第二話
北の塔での生活は、静寂と孤独だけが支配する世界だった。
けれど、わたくしはもう、それを苦痛だとは思わなくなっていた。
あの日、絶望の底で思い出した古代魔術への情熱。
それは、わたくしの中に残っていた最後の、そして唯一の「自分」だった。
最初は、記憶だけを頼りに、指で床の埃に魔法陣を描くだけだった。
複雑な幾何学模様と、古代ルーン文字の連なり。
それらを再現していくうちに、不思議と心が凪いでいくのを感じた。
誰かのためじゃない。
何かのためでもない。
ただ、知りたい。解き明かしたい。
その純粋な欲求が、空っぽだったわたくしの心を少しずつ満たしていった。
食事を運んでくる若いメイドに、ある日、思い切って声をかけた。
「お願いがあります。もし、お屋敷の書庫で廃棄する予定の本があれば、どんなものでも構いませんので、少しだけ分けていただけないでしょうか」
メイドは驚いたように目を見開いたが、覇気のない幽霊のようだったわたくしの目に、わずかながら光が戻っていることに気づいたのかもしれない。
数日後、彼女はこっそりと、古びて誰も読めなくなった分厚い文献を数冊、食事と共に置いていってくれた。
「ありがとうございます……!」
心からの感謝を伝えると、彼女は初めて小さく微笑んでくれた。
その日から、わたくしの世界は一変した。
与えられた本は、幸運にも古代語で書かれた歴史書や魔術理論に関するものだった。
妃教育で禁じられていた知識の海に、わたくしは飢えた魚のように飛び込んだ。
硬いパンを齧りながら、インクが滲む紙片に、自分なりの解釈を書き連ねる。
かつて父が「くだらない戯言」と罵ったわたくしの研究は、この薄暗い塔の部屋で、誰にも邪魔されることなく花開いていった。
「地味で価値がない」と言われた自分。
でも、この瞬間のわたくしは、間違いなく生きていた。知的好奇心という名の生命の炎を、静かに、だけれど確かに燃やしながら。
◇
その日、公爵家は珍しく朝から落ち着かない空気に包まれていた。
わたくしの部屋まで聞こえてくる、階下のかすかな喧騒。
どうやら、とても高貴な方が視察に訪れているらしい。
もちろん、わたくしには何の関係もないことだけれど。
その日の研究に没頭し、床一面に広げた紙に新たな魔法陣を描き加えていた、まさにその時だった。
コン、コン。
静かな部屋に、不似合いな固いノックの音が響いた。
食事の時間にはまだ早い。訝しみながら扉に視線を向けたとたん、重い錠前が外される音がして、ゆっくりと扉が開かれた。
そこに立っていたのは、一人の男性だった。
闇色の髪は、まるで夜そのものを溶かし込んだかのよう。
瞳は、磨き抜かれた氷のような冷たい銀色。
寸分の隙もなく着こなされた、王宮魔術師団の漆黒の制服。その胸元で輝くのは、最高位の魔術師にして、団長の証である白銀のブローチ。
(魔術師団長、カイウス・フォン・ヴァレンシュタイン様……!?)
「氷の貴公子」の異名を持つ、王国内で知らぬ者はいない天才魔術師。
貴族令嬢たちの憧れの的でありながら、誰にも微笑みを見せることなく、ただひたすらに魔術の道を究める求道者。
そんな雲の上の人が、なぜ、こんな場所に?
