指定すれば、生成知性が即座に完成品を出す。さらには感覚神経へ直接情報を書き込めば、作品を「見る」という工程すら不要だった。
だからこそ、人間のやり方が珍しかった。
失敗する、疲れる、怪我をする、才能に差がある、老いる、死ぬ。
それでも作る。
宇宙人たちは、それを「生体制作」と呼び始めた。
やがて一部の富裕層や文化愛好家の間で、人間が作った音楽、絵画、映像作品を所有することが一種のステータスになった。
音楽、絵画、彫刻、映画、舞台。
そして、その中には漫画やゲームやアニメーションなどのサブカルチャーも含まれていた。
人類は、そのにわかルネサンスに生存の道を見出した。
文字通り、死力を尽くした。
反乱も諦めた。
もう一度宇宙人と戦おうという声も、もちろんあった。だが、二十年前、人類は全力で戦って負けたのだ。精神論で覆せる技術差ではなかった。
ならば、面白がられるしかない。
宇宙人のペットになろうが、見世物になろうが、消費されるコンテンツになろうが、種として残る方を選んだ。
人間は面白い。
人間という生き物を残しておいた方が得だと、宇宙人に思わせる。
それが戦後の人類が選んだ生存戦略だった。
実際、人類保護が急速に進んだ理由の一つも、この地球文化ブームだった。
絶滅してしまえば、新作が作られなくなる。
それは困る。
そう考える宇宙人が増えた。
なんともありがたい話である。
ただし、一つ大きな問題があった。
宇宙人たちは地球を攻めた時、人間の芸術家を別枠で保存してくれてはいなかった。
第二次世界大戦期の京都をめぐる有名な逸話のように、「ここには文化財が多いから残しておこう」などという事前の配慮は一切なかった。
あるいは、彼らにとっては、壊しても後で再生できる程度の感覚だったのかもしれない。
画家も死んだ。
演奏家も死んだ。
漫画家も死んだ。
アニメーターも死んだ。
彫刻家も作曲家も俳優も、小説家も職人も、他の人間と同じように死んだ。
芸術が価値を持つなどと宇宙人たちは侵略時には知らなかったので、画家も音楽家も映画監督も、それ以外の人間とほぼ同じ割合で死んでいたのである。
人類側は慌てた。
宇宙人がせっかく文化に興味を持ってくれたというのに、それを生産する人間がほとんど残っていなかったのである。
そこで、生き残った人間たちは急いで次世代の芸術家を育て始めた。
かつて国家が将来有望な子供を選び、スポーツや芸術の英才教育へ投入した時代があった。旧中国や旧東欧諸国などに見られた国家的育成制度を、今度は人類全体の規模で行ったのだ。
各地から才能のある子供を集め、可能な限り最高の教師と設備を与える。
それは英才教育などという上品なものではなかった。
人類を存続させるための生産設備だった。
国籍など関係ない。
人種も関係ない。
かつて敵対していた国同士であろうと関係ない。
そんなことを言っている場合ではなかった。
国境を越え、生き残った芸術家や技術者を集め、文化生産拠点が作られた。
人類そのものが一つの商品群になった後では、昔の国境など大した意味を持たなくなった。
音楽は旧ヨーロッパ圏を中心に再編され、美術や舞台にも複数の大規模育成拠点が作られた。
そして旧日本圏では、京都を中心として漫画、ゲーム、アニメーションなどの文化資源が集約された。
佳奈子が今いる場所も、昔は京都市内だった。
現在の正式名称は日本文化制作特区・京都第四映像棟。
しかし、働いている人間たちは単にスタジオと呼んでいる。
映像作品用の演奏部門も併設されており、先ほど奏者の手配を掛けた先もそこである。
宇宙人が望めば一秒で作れる映像を、ここでは人間が何百人も集まって何か月もかけて作っている。
全能に近い生成機能を持つ文明にとって、人間の制作活動そのものが一種のおままごとに見えるらしい。
彼らは、その稚拙さと非効率こそを愛した。
尚、佳奈子には悍ましいことこの上なかった。
◇
数分後、スタジオの扉が開いた。
音響担当に案内されてスタジオへ入ってきたのは、十五歳ほどの少年だった。
黒い髪に、青い目をしていた。細身で、まだ肩幅も狭い。旧ヨーロッパ圏出身者の血が混じっているのだろうが、この時代、外見から出身地を推測することにはあまり意味がない。文化育成計画が始まって以降、才能のある子供は地域を越えて移送されるようになっていた。
