聖女の休暇申請は却下されました。
王都の最奥、雲を突くようにそびえ立つ白亜の尖塔。
その最上階は、王国を魔物の脅威から隔絶する『大結界』の中枢であり、聖女ネリネの鳥籠でもあった。
ネリネは祭壇に膝をつき、両手を組んでいる。
その身体からは、淡く透き通った光の粒子──魔力が、絶え間なく溢れ出していた。それらは天井の水晶へと吸い込まれ、都市全域を覆う不可視の盾へと変換される。
「……ふぅ、っ……」
意識が飛びそうになるのを、唇を噛んで堪える。
ネリネを蝕んでいるのは、この結界維持の負担だけではない。
今日のスケジュールは、文字通り殺人的だった。
早朝、叩き起こされ王宮へ赴き王弟殿下の微熱を癒やした。
息つく間もなく、次は宰相。「水質悪化の気配がある」と、王宮の貯水槽全ての浄化を強いられた。
午後には有力貴族の屋敷へ呼び出され、夫人の難産に立ち会い、母子ともに救うための加護を授けた。
これら王侯貴族からの依頼をこなしながら、並行して常に体内では結界への魔力供給を行っているのだ。
聖女とは名ばかりの、高機能な魔道具扱い。それが今のネリネの立場だった。
限界を超えた疲労に、ネリネの身体がぐらりと揺れる。
ガチャリ、と重厚な扉が開かれた。
現れたのは、この国の第一王子であり、ネリネの婚約者でもあるジェラルドだ。
「ジェラルド様……」
乾いた唇で名を呼ぶ。
ネリネは祈りの姿勢を崩さぬまま、消え入りそうな声で訴えた。
「お願いです。一日……いえ、半日だけで構いません。私に休息をいただけないでしょうか。このままでは、結界の維持に支障が出ます」
それは命を削って紡いだ、切実な嘆願だった。
しかし、ジェラルドは鼻で笑うように息を吐く。
「休息だと? 聖女が何を甘えたことを言っている」
彼はネリネを見下ろし、侮蔑の色を隠そうともしない。
「君はただ祈っていればいいのだ。衣食住は保証され、国民からは敬われる。これほど恵まれた立場にありながら、まだ不満を言うのか?」
「ですが、魔力の枯渇が……」
「精神がたるんでいる証拠だ。聖女ならば、国の安寧のために身を粉にするのが当然だろう」
取り付く島もない。
ジェラルドにとって、聖女とは無尽蔵に魔力を湧き出させる便利な“装置”でしかないのだ。ネリネは絶望とともに、長い睫毛を伏せた。
これ以上、言葉を重ねても無駄だろう。
思考が冷えていくのを感じる。
「……分かりました。もう、何も申し上げません」
***
翌日、事態は思わぬ方向へと転がった。
ジェラルドが再び塔を訪れたのだ。今度は一人ではない。豪奢なドレスに身を包んだ、愛らしい令嬢を伴っていた。
公爵令嬢、セラフィーヌ。
甘やかな香水の匂いが、清浄な祈りの間に充満する。
「ネリネ、喜べ。君の願い通り、休みをやることにした」
ジェラルドの言葉に、ネリネは顔を上げる。だが、続く言葉は慈悲によるものではなかった。
「彼女が新しい聖女だ。君との婚約も破棄し、セラフィーヌと新たに結ぶこととした」
セラフィーヌが扇で口元を隠し、優越感に浸った笑みを向けてくる。
「まあ、お可哀想なネリネ様。聖女の務めが辛いと泣き言を仰ったとか? わたくしにお任せくださいませ。聖女の座も、王子殿下の隣も、わたくしの方が相応しいですわ」
彼女は聖女というものを、単なる名誉職か何かだと勘違いしているらしい。
ネリネは冷静に思考を巡らせる。
聖女の力は、そう簡単に譲渡できるものではない。
私も、先代の聖女様と一年以上も寝食を共にし、その振る舞いと祈りを傍らで学びながら、少しずつ『資格』と『魔力』を受け継いだのだ。
だが、ジェラルド殿下が準備させているのは、おそらく『強制継承の儀』。
これは本来、聖女が急死した際、その聖なる力が天へ還ってしまう前に、無理やり次代の器へ縛り付けるための緊急術式だ。