わたくしは咄嗟に立ち上がり、床に散らばった研究資料を隠そうとスカートの裾で覆った。
見られてはいけない。
また、「くだらないもの」と、軽蔑されてしまう。
しかし、彼の冷たい銀色の瞳は、わたくしではなく、わたくしが隠そうとした足元の紙片に真っ直ぐに注がれていた。
「……これを書いたのは、君か」
地を這うような低い、けれどよく通る声。
その声には、驚くべきことに、侮蔑の色は一切含まれていなかった。
あったのは、純粋な――探究心。
彼は、わたくしの許可も待たずに部屋に足を踏み入れると、床に膝をつき、紙片の一枚をそっと拾い上げた。
その指先の動きは、まるで稀代の宝物に触れるかのように、恐ろしく慎重だった。
「この術式……。失われたはずの『マナ逆流制御陣』。いや、違う。基本構造は同じだが、より複雑で、洗練されている。現代魔術の『魔力指向性理論』を応用して、術者への負担を最小限に抑えつつ、効果を増幅させているのか……?」
彼の口から紡がれる言葉は、わたくしがここ数週間、寝食を忘れて没頭してきた研究の核心そのものだった。
誰にも理解されるはずがないと思っていた、わたくしだけの理論。
それを、この人は、一目見ただけで……。
「……っ!」
心臓が、大きく跳ねた。
恐怖ではない。
歓喜だった。
初めて、自分の言葉を理解してくれるかもしれない人に出会えた、という戦慄にも似た喜び。
「あの、それは……」
わたくしがおずおずと口を開くと、彼はようやく顔を上げて、初めてわたくしを真っ直ぐに見た。
氷のようだと噂される銀の瞳が、今は驚きと、そして微かな熱を帯びて揺らめいているように見えた。
「君は、何者だ」
「アリス・フォン・アルクライド、です……」
「公爵令嬢が、なぜこのような場所に? いや、それよりも、この理論をどこで学んだ。誰に教わった」
矢継ぎ早の質問に、どう答えていいか分からず俯いてしまう。
「……独学、です。古い文献を、自分で読み解いて……」
「独学だと……?」
カイウス様は絶句したようだった。彼は再び紙片に視線を落とし、そして、わたくしの顔を交互に見比べると、やがて、かすかなため息と共に呟いた。
「……そうか。公爵が、あれほどまでに狼狽えていたわけだ」
彼は立ち上がると、わたくしに向き直った。
その長身に見下ろされると、まるで自分が小さな子供になったような気分になる。
「アリス嬢。君に、頼みたいことがある」
「……頼み、ですか?」
「ああ。君の、この知識と才能が必要だ。我が魔術師団に来てほしい」
信じられない言葉だった。
このわたくしが? 地味で、価値がないと捨てられた、このわたくしが?
魔術師団は、国中から天才だけが集められたエリート集団のはず。
「……ご冗談でしょう。わたくしのような者に、何ができるというのですか。わたくしは、妃として失格の烙印を押された、役立たずで……」
自嘲の言葉が、自然と口からこぼれ落ちる。
すると、カイウス様は、わたくしの言葉を遮るように、静かにはっきりと言った。
「価値がない、などと誰が言った?」
その声は、氷のようでいて、不思議な温かみを帯びていた。
「君の価値を理解できない愚か者の戯言など、気にする必要はない。私にはわかる」
彼は、わたくしの足元に散らばる紙片を一瞥し、そして再び、わたくしの瞳を射抜くように見つめた。
「君は、磨かれる前の原石などではない。すでに、誰にも真似のできない、比類なき輝きを放つ宝石だ」
――宝石。
その言葉は、まるで魔法のように、わたくしの心の奥深くに染み渡った。
ずっと、誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。
きらびやかなドレスや、高価な宝飾品で飾られた偽物の自分ではなく。
流行の化粧や、愛想笑いで取り繕った自分でもなく。
この、本が好きで、研究が好きで、少しばかり人付き合いが苦手な――ありのままのわたくしを。
「さあ、行こう。君の本当の居場所は、こんな薄汚い鳥籠の中ではない」
カイウス様が、そっと手を差し伸べる。
白く、節くれだった、魔法を紡ぐ者の手。
その手を見つめているうちに、視界が滲んだ。
ぽろり、と一粒の涙が頬を伝う。
それは、婚約破棄されたあの夜でさえ流れなかった、温かい涙だった。
凍てついていた心が、ゆっくりと溶けていく音がした。
わたくしは、震える指先で、そっとその手に触れた。
「……はい」
それは、絶望の淵から這い上がる、小さな、しかし確かな第一歩だった。