制服の胸には第三期演奏育成群を示す銀色の徽章がついていた。
年齢から考えれば、第二世代に近い。
侵略後に生まれ、人類が既に宇宙人の管理下にある世界しか知らない子供だ。
少年はこういった現場にまだ慣れていないのか、僅かに震えていた。
目線が上がらない。
右手が僅かに震えている。
当然だろう。
佳奈子だって怖い。
違いは、長く怖がりすぎたせいで顔に出なくなっただけだ。
コロナウス監督が、巨体をずるりと動かし、訝しむように少年へ黒い触手を伸ばした。
眼点か、顔なのかどうかもよく分からない部分が、少年のすぐ近くまで迫る。
少年の喉が僅かに動いた。
一体、あの黒い器官で何を見ているのだろう。
皮膚か。
内臓か。
神経活動か。
未来か。
いや、コロナウス系には未来予知能力はなかったはずだ。
「随分小さいな。」
電子音声が言った。
「食べるにはちょうどいい大きさかもしれないが、これが本当に最高級の演奏家なのか?」
少年の肩がびくりと震えた。
佳奈子は即座に半歩前へ出た。
「監督、どうかご安心ください。現在、人類側が死力を尽くして育成している若手演奏家の中でも、最高水準に位置する個体です。きっとお気に召すかと。」
「本当だろうな。」
「もちろんでございます。」
コロナウス監督はしばらく少年を観察していたが、やがてぬめった巨体を僅かに傾けた。
あれは、多分、頷いた。
佳奈子は音響担当へ合図した。
マイクとカメラが調整され、楽譜が置かれる。
少年が収録位置へ歩いていった。
スタッフが音響機械を調整し、ライトが落とされる。今日録音するのは、制作中のアニメーションで使用する三分十二秒の楽曲だった。
佳奈子は台本を持ちながら、少年を見た。
可哀想だとは思わなかった。
思わないようにしている、という方が正しいのかもしれない。
可哀想だと思っても何も変わらない。
だから、佳奈子が少年に願ったことは一つだけだった。
弾け。
上手く弾け。
生きたければ。
少年がバイオリンを肩に載せる。
震えていた指が、弦に触れた。
伴奏が始まる。
少年は一度、深く息を吸った。
その瞬間、空気が変わった。
一音。
鋭い音が、空間を切った。
佳奈子は思わず目を見開いた。
少年の指が、弦の上を踊るように滑っていく。
弦が引かれるたびに、胸の奥まで震わせるような音がスタジオを満たした。
本物だ。
これは。
佳奈子は静かに息を呑んだ。
それまでスタジオにあった機材の駆動音も、スタッフの息遣いも、巨大な宇宙人がそこにいるという圧迫感さえも、一瞬で背景へ沈んだ。
少年の指が弦の上を走っていく。
細い身体だった。
宇宙人が言った通り、弱々しいほど細い。
腕もまだ大人の男ほどの太さはなく、顔には幼さが残っている。それなのに、弓を持った瞬間だけ、その身体のすべてが一つの目的のために作られた機械のように正確に動いた。
何年、弾いてきたのだろう。
十年か。
それとももっと前からか。
第三期育成群なら、物心がつく頃には選抜を受けていたはずだ。
この少年は、人類が生き延びるためにバイオリンを持たされた。
毎日弾いたのだろう。
指の皮が裂けても。
自らの環境を嘆いても。
未来に絶望しても。
上手くなれ。
もっと上手くなれ。
人間は面白いと思わせろ。
人間を残しておきたいと思わせろ。
そう教えられて。
佳奈子はいつの間にか台本を下ろしていた。
そんなに長い曲ではない。
たかが三分程度だ。
それでも、その間だけは時間そのものが止まったようだった。
スタッフも動かない。
ナメクジも動かない。
誰も言葉を発しない。
少年の身体だけが動いている。
佳奈子は途中から、仕事であることを忘れていた。
少年は怖いはずだった。
実際、怖がっていた。
弓を返す一瞬、指がほんの僅かに震える。
額にも汗が浮かんでいる。
それでも音は震えない。
生きるために覚えた技術が、少年の身体を勝手に動かしている。
目の前には、自分を食べると言った宇宙人がいる。
怖いからこそ、音が鋭くなる。
生きたいからこそ、次の一音へ繋ごうとする。
楽譜にはない何かが、少年の身体を通して音になっていた。
宇宙人が人工知性では再現できないと言った意味を、佳奈子は初めて少しだけ理解した。
正確な演奏なら、いくらでも作れる。