正規の「長い年月をかけた引き継ぎ」を無視し、死にゆく者から剥ぎ取るための術を、生きた人間に使うなど──。
「どうだ、不服か?」
「いいえ。殿下がそうお決めになったのであれば、従います」
「ふん、強がりを。まあいい、すぐに儀式を始めるぞ」
王宮魔術師たちが配置につき、魔法陣が展開される。
ネリネは抵抗しなかった。むしろ、心の奥底で安堵していた。
この終わりのない責務から解放される。その事実だけで、心が軽くなるようだった。
「……では、どうぞ」
ネリネが呟くと同時に、眩い光が室内を満たした。
体の中を巡っていた重い奔流が抜け落ちていく。代わりに、セラフィーヌの体が光に包まれた。
『継承の儀』は成功したのだ。
***
力を失ったネリネは、即座に塔から追放された。
身一つで王都を追い出された形だが、彼女の足取りは驚くほど軽かった。
空が青い。風が心地よい。
ただそれだけのことが、涙が出るほど嬉しかった。
一方、残された塔の中では──。
「な、なに、これ……?」
新聖女セラフィーヌの声が震えていた。
聖女の座についた瞬間、凄まじい圧力が彼女を襲ったのだ。
全身の毛穴から魔力が強制的に吸い上げられていく感覚。
頭の中に直接響く、結界の警報音。
国中の聖具へ供給ルートを繋ぎ、均一に魔力を流し続けなければならない、高度な演算処理。
「痛い、頭が割れそう! 待って、止めて!」
セラフィーヌが悲鳴を上げる。
だが、一度接続された『祈りの鎖』は、術者の意志では外れない。
「おい、どうしたセラフィーヌ。しっかり祈れ!」
ジェラルドが焦ったように叫ぶ。
結界の光が乱れ、空が不穏な色に染まり始めていた。
「無理よ! こんなの無理!! 聖女って、ただ座ってニコニコしていればいいんじゃないの!?」
「なっ……何を言っている! ネリネは涼しい顔でこなしていたぞ!」
その言葉に、セラフィーヌは目を見開いた。
脳を焼き切るほどの負荷。全身を引き裂かれるような激痛。
これを、あの女は、涼しい顔で……?
「ありえない……人間ができるわけない……!」
セラフィーヌは髪を振り乱し、恐怖に引きつった顔で絶叫した。
「あいつがおかしいのよ……! 化け物だったのよ!!」
彼女の悲鳴は、ただの泣き言ではなかった。
人としての許容量を遥かに超えた『何か』を目の当たりにした、根源的な恐怖だった。
彼女の美しいドレスは冷や汗で張り付き、整えられた髪は振り乱された。
その光景を見て、ジェラルドと駆けつけた王妃は初めて理解した。
ネリネがどれほどの絶望的な献身によって、この国を支えていたのかを。
「代わりを……誰か代わりを連れてきてぇぇぇ!!」
セラフィーヌの絶叫が、虚しく塔に響き渡った。
***
ネリネは隣国との国境にある小さな村にいた。
去年の魔族侵攻の際、彼女が遠隔障壁魔法で集中的に守護し、壊滅から救った激戦地の一つだ。
生まれ故郷に似た長閑な村。
そこで、簡素な麻の服を纏い、薬草を摘む日々を送っている。
聖女としての『座』は奪われたが、長年培った薬学の知識は誰にも奪えない。
さらに皮肉なことに、あの粗雑な『強制継承の儀』ではネリネの底なしの魔力を吸い尽くせず、その身には未だ十分な力が残されていた。
とはいえ、それを誇示することはない。
彼女は魔力の残滓を隠し、村の診療所を手伝いながら、静かに暮らしていた。
村人の誰も、この質素な娘が元聖女だとは気づいていない。
それも無理はない、在りし日のネリネは、塔と王城に幽閉同然だった。王都から遠く離れたこの村で顔を知っている人間などいないだろう。
だがある日、村の老人がネリネの手当てを受けながら、その所作をじっと見つめ、ハッと息を呑んだ。
古老の濁った瞳が、確信を持って見開かれる。
「まさか、聖女様……ではございませんか?」