この少年の演奏より正確な音も、美しい音も、恐らく一秒もかからず生成できる。
だが、今ここにいる十五歳ほどの少年が、殺されるかもしれない恐怖を押し殺しながら、それでも自分の覚えたすべてを使って弾いているという事実までは複製できない。
宇宙人が「本物」と呼ぶものは、きっとそういうものなのだろう。
きっと、その事実ごと音楽として消費したいのだ。
悍ましい。
それでも。
美しかった。
三分十二秒。
曲は短い。
それでも、その間だけは少年がこの空間を支配していた。
人間より遥かに強い生物も。
人間を管理している者も。
人間を商品として扱っている者も。
誰も動かない。いや、動けない。それほどの演奏だった。
最後の一音が長く伸び、それから静かに消えた。
少年が弓を下ろした。
誰も喋らなかった。
少年自身さえ、息をすることを忘れているように見えた。
やがて。
ぶるぶるぶる、とコロナウス監督の巨体が激しく震え始めた。
佳奈子は反射的に身構えた。
――怒ったのか。
「素晴らしい!」
電子音声が響いた。
「なんという演奏だ! 私は感動した!」
佳奈子の肩から僅かに力が抜けた。
少年も、ほんの少しだけ顔を上げた。
「いやあ、長い間迷っていたが、アニメ監督になって本当に良かった! ここまでの逸材に出会えるとは! これこそ我が神、手塚治虫の采配に違いない!」
色々と気になるところはあった。
しかし命が惜しいので、佳奈子は突っ込まなかった。
少年の口元が僅かに緩んだ。
安心したのだろう。
よかった。
今日も生き残った。
「いやあ、本当によかった。」
ナメクジが少年へ近づく。
「記念に君の胆嚢が欲しい。」
スタジオの空気が凍った。
少年の顔がぎょっとしたまま固まった。顔から一気に血の気が引く。
佳奈子も、一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「……胆嚢、ですか。」
「そうだ。胆嚢なら、なくなっても生きられるのだろう?」
コロナウス系には、気に入った物を作った生物の身体の一部を保存する文化がある。
爪、歯、毛髪、皮膚、臓器。
価値のある個体そのものを保存できない場合、その一部を所有する。
彼らにとっては最大級の賛辞に近い。
だからこそ、気性自体は比較的穏やかでも、コロナウス系は人類側の接遇要注意種族に指定されている。
黒い触手が少年へ伸びた。
「監督。」
佳奈子は慌てて二人の間へ入った。
「大変光栄なお申し出ですが、こちらの個体はまだ成長期にございます。いくら失っても生存可能な臓器とはいえ、手術後はしばらく身体への影響が残り、演奏能力にも支障が出る可能性が高いです。」
「そうなのか?」
「はい。恐らく現在十五歳ほどですので、身体成長にも影響する可能性があります。今後さらに演奏技術が向上する個体です。保存価値より、継続的な演奏価値を優先される方が、監督にとって利益が大きいかと存じます。」
人権を訴えてはいけない。
少年だからやめてくれと言っても通じない。
本人が嫌がっているから、でも弱い。
だから、価値を説明する。
この少年は、まだ使える。
これからもっと価値が上がる。
それで守る。
人間が生きるためには、考えなければならない。常に。
コロナウス監督は少し考えた。
「確かに、随分細く弱々しい個体だものな。」
「ご理解いただき、ありがとうございます。」
「仕方ない。ではやめておこう。」
少年が、小さく息を吐いた。
佳奈子も胸の奥で安堵した。
「それでは代わりに、君の胆嚢でいいか。」
佳奈子は、再び固まった。足が震えそうになるのを必死で耐える。
「……私ですか?」
「うむ。君も気に入った。」
監督の巨体が、ぬっと佳奈子へ近づく。
黒い触手が伸びる。
佳奈子の脳裏に、人類保護条約の条文が走った。
殺害は禁止。
重大な身体損傷。
臓器摘出。
本人同意。
文化外交資格。
コロナウス側の慣習法。
駄目だ。
即座に使える条文が出てこない。
「それは駄目だよ。」
可愛らしい少年の声がした。
次の瞬間、ナメクジ監督が消えた。
いや、消えたのではない。
猛烈な速度で真横へ吹き飛び、スタジオの壁へ叩きつけられたのだ。
べしゃり、と水袋でも落としたような音が響き、巨大な肉体が壁一面に広がった。
「監督!」
佳奈子は叫んだ。
そちらを心配した自分に少し驚いた。
「大丈夫、死んでないよ。」
声は背後からした。
佳奈子がゆっくり振り返る。
白銀色の柔らかな毛に覆われた、大型犬ほどの生き物が四足歩行でこちらへ近づいてきた。
丸い耳。
ふさふさの尾。
見た目だけなら、巨大な犬の子供のようにも見える。
「ポチくん……。」
ポチくんこと、レンギウス系宇宙人の幼体である。
そして、佳奈子が知る限り、この京都制作区に出入りしている宇宙人の中で最も危険な個体の一つだった。
強力な精神感応と空間干渉能力を持つ最上位種族として知られており、現在地球圏に滞在しているこの個体は、宇宙人社会では大公と呼ばれる身分にあるらしい。
佳奈子には、それがどれほど偉いのかよく分からない。
ただ、ナメクジ監督を壁まで吹き飛ばしても誰も止めようとしないくらいには偉い。
「佳奈子さんは僕が先約済!」
ポチくんは、壁に張り付いた肉片に向かって楽しそうに言った。
壁に広がっていたナメクジ監督の身体が、ゆっくりと中央へ集まり始める。
数十秒ほどで元の形へ戻ると、床に落ちたハンチング帽を触手で拾い、何事もなかったように被り直した。
「……なら、早く所有印を刻めばいいではありませんか。人間は個体差が少なく判別が難しいのです。これでは間違えてしまいますよ、大公。」
佳奈子の背筋に悪寒が走った。
人類保護条約が禁じたのは無許可の殺害と重大な損壊であって、人間個体の所有そのものは禁止されていない。
ポチくんは首だけをそっと振った。口は動いていない。レンギウス系は音声器官をほとんど使わず、周囲の知的生物の脳へ直接言語情報を送り込む。
「さすがおじさんだね。保護条約で、所有者側が十二歳相当にならないと所有印は押せないんだよ。」
「面倒な規則ですね。」
「本当だよ。」
ポチくんは佳奈子の足元まで来ると、嬉しそうに身体を寄せた。外見だけなら、本当に犬のようで可愛らしい。だが、彼は決して犬ではない。人間を玩具か毒虫扱いする上位存在である。それが恐ろしく、また悍ましいことこの上ない。
「佳奈子さんはもう個体として十分成熟してるから、僕としては早く刻印して時間を止めたいんだけどね。」
心臓が一気に下まで落ちたような気がした。
「……あの、何の話でしょうか。」
「僕、あと一年で羽化するんだよ。」
「それは、以前伺っておりますが。」
レンギウス系は幼体期を終えると、大規模な形態変化を起こす。
成体は、地球の伝承で例えるなら、九尾の狐に似ている。
似ている、というだけで、狐ではない。
大きさについては個体差が激しく、人間の二倍程度から、小さな家屋ほどになる例まである。
佳奈子は意図的に写真を見ないようにしていた。
「羽化したら、すぐ佳奈子さんに所有印をつけるからね。」
「……えっと、私に?」
「うん!」
「私は、人間ですが?」
「知ってるよ。」
「ものではございませんが。」
「でも人間でしょう?」
ポチくんは本当に不思議そうに首を傾げた。
話は理解している。
その上で、佳奈子の主張に何の意味も感じていない。
ポチくんが佳奈子に興味を持った理由は、単純だった。
佳奈子が制作プロデューサーを務めたアニメを見た。
面白かった。
作った人間を調べて、会いに来た。
会ってみたら、思ったより面白かった。
よく働くし、従順。他の下等存在に比べてあまり騒がない。
気に入った。
なら、自分のものにしよう。
それだけだった。本当に、それだけだった。
「佳奈子さん、僕のこと嫌い?」
「……嫌い、というわけではございませんが。」
どう返せば良いか分からず、無難な答えが反射的に口をつく。
「よかった!」
ふさふさと柔らかそうな尾が大きく揺れた。
「じゃあ問題ないね!」
いや、何一つ問題は解決していない。
「あの、しかし所有というもの自体が、その、どうなのでしょうね。」
「嬉しくないの?僕この超銀河団でも最上位に位置する種族で、しかも大公! そんな個体の所有物だよ?」
「……。」
「あと一年、ちゃんと待ってる。遵法精神もある、珍しい倫理観だと思わない?」
ポチくんは、褒めてほしそうだった。
いや、しかし遵法?倫理観?こちらから見たら明らかに崩壊している。
「本当は今すぐ持って帰りたいんだけどね。我慢してる。」
「それは、その……偉いですね。」
「うん!」
佳奈子は、自分でも驚くほど自然に正解らしい返事が出たことに少し絶望した。生存本能とは恐ろしい。