その声に、周囲の村人たちがざわめき、集まってくる。
「まさか」「こんな辺境に?」と囁き合う声。
ネリネは困ったように微笑み、首を振った。
「いいえ。私はただのネリネです」
もう聖女ではない。特別な力もない。
そう伝えたつもりだった。
だが、古老はその場に膝をつき、涙ながらに頭を垂れた。
「隠されても分かります。私は去年まで王都の門兵をしておりました。遠くからではありましたが、お姿を拝見したことがございます。……何より、この慈愛に満ちたお手当ては、あなた様にしかできません」
その言葉が呼び水となった。
「そういえば、この娘が来てから村の病が減った」「まさか、あの方が……」
疑念はすぐに確信へと変わり、村人たちが次々とその場に膝をつく。
それは王都で向けられた、利益を求める視線とは違っていた。
純粋な感謝と、敬愛。
「でも、もう私には本当に聖女の力はないんですよ?」
戸惑うネリネに、古老は深く頭を下げたまま告げた。
「力がなくとも、あなたが私たちを救ってくださった事実に変わりはありません。……これからは、私たちがあなたをお守りします」
その言葉に、ネリネの胸に温かいものが込み上げる。
義務でも強制でもなく、心からの笑顔が自然と溢れ出た。
「──ありがとう」
ネリネは初めて、祈りではなく、人としての幸せを噛み締めた。
それと同時に、張り詰めていた糸がふわりと緩むのを感じた。
(……ずっと、聖女として耐え忍ぶことだけが誠実さの証明だと思っていたけれど)
自分を犠牲にしてすり減らす生き方は、もう終わりにしよう。
これからは、もっと私自身を労わってあげたい。
誰かのためではなく、私の心が満たされる生き方。
美味しいものを食べて、ぐっすり眠って、大好きな薬草の研究に没頭する。そんな自由気ままなスローライフも、今の私には悪くない。
それくらいの自由、罰は当たらないはずだもの。
***
一方、遠い王都では──。
結界はなんとか維持されていた。ただし、その運用コストは天と地ほどに跳ね上がっていた。
ネリネという『超高効率・自己完結型』の聖女を失った穴を埋めるため、国は数十人の高位神官と、山のような魔石を投入せざるを得なくなっていたのだ。
「ええい、魔石の補充はまだか! 結界の魔力が尽きるぞ!」
「これ以上は無理です! 財務省から『今年の国家予算はもう空だ』と通達が……!」
城内は連日、そんな怒号と悲鳴が飛び交っている。
かつて優雅な暮らしをしていた王子、ジェラルドの食事も、今や質素な黒パンと具のないスープのみ。
「くそっ、今日の食事はこれだけか……? ネリネがいた頃は、毎日晩餐会が開けたのに!」
「贅沢は控えていただきますように、と……国王陛下から」
侍従が告げる。
ひもじさに腹を鳴らす王子の横では、新聖女セラフィーヌもまた、目の下に濃い隈を作りながらブツブツとこぼしている。
「お肌がカサカサ……エステに行く予算もないなんて……」
彼らはネリネ一人に押し付けていた『コスト』を、国庫と自らの生活水準で支払い続けるしかない。
正しき評価を怠った代償は、ボディブローのようにじわじわと、彼らの胃袋と懐を締め上げているのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
作家として歩み始めたばかりの未熟な身ではありますが、一つひとつの作品を大切に綴っていければと思っています。
もしよろしければ、画面下の「☆☆☆☆☆」から、本作への率直な感想を届けていただけないでしょうか?
星の数は、皆様が感じたままの評価で構いません。
一つひとつの反応が、私が物語を書き進める上での道標になります。
ご縁をいただけて嬉しいです。
皆様の応援をお待ちしております(* .ˬ.)"