ポチくんはさらに身体を寄せてきた。
「巣も作ってるよ。」
「……そうですか。」
「佳奈子さんの仕事部屋も構築しておいた。」
「……ありがとうございます。」
「僕、佳奈子さんがアニメ作ってるところ好きだからさ。」
ポチくんはぶんぶんとしっぽを振った。これは照れたのだろうか、それとも興奮しているのだろうか。
「……それは、どうも。」
「もし逃げても、すぐ見つけてあげられるから安心してね。」
「…………。」
犬や猫の首輪に設置された迷子防止のタグを想像した。彼はレンギウス系だ。きっと銀河団を数個超えた先に居ても見つけられるのだろう。佳奈子はまだこの日本地区を出たことすらないが。
「あと、羽化したら番にもするから。」
佳奈子はゆっくりポチくんを見下ろした。
「……番?」
「うん。」
「それは、所有とは違うのですか?」
「別だよ!もう!恥ずかしいこと言わせないでよ!」
何がどう恥ずかしいのだろう。宇宙人文化は人類にはやはり難しすぎる。
「羽化したら身体の形も変えられるようになるからさ、僕、佳奈子さんのために頑張るね!」
「……そうですか。」
何をどう頑張るのだろう。もう想像もしたくない。だから佳奈子は無心になった。
「楽しみだなあ。」
悪意はなかった。脅しているつもりもない。
嫌がる佳奈子を見て興奮しているわけでもない。
ただ純粋に楽しみにしている。
あと一年経てば、この気に入った人間を正式に自分のものにできる。
巣へ連れて帰れる。
所有印をつけられる。
番にできる。
ずっと手元に置ける。
それを、子供が誕生日を待つように楽しみにしている。
なんと悍ましいのだろう。
佳奈子は虚空を見た。そこに空も無ければ、宇宙もない。
十五歳ほどの少年が、バイオリンを持ったままこちらを見ている。青ざめつつ、気の毒そうな顔をしていた。
さっきまで胆嚢を狙われていた子供に、憐れまれている。
二十八歳にして人生も終盤に入った気がした。
「プロデューサー。」
音響担当の青年がおそるおそる声をかけた。
「……収録、確認しますか?」
佳奈子は数秒間黙った。
それから息を吐き、机へ戻った。
「確認して。頭のノイズ拾ってたら、もう一回お願いします。」
「はい。」
「それと監督、絵とのタイミングは先ほどのテイクでよろしいですか。」
「もちろんだ! 素晴らしかった!」
ナメクジが、何事もなかったように巨体を震わせる。
少年もようやくほっとしたように表情を緩めた。
佳奈子はモニターに表示された波形を見る。
綺麗だった。
あれほど震えていた少年が弾いたとは思えないほど、音はまっすぐだった。
今日も一人、人間が価値を証明した。
だから、今日も、なんとか生き残った。
いつまでこんなことを続ければいいのかは分からない。
人間の芸術が飽きられるまでかもしれない。
宇宙人たちが別の面白い玩具を見つけるまでかもしれない。
あるいは、人類がいつかもう一度、自分たちの価値を誰かに証明しなくても生きていける日が来るまで――。
いや、それはないか。
佳奈子にはもうよく分からなかった。
ただ、今は次の納品がある。
「いいですね、このテイクで行きましょう。」
佳奈子が頷いて言うと、少年の顔にはっきりと安堵が浮かんだ。
「ありがとうございました。」
少年が静かに、けれど深く頭を下げる。
「お疲れさまでした。」
佳奈子も答えた。
少年の胆嚢は守られた。
自分の胆嚢も、とりあえず守られた。
制作も一つ進んだ。
上出来だろう。
「佳奈子さん。」
足元からポチくんの声がした。
「……何でしょう。」
「僕ね、佳奈子さんの心拍も毎日記録してるんだ。今日は僕が来た時、一分間に百五十八回だった。前より下がったね。慣れてきた?」
「……。」
「羽化する頃には、僕を見ても平気になるといいね。」
ふさふさした尻尾が、嬉しそうに佳奈子の足首へ巻き付いた。
「あ、大丈夫!平気にならなくても連れていくから。」
心拍数が跳ねたことが分かったのだろうか。
佳奈子は不自然に見えない程度にもふもふから視線を外し、モニターを見詰めて言った。
「……次のカット、お願いします。」
今考えるべきは、兎に角制作進行である。
どうやら人類は滅亡しかけても、納期に追われ続ける宿命からは逃れられないようだった。




